第4話 ~2000年~ 3
一時間後、僕は校長室の黒いソファの上に座っていた。ぼんやりと、校長室に飾られた歴代の禿げ頭の写真を眺めていた。もっとも、僕は写真は見ていても、顔を見てはいなかった。頭では、先ほどまでの出来事を思っていた。何も覚えていないわけではない。ただ、一時間前に起こした行動は、僕の人生の中で一番アクティブで、アグレッシブで、オートマチックだった。これまでの僕にとっては考えられないことだったので、半ば夢のように回想していた。
得がたい経験。顧みるに、実に楽しい回想だった。
校長室の中、ひとりでくつろいでいると、職員室と繋がる扉が開いた。そこから、校長先生と僕の担任の先生に導かれて、いつものぱりっとしたスーツではない、僕たち歯車家、五人姉弟の長女、
僕の知る限り、光子姉さんが髪を伸ばしたことはない。いつだってショートヘアだった。それはその髪形が好き、というよりかは、長いと邪魔だからという理由らしかった。ばりばりの会社員で、腹が減っては戦ができないの理屈でよく食べるため、四人の姉さんの中にあっては体が丸いほうだった。それでもビジネススーツという戦闘服を身につけると、ハイヒールもあいまって、しゅっとしていた。当時はまだ二十四歳だったから、若々しくてかっこいいというのもあった。
その日は仕事のはずだったが、と僕は思ったが、きっと
僕自身も青あざだらけになった顔をその男の子に向けると、男の子は知らないおばさん(その男の子のお母さんだった)の背中に隠れてしまった。担任の先生が、事の次第を光子姉さんに聞かせた。光子姉さんは真剣な表情でそれを聞いていた。
僕は結局、その男の子と喧嘩になった。
僕がその男の子の顔面めがけて振りかぶった椅子は、幸か不幸か外れて、背後にあった廊下と教室を隔てる窓ガラスを粉々に砕いた。男の子は、驚愕と呆然を混ぜ合わせた表情をしていた。僕にはそれが不思議だった。本当に殴られるのを覚悟の上での暴言ではなかったのかなと思いつつ、僕は男の子に組み付いた。
それから僕は、生まれて初めて殴り合いの喧嘩をした。胸倉を掴んで、弓を引くように拳を振り上げて、その男の子の頬を殴った。二回殴ったところでその男の子に殴り返された。だけど僕は彼の胸倉を掴む手を離さず、また殴り返した。
殴るのも痛かったし、殴られるのも痛かった。
そして、拳や顔が痛いのとは別の原因で、涙が流れていた。その涙は感情が半分で、もう半分は、僕にこんな感情があるのだと知った、感動の涙だった。そのとき胸の中からあふれ出ていた激情の名前は今も名付けられない。悲しみとも怒りとも憎しみとも違うような、或いはそれらすべてを幾重にも掛け合わせたような、複雑な合成数のようだった。それを素因数分解するには、これからも長い時間がかかるだろう。
僕はそれほど体格が良かったわけではなく、初めは殴らせてもらえたけど、だんだん殴られる頻度が多くなった。その男の子は泣きながら僕を殴っていた。僕はというと、殴られながら、泣きながら、喧嘩は難しいなあと考えていた。
騒ぎを聞きつけたのか、それとも同級生の誰かが呼んだのか、担任の先生が教室に飛んできて、間に入って喧嘩をやめさせた。
先生は僕たちに喧嘩の原因を訊いた。僕の隣に立っていた男の子が何も言わなかったので、僕が正直にすべてを答えた。事実を述べ、自分の都合のいいように真実を曲げたりしない、実に見事な説明だったと僕は思うのだけれど、僕が冷静すぎたのがいけなかったらしく、先生は僕の言葉を疑っていた。しかし周りにいた女の子が僕の話が正しいと主張してくれて、僕と喧嘩をした男の子もそれに同意してくれたので、事情はすべて先生に正しく伝わった。
保健室で怪我の治療をしたあと、僕は保護者が来るまでの間に、担任の先生と校長先生に滔々と説教をされていた。本来なら、僕と喧嘩をした男の子が謝って終わりになるはずだったが、僕が普段は喧嘩もしないような人間だったことが、ちょっと問題をややこしくさせた。その当時、「突然キレるおとなしい子」という表現は一種の流行で、どうやらそれがそのときの僕とぴったり符合したらしかった。
「××くんもひどいことを言ったが、格子くんもちょっとやりすぎだ。わかるね?」
校長先生が、僕と光子姉さん、喧嘩をした男の子とそのお母さんの間に立って、とりなすような口調で言い聞かせた。僕は正直なところ、やりすぎだとは思っていなかった。しかし、校長先生の有無を言わさない優しい表情に気圧されて、黙っていた。散々殴ったおかげで、気分は晴れていた。だからもうこれ以上喧嘩はしたくなかった。
校長先生の話を聞いていた光子姉さんが、背後から僕の頭を下げさせた。
「……うちの弟が、すみませんでした」
見ると、光子姉さんも頭を下げていた。どうして僕が謝らなければならないのだろうと考えていた。それ以上ひどいことを言うのはやめてくれとはっきりと頼んだのにやめなかった相手の男の子が悪いのではないのかと考えていた。
相手のお母さんも、何事かを言って謝った。僕と同じように、僕と喧嘩をした男の子も頭を下げさせられていた。
特に不満はなかった。僕が悪いとは思っていなかったけれど、喧嘩の結末はこんなものかと考えていた。ただそれだけだった。
僕は教室にランドセルを取りに戻った。そのときもまだ教室に残っていた同級生が、別の生き物を見るような目で僕を見つめていた。普段は植物のようにただ教室にいるだけの男子が、突如として暴れまわったのだからだろう。彼らの反応も納得がいった。
僕が靴を持って来客用の玄関に行くと、光子姉さんが待っていた。いつもはハイヒールをはいているのだが、車の運転のために女物の革靴だった。
僕はそのまま、光子姉さんが運転する車で帰ることになった。僕が助手席に乗り込むと、運転席で光子姉さんは、ため息をついて頭を掻いた。
「………
光子姉さんが憂鬱そうに言うのを聞きながら、僕はシートベルトで体を固定した。
「僕もそう思う。僕が喧嘩をするなんて思わなかった」
「……ふざけてる?」
光子姉さんが怖い目で僕を見た。どうしてそんな目で見るのか、僕にはわからなかった。
「ふざけてないよ」
「そう。……話はあとでちゃんとするからね」
それだけ言って、光子姉さんはエンジンをかけて、車を走らせた。
僕の現在の住所でもあるマンションに帰ってくると、パジャマ姿の因子姉さんが迎えてくれた。今朝までは顔を赤くしていたが、もう元気そうだった。
僕の顔の青あざを見ると、因子姉さんはにっこりと笑った。
「いいね、格子。かっこいいよ」
後にも先にも、僕が因子姉さんに褒められたのはこのときだけだった。だから驚いた僕がありがとうと言うのに手間取っていると、「褒めちゃだめよ、因子。喧嘩なんて怖いだけよ」と、光子姉さんが間に入ってきてしまい、結局僕は何も言えなかった。
それから夜までの間に、僕は家族にいろいろ言われた。
光子姉さんから話を聞いた次女の陽子姉さんからは、「こうくんが喧嘩するなんて信じられない」と電話で言われた。僕と因子姉さんと同じく、光子姉さんと双子である陽子姉さんは、高校の先生になって二年目だった。職業柄、子供同士の喧嘩というものは見たことはあるはずだけど、僕がその当事者になるとは思っていなかったようだった。
どこから聞きつけたのか、三女の
図書館から帰ってきたおじいちゃんは、格子が学校で喧嘩をしたの、と光子姉さんから聞くと、「勝ってきたか?」と僕に尋ねてきた。
「さあ? 負けてないと思うけど」
「……そうか。まあいい」
「よくないわよ」光子姉さんが呆れたように言った。「相手の子もぼろぼろだったのよ?」
「格子もぼろぼろだ。それでいい。勝っても負けても、男の子は喧嘩をしなくちゃならん」
「……わけわかんない」
光子姉さんはそう言って、今日で何度目かのため息をついたあとに、夕飯の準備に取り掛かった。僕としてもおじいちゃんの理屈は意味不明だった。殴るのも殴られるのも痛かったから、できることならこれっきりにしたかった。
それから、おじいちゃんと、光子姉さん、因子姉さん、そして僕の四人は、同じテーブルで夕食を摂った。その年には陽子姉さんは別の場所にアパートを借りていたし、量子姉さんはこのところ、所在すらわかっていなかった。
夕食を終えてから、風呂に入ろうとして洗面所の鏡に向き合うと、僕がどれだけぼろぼろなのかがわかった。僕はずっと左手で相手の胸倉を掴んでいたから、男の子の左顔面だけを集中的にしか殴れなかったけれど、僕は顔全体がバランスよく殴られていた。器用に殴るなあと感心した。
九時過ぎになって、僕の部屋に光子姉さんが入ってきた。
「
パジャマ姿の光子姉さんはそう言って、部屋の中央に正座した。僕は言われるままに光子姉さんの前に正座した。
光子姉さんは、鼻で息をひとつついて、厳しい目で僕を見た。
「格子、今日あった喧嘩の原因は、本当なのよね?」
僕は頷いた。
「格子に嘘はないわね?」
もう一度頷いた。
「……先に手を出したのは、格子なのよね?」
僕が三度目に頷くと、光子姉さんはしばらく黙った。
三分間くらい黙っていて、僕の脚が痺れかけたときになってようやく、光子姉さんは言った。
「……どうして、喧嘩をしたの?」
今までに見たことがない、光子姉さんの悲しそうな表情だった。
僕は、考えた。それはもちろん嘘をつくための時間ではなく、正直な表現をするために必要な時間だった。
「………僕が、拾われた子供じゃないかって言われたとき、不安になった。因子姉さんと誕生日が違うことが、ずっと不思議だったから、怖くなった。………それから、僕も、姉さんたちも、親に捨てられたって言われて、怒った。………殴ってもいいような気になっていた。殴りたくなった。ひどいことを、言われたから」
僕が正直に思いを語ると、眉間に皺を寄せて聞いていた光子姉さんは、ため息と共に重い口を開いた。
「訊かれなかったから、格子はわかってるものだと思っていたけど。………まず、格子と因子が双子で、私たちと姉弟なのは、本当のことよ」
僕は、少しだけ前のめりになって確認した。「ほんとう?」
光子姉さんは頷いた。僕は続けて尋ねた。
「じゃあ、どうして僕は、因子姉さんと誕生日が違うの?」
「………それはね、格子が因子よりも、ほんの少しだけ遅れて生まれてきて、日付を跨いじゃったからなの。だから因子の誕生日は五月二十二日で、格子の誕生日は五月二十三日なの。……わかる?」
そういうことかと、光子姉さんの説明で、僕はやっと理解した。それと同時に、どうして僕はこんな単純なことに気付けなかったのだろうと思っていた。
「僕と姉さんたちは、本当に姉弟なんだよね?」
「そう。それだけは絶対よ」
それだけ、という言葉が、魚の小骨のように胸の奥で引っかかった。
「……僕たちが、お父さんとお母さんに捨てられたっていうのは、本当?」
その問いに光子姉さんは、言うべきか言わざるべきかという葛藤が透けて見える表情をしていた。視線は揺らぎ、口の中で言葉を選んでいた。
「………それはね、とっても複雑なことなの」
光子姉さんは結局、今は言わない、を選んだ。
「だから、格子がもっと大きくなったら教えてあげる」
納得はいかなかったけれど、そのときは、そもそも最初からいなかった人についてよりも、今、目の前にいる光子姉さんとのつながりを確認できたことが重要だった。
光子姉さんの話は続いていた。
「だけどね、これだけは覚えておいてちょうだい」
光子姉さんは、ぐっと膝を近づけて、僕の目を見た。
「格子が大きくなるまでは、おじいちゃんと、私と陽子が、あなたの保護者で、親代わりなの」
「……うん」
「だから、ね」
光子姉さんは、また悲しそうに表情を変えた。
「……ねえ格子。私のこと、好き?」
どうして光子姉さんがそんな表情をするのかわからなかったが、僕はすぐに頷いた。
「好きだよ。おじいちゃんも、陽子姉さんも、量子姉さんも、因子姉さんも、好きだよ」
「うん。………私も、格子のこと、大好きだからね」
実はそのときの僕は、頭の隅で関係ないことを考えていた。そう言えば僕は十一歳で、光子姉さんは二十四歳で、お互いに「サザエさん」に出てくるカツオとサザエと同じ年齢なんだっけと考えていた。
もしも「サザエさん」に出てくる三人の姉弟が、保護責任者遺棄という犯罪の被害者だったら、あの物語はどうなっていただろう、というのは、今でも考えることだ。
「……だからね、格子には、私が悲しむことを、やってほしくない。私も、格子が悲しむことは、絶対にやらないから。お願いだから、そうして。……ね?」
光子姉さんの目は、優しかった。声は少しだけ震えていた。
僕は、僕が喧嘩をして、姉さんたちがどう感じるかなんて、考えもしなかった。
「………僕が、喧嘩して、光子姉さんは、悲しかった?」
光子姉さんは目を閉じて天井を仰いだ。
「………学校から電話があったとき、怖かったわ。怖くて不安だった。……格子が大怪我をしたんじゃないか、相手の子に大怪我をさせたんじゃないか、どっちも治らない怪我だったらどうしよう、とかね。……もし本当にそうなったら、私はきっと、悲しくなったわ」
「……ごめんなさい」
僕は俯いて、自然と謝っていた。本心から反省した。自分の行いが自分の大切な人を悲しませるかもしれないということを失念していた。
光子姉さんは表情を引き締めてから僕に言い聞かせた。
実に真っ当で真っ直ぐな説教だった。
「誰かにひどいことを言われて、殴りたいほどに憎くなる気持ちもわかるわ。だけどね、誰かを叩いて傷つけてはだめよ。心の傷は治るかもしれないけど、怪我は、取り返しのつかないことになるかもしれないんだからね?」
「……はい」
「だから、もし今度、誰かにひどいことを言われたり、されたりしたら、私や、おじいちゃんの顔を思い出しなさい。私とおじいちゃんが見てると思って、どうしたらいいのか、何をしたらいけないのかを、考えなさい」
「……はい」
こんなに心に来る説教は初めてだった。僕の抱えていたわだかまりや、家庭の事情があまりにも切実だったから、僕の心の琴線に触れたのだと思う。陽子姉さんももちろん優しい人ではある。だけど、優しさの形までをも選ぶ光子姉さんも、とても、優しい人だというのは、幼いながら幸運にも、このころからわかっていた。
光子姉さんは、あざのできた僕の頬を撫でた。
「……本当に、怖かったんだからね? 治る怪我でよかったわ……」
あざの痛みに覆いかぶさるような光子姉さんの柔らかな手の感触に、僕は目を閉じた。
「……うん。ごめんなさい」
「わかってくれたら、いいの。安心したわ」
僕は目を開けた。するとようやく、目の前にいた光子姉さんは微笑んでいた。その笑顔を見て、僕もほっとした。
姉さんは立ち上がり、僕もやっと正座を崩せた。
「明日は学校、ちゃんと行ける?」
「うん」
「そう。じゃあ今日は、もう寝なさい」
「まだ眠くないよ」
「そう? じゃあ、ゲームでもする?」
うちの場合、「ゲームで遊ぶ」というのは、「スマブラで遊ぶ」と同義である。うちには、後にも先にも、ゲーム機とゲームソフトはNINTENDO64の「大乱闘スマッシュブラザーズ」しか存在しない。
「珍しいね。光子姉さんがゲームなんて」
僕がそう言って立ち上がると、光子姉さんは、ふふんと、得意そうに笑った。
「今日の昼間に因子と散々やったから。私ね、ネスが上手に使えるようになったのよ?」
光子姉さんが自信ありげだったので、それを見たくなった僕は、リビングでひとりでゲームをしていた因子姉さんに混ざることになった。
ストック戦で始めると、案の定、僕の使うカービィは早々にストックを削り取られて退場することになった。光子姉さんは確かに上達していた。光子姉さんのネスと因子姉さんのドンキーコングが手と手を取り合って僕のカービィをボコボコにした。
「あーもう、せっかくPKサンダー決まるところだったのに」
「ほほほ。スターロッドは相手に投げつける物よ、お姉様」
「バットで場外まで叩き出してあげる」
「私の愛しのドンキーは負けないよ」
僕はコントローラーを手放して、一対一の勝負を傍観していた。いい勝負だったが、わずかに因子姉さんのドンキーコングが優勢だった。
僕は、そのときふと思いついた疑問を、光子姉さんにぶつけてみた。
「光子姉さん」
「んー?」
光子姉さんは食らいつくように画面を睨んでコントローラーを操っていた。その姿はとても社会人には見えなかった。
「光子姉さんって、ノストラダムスの予言って、信じてた?」
「去年のやつ?」
「うん」
「ぜーんぜん。陽子は信じてたみたいだけどね」
ドンキーコングがハンマーを手にしたため、ネスがハイラル城の上空へ避難した。そのときに、ちらりと光子姉さんは僕を見た。
「信じたって、意味がなかったしね」
「意味がないって、どうして?」
ハンマーの効果が切れて、再びネスとドンキーコングが間合いを取るために牽制しあっていた。光子姉さんも因子姉さんも、コントローラーをがちゃがちゃと乱暴に操作していた。
「……それは、だって……」
どちらも、ストックが残りひとつになっていた。
するとそのとき、ネスのPKファイアが決まり、ドンキーコングの足が止まった。すかさずネスは攻撃を加え、ハイラル城の空中へ、ドンキーコングを押し出した。
ドンキーコングは足場に復帰しようとしたが、そのときには、ネスが跳んでいた。
そうしてネスはドンキーコングに、空中下攻撃―――いわゆる「メテオ」という技を繰り出し、ドンキーコングを下の場外へ叩き落とした。
決着がつき、画面の中で、ネスが拍手で称えられていた。
「………だって、人類が滅亡したって、私は、あんたたちの保護者だもん。私が、みんなの、『お父さん』代わりだから」
光子姉さんはそう言って、にこりと笑った。
悔しそうにコントローラーを放り出した因子姉さんが言った。
「
「そうよ、私が厳しさ担当ね。それで、陽子がお母さん。あっちが優しさ担当。……まあ、あの子はちょっと今、迷走気味だけどね」
光子姉さんはそう言って苦笑した。陽子姉さんはその当時、フリーターの彼氏を半分養いながら生活していた。陽子姉さんの持つ強い母性につけ込まれたその関係は、これから二年ほど続くことになる(二十代の二年間がいかに貴重な時間だったかを、関係が終わったころに、僕は滔々と陽子姉さんに説明された)。
「さ、終わり終わり」光子姉さんはそう言って立ち上がった。
「えー、勝ち逃げ?」因子姉さんは不満そうに口を尖らせた。
「明日も仕事があるの」
「……仕方ない。格子、やるわよ」
「あんたたちも、もう寝るの」
光子姉さんはそう言ってゲーム機の電源を落とした。うちでは光子姉さんの命令は絶対なので、因子姉さんも渋々立ち上がった。僕はといえば、仮に因子姉さんとやったとして、どれだけハンデをつけられてもボコボコにされるだけなので、特にこれ以上遊びたくもなかった。
僕と因子姉さんが別々の部屋に戻ろうとすると、光子姉さんが呼び止めた。僕と因子姉さんを目の前に集めた。
「いい? あんたたちが高校を卒業するまで、……あと、量子がちゃんとするまで、私はばりばり働くからね? だからあんたたちも、ちゃんと勉強するのよ?」
もうこれまでに何度も、光子姉さんから同じ文句を聞かされていた。
光子姉さんの言葉に応えたのは因子姉さんだった。
「わかってるって。光子姉こそ、結婚していいんだからね? おじいちゃんが持ってきたお見合い、また断ったんでしょ?」
「なに生意気なこと言ってんの。まだ子供のくせに」
光子姉さんは、因子姉さんの頭を軽く小突いた。
「私はね、……決めたんだから」
光子姉さんは腰に手を当てて胸を張った。
「あんたたちが大きくなるまで、絶対に恋はしない、って」
―――恐らく、光子姉さんが、僕たち歯車姉弟のそれぞれが持つ「特異体質」を、最も早くに行使したと思う。そうしようとは思わないままに。
僕たち五人の姉弟は、それぞれに特殊だった。
それは性格とか趣味嗜好といったありふれたものではなく、しかし超能力といった類のものでもなく、そういう運命―――そういう星の下に僕たちは生まれついていた。陽子姉さんも当時からそれを自覚していたし、量子姉さんはそれを思う存分活用していた。因子姉さんは去年からその片鱗を見せていたし、僕は小さなころから「そうである」と指摘されていた。
光子姉さんの持つ運命という名の体質は、「恋をしない限り健康体でいられる」だった。
光子姉さんは、恋をしていなければ、自分の持つ肉体的なポテンシャルを、バイオリズムを無視して限界まで引き出せた。三日くらいなら寝なくとも平気で会社に行っていたし、少なくともこれまでの数年は病気には無縁で体調も崩さなかった。そして怪我の治りが異常なほどに速かった。
光子姉さんの人としての魅力はどんどん輝きを増していた。健康であるということが人間の一番の財産であるということを体現していた。
僕の姉、歯車光子の「食性」を名付けるなら―――「
光子姉さんは、僕と因子姉さんの頭を、わしわしと撫でた。
「安心しなさい。私は今、十分幸せなの。体は元気で、ご飯はおいしくて、ぐっすり眠れて、仕事もあって、家に帰れば家族がいる。これ以上の幸せはないわ。……心配なのは、あんたたちの将来のことだけよ」
そう語る光子姉さんは、朗らかに笑っていた。どうしてこんなに眩しく笑えるのだろうと思うほどの笑顔だった。
眠る前に、光子姉さんに撫でられた頬を触った。しかし、ただあざが痛むだけで、あのときのような温かくて柔らかな感触は再現できなかった。
人類が滅亡したって、私は、あんたたちの保護者だもん。
きっとそうなのだろう。たとえ僕たち以外の人類が消滅したとしても、僕たちの「歯車」は、しっかりと噛み合って動くのだろう。
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