第16話 ~2002年から、2003年~ 4

 この年、僕にはもうひとつ、特筆すべき出来事がある。

 他人としては一番、僕の人生に踏み込んできた人物についてだ。

 とある晩の、僕がひとり、部屋でぼんやりとしているときの扉のノックがきっかけだった。

「格子、入るよ」入ってきたのは、因子姉さんだった。「………何してるの?」

「ぼーっとしてただけだよ」

「いつもそれ。あんた、何が面白くて生きてるの?」

「何かが面白くないと生きていけないの?」

「………あんた何言ってんの? 意味わかんない」

 僕と因子姉さんは双子であるのに、言葉が通じにくい。それは僕から因子姉さんに向けるときが特に顕著で、僕の言葉が因子姉さんを苛立たせることがよくあった。

 わざわざそれを言いに僕の部屋まで出向いてきたのかなと僕が思っていると、教科書しか並んでいない僕の本棚をつまらなさそうに眺めた因子姉さんは、おもむろに、こう言った。

「格子、好きな人っている?」

「好きな人?」このときも、僕には姉さんの言葉の意味が理解できなかった。「好きな人って、どういう意味?」

「……そのままの意味よ」

「その意味がわからないよ。たとえば『おじいちゃんが好きか?』と訊かれたら、僕は『好きだ』って答えるよ。光子姉さんも、陽子姉さんも、量子姉さんも、因子姉さんも好きだよ」

「やめてよ気持ち悪い」

 因子姉さんは急に渋面を作った。人を好きになるのがどうして気持ち悪いのか、僕にはまたしてもわからなかった。

「私が聞きたいのは、………つまり、誰か特定の女の子を特別に好きか、ってこと」

「家族以外で?」

「当たり前よ」

 因子姉さんはそう言ったが、僕には何が当たり前なのかもわからなかった。

 しかし質問には正直に答えた。

「いないよ」

「あんた、教室では結構女の子と話すじゃない。その中にもいないの?」

「いないよ。みんな友達だよ。友達だからみんな好きだけど、誰か特定の人が特別に、っていうわけではないよ。因子姉さん以外はね」

 僕の答えがまたしても理解できなかったのか、因子姉さんは首を傾げていた。恐らく僕と因子姉さんの言葉が通じにくいのは―――通じにくさが露呈するのは、僕と因子姉さんが双子だから同い年で、昔からよく会話をしていたからだろう。

「じゃあさ、あんた今までに、コイをしたことがある?」

「コイ?」今度は僕が首を傾げた。「コイって、なに?」

 因子姉さんがいらいらした様子で、背後にあった本棚の中から国語辞典を引っ張り出した。

「レンアイの一文字目、シツレンの二文字目よ。……ほら、ここ」

 姉さんは三省堂の国語辞典をくしゃくしゃとページを掴みながら捲り、ひとつの項目を指で示した。

 その項目は「故意」の後、「請い・乞い」の前にあった。


 こい[恋]コヒ(名)

〔男女の間で〕好きで、あいたい、いっしょになりたい、いつまでもそばにいたいと思う強い気持ち(を持つこと)。恋愛(レンアイ)。「――に落ちる」


 その次には、恋は思案のほか、恋は盲目、恋を恋する、といった慣用句が並んでいた。

 国語辞典を使ってまで説明されなくとも、「恋愛」の一文字目、「失恋」の二文字目と言われて、ああ「恋」かと僕は気づいたのだが、実際に国語辞典でその意味を知ると、ああ「恋」とはそういうものなのかと知った。

 理解はできなかったが、知識としては把握した。

 僕は因子姉さんから国語辞典を受け取って、意味を咀嚼しようとした。

「恋に落ちる、ねえ。奈落の底や恐怖のどん底以外に、地球の踏み外し方があるなんて、知らなかったよ」

「何言ってんの、あんた。ちょっと本気で気持ち悪いよ」

 因子姉さんは辞典を支える僕の両手ごと、国語辞典を閉じた。

「あんた、恋したこと、ないの?」

 僕は国語辞典を箱にしまいながら考えた。

「ない、ね。辞典ここに記されたような気持ちになったことはないよ」

「一度も?」

「一度も。………姉さんの初恋は、どんな感じだった?」

 僕がそう質問すると、不機嫌そうな顔をして、「教えない」と言い、因子姉さんは僕の部屋から出て行った。

 しかしすぐに再び扉が開くと、

「格子、私の初恋のこと、おぇたちに言ったら承知しないからね?」

「わかってる。言わないよ」

 それは嘘ではなかった。僕はそれまでもそれからも、上の姉さんたちに因子姉さんの恋について話したことは一度もない。ただ、上の姉さんたちはとっくの昔にそれに気づいていた。僕は嘘を言わないが、すべてを話すわけではない。

 因子姉さんが部屋を出て行った。結局因子姉さんが何を言いたかったのかが、僕にはそのときわからなかった。

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