第22話 ~2002年から、2003年~ 10

 翌日の十二月一日の日曜日、僕はまりあさんと、映画館に赴いた。まだ付き合ってはいなかったが、これをデートだとすれば、それが初めてのものだった。因子姉さんからまりあさんの連絡先を聞きだして誘ったのが前日のことだったから、突然の誘いになってしまって、まりあさんには悪いことをしたかなと僕は思っていた。

 約束の三十分前に映画館の前に来ると、私服姿のまりあさんはすでに待っていた。挨拶はぎこちなく、緊張しているようだった。女の子とふたりっきりで遊びに出かけるというのは僕にとっても初めてで、どこか不安な気持ちもあったから、僕も緊張していた。

 ―――余談だが、その「デート」の一部始終は、因子姉さんによって監視されていたらしい。数年後の因子姉さんの話によると、まりあさんは約束の一時間前には来ていたそうだ。さすがにそのことについて僕が姉さんに責められることはなかった。

 昨日の今日の計画だったから何が上映されているかを知らず、シネコンに入ってから、ふたりで何を観ようかと上映スケジュールと見比べて考えた結果、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」を観ることになった。前作を、原作でも映画でも知らなかった僕は、まりあさんからそのあらすじを説明してもらった。

 暗いシアターの中、僕とまりあさんは柔らかな座席に隣同士で座り(その真後ろに因子姉さんが座っていたらしいが、僕は気付かなかった)、予告編と、上映中のマナー喚起の映像のあとに、うっすらと残っていた照明も落ちて、本編が始まった。

 ―――魔法。妖精。警告。秘密。陰謀。画策。冒険。勇気。決闘―――

 僕の感覚では、一瞬で映画が終わったかのように思えた。それだけ僕は映画に夢中になり、あっという間に時間は流れていた。せっかく買ったポップコーンもほとんど手をつけなかった。

 映画の途中から、何故だかスクリーンが見えにくくなっていた。見えにくいせいか頭痛までするようになった。エンドロールも終わって、シアター内に光が戻ると、「どうしたの?」と、隣にいたまりあさんが、僕の顔を覗き込んできた。その顔も、ぼやけてよく見えなかった。

 人は急に目が悪くなるものなのだろうかと僕は考えた。

 そんな僕を、驚いた表情でまりあさんが見つめ、次いで尋ねてきた。

「どうして、泣いているの?」

 その言葉に僕も驚いた。自分の目元に手を当てた。熱い雫が瞼の器からあふれ出ているのがわかった。

 まりあさんから差し出されたハンカチで涙を拭い、深呼吸をすると、涙は瞼の中の眼球の表面に収まった。

「ありがとう。もう、大丈夫」

 僕はまりあさんに、涙で少し重くなったハンカチを返した。背もたれに寄りかかって、シアターの高い天井を見上げた。等間隔に並ぶ照明が、遠く、眩しかった。

「どうして泣いたの? そんなに感動した?」

 まりあさんは体をこちらに捻って尋ねた。そのとき一瞬だけまりあさんの膝が僕の腿に当たったが、すぐに彼女は座りなおして膝を引っ込めた。

 泣いた理由には、僕は見当がついていた。

「まりあさん、初めて映画館に来たのは、何歳くらい?」

「………さあ、わからない。でも、小学一年生くらいじゃなかったかな」

「そう……」

 僕は目を閉じて、瞼の裏に焼きついているワンシーンを思い出していた。

「僕はね、今日が初めてなんだ」

 目を閉じる僕の隣で、えっ、というまりあさんの驚きが聞こえた。

「映画館で映画を観たのも、映画を最初から最後まで観たのも、これが初めて。……うん、とても、感動したよ。映画って、こんなに面白いんだね」

 僕は、今まで映画を観てこなかったのは、この感動のためにあったのだと思っていた。

 誰もいなくなったシアターの中、僕は目を開けて立ち上がった。

 次の言葉は、自然と口から滑り出ていた。

「いつかまた、一緒に観たいね」

 そのとき僕は、笑っていたと思う。ごく自然に。

 何故なら、まりあさんも笑っていたから。

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