第3話 ~2000年~ 2
物心がまだついていなかったとは言わない。僕はその当時の出来事をちゃんと覚えている。しかしそれはただ覚えているだけであって僕自身と深い関わりのあるものではなかった。同じ年頃の友達が遊んでいたポケットモンスターも、遊戯王カードも、それがあることを知っていても興味も物欲も覚えなかった。じゃあ何か別のことに夢中になっていたかといえばそうでもなく、僕は漠然と日々を貪っていた。興味のあるものがないというのは、つまり、すべてのものに一様な興味があるとも言い換えられて、だから当時の僕はぼんやりと生きていたけれど、退屈だと感じていたわけでもなかった。
僕の当時の日常は、朝起きると簡単な食事の準備をして、
僕は通学路で出くわす人には、必ず全員に挨拶をする習慣があった。そのせいで近所の人には名前を覚えられたりもしたし、これより少し前に、世間的には変質者と呼ばれる人に僕の名前を呼ばれて付いていき誘拐されかけたこともあった。そうでなくとも因子姉さんは僕のその習慣を、恥ずかしいからという理由でやめさせたがっていた。しかし僕はやめようとは思わなかった。むしろ話が相互的に通じるのに声をかけない理由がどこにあるのだろうと、嫌な顔をする因子姉さんを不思議に思ってすらいた。
スズメやカタツムリにまで話しかけてから僕は学校にたどり着いた。学校に着いても僕は、すれ違う人は上級生でも下級生でも先生でも挨拶をした。僕にとっては染み付いた習慣ではあるのだけれど、何故かそのせいで僕は学校の中で評判になっていた。その評判について、因子姉さん以外は褒めてくれた。僕には褒められる理由がわからなかった。僕だって考えごとをしていたら家族に話しかけられても気づかないし、誰にも話しかけたりはしない。会話をするだけで褒められるのであれば、人類はそれぞれにお互いを称え合わないといけないというのに。
その日は九月の―――何日かは忘れた。ただ、木曜日だったのは覚えている。木曜日だけは五時限目までしかなかったから。その日は珍しく
その日、僕は運がなかった。
いつものようにぼんやり授業を聞いて、ぼんやり休み時間を過ごして、ぼんやり給食を食べていたはずだったのに、何故か頻繁に同級生と体がぶつかって転んでいた。
階段から背中を押されたときは本当にびっくりした。
一番の災難は、昼休みのあとの掃除の時間中にバケツの水を背中からかけられたことだった。箒で床を掃いていたら、突然背中から雑巾の絞られた汚水を浴びせかけられた。
「ごめーん。わざとじゃないんだ。ゆるして」
僕にバケツの汚水を浴びせた男の子は、にやにやと笑いながら謝った。それを見ていたほかの男の子たちもにやにやと笑っていた。
僕は、服を着たまま水を浴びるとこんな感じなんだと思っていた。濡れたシャツがぴったりと吸い付くように肌と密着する感覚は新鮮だった。
「いいよ。気にしないよ」
僕はずぶぬれのシャツをつまんで、そう答えた。それは正直な気持ちだった。故意であろうと過失であろうと、どっちでもいいと思っていた。
その日は運がなかった。因子姉さんが普段どおりに学校に来ていれば、短気で喧嘩っ早い姉さんのことだから、すぐにその男の子の胸倉を掴んでいただろう。そしてそもそも因子姉さんがいるから、僕にそういった嫌がらせ(因子姉さんはそう言う。ただ、僕にしてみれば嫌がらせとは感じない)が起こる心配がなかった。
そのことについては、因子姉さんに言わせれば「男のくせに」と僕を詰ってくるのだろうけど、僕のほうに、そういった嫌がらせ(?)に関して、仕返しをしてやろうとかいう感情が起こらないのだから、仕方のないことだった。こんなことは時々あった。普段は感情をほとんど表さない僕を面白がって、「何をしたら歯車格子は怒るのか、泣くのか」という実験が、男子の間で流行っていた。因子姉さんがいない今日という日は、実験には持って来いの環境だった。
「ちょっと男子! やめなさいよ!」
水に濡れた僕と教室を見かねてひとりの女の子が声を荒げた。名前は忘れたけれど、因子姉さんの友達だったことは覚えている。当事者である僕自身はどうしてそんなに怒ってくれているのだろうと思っていた。確かに服が濡れてしまったのは困りものではあるが、それ以外の感慨は特に持っていなかった。
「わー怖い怖い」と、僕に水をかけた男の子がおどけて教室の隅に逃げていく。
「そうだよねー。
「格子くん、大丈夫?」
先ほど男の子に注意をしてくれたのとは別の女の子が気遣うように僕の顔を覗き込んだ。そのとき僕は至って普通の顔をしていたと思う。いつもどおりのぼんやりとした表情を。装ったものではなく、そのときの僕の感情は、すでにバケツの水に関係なく平坦なものになっていた。
ひゅーひゅーと、僕とその女の子を冷やかす男の子たちを無視して、僕は答えた。
「大丈夫。体操服に着替えてくるから」
僕は教室を出て、トイレの中で体操服に着替えた。トイレの個室の中で、上からまた水を浴びせられたけど、幸いにも着替える前で、びしょ濡れの服がさらにびしょ濡れになるだけで済んだ。個室の外からつっかえ棒をされて扉が開かなかったけれど上からよじ登って外に出た。濡れた服と下着を絞って水気を落として、ついでだったからつっかえ棒に使われていたモップを使って個室の中にばらまかれた水をふき取ってモップを片付けた。
先生に事情を話して(そのとき女の子たちが「男子がわざとやったの」と先生に言ったが、先生は男の子たちの「わざとじゃない」という言い分を信用したらしい。僕にとってはどちらでも良かったけれど)、五時限目の授業を体操服で受けた。
ようやく授業が終わって帰るころになると、男の子たちは焦れていた。その日、僕が何をされてもあまりにも無反応だったからだろう。僕としては、わざと反応をしなかったのではなく、本当にどうでもよかった。あえてひとつ煩わしさを挙げるとすれば、感情を表に出すべきという思想のほうだった。
帰りの会も終わって僕がランドセルの中に教科書を詰め込んでいると、掃除の時間に僕に水を浴びせかけた男の子が僕に話しかけてきた。
「格子、お前さあ」その男の子はやはり僕を試すようににやにやと笑っていた。「お父さんとお母さん、いないんだろ?」
「……そうだね。いないね」僕は聞き流しながらランドセルを背負おうとした。
「お前さ、もしかして、拾われた子じゃないの?」
ぴたり、と。
僕の体が硬直した。背負いかけたランドセルを、机の上に置いた。
「……ちがうよ」
「そうか? それなら、なんでお前と
そう言われて、僕の心臓が、ぎゅっと小さくなったような気がした。
その疑問は僕の胸の底にしまっていた物だった。大切に、というよりかは、怖くて触れられない疑問だった。
「双子だったら誕生日も同じはずだろ? もし、お前と因子が双子じゃなかったら……」
「ちがう!」
僕は、十一年前の産声以来の大声を上げた。聞いたこともない声量の僕の叫びを聞いて、教室の中に残っていた同級生が静まり返り、僕を見つめた。
僕に無神経な質問を投げかけた男の子は、僕の声に一瞬たじろいだものの、僕の激昂に気を良くして、抜け抜けと続けた。
「何がちがうんだよ。言ってみろよ」
胸の内にこみ上げる生まれて初めての感情に、心のどこかで感動しながら、僕は拳を握り締めた。
「……僕は、因子姉さんと、
「誰かがそう言ったのかよ。お前は拾われた子じゃないって言ったのかよ」
今思うと、その男の子はうまく僕を誘導したものだ。一体どこに、わざわざ自分の子供に「お前は拾われた子供じゃないからな」と言って聞かせる家庭があるだろうか。ほかはともかく、そういう意味では、僕は否定のしようがなかったのだから。
僕は答える代わりに、その男の子の顔を見つめた。
「……××くん、それ以上、言わないで。それ以上、言ったら……」
「あ? なんだって?」名前も忘れたその男の子はわざとらしく聞き耳を立てた。「声が小さくて聞こえねえよ」
それを聞いて、それもそうだと僕は思った。表現は明確に正確にしなければならない。
僕は深呼吸して、はっきりと平坦に、言った。
「それ以上、僕の悪口を言ったら、殴るよ」
初めて実際に使うその言葉に、僕は緊張していた。案の定、僕の緊張を見抜いたその男の子は笑っていた。
「おもしれえ、やってみろよ」
その男の子は僕を挑発するように、へらへらと笑ってひらひらと手招きした。
僕は、何も言わずにその男の子の目を見つめていた。今度は僕のほうが彼を試していた。
言うかな。言わないかな。
僕の試みは成功した―――その男の子が、こう言ったからだ。
「俺の父ちゃんが言ってたぞ。
その言葉を聞いて、僕は、思った。
これで、この男の子を殴れる、と。
いや、むしろそのときは、目の前の男の子を感情に任せて殴るきっかけがほしかった。
嘘や言い訳を、僕は絶対に言わない。宿題をやらなかったときも遅刻して教室に入ったときも、先生にはいつだって正直に「めんどくさかったから」「寝坊したから」と答えて怒られていた。僕は生まれつき嘘が言えなかった。
だからこのときも、本当に殴るつもりで殴ると言っていた。それをこの男の子は何かの冗談だと捉えたらしかった。
「……うん、わかった」
僕はそう言って、木材と鉄パイプでできた椅子の背もたれを掴んだ。
―――この日、僕は運がなかった。だけどこの教室の中で最も不運だったのは、この男の子のほうだった。何も言わなければ、無事に帰られたというのに。
しかし、ある意味では、その男の子の念願が叶っていた。
僕を、生まれて初めて怒らせることに成功したのだから。
僕は両手で椅子を掴み、その男の子に向かって振りかぶった。
直後に、悲鳴が、同じ階の廊下の隅々まで響いた。
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