第37話 ~2007年~ 11

 八月十日の朝に目を覚ますと、量子姉さんはもういなかった。リビングの座卓には、「三日後に帰ってくる」という旨の書き置きがあった。それを見た光子姉さんは、「やられた」と顔をしかめた。

 光子姉さんが会社に行くと、マンションの中には僕と因子姉さんが残された。午前中を、僕は受験勉強をして過ごし、因子姉さんはエレメントと遊んで過ごした。

 十一時半頃になって、因子姉さんが僕の部屋に入ってきた。

「格子、出かけるよ」

「どこに? 昼ごはんは?」

「途中で食べるから。ほら、早く」

 因子姉さんの準備は着替えから化粧まで済んでいた。僕を家に残させた理由があるのだろうと思い、僕は勉強を切り上げた。

 マンションを出て、八月の猛烈な日光が降り注ぐアスファルトの上を、僕と因子姉さんは並んで歩いた。どこまで行くのだろうと思っていたけれど、因子姉さんの目的地は、「どこまで」というほどの距離もなかった。

 因子姉さんは、とあるコンビニに立ち寄ろうとしていた。マンションから二番目に近いコンビニだった。僕もその後ろをついて歩いた。

 コンビニの駐車場には、ふたりの人間がいた。そのどちらもが女性だった。ひとりは日傘を差している小柄な女性で、もうひとりは、グレーのTシャツとスキニージーンズ、細身のサングラスを身に着ける、ベリーショートの髪型の、身長の高い女性だった。

 因子姉さんがそのふたりの女性に向かって、手を振った。「お待たせ」そのふたりの人物が、因子姉さんのほうを向き、次いで、僕を見た。

 背の高いほうは知らない女の子だった。ほとんど手ぶらで荷物のない女の子だった。

 日傘のほうは、まりあさんだった。

 どうしてここにまりあさんがいるのだろう。もうひとりは誰だろう。僕はそう考えながらも、まりあさんに、軽く手を振った。

「やあ、まりあさん」

「………うん」

 まりあさんは日傘の中で、気まずそうに視線を伏せた。傘で陰になっているせいもあるのか、まりあさんの表情は、幾分暗く見えた。

「格子、紹介するね。今日はあんたに、彼女を紹介したかったの」

 と、因子姉さんが、サングラスをかけた背の高い女の子に手を広げた。

「この子、私のクラスメートの、佐伯さえきゆに。………ゆに、これが、私の双子の弟の、格子」

 因子姉さんが間に立つ紹介を受けて、「佐伯ゆに」という名前の女の子は、サングラスを取った。切れ長の瞳と鼻梁のバランスが美しい女の子だった。

 この人が「uni」だったのかと、僕は初めて知った。

「佐伯ゆにです。初めまして、格子くん」

「初めまして。………僕はてっきり、『ゆに子』って名前だと思ってた」

 ゆにさんは不思議そうな顔をした。僕は三ヶ月ほど前にゆにさんと因子姉さんの間でやり取りされていた手紙を、偶然に見たことを伝えた。

 謎が解けたのか、ゆにさんは切れ長の目を細めて笑った。

「それじゃあ手塚治虫だよ」

 そう言われて、ようやく思い出した。「ユニコ」は手塚治虫の漫画のキャラクターだった。昔気まぐれに、図書館で読んだことがある。

「でも、ゆに子ってのもいいかもね」ゆにさんは因子姉さんに笑いかけた。「『ゆに』って呼びにくいみたいだし」

「そう? 私は全然呼びにくくはないけど。まりあは?」

 因子姉さんがまりあさんに話を振ると、まりあさんは、慌てたように視線をさまよわせた。

「え? う、ううん。私も、ぜんぜん、普通だよ?」

 少なくとも、そのときのまりあさんの様子は、普通とは呼べなかった。挙動不審だった。

 沈黙で空気が澱む前に、因子姉さんが会話の主導権をさらった。

「じゃ、ご飯行こっか。角のマックでいい?」

 因子姉さんが提案すると、まりあさんとゆにさんは頷いた。反対意見を持たない僕も、黙って首肯した。

 因子姉さんとまりあさんが前で並び、日除けの相合傘で歩いていた。自然と、僕とゆにさんが、その後を続く形となった。

 再びサングラスをかけたゆにさんが、僕に話しかけてきた。

「格子くん、結構日焼けしてるね。部活やってるの?」

 ゆにさんは、軽く、僕の着るTシャツの袖をつまんだ。ゆにさんは僕よりも背が高く、脚が長く、細身のジーンズが良く似合っていた。

「これは、この前野外ライブに行って………」

「あ、あーそっか。そーいえばファクが言ってた。福岡まで行ってきたんでしょ? まりあと一緒に」

 ゆにさんは、量子姉さんと同じく因子姉さんを「因子(factor)」呼びしていた。そして、まりあさんを呼び捨てにしていた。実に気安い感じで。

「どうだった? 楽しかった?」

「すごくね。………それよりゆにさんは、まりあさんとも知り合いなの?」

「ほら、ファクから聞いてない? ちょっと前にバンプのライブツアーがあって………」

「RUN RABBIT RUN?」

「それそれ。そのライブにさ、私ら三人で行ったの。………あ、でも、ファクから紹介してもらったのは、去年のことなんだけどさ」

「なるほど」

 とりあえずは合点がいった。そして、これならゆにさんと喋っていても、まりあさんにやきもちを妬かれずに済むと思った。以前に「私の知らない女の子と喋らないでほしい」とまりあさんに注意されていた。まりあさんとも友達なら、その心配はいらないだろう。

「ゆにさんは、部活、してそうだね」

「バレー部」

 ゆにさんの体型やベリーショートの髪型を見れば、さもありなん、と自然に思ってしまう。

「………ねえ、私のことよりさ、因子のこと教えてよ」

 僕がゆにさんのことについてあまり興味を持っていなかったのを悟られたのかと思った。しかし、サングラスをかけていても、ゆにさんの表情にはありありと好奇心が見て取れた。友人の過去というのは、知りたいものなのだろうか。

 前を歩く因子姉さんとまりあさんは、同じ日傘の中で、楽しそうに話していた。とても間には入れないし、逆に僕とゆにさんが何を喋っても邪魔されはしないだろうと思った。

「何から話せばいいのかな」

「何でもいいよ。双子でずっと一緒だったんでしょ? 因子が小さかったときの話とかさ」

「わかった。それじゃあ………」

 僕は、特に時系列などは考えずに、思いつくままに因子姉さんのことについて話した。ゆにさんは相槌を挟みながら楽しそうに聞いていた。目的地のマクドナルドに着くと、僕が会話の中心となって、同じ話題が続いた。僕の記憶は正確である自信がある。因子姉さんが「そんなことやってない!」とか「そんなこと言ってない!」とか言って、恥ずかしそうに抗議してきても、僕の記憶は正確である。まりあさんもゆにさんも、僕の話のほうを信じていた。すると今度は因子姉さんが、僕の過去の話を持ち出して逆襲に来た。僕の恋人であるまりあさんがいるというのに、ずばずばと僕の過去を切り開いていった。これについては因子姉さんの記憶は概ね正確だった(間違っていても、話の腰を折るだろうと思って訂正しなかった)。ほかのふたりが楽しそうに聞いていたので、それでよしとした。

 僕はこのとき、僕がここに呼ばれたのに深い理由などないのだろうと思っていた。ただ単純に因子姉さんたち三人は、元からおしゃべりをするつもりで、その予定にたまたま、ゆにさんの「因子の弟を紹介してよ」という依頼が重なりでもしたのだろう、と推理した。

 マクドナルドでの昼食を終えたあと、因子姉さんはまりあさんとゆにさんを、マンションに招待した。

「やったね。お宅訪問だ」

「因子のうちに行くのは、私も初めて」

 ゆにさんとまりあさんは乗り気だった。

「決まりね。じゃあ行きましょう」

 店を出て、僕たちは来た道を戻った。今度は、因子姉さんとゆにさんが前を歩き、その後ろを、僕とまりあさんが歩いた。まりあさんは日傘を差していて、その分だけ僕と距離を開けた。

「久しぶりだね」

 僕は言った。別に二週間くらいなら、僕の中で「久しぶり」と感じるほどではなかったが、先日の野外ライブに行く前までは、頻繁に会ったり話したりメールを交わしたりしていたので、まりあさんに対しては、「久しぶり」だった。

「う、うん。そうね。………ごめんね。メールするって言ってたのに」

 だから、まりあさんの、そんなしどろもどろな受け答えも、久しぶりに話すからだろうと、僕は考えていた。

「まりあさんは、あんまり日焼け、してないね」

「うん。もともと、あんまり、焼けないの。………こ、格子くんは、日焼けしたね」

「やっぱり?」

「………うん。……なんだか、別の人みたい」

「そうかな?」

 少しずつ、少しずつ、僕とまりあさんの会話の調子は、元に戻っていった。

「因子姉さんとゆにさんって、仲いいね」

 僕とまりあさんの目の前で、ふたりは手を繋いで歩いていた。身長差にして頭ひとつくらい離れてそうなふたりの間を、ゆにさんのサングラスがやりとりされていた。因子姉さんはサングラスがまるで似合わなかった。

 手を繋いで歩くふたりの姿は、親友同士よりもさらに深いような気が―――

「!」

 唐突に、僕の右手が、まりあさんの左手によって捕まえられた。少しだけ驚いた。まりあさんの手の感触が久しぶりだったから。

 隣を見ると、まりあさんは、まだ日傘を差していた。少しだけ身長差のあるまりあさんの表情は、日傘のせいで伺えなかった。

「ねえ、格子くん。………私たちって、恋人同士、だよね?」

 僕にはまりあさんの、確認するような質問の意味がわからなかった。

「うん。そうだよ。僕とまりあさんは、恋人同士だ」

「そう。……そうだよね。………

 ―――やはり、わからなかった。

 いや、わかったところで、その時点でもうすでに、色々と手遅れだったかもしれない。

 日傘の下のまりあさんが、ぽつりと言った。

「ねえ。………知ってる? 気付いてる?」

「………何を?」

「格子くんは、今まで一度だって、私と手を繋ごうとは、してくれなかったんだよ?」

 まりあさんの寂しげな言葉は、今まで「恋人」を続けてきた中で、最初で最後の、僕を不安にさせた言葉だった。

 僕の何かが、まりあさんを、傷つけている。

 ―――わからなかった。

 それから僕とまりあさんは、手を繋いだまま、僕の家であるマンションに向かった。

 それは、すぐにでも、ちぎれそうだった。

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