第13話 ~2002年から、2003年~ 1
2002年から、2003年
その日のことはよく覚えている。二学期の中間テストも終わった2002年十一月十一日の月曜日のことだ。陽子姉さんが、二年間付き合っていたフリーターの男に財布の中の有り金をすべて奪われて失踪されてしまい、髪を切り、日曜日なのに自棄酒をした翌日、マンションから二日酔いの頭痛を抱えて出て行った日だ。
その日の夕方、夕食の買い物袋を抱えて、僕は通っていた中学校から帰ってきた。中学高校を通して、僕は部活動をしたことがない。興味がなかったから。
僕がひとり台所で夕食の準備をしていると、電話がかかってきた。
「おっす。ラッたん、ひさしぶりー」
出ると、量子姉さんだった。
一年ぶりに聞く量子姉さんの声に、僕はかなり驚いた。
「………姉さん、今、どこなの?」
「えー? マンションの近くだよ?」
電話の向こうの量子姉さんが元気そうだったので、ひとまず安心した。
量子姉さんは続けた。「今からお風呂借りに、そっちに寄るから」
正直、それを聞いて僕はまた驚いた。長らく家を空けていた量子姉さんが帰ってくるという事実そのものも原因だったが、風呂に入るのも面倒に感じるものぐさな量子姉さんが、わざわざ風呂を借りに家に来ると言ったからだ。
「………わかった。お湯を溜めておくから」
「いいよお、シャワーだけだから。……それよりさあ、今、ラッたんひとりだよね?」
この時間を選んで電話をかけてきた以上、量子姉さんが上の姉さんたちと会いたくないと思っているのは明白だった。
ちなみに、量子姉さんは以前から、僕たち姉弟を独特の愛称で呼ぶ。その由来は僕たち姉弟の下の名前をそのまま英語に直訳した「光子(photon)」「陽子(proton)」「因子(factor)」「格子(lattice)」であり、それらをもじって「フォト
「そうだよ。僕ひとり」僕は正直に答えた。
「やったね。じゃあすぐ帰るから……ラッたんさ、お姉(ねえ)たちに、何も頼まれてないよね?」
「うん。だから、帰ってきなよ」
僕は電話を切ってから、果たして「量子(quantum)」姉さんは、どれだけ汚れて帰ってくるのだろうかと想像した。想像したら不安になってきたので、前日から洗濯機の中に放り込まれていた、洗濯前の光子姉さんと因子姉さんの衣類を取り出した。
料理の準備をしながら待つこと数分、インターフォンが鳴らされた。出ると、マンションの玄関を映すカメラの前に、一ヵ月後には二十歳になるはずの量子姉さんが立っていた。その姿を見たのは、ほぼ一年ぶりだった。
僕はインターフォンのボタンを操作してオートロックの扉を開けた。
そして、量子姉さんがエレベーターで上がって来るまでに、シンクの流し台の下の開きの中に、ビニル紐があることを確認した。
再度インターフォンが鳴り、今度は玄関に向かった。
「おかえりなさい」
扉を開けると、目の前に量子姉さんが立っていた。それほど汚れていなかった。
しかし―――と言ったものか。
量子姉さんの胸の中に、一匹の仔犬がいた。その仔犬は汚れていた。
「ただいまー」
紙袋と仔犬を抱えていた量子姉さんは、相変わらずののんびりとした口調で、しかし仔犬に関しては何も説明しないままに家に上がろうとした。
たまらず、僕は質問した。
「なにそれ」
「ダックスフント」
「そうじゃなくて」
「さっきそこで拾ったの。このマンション、ペットはオッケーだったよね?」
「飼うの?」
「頼むよラッたん。とりあえずシャワーだけ、許して」
ね? と、量子姉さんは僕に言った。量子姉さんに頼まれると断れない僕は、汚れた仔犬が可哀想だったこともあって、そのまま部屋の中に上げた。
僕は風呂場へと向かう量子姉さんから紙袋を受け取った。その中に入っていたくたびれた衣類を見てから、「また、派手に染めたね」と量子姉さんの背中に言った。
一年ぶりに見る量子姉さんの、腰にまで届きそうな長い髪は、目にも鮮やかな金色に染め上げられていた。
「最近はね、金髪の気分なんだ」
高校を卒業してからというもの、量子姉さんは赤だの緑だのと、気分に任せて様々に髪の色を変化させていた。上の姉さんたちはそれについて顔をしかめていたが、僕が小学生のころはその変化が面白かった。
量子姉さんは仔犬を抱えたまま靴下だけを脱いで風呂場に入り、シャワーの温水をダックスフントの仔犬に優しく浴びせた。仔犬は、びくびくとしながらも、抵抗せずに量子姉さんに体を洗わせていた。
「エレメント、きもちーかい?」
脱衣場で見守る僕に背中を向けて、量子姉さんは仔犬に話しかけた。
「
「うん、この子の名前。うちで飼うにはぴったりでしょ?」
すでに量子姉さんの中で飼うことは決定しているようだった。
「量子姉さん、世話するつもり、ないでしょ?」
「残念だけど、そうだね」量子姉さんはあっさりと認めた。「フォト姉ぇに頼んで無理だったら、可哀想だけどラッたんがもっかい捨ててきて」
優しいのか酷いのかわからない量子姉さんに、僕は嘆息しながら頷いた。どうにも昔から、量子姉さんの頼みごとを断れない。
きれいに洗い上げられたダックスフントの仔犬(命名「エレメント」)を受け取り、僕は適当にくたびれていた使い古しのタオルを取って脱衣場を出た。僕はリビングでエレメントの体をタオルで包んだ。そのときに確認したが、エレメントは雌だった。つくづく「兄」にも「弟」にも縁がないなと考えながら、新しい「妹」の体を拭いていた。
洗って分別していた肉の入っていた白いトレーに牛乳を注いでからエレメントの前に出すと、匂いを嗅いでから、エレメントはぴちゅぴちゃと音を立てて飲みはじめた。
「ありがとね、ラッたん」
しばらくして、リビングに量子姉さんが戻ってきた。冬も押し迫る十一月、量子姉さんの頭からは湯気が昇っていた。自分もシャワーを浴びたのだろう。
「姉さん、疲れてるでしょ? まだ誰も帰ってこないだろうから、コーヒー飲む?」
僕はダイニングテーブルの、流し台に背を向ける椅子を引いた。
「おっ、ありがとー。さすが主夫だね」
量子姉さんは、にこにこと笑って、僕の引いた椅子に腰かけた。
僕はその背後で、そっと流し台の下の開きを開けて、その中から、先ほど確認していた梱包用のビニル紐を取り出した。
音を立てないように、球を解いて二メートルほど紐を出すと、一気に、椅子ごと量子姉さんの体をビニル紐で縛り上げた。
腕ごとまとめて椅子に拘束された量子姉さんは、さすがに狼狽を声に出した。
「なっ、なにすんのラッたん!」
「ごめんね、量子姉さん」
僕は背もたれに片足をかけて、ぐい、とビニル紐をきつく結んだ。そして念のために、何重にもビニル紐を回して縛った。
「光子姉さんに言われていたんだ。いつか量子姉さんが帰ってきたら、逃がさないように縛り上げろって」
「は、ハメたなーっ!」
量子姉さんはがたがたと椅子を揺らして抗議した。その音に驚いたエレメントが、リビングのソファの陰に飛び込んだ。
「うそつき! さっきは何も頼まれてないって言ったじゃん!」
「嘘じゃないよ。僕は何も頼まれてないよ。………命令はされたけど、っと」
ようやく縛り終えてから、僕はインスタントのコーヒーを淹れた。量子姉さんは、くそー、と、うなだれた。
量子姉さん用に、コーヒーには砂糖だけを入れて、ストローを差して量子姉さんの前のテーブルに置いた。
それから光子姉さんが帰ってくるまで、僕は量子姉さんを見張り続けた。
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