第八話 ※このヌメヌメは人体に無害な成分で出来ています


 ※


 空に敷き詰められた雲に、絶えず紫色の稲妻が走る。あれが自分の頭上を狙って落ちてくるかもしれない、突風でなぎ倒された木が自分に向かって倒れてくるかもしれない。

 なんて、正直そんなことに構っている余裕はオリガには無かった。


「ぶべら!?」

「オリガ殿、大丈夫ですか!?」

「ふぐっ、ぼふぉ!! な……何なの、この雨!」


 乙女にあるまじき音で咳き込みながら、オリガは手の甲で顔面を拭った。嵐に対する危険とか、幼少期のトラウマとか気に掛けることは色々あるんだけれども。

 ええ、不覚にも勇者ともあろう者が、忘れていました。ここは、魔界です。


「申し訳ありません。いくら一刻の猶予も許されない状況だとはいえ、やはりもう少し雨が弱まってからにすれば良かったですね」

「威力の問題じゃない! この雨、なんでこんなにヌメヌメしてるの!? ていうか、何でリインはそんなに平然とクールビューティーを保っていられるわけ!!」


 風と雨の騒音に掻き消されないように、オリガは叫ぶ。おかしい、頭上の遥か高みから叩きつけてくるというスタンスは変わらないのに、なんか時々やけにヌメヌメしてる雫が降り注いでいるのだ。

 しかも、それが凄まじい命中率で目や鼻を塞いでくるものだから性質が悪い。


「ああ、それですか。たまに、そういう雨が魔界では降るのですよ。他にも血のように赤かったり、槍のように硬質だったりと色々ありますが。この雨はぬめり気があるだけで、身体に害はありませんので」

「なる程ね、それは安心! ついでにリイン、空瓶とか何か入れ物持ってない? 後で牛乳とかと混ぜてジルにぶっかけたい。主に口元とかに」

「え? 何ですか? すみません、よく聴こえませんでした」


 タイミングを見計らったかのように轟いた雷鳴に、オリガの野望は掻き消されてしまった。くそう、もう一回言うのは流石に厳しいものがあるぞ、精神的に!

 仕方がない、雨は城に帰ってから改めて採取することにしよう。


「オリガ殿、使い魔はこの辺りに二人は居たと言っています」

「え、ここ?」

「はい。どうやら、風と雨が酷くなってきた為に移動してしまったようです。ですが、時間を考えればそれ程遠くには行っていないかと」


 そう言って、リインは立ち止まった。見上げればひっくり返ってしまいそうな程に立派な大樹が傍にそびえ立っており、豊かに茂った枝や葉っぱのお陰で下に居ればかなり雨を凌げる。

 ここで雨宿りしていたとしても、おかしくはない。だが、流石に風が強くなってきている今、流石にここでは心許なくなったのだろう。


「…………」


 あの頃の自分も、こんな感じの木にずっとしがみ付いていたな。恥ずかしいような、恐ろしいような。形容しがたい感情が胸を焦がす。

 だめだめ、今は現実に集中しないと。


「ううむ、一体どこへ行ってしまったのでしょう」

「あたし達が歩いてきた道ではすれ違わなかったということは、少なくとも城に戻ろうとはしていないね。城に戻るつもりがない、とか」

「そ、それは流石にないかと」

「ねえ、リイン。行方不明になった二人は、この森の地理に詳しいの?」

「そう、ですね。調理人の方はよくこの辺りでキノコや薬草を採取していたと聞いています。ただ、兵士の方は先月任務に就いたばかりの新人でして、恐らくそこまで地理を把握していることはないかと」

「そっか……」


 ふむ、そうか。オリガは歩いてきた道を振り返り、悩む。今居る辺りは、そこまで魔王城と距離が離れているわけではない。身体能力に優れたオリガとリインでなくとも、くたびれるような距離では無いだろう。

 だが、黒の森という名前に相応しく、黒々とした草木が茂っている為にあれだけ大きな城の姿は見ることは出来ない。

 ならば、果たしてこの天気の中で城に戻ろうと考えるだろうか。


「リイン、この辺りに小屋みたいなのってある?」

「え、何故ですか?」

「兵士の人がそこまで森の中に詳しくないのなら、多分移動する判断をしたのは調理人さんの方だと思うんだよね。それなら、この天気の中を無理矢理進んで城に帰ろうだなんて考えないと思うんだ。こういう時は、まずは自分達の身の安全を確保しようとする筈」

「な、なる程」

「ここは雨は凌げるけど、風で物凄く寒いし稲妻がもろに見えて怖いと思うんだ。だから、もし城よりも近くに小屋があるのならそこで天気が回復するのを待つ。あたしなら、そうする」


 あの時のオリガもそうだった。遭難した故郷の山は、物心がつくよりも前から走り回っていたような慣れ親しんだ場所だった。恐らく、目を瞑った状態でも目的の場所に辿り着くことが出来ただろう。

 だが、嵐の中では全然知らない異世界へと変わったかのように感じたのだ。


「知らない場所で孤立するのは誰でも怖い。怖いと、人はすぐに安全を確保しようとする。そう考えるのが自然なんじゃないかな?」

「自分もオリガ殿に同意します。ですが、この辺りに小屋はありません。この森は広大で資材が豊富な分、よく食材や木材を調達するために入っていく者が多いので各所に休憩小屋は設置されています。しかし、ここから一番近い小屋でもかなり距離があります」


 ですが、とリインが続ける。


「この近くに、洞窟があるんです」

「洞窟?」

「はい。それ程深くは無い上に、鉱山資源などが無い洞穴なので、知っている者は少ないのですが……今の状況で安全を確保するならば、可能性はあるかと」

「よし、そこに行ってみよう!」


 オリガの提案にリインは頷き、再び先を歩き始める。相変わらず雨は妙にヌメヌメしている上に、耳やら口やらを的確に狙撃してくるものの。

 全てはジルに良いところを見せたい。オリガの胸にあるのは、ただそれだけ。


「……いや、流石に今のヌメヌメした姿は見られたくないな。美少女勇者がヌメヌメしてるとか、卑猥だわ」

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