第34話 ~2007年~ 8
いったいそのライブ会場に何千人(何万人?)の観客が来ていたのかは知らないが、帰りの電車に乗るのに、ひどく時間がかかった。帰りの夜行バスの時間に間に合うかどうかが心配だった。僕とまりあさんは、手を繋いで博多のバスターミナルを走り、どうにかバスの時間に間に合った。
走り出した夜行バスの車内は、静かで、クーラーの冷気が心地良かった。
「楽しかったね」夜行バスの中のトイレでコンタクトを外したまりあさんが、眼鏡のレンズ越しに、僕に微笑んだ。
「うん。………楽しかった。とっても楽しかった」
僕たちはひそひそと会話をした。しかしどれだけ声を潜めても、静かな車内のこと、起きている乗客の人たちに会話を聞かれていたことだろう。
「また来たいね」
「そうね。………でも、もう勉強しないと。大学落ちちゃう」
僕とまりあさんはお互いに文系だったけれど、まりあさんの進学先は主に私立に絞られていた。僕は地元の国立を受験しようと思っていた。
進路がばらばらになっても、この関係は続くだろうか。それとも終わるのだろうか。僕にはわからなかった。僕は続けたかった。まりあさんが僕を好きでいてくれる限り、続けたかった。
まりあさんが、座席に深く体をうずめて、ため息をついた。
「………楽しかったけど、疲れたね。土曜日でよかった」
日付はそろそろ、日曜日に変わろうとしていた。
「もし二日目のライブに来てたら、月曜の講習が大変だったね」
「ほんと。………ラッキーだったね、格子くん」
「………まりあさん、眠いの?」
「………………うん」
まりあさんは目をしょぼしょぼとさせて、眼鏡を取り、ケースの中にしまった。
「ごめんね」
「いいよ。今日は僕も疲れたから」
「うん。………おやすみ」
「おやすみ」
そう言ってまりあさんは、夜行バスの座席に準備されていた毛布を被り、すぐに寝入ってしまった。程なくして、車内の電灯も落とされた。
バスは高速道路に進入し、夜通しで僕たちを日常へと運んでいく。連れ戻していく。
車内のそこかしこから寝息が聞こえる中、僕は寝付けずにいた。僕は座席の上で眠るために様々な姿勢を試したが、動く度に眠気が遠ざかっていく気がした。
無理に眠ることを、僕は諦めた。あまりもぞもぞと姿勢を変えては隣のまりあさんを起こすかもしれなかった。それにそのときは、眠れないならそれでも良かった。この静寂の時間を今日の感動を噛みしめるために使いたかった。
バスは静かに走っていた。ときどきカーテンから、何かの光が飛び込んできた。それが車のヘッドライトか否かについては、考えるだけの体力を持ち合わせていなかった。
しばらくすると、ようやくとろりとした眠気がやってきた。物考えがまとまらなくなり、意識が、ぷつりぷつりと途切れるようになった。
ああ、眠ってしまうのだな。僕はそんなことを考えていた。
僕の隣で、重たい衣擦れのような音がした。
まどろみが意識にもやをかける中、僕は隣を見た。
まりあさんが、むっくりとシートから体を起こしていた。そして僕を、じっと見つめていた。
「………どうしたの?」
僕はぼんやりとしながらも、静かに言葉を作った。だけどまりあさんは、何も言わずに、唇の前に人差し指を立てた。まりあさんの無言の指示に従って口を閉じると、まりあさんは、ふたりの間に横たわっていた手すりを上げて、背もたれの隙間に収めた。
そして―――ゆっくりと、僕の両脚の上に、跨ってきた。物音を立てないように。僕の膝の上で、まりあさんは僕と向かい合う格好になった。
今までに手を繋ぐとか、腕を組むとか、そういったことはあった。だけど新しくて大胆なまりあさんのスキンシップに、僕はびっくりして眠気が消えた。何かを言おうとした。だけどそれは、まりあさんの人差し指によって、僕の口の中に封じ込められた。
小柄なまりあさん。眼鏡を外したまりあさんは、僕を黙らせたまま、自分がかけていた毛布を隣から手繰り寄せた。まりあさんがいたずらっぽく笑ったかと思うと、彼女の手によって、ふたりの体が、頭から毛布に包まれた。
光が届かない毛布の中で、僕とまりあさんの体は密着していた。彼女の姿を目で確認することはできなかったが、僕に身を預けてくるまりあさんの体は、温かく、柔らかかった。
夜行バスは高速道路を走り続けている。誰かの、言葉にならない寝言が聞こえてくる。
毛布の中で、僕の耳元でまりあさんは、おそらくは誰にも聞こえないほどの小さな声で、僕に、こう言った。
だいすき。
まりあさんは、両手で僕の首筋と頭を支えて―――唇を、重ねてきた。
まりあさんと恋人同士になって五年目。僕は初めて、彼女とキスをした。
柔らかい唇だった。僕の脳髄が耳から溶け流れてしまいそうなほどに、気持ちよかった。眠気とは違うとろりとした感覚に、思考を焼かれた。何も考えられなくなっていた。
僕とまりあさんは、顔を、離しては近づけ、何度も唇を重ねた。僕は自分から、彼女の唇が欲しくなって、まりあさんの背中に腕を回して、彼女をきつく抱きしめた。すると、それに呼応するかのように、まりあさんは、深く、口付けしてきた。探り合うように、探り出すように、ふたりの舌が絡んだ。僕とまりあさんの体を他者として分かつ境界線が、唇から曖昧になっていた。
下腹部に痛みを感じた。下腹が、疼くようにずきずきと痛んでいた。何故だろうと思っていると、まりあさんが、小さな声で、やだ、と笑った。
ああ、これはそうか―――と。
僕はそのとき、自分が男であることを再認識させられた。生まれて初めての症状が、僕の体に起きていた。自分の体に性欲が備わっていたことを、十八年生きて初めて知った。
だめよ。
まりあさんが、僕の額に自分の額をこすりつけて、囁いた。
ここでは、だめよ。
子供を諭す母親のような、まりあさんの甘い言葉に、しかし僕は抗いたかった。僕の体が、切実に、まりあさんの体を欲していた。欲しくて欲しくて―――どうしても、欲しかった。
考えるのをやめたかった。体が求めるままに、まりあさんの体を自分のものにしたかった。だけど、まりあさんは、家族を除けば誰よりも大切な人だったから、そうはできなかった。
どうにもならなくて、もどかしくて―――そんな感情が生まれて初めてで、僕はいつの間にか、泣いていた。僕の両目から零れた涙が、頬を伝った。僕に傲慢な感情があったことと、それに拮抗しうる冷静さがあったことに、僕は感動していた。
すると、まりあさんが、涙が線を引く僕の頬に、唇を乗せた。
そして、ぺろりと、僕の頬を舐めた。頬を伝う僕の涙を、まりあさんが、掬い取ってしまった。僕の瞼の器から続々と溢れ出る涙の雫を、まりあさんは、優しく飲み込んでいった。
安心に似た心地良さを感じた。唇の接触以上にも、僕にはまりあさんの優しさを感じられた。次第に僕の体の中の、痛みを伴う激情が静まっていった。
そのとき僕は、こう考えていた。
僕は、恋ができるかもしれない、と。
この人となら、恋をすることができるかもしれない、と。
僕の涙が静まると、再び僕の耳元で、まりあさんが囁いた。
好き。
あなたが、好き。
―――まりあさんの声音は、とても苦しそうだった。搾り出すような声音だった。
どうして苦しそうなのだろうと僕が思っていると、押さえ込むような、まりあさんの嗚咽が聞こえた。同時に、ぽたりと、僕の首に、水滴が落ちた。
それは涙だった。まりあさんの涙だった。
まりあさんは、声を押し殺して、泣いていた。僕の頬にぽたぽたと、まりあさんの感情が凝縮された雫が降り注いできた。
どうして、と尋ねたかった。だけど、そうはしなかった。尋ねなくとも、まりあさんが苦しそうだったから。
僕は、まりあさんの頭を両手で包んで、顔を近づけた。
そして、彼女がそうしてくれたように、僕も、まりあさんの涙を飲んだ。目じりに唇を寄せて、唇だけで、まりあさんの涙を吸い取った。
彼女の苦しみを―――飲み込むように。
しばらくすると、まりあさんの涙も治まった。
ありがとう。
まりあさんは、最後に静かにそう言って、僕とキスをした。
そうして、まりあさんは、僕の隣の座席に戻り、僕に背を向ける形で、再び眠った。
そのときの僕が感じていた感情は、充足した幸福感だった。それは多大な安心を与え、僕を眠りに就かせた。
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