第38話 ~2007年~ 12
マンションに着くと、まりあさんとゆにさんは因子姉さんの部屋に入った。なにやらそこできゃあきゃあと、華やぐ会話をしていた。僕はそのとき、キッチンで四人分のコーヒーと茶菓子の準備をしていた。先ほどのまりあさんの言葉が不安でもあったが、今すぐこの場では、まりあさんに原因を尋ねることも、自分の非を謝ることもできなかった。
女の子たちの会話の場はリビングに移り、クッキーとコーヒーを飲み食いしながら、因子姉さんの小学校と中学校の卒業アルバムを開いて話の種にしていた。
「ファクの中学の夏服って変わってるのね。ちびまる子ちゃんみたい」
「だっさいでしょー? 今は普通のセーラー服……だったよね、まりあ」
「うん。………あっ、ちょっ、ここは見ないで」
「なになに見せてよ」
「だ、だめだってば、恥ずかしいもん。変な眼鏡かけてたから」
「今さらなこと言わないの。………ほらぁ、可愛いじゃん」
「………うーん……」
「ね、そこんとこどうなのよ、格子くん」
ゆにさんに突然話を振られた僕は、夢から覚めたように、ちょっと慌てた。
「なに?」
「聞いてるんだから。中学のときに付き合いはじめたんでしょ? 眼鏡とコンタクト、どっちのまりあが好き?」
「………僕は、」と、まりあさんのほうに視線を向けた。まりあさんは、一瞬肩を強張らせたあとに、不安そうな瞳で僕の目を見つめた。
僕はまりあさんに真正面を向いたまま言った。
「僕は、眼鏡のまりあさんも好きだったけど、今のほうが、好きかな」
するとまりあさんは、もじもじと下を向いた。
ひゅー、と、ゆにさんが囃した。
「言うねぇ、彼氏くん」
「なにか変? 思ったとおりのことを言ったんだけど」
「………うーわ。格子くんって、堂々とノロケるタイプなんだ。お姉ちゃんとしてどう?」
「誠に遺憾に思います」
「わ、わたしっ!」
急に、まりあさんが大声を出して立ち上がった。僕と因子姉さんとゆにさんは、揃ってまりあさんを見つめた。
「わ、たし、………ちょっと、と、トイレ、貸してくれる?」
おどおど、きょどきょどと、視線をさまよわせて呟くまりあさんは、普通ではなかった。本当にトイレに行きたいとは思えなかった。何か別の感情が、彼女を起立させたようだった。
因子姉さんが、玄関の横、と言うと、半ば小走りで、まりあさんはリビングを出て行った。トイレの扉が閉まる音が聞こえた。
まりあさんがトイレに立ってからしばらくは、三人で卒業アルバムを見て話をしていたが、五分もまりあさんが帰ってこないと、残された僕たちもそわそわとした気分になった。
どうしたのかな、と、ゆにさんが呟いたとき、因子姉さんの携帯電話が鳴った。
携帯電話を開き、着信画面を見ると、因子姉さんは立ち上がり、コールし続ける携帯電話を抱えてリビングを出た。
残された僕とゆにさんは、黙って因子姉さんの背中を見送り、コーヒーを啜りながら、誰かが帰ってくるのを待った。
ややあって、トイレの扉が開く音と、リビングの扉が開く音が重なった。
リビングに顔を出したのは、因子姉さんだった。
「格子、………お菓子、足りないでしょ?」
そんなことはなかった。買い置きすらある。
「今から私とまりあで、下のコンビニで適当に買ってくるから、ちょっと待ってて。………ゆにも、ごめん」
そう言って、因子姉さんはそそくさとリビングを出て行った。すぐに玄関の扉が開く音が聞こえた。
まりあさんは、ついに顔を見せなかった。
コンビニへの買い出し、というのが口実であることくらい、鈍い僕でもわかった。
何かがあったのだ。まりあさんに。
だけど―――と言うべきか、
だけどそれは、僕には踏み込めない類の「何か」であるらしかった。恐らく原因は僕にあるというのに。
僕は、ため息をつきたくなった。しかし堪えた。僕はまだ当事者だから不安な気持ちになっても当然だけど、客人であるゆにさんは、まったくの無関係なのだ。せっかく訪ねてくれた彼女に、失礼な態度を見せてはならなかった。
しかし、ゆにさんの反応は違った。
「………行かないの?」
僕に、そう尋ねてきたのだ。ごくごく真剣な表情で。
「行ったほうがいいと思う?」
「………それを本気で私に訊いてるなら、ちょっと軽蔑するよ」
ゆにさんの切れ長な瞳に宿る厳しさに、笑いたくなった。優しい人だと思ったから。
「今、僕がまりあさんの所に走っていっても、彼女を混乱させるだけだと思う」
「まあ……ね」
「僕は待つよ。彼女が僕に話してくれるまで」
「私は、それが正しいとは、全然思わないけど?」
同意する。待つだけではなく、何か言葉をかけてやるべきだと思う。
だけど、
「今、僕が何を言っても、嘘になる気がする。それか、傷つけるだけだと思う」
「女の子は、嘘だって嬉しいことはあるよ?」
「僕はそれを望まない。できないということもあるけど、………これが、僕だから」
好かれようとも、嫌われようとも、僕は僕でなければならない。
この世にあるほとんど全てにおいて何の興味も持てない僕には、そこだけは譲れなかった。
「………そう」ゆにさんは何かを納得したように、コーヒーを飲み干した。
「おかわりは?」
「ああ、お願いしてもいい?」
「うん」
僕は自分のとゆにさんのカップを持って、キッチンに立った。
そのとき、不意に、思い出したことがあった。
「ゆにさん、『けつもと』って誰?」
キッチンから声をかけると、ゆにさんは、きょとんとした表情で僕を見た。
「………格子くん、なんでそれ、知ってるの?」
「因子姉さんとの手紙に書いてあったんだ。偶然見ちゃって。『けつもとがちょーウザい』って書いてあったよ」
「………………あれか」
ゆにさんは、苦笑しながら前髪をかきあげた。僕が新しいコーヒーを持ってくると、ゆにさんは礼と一緒に答えてくれた。
「『けつもと』っていうのは、本名は松本っていう、英語の男の先生のこと。あだな」
「………もしかして、お尻が大きいから、『けつもと』?」
「ザッツ・ライト」ゆにさんは英語で答えた。「ま、口うるさくてウザい先生なのよ。私とファクのいるクラスの担任なんだけどさ」
「ふうん」
「でも、ファクが、そんなくだらないこと書いた手紙を取ってたなんて、思いもしなかったな」
「大事にしてたよ。僕が勝手に読んだら怒ってね」
僕は、コーヒーを飲もうとした。
だけど、僕の目をまじまじと見つめてくるゆにさんの視線に気がついて、持ち上げたカップをソーサーに戻した。
ゆにさんは何かを言いたげで―――それはすぐに言葉になった。
「あのさ、格子くん。………因子には内緒で、私の質問に、答えてくれる?」
「…………内容にも、よるかな」
イエスともノーともつかない僕の曖昧な返答に、ゆにさんは納得してくれたかのような頷きを見せた。
躊躇いがちに、ゆにさんは言った。
「因子ってさ。………女の子を、好きになる子なのかな?」
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