第14話 ~2002年から、2003年~ 2
量子姉さんが一年ぶりに帰ってきた。
ダイニングの六人がけのテーブルに、姉弟が全員集まった。量子姉さんは相変わらず椅子に縛られている。そうでもしなければ本当に量子姉さんは逃げ出してしまうからだ。
最後に陽子姉さんが来たところで、量子姉さんへの「今までどうしていたか」に関する質問が再開した。
「だから言ってあったじゃん。書き置きは見たでしょ?」量子姉さんは飄々とした様子で、椅子に縛り付けられたまま答えた。「日本一周してくるって」
「それを文面どおりに受け取る人がどこにいるの」と、陽子姉さん。
「いやー、楽しかったよ?」
「ちょっと量子姉ぇ、マジで日本一周してきたの?」と、因子姉さん。
「そーだよ。最初に四国に行って、本州に戻ったら太平洋岸に沿ってヒッチハイクで北上して、北海道に着いたら日本海岸沿いに南下して、九州をくるっと回って、帰ってきたのさ」
「沖縄も?」これは僕。エレメントは僕の腕の中から離れたがらない。
「一日かけて船でね。いやー暑かったよー。料理がおいしかった」
「お金は、どうしたの?」と、光子姉さん。
「大変だった」量子姉さんはへらへらと笑った。「無一文だったからねえ」
光子姉さんの質問は、何も沖縄までの渡航費についてではなく、量子姉さんの答えもまた、そうではない。
量子姉さんは、よく言えばフリーター、悪く言えばニートだった2001年の十一月ごろ「ちょっと出かけてくるから」と、手ぶらで日本一周を始めたのだ。
「でも安心してよ。体を売るような稼ぎ方はしてないから。路上でダンボール広げてカンパしてもらったり、飛び込みでアルバイトしたりして。………そうそう、写真見る? いっぱい撮ったんだ。ちょっとラッたん、私の紙袋の中にデジカメがあるから」
そこまで量子姉さんが喋ったところで、どん、と光子姉さんがテーブルを叩いた。僕の腕の中にいたエレメントがびっくりして体を震わせた。
「………量子、私たちがどれだけあんたを心配したか、考えた?」
厳しい面相で詰問する光子姉さんに対し、量子姉さんは口元にだけ笑いを浮かべた。
「私が、そういう心配が要らない人間だって、フォト姉だってわかってるくせに」
「………あんただって、絶対に死なないわけではないのよ?」
「わかってるよー。事故とか事件とか病気には気をつけたさ。それなりに」
反省の色が見られない量子姉さんに、光子姉さんは深いため息をついた。陽子姉さんと因子姉さんはというと、諦めたかのような表情をしていた。
無一文で日本一周旅行をしよう、などというのは、無茶で無謀な計画だ。
しかし量子姉さんに限って言えば、それは無茶や無謀であったとしても、無理なものではない。すべては量子姉さんの「特異体質」がそうさせる。
量子姉さんの持つ運命という名の体質は、「絶対に助けられてしまう」だった。
言ってみれば究極の愛される体質。量子姉さんは腹ペコの無一文でどこぞをうろついていても、必ず何らかの原因で助けられてしまう。量子姉さんが「お願い」とか「頼むよ」とかの文句を口にすると、必ずその相手は量子姉さんを受け容れてしまう。高校に入ってから友人の家を転々としながらも誰からも邪険にされず、「もっといなよ」とまで言わせてしまったことがその証拠でもある。
僕の姉、歯車
―――なんとも、身も蓋もない表現ではあるが。
自身の特異体質について、光子姉さんはそれ以外の生き方を選べず、陽子姉さんはそれを拒めず、因子姉さんはそれによって利を得ることはほとんどなく、僕は生き方そのものがそれだった。そういう意味では、量子姉さんが、姉弟の中で一番、特異体質を自分の意志で活用していた。
ただし、上のふたりの姉さんたちに言わせれば、それは「悪用」だった。
「もうすぐ二十歳になるっていうのに、いつまでもふらふらして……ちゃんと働きなさい」
「そうよ量子ちゃん。いつまでもそんな生活を続けているのは、良くないわ」
陽子姉さんに関して言えば、金が身につきさえすれば働かなくとも暮らしていける「体質」ではあるが、教師という職業がそうさせるのか、男関係以外は真っ当に生きていた。
量子姉さんは、がこがこと前後に椅子を揺らして、真面目に答えようとはしなかった。
「私だってさー、いつまでもこのままでいいって思ってるわけじゃないよー。ただー、やりたいことも見つからないしー、旅行とかしてるほうが楽しいしー」
「甘えたことを言うんじゃない」
光子姉さんが、語勢をさらに強めた。
「『やりたいことが見つからない』って……そう言えば周りの人間が納得すると思ってる? 甘えるんじゃないわよ。やりたいことがあろうがなかろうが、それなりの歳になったら人は働くしかないのよ。働いてお金を稼いでご飯を食べて生きていかないといけないのよ。………やりたいことが見つからないなんてのはね、甘え以外の何物でもないの。あんたはこの世の中を舐めてるのよ」
そのときはまだ義務教育を受けていた身分だったが、光子姉さんの叱責は将来の僕に向けられているようにも感じられた。
僕も将来に、やりたい
光子姉さんの話を面白くなさそうに聞いていた量子姉さんは、冷たい笑みを浮かべて応じた。
「じゃあ言い方変えようか? 私は働く気がないの。これっぽっちもね」
「………ふざけてるわね。自分の年金も払ってないくせに」
この当時、量子姉さんの国民年金を代わりに納めていたのは光子姉さんと陽子姉さんだった。
「やりたいことがないのも、働きたくないのも事実だよー。だからお
普通ここまで言い切られてしまったら、あとは量子姉さんを外に蹴りだすしかないのだろうけど、いかんせん相手は絶対に餓死しないホームレスになれる人間であるために、量子姉さんの心には、本当に、光子姉さんの叱責は届かない。
「量子ちゃん、私たちはね、怒ってるんじゃないの。心配してるの」
険悪なふたりの間に、陽子姉さんが入った。
「世間体や外聞が悪いからなんて、少しも思っていないわ。ただ、量子ちゃんがいつまでも、誰かの家を泊まり歩くような生活を続けていたら、いつか量子ちゃんが危険な目に遭ってしまうんじゃないかって、心配なのよ。……それだけは、わかってくれる?」
陽子姉さんの優しい問いかけに、量子姉さんはテーブルを見つめたまま、不承不承といった様子で頷いた。
「誰かを頼ることは必要よ? 誰もひとりでは生きていけないんだから。でも、友達や知らない人をわざわざ頼ることはないじゃない。この家で、私たちを頼って暮らしてもいいのよ? それとも、この家にいるのが、いや?」
甘すぎだ、とでも光子姉さんは思ったのか、陽子姉さんをちらりと見た。
量子姉さんは黙って首を振った。
「…………そうね。とにかく量子には、しばらく家にいさせましょう」
光子姉さんが眉間の皺を擦りながら、ため息と共に呟いた。
「量子、あんた、ぎりぎりのタイミングよ。………それだけは本当によかったわ」
光子姉さんの呟きに、量子姉さんはいぶかしんだ。
「フォト姉ぇ、なに、言ってるの?」
「うちが大変なときに、あんたはのんきに旅行してたってこと」
それを聞くや、量子姉さんは、同じテーブルに着く僕たちの顔を眺め回した。そのときの僕たちは、一様に、神妙な顔をしていた。
「なに? どうしたの? 何かあったの?」
「………あの、ね」
陽子姉さんが答えようとしたとき、答えを聞く前に、量子姉さんの目が大きく開かれた。
「まさか、おじいちゃん?」
すると、陽子姉さんは、ゆっくりと頷いた。
量子姉さんは、動揺していた。
「うそ。………だって、そんなこと、おじいちゃんから聞いてないよっ……」
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