第八話 幸せな時間は終わってしまったのかもしれない


 陛下。静かな、それでいて息も出来なくなるような迫力を孕む声色。魔界には不思議なことが溢れているが、オリガが目の当たりにした光景はその中でも五本の指に入る程のものであった。

 純白の狼は、瞬きの間に姿を消して。代わりに現れたのは、一人の見慣れない男であった。初老を迎えた年齢であろうことは窺えるが、重厚な鎧を纏う体躯はジルをも上回る程に高く逞しい。

 浅黒い肌に映える豊かな白髪はくはつは老いによるものではなく、恐らくは生まれつきのものだろう。ぎらつく双眸は琥珀色。ジルが大鎌を抜く時のように、男が宙に生み出した闇から剣を抜いた。勇者オリガの剣より一回り以上大振りの剣。

 静穏でありながらも、禍禍しい程に冷たい輝きを宿す刃。え、誰? いつからそこに居た? オリガが訝しみながら眺めていると、男がオリガの方を向いた。

 ううむ、年は食ってしまっているが……彫りが深くて恰好良いオッサンだ。ちょい悪オヤジってやつか。違うか。


「ふむ、貴殿が噂の勇者か。想像していたよりもずっと幼いのう」

「う、噂? っていうか、あんた何者!?」

「ははは! これは失礼した、怪しい者ではない。だが……今は自己紹介をする余裕が無い。勇者よ、陛下のことを頼んだぞ。そなたのことは信用しておる」


 そう言って男は背を向けると、剣を持っていない手をひらりと振った。その手には、見覚えのあり過ぎる包帯が巻かれている。

 はい、察した。察しました。


「さあて、我らの魔王陛下に牙を剥いた愚か者どもよ」


 オリガ達に背を向けて、男は剣を構えた。びりびりと肌を撫でる緊張感。息すら吸うのを躊躇してしまう程の、威圧感。

 凄まじい闘気に、オリガは圧倒されてしまう。自分に向けられているわけでもないのに。


「今度は儂が相手をしよう。今、逃げるならば見逃してやろう。だが、向かってくるならば……容赦はせぬ」


 覚悟しろ。叫んでいるわけではないのに、怯えるドラゴン達。勝負は既に決していた。

 狂ったように吠えるもの、背を向けてどこかへと飛び去って行く者。群れとしての形はもう保てていない。彼等を統率する長も居ない。


「オリガ、失くさない内に剣を取り戻してこい」

「え、でも」

「お前もわかっているだろう? あの程度のドラゴン、アルの敵ではない。アルは強い。私でも、本気を出さなければ……いや、まだまだ本気を出しても負けてしまうかもしれない」


 力無く笑うジル。それだけで、彼があの男のことをどれだけ信頼しているかがわかる。

 ただ、一つだけ懸念事項がある。


「……それって、もしかして気を抜いていると巻き込まれてちょんぱされる可能性があるってこと?」

「どういう脳内変換をしたらそうなるのか不思議だが……大丈夫だ。私やリインとは違って、あいつは加減が出来る男だ」

「か、加減が出来る……だと?」


 凄い、それだけであの人がどれだけ強くて信頼できるかがわかる。オリガはジルに促されるまま、ドラゴン達の断末魔を背に勇者の剣を回収しに向かった。




「オリガ、大丈夫ー?」

「あ、メノウ」


 しばらくして、魔王城を囲むドラゴン達は一頭残さず姿を消していた。屍と化したか、元の住処へと還ったか。とにもかくにも、静けさと平穏を取り戻した魔王城。少し肌寒いが、心地良い風が吹き抜ける。

 オリガも無事に剣を回収して、ジルの元へと戻る。その途中で、メノウと合流することが出来た。

 何でだろう、この女……戦いが終わったばかりなのに肌がツヤツヤしてやがる。


「ねえ、ねえ見た? ワタシの野望の結晶、すっごくステキだったわぁ」

「あー、うん。最初だけ。本当に野望の塊だったね、生々しいくらいに」

「装填に時間がかかるのが難点だったわぁ。そこが改善点ねぇ……あら? ねえ、オリガ。あそこで魔王さまと話しているおじさまは誰?」


 メノウが不思議そうに見つめる先。件の男は視線と声に気が付いたのか、ふっと表情を綻ばせながら手招きをした。その手にはやはり、包帯が巻かれたまま。

 駆け寄る二人に、男は胸に手を当て一礼した。


「ご苦労であったな、勇者とその相棒。儂はアルバート・バラッグ。この魔王城にて騎兵・弓兵部隊の指揮を任されている者だ」

「あらぁ、ということはウワサの頼れる将軍様ねぇ? 初めまして。この子はオリガ、ワタシはメノウよ。おじさまが居ない数日間、このお城と皆に随分お世話になっていてね。一応は勇者とその相棒だけれど、魔王さまにはコテンパンにやられた後なの。だから、敵だとは思って欲しくないのだけれど」

「うむ、知っておる。先日、陛下から聞いておった。それに……人間であろうが魔族であろうが。見ず知らずの獣を手当てをしてくれる心優しき者達に向ける剣は持っておらぬ」

「手当て……?」


 若干気まずそうな表情をしながらも、包帯を巻いた手を軽く上げるアルバート。あ、とメノウが声を上げる。どうやら彼女も気が付いたようだ。


「儂は人狼でな。お前達と同じ人の姿と、狼の姿を併せ持つのだ。普段は人と狼、どちらの姿も自在に変化できるのだが……今日は新月。人狼は、月の光によって魔力が大きく影響を受けてしまうのだ。今は陛下から頂いた『月の石』という結晶で魔力を補充出来た為に、この姿で居られるのだが」

「つまり……新月の日は基本的に狼の姿でしか居ることは出来なくて、しかも狼の姿だと喋ることも出来なくなると」

「いやー、まさか倉庫に閉じ込められるとは思わなんだ。だが、そなた達のお陰でこの手の傷はほとんど直ったぞ。城に向かう途中に、竜達のブレスが掠ってしまってのう」


 がはは! と豪快に笑って。笑って誤魔化そうとしているが、オリガはちゃんと覚えている。


「そういえばさ、あんた……手当てしてた時、メノウに抱き締められて鼻息荒くしてなかった?」

「……若いおなごに抱き締められて興奮せぬ男がどこに居る」

「うわっ、開き直りやがったわこのエロじじい」

「ウフフ。次に狼になった時には目一杯可愛がらせて貰うことにしましょう?」

「オリガ殿、メノウ殿! ご無事ですか……えっ、アルバート殿!?」


 どうしてここに!? 駆け寄ってきたリインが、アルバートの姿に目を見開く。ずっと狼の姿だったからだろう、ほとんどの魔族は彼の帰還に気が付かなかったらしい。

 良いのか、それで。


「おお、リイン。そなたにも迷惑をかけてしまったのう」

「い、いえ! 自分はその……た、大したことは……その、あの……ご無事で、何より……です……」


 もじもじ、もごもご。いつもの凛とした美女将軍はどこへやら。頬を染めて、まるで恋する乙女のような反応ではないか。

 ……ん? 恋する?


「あ、もしかして、リインってこのエロ将軍のこと――」

「おいこら、誰がエロ将軍だと? 狼の聴覚を舐めておるのか?」

「お、オリガ殿! アルバート殿に失礼ですよ!!」


 顔面を真っ赤にしながら、わたわたと顔の前で手を振るリイン。ううむ、そんな反応は肯定しているようなものだと思うが。

 まあ、勇者は人の恋路を茶化すような真似はしない。


「何だかんだあったけど……誰も死んでないし、怪我人も想定よりずっと少なくて済んだみたいだし。ドラゴンのお肉も大量ゲット出来たし、何より無事に終わって良かったね、ジル」


 ジルに駆け寄って、オリガが満足そうに笑う。誰もが戦いを終えた安堵と達成感に、ほっとした表情を浮かべていた。最小限の被害で、ドラゴンの脅威を撃退することが出来たのだ。

 そう、誰もが安心していた。油断していたのだ。そうでなければ魔力を持たないオリガはまだしも、リインやアルバートが気が付かなかった筈がない。


 銀の髪が大きく揺れ、長身がその場に力なく倒れ込んだ。


「……ジル?」

「…………っ」


 まるで、今だけ時間が緩慢になったような感覚に陥った。誰もが一瞬呆けて、動けなかった。それほどまでに衝撃的だった。

 時間の呪縛から真っ先に解き放たれたオリガは、反射的に彼の元に膝をついて上半身を抱き起こした。


「ジル……? ジル!」


 呼び掛けても、返事がない。宝石のような瞳は固く閉ざされ、きめ細かい肌は驚く程に青白い。呼吸は浅く、体温はぎょっとする程に熱い。

 意識は……無い。


「ジル!? どうしたの、目を開けてよ!!」

「陛下!? おかしいです、陛下の魔力が平時とは比べ物にならないくらいに減っています! 確かに、戦いの前から魔力は減っておりましたが……ここまで激減するのはいくら何でも異常です!」

「ええい、とにかく陛下を休ませるのが先じゃ! 儂が陛下をお部屋まで運ぶ。誰か! シェーラとサギリを呼んで参れ!」

「わ、ワタシが行くわ」

「自分も行きます!」


 時間が、再び元通りに動き始める。でも、そこに今までの平穏は無かった。魔王が倒れた。その事実に、城内は完全に混乱してしまっていた。

 オリガも、すぐにはその場から動けないくらいに動揺してしまっていた。否、大丈夫。きっと、風邪が悪化してしまっただけだ。この魔界には優れた薬があるし、魔法もある。だから、大丈夫だと自分に言い聞かせ続けた。


 ――だが、まるでオリガの心を裏切るかのように。ジルは翌日になっても、目を覚ますことはなかった。

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