第21話 ~2002年から、2003年~ 9

 十一月三十日の土曜日に、僕は量子姉さんと一緒におじいちゃんのいる病院を訪れた。途中の花屋で、小さな花束を買った。

 緩和医療病棟の中の時間は、ひどくゆっくりと進んでいるような気がする。それはこの病棟に過ごす人たちが作り出す静寂と、日々の重たさが、秒針の歩みをのろくさせているのだろう。

 おじいちゃんはベッドのリクライニングを使って体を起こしていた。かけていた老眼鏡を外し、新聞紙を脇に畳んだ。

 おじいちゃんの体は、痩せていた。肉という肉が削げ落ちて、一回り体が小さくなったような気さえした。

「おじいちゃん。体の具合はどう?」丸椅子に腰かけて、僕は話しかけた。

「ああ、今日は、だいぶ楽だよ」

 おじいちゃんは、皮ばかりになった顔に皺を作って微笑んだ。おじいちゃんは笑っているのに、僕は胸を絞られたかのように、苦しくなった。

「おじいちゃん、今日は格子がね、大事な話があるんだって」

 おじいちゃんの前だから、量子姉さんが僕の名前をあだ名で呼ばなかった。おじいちゃんの耳元で語りかける量子姉さんは、今まで見たこともないような、柔らかくて優しい表情をしていた。こんな表情もできるのかと僕は思っていた。

 おじいちゃんの表情が険しくなった。

「なんだ、また、喧嘩でもしたのか」

「違うよおじいちゃん。とっても楽しい相談よ。……男同士のほうがいいでしょう? 私は外すからね?」

 量子姉さんはそう言って、しおれかけた花が差された花瓶と、花束を持って病室を出た。

 僕は量子姉さんの背中を見送って、座っていた丸椅子をおじいちゃんに近づけた。すると、おじいちゃんが僕の目を覗き込むように言った。

「なんだ、楽しい相談、というのは」

「……あの、ね」

 僕は、おじいちゃんに説明した。クラスメートの女の子からラブレターを貰ったこと。恋人同士になってほしいと言われたこと。それに対してどう答えていいのかわからないということ。

 聞き終えたおじいちゃんは、愉快そうに口元を歪めていた。

「そりゃあ、困ったもんだな」

「………おじいちゃん、僕は、どうしたらいいのかな」

「こうちゃんは、どうしたいんだい?」

 おじいちゃんは僕の名前を、幼い頃のように呼んだ。その響きはとても懐かしかった。

「わからない。……どうしたらいいのか、どうしたいのか、わからないんだ」

 僕が悩みながら答えると、ベッドの上に乗せていた僕の左手に、おじいちゃんの手が重なった。恐らくはが来るまで外されることのない点滴の繋がったおじいちゃんの細い腕が伸びて、骨と皮ばかりの手で、僕の手を包んだ。

「こうちゃん。こうちゃんは、その女の子と、よく話をしたのかい?」

「………話しかけたことはあるけど、長く話したことは、ないよ」

「そうか。それなら、その女の子と、ゆっくり、話を、してみるといい」

 そしておじいちゃんは、引き出しの中の財布を取ってくれ、と僕に頼んだ。言われたとおりに僕がそうすると、おじいちゃんは動かすだけでもだるそうな両手を使って、財布の中から一枚の五千円札を僕に差し出した。

「明日は、これで、その女の子と、遊んできなさい」

「いいの?」

「いいさ。そろそろ、小遣いも、あげられなく、なるからな」

 おじいちゃんは、ふう、と息をつくと、背中をベッドに預けた。

「こうちゃん、焦らなくてもいい。人と人は、ゆっくり、仲良くなるものだ。人はたとえ、結婚したって、すぐに、夫婦になれるわけじゃあ、ない。それは、友達だって、恋人だって、そうだ。ゆっくり、話をして、時間を重ねてみるといい。そうすれば、わかるものもあるさ」

 おじいちゃんは僕の瞳を見ながら、僕を見てはいないようだった。これまでにゆっくりと大切に積み重ねてきたたくさんの人とのつながりを、僕を透かして見ているようだった。

「ありがとう。おじいちゃん」

 僕が礼を言って、紙幣を大切に自分の財布の中にしまうと、おじいちゃんの言葉が重なった。

「こうちゃん、悪いが、それをお駄賃だと思って、ひとつ、頼みを聞いてくれるか?」

 僕はすぐに頷いた。「うん。何でも言って」

 するとおじいちゃんは、膝の上に置いていた自分の財布から、一枚の名刺を抜き取った。

「そろそろ、出来上がるはずだ。こうちゃんが、代わりに受け取ってくれ」

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