第30話 ~2007年~ 4

 まりあさんが僕に尋ねた。「ナイフマガジンって、ナイフの雑誌なの?」

 五月の連休が明けた月曜日、一時限目の前の講習を終えたころに、まりあさんに昨日のことについて話していたところだった。僕は自分の席に腰掛けて、そばにまりあさんが立っていた。

「ナイフだけじゃないよ。なんでも、日本で唯一の、刃物に関する専門誌なんだって」

 因子姉さんからの受け売りそのままな説明に、まりあさんは、ふうん、と相槌を打った。

「じゃあさ、どうして因子がその雑誌を捨てたのを見て、因子が恋をしているって思ったの?」

「………姉さんから聞いてない?」

「因子から?」まりあさんはここしばらく会っていない因子姉さんを、しかし変わらない親しさでその名を口にする。「因子から何を聞くの?」

「因子姉さんの『体質』について……」

 僕は説明をしようとした。

「………いや、これは、すごく個人的なことだから、これ以上はやめよう。僕から話しといてなんだけど」

「……そう」

「それよりまりあさん。もしかして、髪切った?」

 僕が尋ねると、まりあさんは困ったように笑った。

「今ごろ? 一昨日に水族館に行ったときには切ってたよ」

 そう言われても、まりあさんの髪型については、かなり微妙な変化だった。少なくとも高校に上がるときに眼鏡からコンタクトレンズに変えたときよりかは、変化の幅が小さかった。

 弁解はもうひとつある。

「ごめん。あのときは、魚を見るのに集中してた」

「楽しそうだったもんね」

 まりあさんは思い出すように笑った。僕も、中庭を望む教室の窓の向こうに、二日前に見た魚群を思い描いていた。

「うん。楽しかった。楽しすぎて泣いちゃった」

「いつものことだけど、びっくりしちゃった」

 二日前にまりあさんと訪れた水族館は、僕にとっては初めて足を踏み入れた空間だった。足元から天井まで続く巨大な水槽に、様々な魚が調和するかのように遊泳していた。

 ゆったりと羽ばたくように泳ぐエイを見たときに、僕は感動で泣いてしまった。エイは空を飛ぶ生き物だった。地べたを歩くことしかできない僕の、はるか頭上を飛んでいた。

「感動屋さんなんだから」

「いつも、迷惑をかけるね」

「もう慣れちゃったよ。気にしないで」

「………そうだ。この前言ってた、野外ライブのチケットって、結局取れたの?」

 僕の質問に、まりあさんは複雑そうな顔をした。

「取れたけどね。結構後ろのほう。やっぱり申し込むのが遅かったのかな」

「人気なんだね」

「そうね。バンプもウルフルズも出るし」

 僕とまりあさんは、その年の夏休みに、福岡県の海の中道で行われる「HIGHER GROUND 2007」と呼ばれる屋外のライブイベントに行くことになっていた。日帰りはできないのだが、夜行バスでの往復のために、泊まりともいえない。

 野外ライブは二日に分けて催される。僕とまりあさんが行くのは一日目。出演するのは、オープニングアクトに秦基博はたもとひろとBase Ball Bear、そしてチャットモンチー、ザ・クロマニヨンズ、ウルフルズ、レミオロメン、BUMP OF CHICKEN。

 いずれも、僕の知らないアーティストだった。本当に知らないのかと何度もまりあさんに問い詰められるほどに、そのアーティストの人たちは有名であるらしかった。

 まりあさんと付き合ってから、五年が経過していた。まりあさんは僕を連れ出して、様々な物を見せてくれた。………そして、一緒に見た。

 映画館、美術館、球場でのプロ野球の観戦。CDショップに何時間も居座って、ふたりのどちらも知らない洋楽を試聴したりもした。貸し借りをした本は数え切れず、もはやどれが自分の本なのかもわからなくなるほどだった。それらはとても新鮮な出会いで、とても感動的な日々だった。今日の僕の人格は、この五年間によって形成されたと言っても過言ではなかった。

「僕は、また泣くかな?」

「きっとね。しかも、私が思っているよりも、ずっと早くに泣くと思う。いつもそうなんだから。いつも、どうして、って思うタイミングなんだから」

「楽しみだ」

 僕がそう言ったとき、担任の先生が教室の中に入ってきた。

「私もよ」まりあさんはそう言い残して自分の席に戻った。

 クラスメートの皆がそれぞれに席に戻っている間に、僕の隣にいた男子が(名前を思い出せない。僕はもしかすると、男性の名前を覚えることが苦手かもしれない)、話しかけてきた。

「格子、お前、鈴山と付き合ってるんだよな」

 まりあさんの関係について、僕は口止めされてはいなかった。僕が頷くと、続けてその男子が、興味津々といった様子で質問した。

「どこまでいった?」

「どこまで、ってどういうことかな」

 質問の意味はわかっている。二年生のときに保健体育の先生が担任のときの面談でも同じ質問をされたからだ。しかし、僕はとぼけてみた。

 その男子は小声で、僕の体をつついた。

「はぐらかすなって。もう何年も付き合ってるんだろ。もうやることはやったんだろ?」

 僕の心が泉だったとしたら、その質問は、凪いだ水面が墨の一滴で汚される程度に、ささやかな不快感を差した。

 僕は応えた。「言えない。言わない。言うわけにはいかない」答えはしなかった。

「それは、『想像におまかせします』と、捉えてもいいのか?」

「ダメ。僕たちのことは想像しないで」

 するとその男子は、露骨につまらなさそうな顔をした。「けちくさいな」

「けちでいいよ。まりあさんは大事なんだ」

 僕の正直な言葉がどう作用したのか、その男子は、急にしおらしくなって、悪い、と僕に謝った。それきり何も言わなくなったので、僕も何も言わなかった。

 大事にしたい―――それは本心だった。

 恋がしたい―――それも本心だった。

 しかし、大事にできたかどうかはわからなかった。

 恋は依然として、できなかった。

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