第40話 ~2007年~ 14

 案の定、その説明だけでは、ゆにさんを混乱させるばかりだった。

「ど、どういう、こと?」

「そのまま理解してくれていい。因子姉さんは、この世にある全ての物が、恋愛対象なんだ。人間でも、人間以外の生き物でも、物質でも、………恋に落ちたら、肉体的にも精神的にも、因子姉さんは恋ができるんだ」

「だっ、だからっ、」

「ゆにさんよりも前に、因子姉さんは二回、恋をしている」

 僕が暴露した因子姉さんの過去に、ゆにさんは一旦、口を閉じた。

「その恋の相手は、どちらも、………

 ゆにさんは、切れ長な目を、大きく丸くなるまで、見開いた。口もあんぐりと開けていた。

 ここから先を、僕が言っていいものかと考えたが、ここまで言った以上、引き返せなかった。そしてもしかすると因子姉さんは、と思った。

「笑わないでね。因子姉さんの初恋の相手は、ゴリラだった」

「ご………ゴリラ?」

「特に、シルバーバックのオスゴリラが好きだったんじゃないかな?」

 因子姉さんがゴリラに恋をしたのは、1999年。小学四年生のころ。

 この家に、NINTENDO64の「大乱闘スマッシュブラザーズ」が来たとき。そのゲームの中で操れるゴリラのキャラクター、ドンキーコングとの出会いがきっかけだった。

「もう、夢中になってた。図鑑からとかパソコンからとか、いろんなゴリラの写真を集めてた。今でも、ゴリラの絵を描かせたら、誰よりもうまいと思う。それくらい、因子姉さんは、ゴリラのことが好きだった。恋をしていた。肉体的にも精神的にもね」

 僕の説明に、ゆにさんは呆然としていた。それも当然だろうと僕は思った。

 僕は話を続けた。

「次の恋の相手は、二年後。………今度の相手はナイフだった。カスタムナイフ」

「カスタム……ナイフ?」

「大量生産ではない手作りのナイフという意味らしいけど。………ああ、思い出した。因子姉さんはカスタムナイフの中でも特に、ラブレスナイフに恋をしていた」

 いつどこで、小学校六年生の因子姉さんが、ナイフに恋をしたのかはわからない。ただ、その年から今年までに、ずっと購読を続けていた刃物の専門誌「ナイフマガジン」の山が、因子姉さんが恋をしていた証拠だった。

「雑誌の中のカスタムナイフを眺めているとき、因子姉さんは、うっとりしていた。そして姉さんは、ナイフに対して、届かない思いを手紙や詩に綴ったりしていた」

 いつだったか、偶然僕がそれを、因子姉さんの机から発見したことがある。そしてそれが因子姉さんに露見したときは、鬼のような剣幕で怒られた。

「………因子姉さんは、この世のあらゆる物に、恋をすることができる。それは単なる憧れとか興味関心とかじゃなくて、肉体的に、精神的に、恋の相手を求めるくらいの恋を」

「……そ、それじゃあ、…………ゴリラと、ナイフの次に恋をしたのが、私ってこと?」

 ゆにさんの手は、どんな感情がそうさせるのか、ぶるぶると震えていた。

 理解できなくて当然だ。僕だって、頭では理解しているものの、本当の意味では因子姉さんのことを理解など、まったくできていない。

 自分を取り巻くあらゆる物―――いや、他生物や無機物どころか、もしかすると姉さんは、もっと抽象的な対象にも恋をするかもしれない。たとえば「神」とか「時間」とか。それこそ「恋」という概念に恋をするかもしれない。慣用句ではなく文字どおりに。

 危うい、異常な、獣―――それが因子姉さんだ。恋心というものを知らない僕にとっては、まるで理解できない生き物が、因子姉さんだ。

 ゆにさんは呆然として、見るともなく、自分の目の前の黒い液体の中の自分の顔を見つめていた。

「ゆにさん。確かに因子姉さんは、ほかの人とは、恋愛の感覚が大きく違う。恋愛観については異常だと言ってもいい。………だけど、今の因子姉さんが、真剣にゆにさんに恋をしているということだけは、絶対に本当だよ。もっと言えば、今のゆにさんが因子姉さんにとって、ゴリラとかナイフとかと同列というわけでもない。因子姉さんはいつだって、今の恋しか見つめない人なんだ」

 正確に表現できたと思う。たとえ因子姉さんの一部分が異常であっても、それが因子姉さんの全てではない。むしろ因子姉さんは、それ以外はまったく普通の女の子なのだ。

 ゆにさんは、目頭に近い鼻梁をつまみ、目を閉じ、息を吐いた。

「格子くん。………どうして因子は、そんな恋を、するようになったの?」

 それは僕すらも謎である。

 ただ、仮説なら存在する。

「あのね、………信じてもらえるかどうか、わからないけど、僕と因子姉さん、それにほかの三人の姉さんたちも、ほんの少しだけ、人とは体質が違うんだ」

「……体質?」

「運命と言ってもいい。僕たち姉弟は、特殊な運命の下に、生まれついているんだ」

 僕は、簡潔にひとりずつ、姉さんたちのことを紹介した。

 恋をしない限り健康体でいられる光子姉さん。金に関する強運を持ち合わせる陽子姉さん。絶対に誰かから助けられてしまう量子姉さん。

 何にでも恋ができる因子姉さん。

 ―――そして僕。

「僕も、因子姉さんと同じで、人とはちょっと違う。そういう体質なんだ」

「…………格子くんは、どういう人なの?」

 恐る恐るといった様子で、ゆにさんが僕に尋ねた。その瞳は、別の生き物を見るかのような不安に彩られていた。

 他人に尋ねられるのも初めてなら、他人に語るのも初めてだった。

「僕は、………『何にでも話しかけることができる』人間なんだよ」

 それこそが、まったく似ていない双子、僕と因子姉さんの、微かな共通点だった。

 僕は、この世のあらゆるものに興味がない代わりに、この世のあらゆるものに抵抗や嫌悪を感じない。そして僕というパーソナリティーには、いい意味でも悪い意味でも、攻撃性というものが存在しない(例外はある。2000年のあの事件がそうだ)。

 僕という人間が無害であるということが、僕自身にも他者にもわかるから、僕は何にでも話しかけることができて、何にでも話を聞いてもらえる。人でも、人以外の動物でも、植物でも、機械でも。宇宙人にですら、僕は普通に話せると思う。言葉が通じるかどうかはともかく。

 それが、この世のすべてが恋愛対象である因子姉さんと似ている点だ。

 そして言わずもがな、………そういった人間である僕もまた、姉さんたちと同じく、異質な人間である。

「どうして僕たちが、こんな体質になったのか。………僕には仮説があるんだ」

「原因が、わかるの?」

「なんとなくね」

 それは、僕たち五人の姉弟が置かれた境遇にある。

「僕たち姉弟は、父親からも母親からも見捨てられた、孤独な姉弟だ。僕たちは僕たちだけで生き抜かなければならなかった。だから僕たちの体は、………僕たちの運命は、自分たちを救うために、この体質を求めたんだと思う」

 光子姉さんが健康、陽子姉さんが金、量子姉さんが他者からの助力を求め、因子姉さんと僕が、他者とのつながりを求めた。因子姉さんは恋という形で、僕は会話という手段で。

「だから、因子姉さんが、そういう恋をする女の子になったことは、どうしようもないことだったんだと、僕は思ってる。僕やほかの姉さんたちが、自分の体質を変えられないのと同じように……」

 僕は、全てを語った。今まで誰にも語らなかった、歯車家の秘密の全てを、因子姉さんが思いを寄せる女の子、佐伯ゆにさんに。

 ゆにさんは、じっと体を固まらせて、黙っていた。

 僕のこれまでの友達には、もちろん話したことがない。話す必要がなかった。それはまりあさんにも同じだった。因子姉さんと友達であるまりあさんには、今でも普通に姉さんと友達として付き合えているのだから、余計なことを話す必要がなかった。しかし今回は、相手が因子姉さんの恋い慕う人であるからこそ、話さなければならなかった。

 嘘をつけないという僕の性根もあるが―――

「ねえ、格子くん」

 ずっと黙り込んでいたゆにさんは、顔を上げた。その顔は、なんとも名付けにくい感情を呈していた。

「因子は、………私に、真剣に恋をしているのよね?」

「それは間違いない。因子姉さんがゆにさんに求めているのは、恋愛的なことだよ」

 僕の言葉をどう解釈しているのか、ゆにさんは黙ったままだった。

 そのとき僕の携帯電話が鳴った。メールの着信だった。

 開くと、因子姉さんからのメールだった。

『駐輪場にいるから、すぐに降りてきて』

 そのメールを見て、僕は思った。

 きっと―――それが何であれ、きっと僕は、まりあさんから、何かを伝えられる。

 問われる。

 ようやくそのときが来たのだろうかと、僕は、安心に似た気持ちを覚えていた。

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