第9話 ~1995年、あるいは2009年~ 4
姉さんの初恋が壮絶に終わった日の夜の、姉弟が全員揃う夕食の席で、姉さんは酎ハイで酔っ払っていた。今となっては、酎ハイで酔えていた陽子姉さんが可愛らしくすら思える。
「陽子、あんた未成年なんだから、その辺にしときなさい」と、光子姉さんが諌めた。
「……今日は飲ませてよ、姉さん」と、陽子姉さんは五本目を空にした。その顔は赤い。
「私が飲んであげよっか?」と、量子姉さんが手を伸ばそうとして、光子姉さんが制した。
「こーし、おとなってたいへんだね」と、因子姉さんが茶碗を片手に僕に言った。
「そうだね」と、僕は答えただけで、ほかには何も言わなかった。
食事が終わって、因子姉さんにとっては待ちに待ったデザートの時間になった。因子姉さんは真っ先にチョコレートのケーキを選び、次に量子姉さんがモンブランを選び、「私はいい。太るから」と光子姉さんがブラックコーヒーを啜りながら言ったので、僕は、「ようこおねえちゃんは、どれがいい?」と陽子姉さんに訊いた。
すると、酒で水分を補給したからか、急にぼろぼろと、陽子姉さんは泣きはじめてしまった。それを見て、楽しみにしていたはずの因子姉さんは、フォークで削り取ったケーキを口の前で止めた。量子姉さんは平気な顔で食べていた。
涙と鼻水でずるずるになった陽子姉さんは、すんすんと鼻を鳴らしていた。
そして、こう言った。
「………やっぱり、お母さんの、血筋かなあ」
それを聞きとがめたのは光子姉さんで、がん、と乱暴にコーヒーカップをテーブルに叩きつけて立ち上がった。カップの中の液体はテーブルに飛び散り、椅子が後ろに倒れた。僕と因子姉さんの体はびくりと震え、さしもの量子姉さんもフォークを動かす手を止めた。
「陽子! あの人は関係ないでしょう!」
光子姉さんは大変な剣幕だった。その顔はどこか、苦しそうでも、悔しそうでもあった。
「しっかり……しなさいよ! めそめそするのはいいけど、あの人のせいになんかしないで!」
厳しい叱責を浴びせられた陽子姉さんは背中を丸めて、鼻水を啜り上げた。そして弱々しい声で、ごめんなさい、と言った。
光子姉さんが黙って飛び散ったコーヒーの雫を布巾で拭くと、嫌な沈黙が、テーブルに満ちた。因子姉さんは、誰にも言われていない「おあずけ」を食らっていた。
「プロ
すると、陽子姉さんは、どうにか笑顔を作った。
「いいの。私も、さっきは当たり散らして、ごめんね。よりちゃんも、こうくんも」
僕は黙って首を振った。因子姉さんは、「ようこおねえちゃんもたべなよ、おいしいよ」と、言ってから、ようやくの一口目をもぐもぐ口の中で転がして、笑った。
陽子姉さんは、箱の中からショートケーキを選び、まだぎこちない笑顔で食べはじめていた。僕もそれを見て安心し、チーズケーキを選んでほお張った。
量子姉さんが一番風呂に入り(そうさせなければ、ものぐさな量子姉さんは風呂に入らないからだ)、次に光子姉さんと因子姉さんが、最後に陽子姉さんと僕が一緒に風呂に入った。小さな風呂釜に、僕と一緒に十数えるまで浸かった陽子姉さんの顔は、もうすっきりとしていた。
僕たちは居間の隣の和室で、三枚の布団で寝た。僕と因子姉さんが誰の隣で眠るかはそのときに応じて変化していた。因子姉さんは光子姉さんに叱られると陽子姉さんの布団にもぐりこむし、冬場には量子姉さんが僕か因子姉さんを湯たんぽ代わりの抱き枕にしていた。
その日の夜、僕は陽子姉さんの布団に入った。
暗闇の中、眠る前に、僕は陽子姉さんに話しかけた。
「ようこおねえちゃん」
「なあに?」
「どうしてうちには、『おとうさん』と『おかあさん』がいないの?」
その質問に、陽子姉さんは、僕の頭を撫でた。
暗闇に慣れた僕の目は、陽子姉さんの優しい微笑みを、確かに見た。
「………それはね、私が、こうくんたちを、守るためよ」
やはり陽子姉さんも、僕の質問に正しく答えてはくれなかった。
しかしそれは、世界一温かい回答だった。
「大丈夫よ。私、しっかりするから」
僕は安心して眠りに落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます