第41話 ~2007年~ 15
部屋にゆにさんだけを残して、僕はエレベーターに乗った。玄関ホールに出ると、そこには因子姉さんだけが立っていた。
因子姉さんは辛そうな顔をしていた。
「ごめんね、格子。……私、あんたの味方に、なれなかった」
「………いいよ。まりあさんと姉さんは、友達なんだから」
僕は、部屋にゆにさんだけが残っていることを伝えた。
そして、
「姉さん。僕は、ゆにさんに質問されたから、姉さんのことを話したよ」
「………うん。きっと格子なら、そうしてくれると思った」
「それでよかった?」
「私じゃうまく、説明できなかったと思うから。これでいいのよ。………お互いにね」
「そうだね。お互いにね」
僕と因子姉さんは、それだけを言い交わした。因子姉さんはエレベーターに乗り込み、僕はマンションの駐輪場に向かった。
駐輪場には、目を赤くしたまりあさんが立っていた。
どう声をかけたほうがいいのかと考えたが、それは違うと思い直した。言うべき言葉は、まりあさんが持っているはずだった。
僕はそれに応えるだけだった。それがどれだけ彼女を傷つけることになろうとも。
僕とまりあさんは、数分間の沈黙を作った。
やがて、まりあさんはようやく、口を開いた。
「格子くん、………私のこと、好き?」
目を見て話すまりあさんに、僕も彼女の目を見て応えた。
「好きだよ。今は自信を持って言える。僕はきみが、誰よりも大切だ」
「………私も好きよ。格子くんのことが、大好き」
一歩二歩と、まりあさんが、僕に詰め寄ってきた。
「ねえ、でも、正直に答えて。………格子くんは私のこと、恋人として、見てくれてる?」
僕の目の前に立ったまりあさんの瞳には、新しい涙が溢れていた。
僕は、いつもどおりに答えた。
友達からは、人間的じゃないとまで言われたことのある、冷静で冷淡な口調で。
「僕とまりあさんの関係は、恋人だと、僕は思っている。僕に恋をしてくれているまりあさんが、僕は好きだし、大切だ」
僕は、嘘をつけない。
「………だけど、」
僕は、嘘をつけない。
「………僕はまだ、まりあさんに、恋をしていない。感情は強くなったけれど、友達として出会った中学一年生のころと、感情の種類は、変わらない。………大切な気持ちはある。でも、恋じゃない」
正確に表現できたと思う。まりあさんにとってどれだけ残酷であろうとも、何の嘘もなく、正確に表現できたと思う。僕にとってそれは重要だった。
まりあさんは、一度だけ鼻を、すんと動かしたが、涙は流さなかった。
「………正直に答えてくれて、ありがとう」
「うん」
「やっぱり、無理だったのかもね。私と格子くんじゃ」
「それは、わからないよ。僕は今、まりあさんも含めて、誰にも恋心を持っていないけど、これから恋をするとしたら、相手は多分、まりあさんだと思う」
「………やめてよ」
まりあさんは、手首の裏側で涙を拭った。
そして一気に、思いの丈を吐き出した。
「そんなこと、言わないでよ。無理だったって思わせてよ。………好きなのは結局、私だけだったのよ。私の片想いだったのよ。格子くんは結局、私のことなんか、全然興味、持ってくれないのよ。ほかの女友達と同じくらいにしか思ってくれないのよ。ケータイを買って初めてメールしたのだって、初めて手を繋いだのだって、初めてキスしたのだって、全部私からだったじゃん。そんなの、ちがうじゃん。好き同士にならなくちゃ恋人じゃないじゃん。私、ずっとずっと、不安だったんだよ? いつになったら格子くんは、私のことを好きになってくれるんだろうって、ずっとずっと不安だったの。でも、いつかきっと格子くんは私のことを好きになってくれるって信じて、格子くんと一緒に、いろんなことをしたよ? それだって、初めてふたりで映画館に行ったとき以外は、全部私が誘ったんじゃん。………結局格子くんは私のこと、全然大切には、思ってくれてないんだよ! 嘘。嘘。嘘ばっかり! 自分は嘘をつかないなんて言って、………私に興味がないんだったら、初めからそう言えば良かったじゃない!」
半ば叫びながら、心情を吐露するまりあさんは、途中からぼろぼろと泣き出していた。堪え切れなかった涙の粒と粒が、止め処なく両目から溢れていた。
僕は嘘を言わない。隠していることはあるけれど、絶対に嘘は言わない。でもそれは、他者に対して、嘘をついてまで引き留めておきたいと思えるほどの興味がないからかもしれない。
まりあさんの指摘は、半分は当たっていた。僕は、心の底では、まりあさんに興味がない。僕を好きだと言ってくれるから、彼女が大切だった。興味はないけれど大切な人だった。それだけだった。
それだけと思えてしまう自分が、そのとき悲しかったかどうかは、僕には思い出せない。ただ、理屈や言葉では越えられない感情があるのだと、僕は理屈っぽく考えていたと思う。
泣きじゃくるまりあさんの言葉が途切れるのを待って、僕は言った。
「まりあさん。………まりあさんは、それで、どうしたいの?」
すると、今まで見たことのない眼光で、僕は睨まれた。
「………なによ、その言い方」
まりあさんの震える唇から出てきた言葉は、今まで彼女の口から出てきたどんな言葉よりも、鋭く、感情的だった。
「どうしてそんな言い方しかできないのっ? なんで、なんで一言、私のことを好きだって、………離れたくないって言えないのっ? やっぱり初めからあなたは、私のことなんか、ぜんぜん大切でも何でも、なかったんじゃないっ! たまには自分から決めたらどうなのよ! 私任せにしないで、自分で決めたらいいじゃないっ!」
これほどに激しい感情が、今までまりあさんの小柄な体の中に収まっていたのかと思うと、単純な驚きとして、僕には新鮮だった。新たな彼女の一面を知って、こんなときになって喜んでいる自分がいた。
「聞いてよ、まりあさん」
僕は、冷静に語りかけた。それがいいか悪いかはわからなかったが。
「僕には、決められないんだ。僕は………まりあさんが言うとおり、本当のところはまりあさんに、興味を持っていない。僕を好きだと言ってくれたから、僕はまりあさんを受け入れた。断る理由がないから。そう、断る理由がないんだ。どっちでもいいから」
言葉にしてはいけない感情があると、僕は思ったものだった。「きみには興味がない」と言葉にしてしまったことで、本当に僕は、誰にも恋心を抱けないのではないかと思い始めていた。
「………僕は、まりあさんのことが、今でも誰よりも大切だよ。だけど、………だから、まりあさんが決めて。僕はまりあさんが大切だから。まりあさんが苦しまないで済むなら、僕は、嘘をつく以外なら何でもするから。僕に、どうしてほしいか、言って」
息を荒げていたまりあさんは、僕の淡々とした言葉を聞いて、苦しそうに唇を引き結んだ。
「ずるい。……ずるいよ、格子くん。………どうして私にばっかり、決めさせるの……?」
―――わからない。
わからなかった。
結局はまりあさんの言うとおり、自分が判断してもいいことを彼女に丸投げしたのかもしれない。そもそも初めから、恋ができそうになかったのなら(それは付き合うことを決めた当時にもわかりきっていたのだけれど)、彼女を遠ざけておくべきだったかもしれない。
はたと、僕は気付いた。
ゆにさんは言っていた。好きだと言われて嬉しかったと。
僕もきっと、初めは単純に、嬉しかったから―――嬉しかったから、彼女を受け入れたんだろう。
まりあさんは、最後の涙を拭ったあと、比較的にきっぱりと、こう言った。
「別れましょう。………格子くんに恋をさせてあげられない私には、もう、無理よ」
そう言って、まりあさんは、僕の目の前から、去っていった。
そもそも恋を覚えなかった僕にも、それが喪失感であることを、胸の奥にできた空白に、名づけることができた。
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