第19話 ~2002年から、2003年~ 7

 たっぷり一分間は考えたかと思う―――僕は、僕が。

 何を考えていたかというと、まりあさんの言葉の意味についてだった。

「まりあさん」

 僕が名を呼ぶと、まりあさんはびくりと背筋を震わせて、「はい」と緊張した声で応じた。姉が四人もいるからか、僕は女性を下の名前で呼ぶ。それがどうやら馴れ馴れしかったり相手を戸惑わせたりするらしいというのは、因子姉さんに注意されて知った。

 何か誤解を招くかもしれないなと考えつつも、僕は正直に答えた。

「僕は、どう答えたらいいのか、わからない」

 案の定、まりあさんは困ったように首を傾げた。「どう、って?」

 僕は淡々と続けた。

「まりあさんが恋愛として、僕を好きなことは、わかる。わかった。………だけど、それはそれとして、どう答えたらいいのかがわからない」

 僕の回答如何いかんによっては、まりあさんの話を最後まで聞いても因子姉さんに張り倒されるかもしれないなと、僕は頭の隅で考えていた。

「僕は、まりあさんのことを、嫌っていない。ほかの人と同じように、同じくらいに好きだよ」

 そう言うと、まりあさんは、体をぎゅっと縮めたように見えた。その緊張の理由は、僕にはわからない―――それは、今も。

「だから答えるとしたら、『うん、ありがとう』って言うよ。だけど、………そうだね。そこから先がわからないんだ。だからどう答えたらいいのかがわからないんだ」

「『さき』……?」

 僕は頷いた。

「まりあさんが僕を好きなのは十分にわかった。でも、………好きだから、なに? そこから先に、僕とまりあさんに、何かがあるの?」

 とりあえず僕が言い終えると、まりあさんは完全に当惑してしまったようで、言葉を選ぶように、もじもじもごもごと、口を開けたり閉めたりしながら考えていた。

「あのね。わ、私は、格子くんが、好きなの。だから、格子くんには、私の、……こ、恋人になってほしいの。そういうことなの」

 あとになって、このときの話をまりあさんから聞いた因子姉さんは、「そこまではっきり言わせるんじゃないわよ。察しなさいよ」と、僕を叱った。しかし、とにもかくにも僕にはこれで、まりあさんの目的がはっきりとわかった。そして、三省堂の国語辞典の表記の順序について、「恋」のあとに「請い」と「乞い」が続くのは、こういったこともあるからなのだろうかと考えていた。

「なるほど、恋人ね」

「そ、そうそう恋人、………恋人、同士に」

「恋人って何をするの?」

「……さあ、なにかなぁ。………でも、恋人って、恋人だから、恋人なんじゃないかな」

 深く考えると混乱する響きの文句だが、そのときの僕にはすとんと理解できた。なるほど、恋人というのは役割ではなく、関係性なのか、と。

 ―――恐らくだが、当時の僕が多少なりともフィクションの世界を覗いていれば、このようなとんちんかんなやり取りはしなかっただろうと、今になって振り返る。当時の僕はといえば、テレビも映画も小説も漫画もほとんど見ない人間だったから、自分以外の世界というか、他者の感情への共感力が欠如していたと思う。

「まりあさんは、僕に、まりあさんの恋人になってほしいんだね?」

 尋ねると、まりあさんは、唇を引き結んで頷いた。

「恋人になる条件って、何かな?」

「………私を、好きになってほしいの」

「それは恋愛として?」

「れ、恋愛として」

 そこまで言うと、まりあさんは顔を赤らめた。僕は、腕を組んで俯き、しばし黙考した。その間、まりあさんはそわそわと、ずれてもいない眼鏡の位置を直したりしながら、待った。

「まりあさん」

 僕が顔を上げると、すぐにまりあさんは身構えた。

 しかし、僕はまだ、答えを出していなかった。

「僕がここで結論を出すには、時間がかかりすぎると思う。だから、しばらく待ってほしい」

 するとまりあさんは、不安そうな目をした。「やっぱり、私のことは、好きじゃない?」

「そうじゃないよ。さっきも言ったけど、僕はまりあさんのことが嫌いじゃない。むしろ好きだよ。………でも、僕は、今まで、恋をしたことがないんだ」

 横の本棚の背表紙の列を、見るともなく見た―――およそ恋愛とは関係なさそうな本の背表紙。恋愛を題材に取る小説とは、分類も棚も違う。

「誰かに対して、会いたいとか、一緒になりたいとか、いつまでもそばにいたいとか、そういう風に強く思ったことがない。………こんなことは初めてで、まりあさんのことは嫌いじゃないけど、恋愛がそういう意味なら、まりあさんの恋人になれるかどうか、わからない。………だから、考えさせてほしい」

 そう言ってから視線を戻すと、まりあさんは、理解したような表情を浮かべていた。

「………わかった。どのくらい、待てばいいかな」

「わからない。でも真剣に考える。答えが出たら、すぐに伝えるから」

 納得したように、まりあさんは頷いた。

 僕がその場を去ろうとすると、まりあさんが言った。

「今日は、聞いてくれて、ありがとう」

 どう答えていいのかわからなかった僕は、うん、とだけ答えて、図書室を出た。

 自宅へ帰りながら、恋をするのは―――恋を伝えるのは大変なんだなとぼんやり考えるうちに、夕飯の買い物をするのを忘れてしまった。

 仕方なくその日も、冷蔵庫の食材を使ってのカレーになった。

 四人での食卓で、僕は斜め向かいの因子姉さんに尋ねられた。

「格子、今日は、どう答えたの?」

 省略されても、その質問の意味はわかった。

「まだ、イエスともノーとも答えていないよ。今も考えてる」

「なになに? どうしたの?」

 僕の隣の量子姉さんが、興味深そうに僕と因子姉さんの顔を見比べた。

「格子が女の子に告白されたの」

「ほんと?」すぐに反応したのは光子姉さんだった。「誰? どんな子?」

 そこからは、何故か当事者の僕を置いて、女同士での会話で盛り上がっていた。

 そのときも、僕は考えていた。

 鈴山まりあさんは、恋という名の特殊な重力に吸い寄せられて、落ちた。

 落下地点にいるのは僕。

 僕は、重力に任せて身を投げ出した彼女を、どう受け止めればいいのだろう。

 考えても考えても、答えは出なかった。

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