第36話 ~2007年~ 10
小旅行から日常へ帰還して、僕は受験生に戻った。戻るも何も最初から受験生ではあったが、しばし勉強のことを忘れた二日間であったことには間違いない。
まりあさんと会話するきっかけが掴めぬままに八月に入ると、因子姉さんが女子高の寮から帰省のためにマンションに帰ってきた。その夜は久々に、姉弟五人揃っての食事となった。
「量子姉ぇ、料理うまくなったね」
「んー。ラッたんに教えてもらってるから。ね?」
「お陰で僕も勉強できるよ」
「………私は『家事手伝い』なんていう職業は、認めてないからね?」
「今はいいじゃない、姉さん。量子ちゃんには、すごい進歩よ」
こうやって五人揃って食事を摂るのは久しぶりだった。その頻度がもっと少なくなるのかどうかはわからなかった。三十一歳になった光子姉さんと陽子姉さんはばりばりと仕事をしていたけれど、きっといつかは結婚するだろうと思っていた。自由奔放な性格の量子姉さんが、このままずっと家に引きこもり続けるなんて、到底思えなかった。因子姉さんは因子姉さんで、高校を卒業したら関東の専門学校に行くとか何とか。
僕にしたって、そうだ。地元の国立大学を志望しているとはいえ、どうなるかはわからない。姉さんたちが四人揃う食事の席に僕が混じれないこともあるだろう。
いや、もしかしたらそれもいいのかもしれない。ひとりだけ男が混ざるよりも、女同士での食事のほうが―――
「ちょっと、聞いてるの?」
因子姉さんの声に、僕は、はっとなって顔を上げた。「なに?」
「あんた、人には色々話しかけるくせに、……人の話はちゃんと聞きなさいよ」
「ごめんなさい。それで、なに?」
「………八月十日って、あんた、ヒマよね?」
確かに予定はない。夏休み中の学校の講習も盆休みに入っているはずだった。
「予定は何もないけど、どうして?」
「その日は家にいて。お願いだから」
因子姉さんが真剣な表情で珍しい物言いをした。光子姉さんと陽子姉さんは黙ったまま因子姉さんを見つめていた。
量子姉さんが言った。「ファクたん。あたしは外したほうがいい?」
「できれば」
「りょーかい」量子姉さんは追及しなかった。量子姉さんが裏で何かを承知しているようには思えなかった。気を利かせたのだろう。
「じゃーどこ行こっかなー。久々に、ちょっと遠出でもしようかな」
「物騒なこと言わないでよ、量子。六年前みたいなことはしないでよね」
「んー。日本一周逆周りの旅は、興味があったりして」
「………あんたはほっといたら世界一周してきそうで怖いのよ」
「………………」
「ちょっ! ちょっと量子ちゃん! 黙らないで!」
「いやー、………世界一周もいいかなって思ったけど、パスポートないから」
「安心しなさい。あんたにパスポートなんて絶対に与えないから」
「そんなあ」
上の姉さんたちがわいわい喋っていた。しかし、そのときも因子姉さんは、下を向いて、もぐもぐと味気無さそうに煮物を食べていた。量子姉さんの味付けは強すぎるきらいもあったので、そんなはずはないのだが。
ちらりと電話の横のカレンダーを確認した。
どうして僕が、八月十日の金曜日に、この家にいなければならないのか。
それは八月十日になるまでわからなかった。
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