第8話 ~1995年、あるいは2009年~ 3
陽子姉さんは、双子の姉である光子姉さんと比べると、痩せていた。かなり食べるほうの光子姉さんの体が比較的に丸かったのはともかく、同じくらい食べていたはずの陽子姉さんは、体質なのか、あまり体型に影響しなかった。陽子姉さんの体はモデルのようにスリムだった。加えて、陽子姉さんは化粧っ気が少なかった。服装はといえば、洗濯機にそのまま放り込めるという理由でジーンズやTシャツやトレーナーを好んでいた。陽子姉さんの出で立ちは、体型と合わせて、かなり大学で目立っていたらしい。
そこに、今年の梅雨ごろ、
男は陽子姉さんを好きだと言った。それを聞いて陽子姉さんは舞い上がり、実は私も、などと口にしてしまったらしい。かくしてふたりは恋人同士になった。
ふたりで出歩いていたところを、量子姉さんが偶然、大学の近くまで友達と遊びに行ったときに目撃したらしいが、そのときから量子姉さんは、その男の見た目から「ろくでなし」と「すけこまし」を感じ取ったという。
さて、問題のこの日、予定されていた午後の講義が軒並み休講となり、その男は家にいるはずだったので、ちょっとだけ遊びに行こうと陽子姉さんは、男の住んでいるアパートに向かった。いつも勉強とアルバイトに忙しかった陽子姉さんの、束の間の安らぎになるはずだった。
だが、男のアパートに向かい、鍵のかけられていなかった扉を開けると、玄関の靴脱ぎには、女物の知らない靴が置かれていた。
「修羅場なんて言葉はまだそんなに浸透してなかったけど、……あれは修羅場だったわ」
2009年、大人になった陽子姉さんは、当時のことをそう振り返る。
そのろくでなしの男と知らない女がどういう状態だったかは、陽子姉さんは言わなかった。ただ、ともかくその場で、言い争いの口喧嘩になったらしい。
「言い争いになるの? その男が全面的に悪いでしょう?」
「………私もそう思ったわ。でもね、あの人ったら逆ギレしたのよ。信じられる?」
そのろくでなしの男曰く、急に部屋に来たお前が悪い、いつもいつもアルバイトだの何だのと遊んでくれないお前が悪い、などと口汚くのたまったらしい。それに対して陽子姉さんは、私が急に来ることとあなたのしたことは関係がない、私のことが好きじゃなくなったらそう言えばいい、と実に論理的に抗弁していた。しかしそれでも、ろくでなしの男は言い訳がましく陽子姉さんを責めたという。
陽子姉さんは話にならないと思って、別れを告げてその場を去ろうとしたが、ろくでなしの男が陽子姉さんを呼び止めて、帰る前に貸した金を返せ、と言った。
身に覚えのない督促に陽子姉さんは
ろくでなしの男は、ふたりで当選を淡く夢見た宝くじの十枚分、合計三千円のうちの千五百円を返せと請求した。感動的なほどに情けない話だなと、僕は話を聞いて呆れてしまったが、同様に怒りと情けなさのあった当時の陽子姉さんは、財布の中から貴重な千円札を三枚、男に投げつけて帰ったそうである。興奮して倍額も渡したことには翌日になって気付いたらしい。
それから、その足で陽子姉さんは泣きながら美容院に行き、今まで伸ばし続けた長い髪をばっさりと切り落としたそうである。切られている間も泣き続けていたそうなので、美容師さんは困っていたと陽子姉さんは語った。
髪を切り終えると少し落ち着いた陽子姉さんは、急に甘味を食べたくなったらしく、喫茶店の高いケーキを買い込んだ。
帰宅する途中、僕と因子姉さんを迎えに行くことを思い出し、幼い僕たちに自分の醜態を見せてはならないと、笑顔を必死に保って、量子姉さんの待つアパートに帰った。
しかし我慢は続かず、因子姉さんの「どうして髪を切ったの?」という質問で、悲しみが涙と共にぶり返してきた。
「切なすぎる初恋だったわ」
2009年、三十路という名の道にしっかりと足をつけて立つ陽子姉さんは、十年以上前の当時を、そう振り返った。
「初恋だったんだ」当時の陽子姉さんの年齢を追い越した、二十歳の僕は言った。
「そーよ。……思い出しただけでもテンション下がるわー。ちょっと、こうくんの失恋話も聞かせてよ。一緒にテンション下がろうよ」
陽子姉さんは、そんな無茶苦茶な注文を僕に出した。
「僕は、失恋してないよ」
「…………彼女にふられたからって、引き摺るのはダメよ?」
陽子姉さんの諭すような口ぶりに、僕は再度首を振った。
「僕は失恋してないよ。………そもそも初めから、恋をしてなかったんだから」
陽子姉さんは驚いたかのように目を見開いた。
「だって……こうくん、五年くらい付き合ってたでしょ? それなのに、好きに、なれなかったの?」
僕は頷いた。
「今でも普通に彼女が好きだし、僕を好きだと言ってくれたから大切な人だけど、……恋じゃなかった。あのままでは大切な友達くらいにしか思えなかった」
事実は事実としてそこにあるだけで、交際した彼女がいても恋をしたことがないことについては、そのときの僕は特に感慨がなかった。
しかし陽子姉さんは、何事かを物思う目で、僕を見つめていた。
「こうくん、……こうくんも、いつか、いい恋ができるといいね」
2009年の十二月、とある金曜日。とある居酒屋の、個室の中。
もう何度目かに髪を短くした陽子姉さんは、僕にそう言った。酒はかなり進んでいた。
僕の姉、歯車
陽子姉さんは、1995年の初恋以来、ありとあらゆるろくでなしの男に騙され続けていた。そして金を奪われていた。その度に陽子姉さんは髪を短くしていた。僕は、陽子姉さんの髪が短くなる度に、遣る瀬無い気分になっていた。
この年、陽子姉さんはデート詐欺と振り込め詐欺を掛け合わせたような新手の犯罪の被害に遭い、十五万円を騙し取られていた。お見合いパーティーで知り合った男は、詐欺の獲物に陽子姉さんを選んだ。犯人はまだ捕まっていない。しかし奪われた金額以上に、陽子姉さんの精神的なショックのほうが大きかった。
「私って、ダメねえ。……いっつも、いっつも、いっつも、いっつも、いっつも、いっつも……男に無駄な期待をして。気付いたときには騙されて。……ほんとに、ダメねえ」
「どうして、期待しちゃうの?」
「………訊かないでよ。………でも、なんかね、『ああ、この人となら、幸せになれるかも』って、思っちゃうんだよ」
「付き合ってる人がいないと、幸せになれないの?」
「訊かないでよ、そんなこと。………そんなこと、わからないよ」
陽子姉さんは、居酒屋のテーブルに突っ伏した。教師としては、とても教え子には見せられない姿だった。陽子姉さんに過失がある部分もあったが、それを責める気にはなれなかった。言っても悲しませるだけであるし、言わなくとも本人が痛感していることだった。
「こうくん、私の顔を見て」陽子姉さんは伏せていた顔をだるそうに上げた。「私の顔に、男難の相ってある?」
僕はため息をついて、
「僕は占い師じゃないよ。占い師だったとしても、………陽子姉さん、泣きすぎで、化粧がぐずぐずになってて、わからないよ」
「………私の顔、そんなにひどい?」
「鏡を見てきたら、どうかな」
僕がそう言うと、ふらつく足で陽子姉さんは立ち上がろうとした。僕が手を貸してトイレの前まで付き添った。女子トイレの前で待っていると、うわー、という、小さな悲鳴が扉越しに聞こえてきた。僕はやれやれと思った。水道の音が何度か聞こえてから、陽子姉さんはトイレから出てきた。見ると陽子姉さんの顔から化粧はほとんどすべて落ちていた。三十三歳という年齢の女性の素顔があった。
「よく水道水で化粧が落とせたね」
「……ちょっと擦った。……肌が痛い。……目が痛い。……眠りたい」
顔を洗ったはずの陽子姉さんの言葉に今夜の限界を感じた僕は、店員さんにタクシーを呼んでもらって、陽子姉さんの財布から会計を済ませて、居酒屋を出た。タクシーが来るまではどうにか意識を保っていたが、陽子姉さんはマンションに向かっている途中の車内で寝こけてしまった。
陽子姉さんは眠りに落ちる前に、呟いた。
「………幸せになりたい」
三十三歳の独身女性の、切実すぎるヘヴィな呟きだった。
陽子姉さんが微かな寝息を立てはじめると、タクシーの運転手のおじさんが話しかけてきた。
「きみ、そのお姉さんの彼氏?」
「いえ、弟です」
「そう。…………大変だねえ」
「ほんとに」
「きみが彼氏だったら、お節介だけど、幸せにしてやんなよって言うんだけどねえ」
「ほんとに。………僕が姉さんの彼氏だったらよかったのにって、ずっと思います」
運転手のおじさんは、カーブを曲がりながら、うちにも同じくらいの娘がいてねえ、と言った。言っただけで、その話の続きはなかった。
タクシーがマンションに着くと、おじさんは端数を負けてくれた。
「まあ、あったかーく支えてあげなよ」
「はい。どうもありがとうございます」
陽子姉さんを背負って、僕はタクシーを見送った。そのとき、ぐぇろ、というくぐもった陽子姉さんの声が聞こえたかと思うと、僕の首筋に、寒気を催す生温かいものが流れ込んできた。
背中を振り返ると、僕の肩の辺りから、嘔吐物が白い湯気を立てていた。すえた匂いもした。このことだけは死ぬまで絶対に秘密にしておこうと決めた。
自宅に帰り着くと、残業を終えた光子姉さんと、ダックスフントのエレメントが迎えてくれた。「また、派手に飲んだわね」光子姉さんは困った顔で、僕の背中で眠る陽子姉さんを見た。
僕と光子姉さんは布団を敷いて、陽子姉さんを寝かせた。嘔吐物で汚れた陽子姉さんの口元を拭ってから、着替えを光子姉さんに任せてシャワーを浴びることにした。僕の着ていたパーカーは、フードの中にも裏地にも嘔吐物がこびりついていた。上の肌着は背中全面が黄色くなっていた。僕はすぐに洗濯機を回した。
シャワーを浴び、明日は休日出勤の光子姉さんを部屋に戻し、髪を乾かしながら、その夜は陽子姉さんが目を覚ますまでそばにいた。姉さんの寝顔を見ながら、確か1995年の七月のあの夜も、陽子姉さんは深酒をしていたっけと、思い出していた。
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