第10話 ~1995年、あるいは2009年~ 5

 翌日は、日常が元どおりになっていた。朝起きれば光子姉さんと陽子姉さんはばたばたと支度をして、量子姉さんはのんびりと遅刻して学校に行き、幼稚園に行けば因子姉さんは男の子を泣かせ、僕は相変わらずままごとが下手だった。

 そうやって日々は過ぎて、上の三人の姉さんたちが夏休みに入った八月のとある昼、光子姉さんの洗い物を手伝っていた僕が、新聞を読んでいた陽子姉さんに「こうくん、ちょっと来て」と手招きされた。

 手を拭いてからテーブルに座っていた陽子姉さんに駆け寄ると、陽子姉さんは僕を抱きかかえて膝の上に乗せた。

「こうくん、数字は読める?」

「うん、よめるよ」

「じゃあね、ここに書いてある数字を、左から順番に、読んでくれる?」

「ひだりって、どっちだっけ?」

「お茶碗を持つほうよ」

「わかった」

 僕は陽子姉さんの指がなぞる新聞の上の数字を、言われたとおりに左から読み上げた。新聞のとある一面、その隅に、たくさんの数字が書かれていた。陽子姉さんが指で示したのはその一番上の数字の列だった。

 僕はひとつずつ、ゆっくり読んだ。途中の読めない漢字は飛ばした。

「……ろく、ごお、いち……はい。よんだよ」

 僕は背後を振り返った。

 陽子姉さんは、目も口も開いて、浅く呼吸を繰り返していた。体も小刻みに震えていた。

「ようこおねえちゃん、どうしたの? おなかいたいの?」

 膝の上の僕がそう問いかけても陽子姉さんは反応しなかった。僕が、「ねえ、ようこおねえちゃんがへんだよ」と、居間と台所にいた残りの三人の姉さんに伝えると、それぞれが振り返って陽子姉さんを見つめた。

「……うそ…………じゃ……なかった」

 陽子姉さんが、どこを見るでも、誰に言うでもなく、呟いた。

「どうしたの?」

 光子姉さんが、エプロンで手を拭きながら尋ねた。すると、ロボットのようなぎこちない動作で首を向けた陽子姉さんは、ぱくぱくと口を開け閉めしてから、言った。

「……当たってる。……宝くじ。…………一等が」

 その言葉に、光子姉さんと量子姉さんが、「えー?」だの「はー?」だのと、聞いたことのない変な大声を上げて駆けつけた。

「マジでマジで? マジで一等?」量子姉さんが陽子姉さんの右手と新聞を見比べた。

「ほんとに? ほんとに一等なの?」光子姉さんが陽子姉さんの肩を揺さぶった。

「う、うん。一等、前後賞で、さ、三億、円」陽子姉さんは呆然とした様子のまま答えた。

「ねえねえ、どうしたの? なにがすごいの?」因子姉さんが量子姉さんの裾を引っ張った。

 僕はというと、わけがわからないままぐらぐらと陽子姉さんの膝の上で揺さぶられていた。

 1995年八月。姉弟の中で最も威力のある、陽子姉さんの持つ「特異体質」が初めて顕現した。その後の僕たちの人生を大きく変え得る運命の下、陽子姉さんは生まれていた。

 陽子姉さんの持つ運命という名の体質は、「金に関する圧倒的な運の偏り」だった。

 この日を境に陽子姉さんは、偶然という概念を蹂躙するほどの確率で、賃金以外で金を得ることになる。

 宝くじを買えば、一等とは言わなくとも二年に一回くらいは百万円以上当てるし、付き合っていた男に連れられて競艇場に行ったときは、誰も予想できない万舟券まんしゅうけんを作った。ちょっとした占いのつもりで始めた株は、売りも買いも、概ね次善以上のタイミングで行ったために、桁ひとつ金を増やしていた。陽子姉さんが道を歩いているだけでも、小銭から財布、果ては札束の入った封筒まで拾った(財布と札束の入った封筒は警察に届けた。近くの交番に勤務していた警察官の人は、犯人でも知り合いでもないのに頻繁に訪れる陽子姉さんの顔を覚えてしまうほどになる)。

 良くも悪くも、周囲の人間の生き方までをも変えてしまう、強烈至極な運命である。

 ―――ただ、惜しむらくは―――

「ど、ど、どうしよ、これ」

 陽子姉さんは、当たった三枚の宝くじを握りながら、膝の上の僕を抱きすくめて震えていた。

「いーじゃん。やったじゃん。当たったんだよ? 使おうよ」

 量子姉さんはそう言ったが、陽子姉さんはふるふると首を振った。

「……だって、この宝くじは、あの人と一緒に、お金を出して買ったのよ? だったら、あの人にも……」

 当時の僕が陽子姉さんの言わんとしていることを理解できたなら、何を馬鹿なことを、と反論していただろう。

 先日のろくでなしの男との修羅場について聞き知っていた光子姉さんと量子姉さんは、おろおろと紡ぐ陽子姉さんの言葉を聞くと、視線を合わせ、無言の意思疎通をした。

 量子姉さんが、さっと動き、椅子に座る陽子姉さんを背後から羽交い絞めにした。

「ちょ、ちょっと量子ちゃん? なにするの?」陽子姉さんは慌てふためいた。

「それはこっちの台詞よ」

 光子姉さんが、陽子姉さんの右手にあった三枚の当たりくじを奪い取った。

「あんたこそ、何をするつもりなのよ」

「なにって……」

「プロ姉、それはダメだよ」

 量子姉さんはにやにやと笑いながら、羽交い絞めにしている陽子姉さんの耳元で囁いた。

「あの男には、びた一文渡させないからね?」

「そのとおり」

 珍しく量子姉さんと結託した光子姉さんは、大事そうに当たりくじを胸に抱いた。

「あの男は、恋人のあんたよりも、千五百円を選ぶような奴よ? そんな男に、このお金を渡す必要はこれっぽっちもないんだから」

 陽子姉さんは宝くじについては男から確かに買い取っているが、実際の法律上、男にも当選金を渡すべきなのかどうなのかは今でもよくわからない。しかし、光子姉さんと量子姉さんの意見は「渡さない」で一致していた。

 ―――陽子姉さんの人生には、かなり強烈な金運が作用していた。

 ただ、惜しむらくは、それと反比例して男運が逆作用していた。世にごまんといるろくでなしの男は、優しい女と金を持っている女を嗅ぎつける鼻を持っているらしい。それからの人生で陽子姉さんは、かなりの大金を手にすることが度々あったが、男運がなさ過ぎて身につかなかった。観察していると、むしろこれもまた「金に関する運の偏り」の一部ではないかと思うほどに、搾取されたり騙し取られたりしていた。

 陽子姉さんには、可哀想なことに、望む望まざるに関係なく、「餌食」になる資格があったのだった。

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