第17話 ~2002年から、2003年~ 5
それからの生活は、至って落ち着いたものだった。不幸中の幸いという言葉が適切かどうかはわからないが、当時折よく何も仕事をしていなかった量子姉さんが、入院しているおじいちゃんの介助をするために毎日病院に通った。
おじいちゃんはというと、穏やかに、病室で物考えをしているようだった。ただ、病室の窓の下の桜の木を見ているときだけは、悲しそうにしていたらしい。
当時二十六歳だった光子姉さんは会社で(大手の女性下着メーカーで、世情に疎い僕でもその名前を知っていた)着実に評価を上げているらしく、近く昇進も内定していたらしい。家に帰ってくるとダイエット代わりにエレメントを散歩に連れ出していた。
同じく二十六歳だった陽子姉さんは、担任を持って忙しくしていた。その年から完全週休二日制に変わって、授業の対応の変化にあたふたとしていた。さらに女子バスケ部の顧問も任されたようで、ルールブックを読んで勉強をしていた。
僕と因子姉さんは、普通に中学一年生をしていた。同じクラスで同じ授業を受けていた。
ただ、そのとき、因子姉さんの僕への態度がおかしかった。
好きな女の子のタイプは何か。(特になし)
背の低い女の子は嫌いか。(特には)
女の子の髪の長さはどれくらいが好きか。(どんな長さでも)
―――などなど、家に帰ると、様々な質問を僕にぶつけてくるようになった。果ては好きな色まで尋ねられた。
「女の子の服で、この色がいいとか」
「………特にないよ」
おじいちゃんと陽子姉さんを除いた四人で、夕飯のカレーライスをつつきながら僕は答えた。あっそう、と因子姉さんは、さしてそれ以上の興味もなさそうに質問を終わらせた。
質問をするときの因子姉さんのその表情が、僕には腑に落ちなかった。
「ファクたん、なんで最近、そんな質問するの?」
僕の心中の疑問を量子姉さんが代弁してくれた。僕の隣にいた因子姉さんは、最近の質問をするときの不機嫌そうな顔そのままに「別に」と答えた。したくもない質問ならばしなければいいのに。どうやら僕に質問しなければならない事情があるらしい。
「ファクたん、男の子に恋をしたの?」
因子姉さんの質問の理由―――その推測も、量子姉さんが引き取った。
「ラッたんの意見は参考にならないと思うな」
ああそういうこともあるかと僕は考えていたが、即座に因子姉さんが「違うよ」と否定した。
量子姉さんが汚れたスプーンを、魔法の杖のように一振りした。
「わかった。ラッたんを好きな女の子がいるんだ」
―――僕を好きな人がいるということに関しては、僕はなんとも思ってはいない。友達なのだ。僕を好いている人はいるだろう。
ただ、僕と因子姉さんでは「好き」の用法が違うことを、僕は知った。因子姉さんが使う場合のそれは、「恋をする」と同義だ。
僕の頭の中で、先日の国語辞典の意味が蘇った、
―――あいたい、いっしょになりたい、ずっとそばにいたい―――
僕が、そう思われる?
そんなことがあるのだろうか、と思いつつ、僕は因子姉さんを見た。
因子姉さんは、黙っていた。僕とは違う意味で、因子姉さんは嘘がつけないようだった。僕は正面の席に座る光子姉さんの顔を見たが、光子姉さんは首を傾げるだけだった。
その夜、またしても因子姉さんは僕の部屋を訪ねてきた。
「格子は、何も考えなくていいから、学校ではいつもどおりにしていて」
そのとき因子姉さんはそれだけを言った。考えるなと言われれば考えてしまいたくなるものだけれど、考えようにも掴みどころがなかった。実感がないというよりも、恋という感情に共感が持てなかった。
恋というものは、どんな感情なのだろう。
恋を恋するという慣用句があるほどに、それは、憧れる感情では、あるらしかった。
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