第12話


 そして再び日は沈み、片田舎は闇に包まれた。


 その暗闇の中でもなお一層薄暗い雑木林の奥に、少し開けた場所がある。そこに、少年は一人で立っていて――そこは、水上神社の裏山であった。


『普段は魔物を見つけ次第、現行犯成敗なんですけれど、あの亡霊は強力ですから……町中だと、周りに被害が出るかもしれませんので、ここでお待ちください』


 このように先ほど春菜に言われたのだった。すぐに駆けつけられる所に潜んでいるらしいのだが、純一郎には少女の気配を感じることができない。感じられるものといえば、夜の冷たい風と、少し肌に纏わりつくような淀んだ空気くらいのもので――勿論後者は、少年の不安の内から生まれ出た錯覚であろう。しかし、今宵はこの三晩の中で一番雲の多い空模様である。辺りを照らしてくれるはずの月は叢雲に隠れ、開けた場所といえどもそう遠くまでは見渡せないほどに暗い。

 逃げ出してしまいたい程に暗い。だが、先ほど少女にここから一歩も動くなと言われている。春菜がふと目を離した一瞬の隙に、あの影に覆われてしまったらどうしようか。純一郎の頭に、今日の空と変わらぬ暗雲が立ち込めた。


(……だけど、ここから逃げても、余計に立場を悪くするだけだし……何より、ここから逃げたらきっと……)


 今日は、逃げない。純一郎は、そう覚悟を決めた。


 そして、再び周りの様子を探るために、純一郎は辺りに目を凝らす。唐突に後ろから来るかもしれない。あの、後ろから来る恐怖は格別だ。せめて最悪の場合でも、やられるという覚悟は持ちたい。だから、自分の視線の先に、あの亡霊を見据えておきたい。

 すると、せめてその希望を叶えるかのように、事態に変化が起きた。取り分け、辺りの暗さは変わらないのだが、純一郎の目の前に、辺りの暗さよりも更に深い闇が集まってくる。


『――見ツケタゾ』


 三日の間、少年を悩まし続けていた声が、その深い闇から聞こえてきた。


「……っ!」


 そして、その漆黒の中から、少年を我がものにせんと二つの腕が伸びてくる。


『我ガ兵法、未ダナラズ……遠イ後胤ヨ、貴様ノ体ヲ……』

「やらせません!」


 少女の声が闇に響いた瞬間に、純一郎の足元から青白い光の膜が姿を現す。影はなお伸びてくるが、その膜によって弾かれた。


『チィ……』


 影の方から、舌を打つ音が聞こえてくる。と、その瞬間であった。純一郎と影の横から、一筋の光が飛んできた。しかし、影の方も既に対応を覚えてしまったらしい。刃を抜くような鋭い音が聞こえたかと思うと、飛来してきた何かは影の手前でその勢いを失い、枯葉のように落ちてしまった。見れば、影の足元には、昨日、一昨日とみた札――聖霊符が、無残にも二つに切り落とされていた。そしてその残骸は、風に攫われて飛んで行ってしまう。


「……同じ手は通用しませんか」


 光が飛んできた方向から、巫女装束を纏った少女が姿を現した。右手の指には、聖霊符が何枚も握られている。


『邪魔ヲ――スルナ』


 影の方から低音が響いたかと思うと、周囲に幾つもの薄暗い物体が現れた。良く見ると、何か表面は流体のように蠢いている。


(な、なんだアレ……!?)


 純一郎がそう思うや否や、その物体は少女を目掛けて動き出した。しかし春菜は慣れたものなのか、その気味の悪い物体を眺めても驚きもしていない。


「やはり、低級の魔物を使役できますか。これは、お婆様の記録にあった通りですね」


 そう言うと、少女は袖の中から無数の札を取り出し、それを周囲の物体に対し投げつけた。何枚もの札が、風を切って少女の周りを飛び交う。札の当たった物体は、その場で少し蠢いて後、蒼い光を放って消滅する。


「あ、危な――!?」


 純一郎が、春菜の方を向かって叫ぼうとする。少女の後ろに、突然に魔物が出現したのだ。だが――。


「……はぁ!」


 春菜は左の袖から、今度はお祓い棒を抜き出し、後ろから襲いかかって来た物体を両断する。返す刃で近くの魔物を一薙ぎ、瞬間で三体の魔物が消滅した。


(す、すげぇ……)


 純一郎は、少女の戦いぶりを傍観していた。やはり、春菜は強い。何体もの魔物に四方を囲まれているが、少しも怯むことなく敵と戦っている。時には指先から鋭く飛ばす札で、時には白幣から繰り出される一閃で、無数の影を消滅させる。魔物が消える時に放たれる青い光に淡く照らされ、闘い続ける少女の舞踏を、少年はただ魅入るのみであった。


「こ、これなら……うお!?」


 その時、深い闇が結界を乱暴に叩きだした。影の持つ刃と光の膜がぶつかりあい、金属が打ち合うような激しい音が生じる。


『貴様ノ体ヲ……貰イ受ケル……!』


 闇から繰り出される激しい斬撃。


(ヤバイ……これは、きっとヤバイ……っ!)


 如何に強固な結界であろうとも、これ程の力で破壊せしめんとすれば、長くはもたないかもしれない。


「やらせませんって……言っているでしょう!?」


 土を蹴る音が聞こえる。見れば低級の魔物を全て倒し切り、春菜が純一郎の方に駆けつけてくれたのだ。

 少女が闇に切りかかる。手には白幣。影は一旦悲願を諦め、昨日と同じように向き直り、少女の袈裟斬りを迎撃して後、更に同様に影は鋭い蹴りを放った。

 当然、少女もそれは予想している。春菜は素早く身を翻す。影の蹴りはどこにも刺さること無く、そのまま周囲の闇と同化した。


『ヌッ……?』


 そして、闇から数歩離れた先に、少女は鮮やかに着地した。


「鬼さんこちら、ですよ。ホント、文字通りですね」


 少女の第一の目的は、少年の安全の確保だ。そして、その目標は果たされた。手を鳴らし挑発する春菜の方に影は刃を向けている。


『……一昨日カラ、邪魔バカリ……マズ、貴様カラ……!』

「待ってください。貴方の悲願は、一体何なんですか? ……上野秀綱さん」


 名を呼ばれ、影の動きがぴたりと止まる。


『……何故、我ガ名ヲ』

「貴方は、五十年前にも私のお婆様……水上文乃に、封印されていますね。その資料で知りました」

『成程……貴様ハ、水上カ』


 その時ふと、叢雲が晴れた。先ほどまで隠れていた月がその顔を表し、僅かばかりではあるが、その場を照らし出した。


 すると、先ほどまで闇が集まって出来ていた影に、輪郭が浮かび上がってきた。見れば、肩衣袴に袖を通した、長い白髪の男が立っている。顔には刻まれた深い皺が、その者の人生の壮絶さを物語っているかのようだ。何より印象的であったのは、その男の眼であった。左の眼には鋭い眼光をたたえている。だが、右の瞼は開いていなかった。瞼の上の切り傷によって、老人の右目は封印されていた。

 そしてその顔は、誰かに似ていた。


『貴様らさえ居なければ――我が宿願は、とうに果たされていただろうに……』


 老人を覆う闇が無くなったからなのか、先ほどまでと違って声が明瞭に響く。少女はその声に臆することなく、凛とした調子で続ける。


「はい。今回も邪魔させてもらいます。ですが、貴方のことも、私は知りたいのです」

『先に仕掛けてきておいて、我のことを知りたいとは、どの口がほざくか』

「それは、私の第一目標が、純一郎さんを護ることですから。ですが貴方が何故、死後四百年という歳月を跨いでまで、この世に執着をするのか。それを、私は知りたいのです」


 春菜は構えていた白幣を下ろし、話し合う姿勢を見せる。それに対し、老人は刃を下ろすこと無く、鋭い眼光で少女を見つめている。


『……我が宿願は、我が兵法を完成させること』

「貴方が完成させたい兵法とは、どのようなものなのですか?」


 亡霊と少女の間に、風が吹き抜ける。そして、束の間の沈黙が過ぎ去り、老人が口を開いた。


『我が兵法は、戦乱の世を鎮める術。人と人とが争わぬ太平を望まんとし、それを希求する方策である』


 老人の声に、曇りは一点も無い。それが自らの存在意義であると信念を持っているからこそ、魔道に落ちてもなお、それを追求しようという覚悟が視えた。


「……戦乱の世は、とうに既に過ぎ去りました。ですから、貴方の求める兵法は、既にこの世には……」

『そんなことは分かっている』


 少女の方に、驚きの表情が現れた。それを見てとった老剣士は、少女の疑問に応えるべく、話を続けた。


『戦国の世は、既に過ぎ去っている。我もそれは分かっている。だが……乱世が過ぎ去って後にも、人は剣を持ち、争わなかったのか?』

「そ、それは……」

『そう、人は争うことを止めることができぬ。それが故に、我は我が兵法の完成を望む。我は争いという人の業に臨む。だが……』


 老人の顔に、少し憂いが見えた。


『それを成すには、人の一生は余りにも短い。齢十五にして剣を志し、三十にして武官として立ち、四十にして兵法家として惑わず、五十にして我が天命を知った。だが人の業と向き合うには、百という歳月でも成すには足らぬ……』

「……人は六十になったら人の話しが素直に聞けて、七十になったら道を踏み外さなくなるといいます。ですが貴方は、魔道に落ちてしまった」


 少女の反論に、老人は口の端を釣り上げた。


「人と人とが争わぬ世を望む。それは、立派なことです。ですが、手段というものがあります。誰かの体を奪ってまでそれを希求することは、貴方の望む平和と、矛盾するんじゃないですか?」


 再び、風が吹き抜ける。冬の間に枯れて落ちた木々の広葉が、二人の間を飛び去った。


『……確かに、お前の言う通りだ。いや、それは我も承知の上だ』


 老人の顔には、まだ先ほどの微笑が横たわっている。


『だが、年端もいかぬ貴様に、人の何が分かるというのだ?』

「そ、それは……」

『成程、貴様の技、認めよう。その歳でそれほどまでに練り上げたのだ。血の滲むような修練を積んだに相違あるまい』


 老剣士はそう言いながら、少女の方に一歩つめ寄る。


『我も若かりし折、何かを変えんがために力を欲した。だが、人の世を変えるには、己の技のみでは、何も変えられぬと悟った』


 そしてもう一歩、歩みを進める。


「ま、待って……まだ、話を……!」


 少女の制止など意にも介さず、老人は続ける。


『そう、全ては大事の前の小事。我が遠い子孫の犠牲で、我が兵法は紡がれる。それは、我が子孫以外の全人類を、救うことに他ならぬ』


 そして、立ち止まった。間合いは、まだ離れている――だがこの達人にとっては、恐らく既に必殺の間合い。


『ここまで我が歩みを許したのは、間違いであったな。だが我とて、無駄な犠牲を望まぬ。そこで事の成り行きを見守り、今宵の出来ごとに永久に口を閉ざすならば……』

「それは、出来ません」


 少女の凛とした声が、闇に響く。


「貴方のこと、少しは分かりました。貴方は、凄く強い人です。ですが、その強さゆえに、闇に落ちてしまいました……」


 春菜は白幣を投げ捨て、右手の親指を噛む。剥がれた皮から、赤い滴がにじみ出す。


「そして、自らの願いのために、純一郎さんの体を狙っていると。ですが、私も純一郎さんのことを護りたいですから……これって二人で純一郎さんのこと、取りあいっこするしかないですね?」


 そして、左の袖を鞘として、青白い輝きを放つ光刃が姿を現した。少女はその刃を中段に構えて、老剣士と対峙する。


「自分が死んだ後まで、何かを自分で成そうとするのは、きっと間違っています。ですから……再び、貴方には眠ってもらうことにします。覚悟してください、剣聖……上野秀綱!」


 隻眼の老剣士は残った左目を瞑りながら、少女の口上を噛み締めているようだった。


『――剣聖、か。いや、その呼び名は正しくない。貴様の言う通り、我は既に闇に落ちた身だ』


 そして目を見開き、老剣士は突き出していた刀を自らの方に引き戻す。


『故に、剣聖という誉は返上しよう。なれば、そう……我は、剣鬼。自らの悲願成就のため、身を冥府魔道へと貶めた者』


 辺りの雑木林が風に揺られる。いや、正確には、老人の気迫に木々も震えているのかもしれない。


『我は剣鬼、上野伊勢守秀綱……我が悲願を邪魔立てすると言うのなら、力にて、我をひれ伏させるがいい!』


 その咆哮に、辺りの空気が一斉に奮えた。ずっとことの経過を見守っていた少年も、安全な場所に居るというのに、その気迫に竦み上がった。


「……分かりました。では、神祇官水上春菜……参ります!」


 瞬間、少女は光刃にて袈裟斬りを放つ。老剣士は、それを見てから僅かに身を逸らし、紙一重でかわした。


「……はぁ!」


 袈裟からの返す刃で、少女は横薙ぎに払った。老人側は、それも読んでいたのであろうか、今度は上半身を大きく逸らし、光の刃をかわした。そのまま、春菜は畳み掛けるように斬りかかり続ける。それを見てから、老人は全てかわしている。しかし、見た所老人側は防戦一方で、春菜の方が明らかに押しているだ。


(こ、これなら……いけるか?)


 少年はそう思った。そう言えば、あの刃、威力は折り紙付きだと春菜が言っていた。それ故に秀綱は、自らの刃で春菜の攻撃を受け、捌くことが出来ないのだ。


『……その刃、厄介だな』


 冷静に、老人がそう漏らす。顔には、余裕の表情がうかがえる。


「くっ……ちょこまかと!」


 むしろ、少女の方が顔に汗を浮かべている。だが、気を抜いたらどんな反撃が来るかもわからない。少女は、攻撃をし続けるしかないのだ。


『だが、厄介なのはその刃だ。貴様自身は……!』


 慌てていたのかもしれない。少女が大上段に構え、大きく振りかぶった。その隙を、この達人は当然見逃さない。


『我にとって脅威ではない』


 少女の放った蒼い刃をかわし、隙の出来た春菜に対して、無慈悲な黒刃が払われる。


「は、春菜!」

「……っ!」


 少年が叫ぶ。叫んだ所で、何が変わるわけでもないのだが、叫ばずにはいられなかった。そして、少年は普通ならばあり得ないことを目撃した。春菜は素早く柄から右手を離すと、そのまま掌で老人の刃を受けたのだ。


『ぬっ……』


 老人の方からも、小さな驚愕の声が漏れる。そして老人の剣に、そのまま少女の手は切断……されてはいなかった。老人の刃と少女の手から小さく稲妻が走ったと思うと、不思議な斥力が働き、少女が後ろに吹き飛ばされた。


『……成程な。掌に聖霊札を仕込んでいたか。我が刃は、魔物のそれ。放たれた札ならいざ知らず、肌に直に着けていたとあらば、その神聖な力に退けられるも道理よな』


 老人は、ひとり頷いている。そして、吹き飛ばされた先の土煙の中から、少女は立ちあがった。見れば、肩で息をしている。

 老剣士はその様子を見ながら、ゆっくりと一歩ずつ近づく。決して、一気に間合いを詰めたりはしない。あくまでも、ゆっくりとだ。


「春菜! 間合いを取るんだ!」


 純一郎が少女に向かって叫ぶ。その声で体に力を入れ直し、少女は後ろへ飛んだ。


「新影流は、受けの剣だから……さっきみたいに、相手の隙を見て攻撃してくる!」


 その流派の創始者なのだから、その技量も尋常では無い。それは先ほどのやり取りだけで、十分に読み取れた。下手な攻撃をすればするほど、自らを窮地に落とすことになるのだ。


「……それなら、相手の剣が届かない所から!」


 少女は再び札を投げつけた。それも、先ほどのように一枚では無い。何枚も、一斉にだ。だが、それも老人は読んでいる。秀綱の前に幾つもの黒い軌跡が描かれたと思った瞬間、何枚かの札は老人の横をすり抜け、そして当たるはずであった数枚は、その場で両断され、地面に落とされてしまう。


『そう、新影流は、受けの剣』


 一歩ずつ、老人は少女の方に近づいて行く。


『我が身を森羅万象と一体とし、空気の流れを感じ、敵の呼吸を読み、戦の奔流を知る』


 少女は攻撃をいなされたショックからか、その場で立ち止まっている。


『――そしてこの距離は我にとって、全てに対応し得る、無敵の間合い』


 気付けば、先ほどと同じ距離まで詰められている。相も変わらず隻眼の達人は、その場で制止している。だが、実際に対峙するとなれば、その気迫はどれ程のものであろうか。


「……やはり、生半可な攻撃は、通用しないですよね。それならば……」


 少女は後方に投げていた封魔刃の柄を再び光の刃をかざし、老人と向かい合った。だが、今度は斬りかからずに、少女は老人を睨んでいる。一方で老剣士は、少女の息使い一つも見逃すものかと、春菜を凝視している。


『何時でも、逃げて構わぬぞ。背を向け逃げおおせたとして、我は貴様を追わんし、軽蔑もしない。我は我の悲願以外に、何も興味は無い』


 それは、老人の挑発であったのだろうか。この沈黙を破るため、相手から仕掛けさせるための策なのかもしれない。


(……いや、違うな。アレは、本気で言ってるんだ)


 なんとなくだが、少年はそう思った。老人は、決して少女の命を奪おうとは思っていない。邪魔だから、対応しているだけだ。それは丁度、普段は虫を見逃す者が、眼の前にいれば邪魔だから捻り潰すのと同じような感覚なのだろう。


「逆に、貴方が純一郎さんを諦めてくれませんか?」


 今度は、春菜の番である。先ほど乱した呼吸を整えるように、声量は落としている。だが、眼の前の化け物の気迫に押されてか、なかなか呼吸は鎮まらない。それでも気丈に、相手と対峙し続けている。


「……やはり、もう一つだけ質問させてください。魔物は……亡霊は、この世に強い未練を残してなるモノ。その大半は、死の間際に悲運があったが故に、魂を闇に落とすというものです。貴方は……」

『我が悲運は、生あるうちに我が兵法を完成しえなかったこと。ただ、それのみ』


 老剣士の声に、迷いはない。つまり、ただただ本当に、自らの兵法の追求のためのみに、その身を亡霊へと貶めたのだ。


「それならば……それならばこそ、貴方は成仏するべきです」


 少女は、今度は刃を下ろない。恐らく、これは彼女の自己満足であり、それも自覚しているのだろう。故に何を言っても、老人が剣を下ろさない、つまり徒労に終わるということを、春菜は分かっていたに違いない。それでも、なお言葉を紡ぐ。


「先ほども言ったように、死んだ人間が現し世に何かをしようというのが、間違えてるんです。貴方には、たくさんのお弟子さんが居て、多くの物を残せたはずです。そして、もし親しい人たちに見送られて、天寿を全うしたというのならば、それ以上を望むだなんて……」

『そう、多くの弟子を取り、多くを残したとは思う。だが、我が志は戦国の世を太平するには足らなかった。我が生前の功績は、我が望むに足らぬ』

「……何故、貴方は人の争いを嫌うのですか?」


 そう言われた瞬間、老人の眼から少し力が抜けた。だがすぐに光を取り戻し、再び左の鋭い目つきで少女を睨む。


『戦国の世で、多くを切って伏せてきたが故だ。百人殺せば英雄と言うが、我はそうは思わぬ。我が背には、戦国の世に切り捨てられた、無数の魂がある。それらとて、明日を生き抜きたかったはずなのだ。色即是空……形あるものは、ついには滅びる。我が兵法こそが、形なき、永久の真理として、未来に残すべきものであったはずだ。そして我が剣術は、人の業を払うにいたらなかった。故に――更なる兵法の探求を望む』


 言い終わって老人の体に、気迫が戻る。しかし、秀綱の話しを聞いていた少年は、なんだか物悲しい気持ちになってきた。当然、人ならざる者に共感したわけではない。春菜の言う通り、死んでまで何かを成そうなどと、本来は間違えているとも思う。だが、その祈りが純粋で、あまりにも真っ直ぐであったから――。


(あの亡霊は、なんだか立派な人だったんだ……それに対して、俺は……俺の、俺なんかの体を使って、多くの人が幸せになるのなら……)

「――ダメですよ、純一郎さん」


 少女の声が聞こえてくる。少年は声のする方向に、顔を向けた。


「また、哀しいことを考えているでしょう? 純一郎さん、そういうことがあると顔を下げちゃいますから……すぐに分かります」


 老人の背中の向こうに、優しい笑顔がある。


「それに、本の感想、聞きたいです。私、そういうことしたことないので……誰かと好きなモノを共有できたら、凄い嬉しいと思うんです。だから、きちんと日常に帰りましょう? 貴方は、貴方のままで……」

(……そうだ、俺は帰るんだ。それで……)


 老人は、少女が話すことを邪魔しない。今の少女は、大上段を打った時より、余程隙だらけであったはずだ。だが、自らの技に信念があるのだろう。あくまで、自分からは仕掛けない。その老人に向かって、少女は改めて向き直った。


「お待たせしました。そして、貴方の気持ちも、分かりました。それでも、私は純一郎さんに、頑張って欲しいのです。ですから……」


 少女は足を捌き、横に移動する。老剣士もそれに合わせて、自らの間合いを保つように動く。風は止み、辺りには二つの足跡だけが響く。


「……覚悟してください! 秀綱さん!」


 少女が叫んだ瞬間、老剣士の足元から光が現れた。その光はそのまま足に巻きつき、秀綱の足捌きを封印した。夕刻の内に、罠を張っていたのだ。


『ぬっ……小癪な……!』


 老人から出た悪罵を無視し、春菜が光刃を振りかぶった。


「これで……終わりです!」

『――いや、終わらせぬ!』


 秀綱は素早く足の戒めを切り捨てると、そのまま光の刃に自らの黒刃で受け止めようとする。


「……えっ?」


 先ほどまで、体捌きで攻撃をいなしていたからだろう。少女の方から、驚嘆の声が漏れる。そう、黒刃では、少女の蒼刃を受け止められないはずなのだ。


『……見せてやろう、新影流の奥義を』


 金属が割れる音が響く。当然、黒き刃は蒼い刃によって折られた。だが、その瞬間だ。剣を折るため一瞬だけ勢いを失った春菜の腕に、老人は素早く自らの体を落とし入れた。


「ぐっ……!?」


 老人の肩が体に当たり、少女は小さな悲鳴を上げる。それもつかの間、老人は少女の装束の襟を持ち、そのまま腰を入れて少女の体を持ちあげたかと思うと、少年の目には追いきれない程の速さで少女を思いっきり地面に打ち付けた。


「がっ……!?」


 春菜は受け身も取れず、地面にたたきつけられた反動をそのまま喰らってしまった。その衝撃で、手に持っていた柄が宙に投げ出されてしまう。


(なっ……剣を使わず、背負い投げをした!?)


 少年は、驚愕の表情を浮かべる。だがその直後、かつて剣道をやっていた時に聞いた、あることを思い出した。


(無手にて、相手の刀を奪う技。その名は……)


 宙を舞った封魔刃の柄が、少年を護る結界の前に投げ出される。そしてすぐに少年は、亡霊の方に向き直った。


『これぞ、新影流が極意――無刀取り』


 装束を直し、姿勢を正した後、老剣士は折れた剣を宙に払った。すると、辺りの闇が集まり、刀が再生してしまう。黒い刀はそのまま、倒れた少女の方に向けられた。


『……さぁ、どうする? 今ならまだ……ぬっ』


 少女のタフさから、老人もまだ戦う意思が折れていないと判断したのだろう。だが、少女は先ほどの衝撃で、目を瞑っている。どうやら気絶してしまったようだ。


『そうか……それならば、それで良い。余計な手間が省けた』


 そして老人は、彼にとって忌々しい――少年にとっての頼りの綱の光の膜に向き直る。


『我が求むるは、我が悲願のみ。さぁ、我が後胤よ……』


 そして一歩、亡霊が少年の側に近づいてくる。純一郎の中に、様々な感情が渦巻いてくる。自分のために頑張ってくれた少女を心配する気持ち、眼の前の老剣士の哀しみ――だが、やはり最後に少年の心を支配したのは、眼の前の恐怖であった。


(やっぱり……やっぱり、怖い……!)


 蔵で、あの腕が自分を塗りつぶそうとした時の感触を思い出す。自分が、自分で無くなる感触。先ほど一瞬、体を明け渡すことも考えたが、それでもやはり、怖いものは怖い。

 老人の足が、一歩こちらに近づいてくる。だが、少年はその時思った。これで、あの少女が自分のために、これ以上傷つかなくてもよいのだと。


(もう、これ以上春菜が怪我するのも、見たくない……)


 そう考えたら、これも悪くない気がしてきた。


(……中途半端な結果になって、折角頑張ってもらったのが、無駄になっちゃうけど……)


 老人の足が、更に近づく。だが、その瞬間だった。老人の足に、白い手が絡まった。


「だ、駄目です……純一郎さんの所には、行かせません」


 気を取り戻して、春菜が老人に食いついたのだ。


(……もう、やめてくれよ。俺のために、そんなに頑張らないで……)


 だが、先ほどの少女の言葉が、少年の頭をかすめた。貴方は、貴方のままで――その言葉が、どれ程自分にとって嬉しかったか。


(……そうだ。俺は昨日、決めたんだ。あの子の孤独を、少しで癒したいって……)


 自然と、拳に力が入る。それは、何の力も無い自分にとっては、傲慢な願いなのかもしれない。それでも――。


(春菜が、あんなに頑張ってるんだ。あの子の隣を歩きたいんだったら!)


 老人は、少女の白い手を蹴りはらい、静かに後ろに向き直った。


『……そうか。死ななければ、貴様の闘志は折れはしないのだな』

「……死んでも折れないですけどね」


 少女の悪態に老剣士は少し寂しげな表情を見せ、そして、剣を少女に向けた。


『良かろう。水上の巫女には借りがある。ならばその借りを、この場で清算して――!?』


 亡霊が驚いたのは、後ろで何か異様な気配を感じたためだ。


「うおぉおおおおおおおおおお!」


 少年は叫んで、膜の外へと手を伸ばそうとする。すぐ近くにある、柄を拾い上げるためだ。だが膜が弾くのは不浄なるものばかりではない。少年の抵抗すら、弾き飛ばそうとする。


「や、やめてください純一郎さん! 貴方は、そこで……!」

「嫌だ! 安全な所から見ているだけなのは、もうたくさんだ!」


 そう言いながらも、外に出ようと少年は両の手を膜にぶつける。少年の手を弾こうと、膜は激しく光を上げる。だがその抵抗にも負けずに、少年は手から鮮血を流しながらも手を伸ばそうとする。


「そうだ……これが、一歩なんだ! ただ傍観するんじゃなくて……諦めるんじゃなくて! 自分らしい一歩を踏み出すための――!」


 先ほど秀綱が結界を破ろうとしていて、脆くなっていたせいもあったのだろう。膜が張られていた辺りが小規模ながら爆発し、土煙が舞った。


 そして、何かが駆ける音が辺りに響く。老剣士は煙の方に向き直り、来たるべき一撃に備えた。


「おぉおおおおおおお!」


 激しい音が響く。土煙が晴れ、空の雲も姿を潜めた。月光が雑木林を照らし出し、地には二本の刃が現れた。

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