第2話 赤い糸を結ぶ

 ———図々しい男

 先日の菜緒と食事した時よりかはいくらか低額な金額の会計を済ませ、外に出る。洋食屋を出てすぐのコンビニで占い師の男は煙草をふかしていた。

 その姿を見て梨花はある事に気が付く。

 今日利用した洋食屋はランチの時間帯は全席禁煙。梨花の身の回りでは喫煙者がほとんどいないので———身近な喫煙者と言えば父ぐらいだがふたりで外食などするはずがない———喫煙者を気遣った店選びを脳内ですっかり怠っていた。

 

 ———けど、会計はこっちが負担したんだし。ちょっとくらい

 頭の片隅で罪悪感を感じつつも梨花は屁理屈をこねて男には謝らないでおいた。

 梨花がズカズカと大股で占い師の元へ戻ると男は見えない何かを手先で辿り、梨花の数歩先を歩き出した。

「ねぇ、あなたはさっきから何を見たり、触れたりしているの?」

 抑えきれない好奇心から、梨花は男に対してそう問いかけてみた。敬語はなし。ひょろりと長細く背の高い占い師の男はこうして日の元で見ると、案外、梨花と歳が近いように見えたからだ。

「お嬢さんの縁ですよ」

 何の躊躇もなく男は簡潔にそう答えた。

「言ったでしょう、私は繋いだり結んだり切ったりしていると。見えなきゃそんなの本業にしていません」

 最初に比べて随分と辛辣な口調になってきた。どうやら占い師の男も客である梨花に対する遠慮や配慮を多少は緩めたらしい。

「そっか、だから占いが副業って事なのね」

「最初からそう言ってますよ」

 むっつりした態度で梨花に言い返すその様子がおかしくて、梨花はくすくすと笑いだしてしまう。

「占いは当たらないの?」

「そんな事ありません、そこそこ当てています。タロットカードはまだ苦手ですけど、水晶占いであれば占うフリをして客と会話をしつつ、縁の輝き具合を見ていれば大体の察しは出来ます。それをもとにそれっぽい助言をすれば…あら不思議、ここの占い師さんの占いは良く当たる、と思わせられるので客足は一応絶えません」

「へー…」

 それは一種の詐欺ではないか、と梨花は内心思った。男は言葉を続ける。

「しかし店に辿りつける人は限られます。扉の眼や私の見た目で相手を警戒させるんです。普通、あんないかにも路上生活をしていそうな男に金を渡して占ってもらおうなど思う人はそういませんから」

 ———もしかして、あたしの事バカにしてる?

 男の言葉にカチンときたが、尤もな事あるので何も反論は出来ない。

「それにですね、あまりにも私の占いが繁盛してしまったら、忙しくて忙しくて美味い食事をゆっくり味わう事が出来なくなります。ついでに金が入りすぎると以前まで美味しく感じていたものが不味くなってしまいますからね。何事も程々が良いんですよ、程々が」

 占い師の営む店が、男が特殊な力———か、どうかはまだよく分からないが———を持っているにもかかわらず、あまり繁盛していなさそうな理由を男は言い訳がましく梨花に説明し終えた。

 美青年はスルスルと指先で梨花には見えない‟縁”をなぞりつつ足を進めていく。時折「こっちか」と呟いては、近道なのか大きな通りから外れた道を選んでいく。

「お嬢さんの糸は見えやすくて良いですね。探しやすいし辿りやすい」

 占い師は献血前の看護師が「採決しやすい健康的な腕ね~」とでも言うかのような発言をする。血管同様、梨花本人が何か特別なことをして身に着けた訳ではないので、褒められてもどう反応して良いのか分からない。

 梨花は曖昧な笑顔を返すのみだ。

「縁って糸なのね」

 占い師の言葉から梨花には言えないが男には見えている‟それ”を理解しようとした。すると、何かを思いついた梨花はきらりと目を光らせる。

「じゃあ、赤い糸って本当にあるの?」

「えぇ、もちろん」

 感情のない機械的な返答。梨花は男の態度に怯むことなく質問を畳み掛ける。

「ねえ!それじゃ、あたしは彼と赤い糸で結ばれてるの?どうなの?」

 きらきらした梨花の瞳とは対照的にどんよりした目で占い師は梨花の方へ顔を向けた。

「それは言えません。それに、赤い糸は細い太いの違いはあれどひとりにつき何本かは結ばれているものです。選択肢が絞られないようにしているというのに、自ら絞ろうとしそうな人間に私がそう簡単に言う訳ないじゃないですか」

 梨花の心の内を読み取り、占い師は淡々とした口調でそう言い返した。

「えーっ。いいじゃない、そんなに本数があるなら一本くらい。彼と繋がってる縁…その糸の色だけでも。ね?」

 拒絶に似た返答を物ともせず、梨花は諦めようとしない。粘る梨花を相手に、男は溜め息をつき、少々無言で考え出した。梨花は手を握りしめ、わくわくしながら男の発言を待つ。

「そうですね、私の食費一年分をお嬢さんが支払ってくださるのなら、考えましょうか」

 にやっと冷笑的な笑みを浮かべ、男はそう言い放った。梨花はその言葉を受け、脳内でカタカタと簡略的な計算をするが、どう考えても就活用の費用がパーになる計算にしかならない。それどころか就活後のバイトで稼ぐ予定の卒業旅行代にまで影響が出そうだ。そんなの嫌だ。

「……ちぇっ」

 ようやく梨花が諦めたのを見て美青年は再び溜息を吐き出して顔を無表情に戻した。梨花から顔を背け、前、いや、手元の糸を見て歩き続ける。

 占い師の男が辿る糸の行先が梨花には見当が付いてきた。彼が最近通っているカフェに通じる道だ。程無くして交通量の少ない開けた道路に出る。ふたりが立つ歩道の反対側には例のカフェが見えた。

「さてさて、彼氏さんの糸を遠目から見てみますかね」

 てっきり店に入るもんだと思っていた梨花は男の発言に拍子抜けする。ここからどうやって見るのだろうか、と梨花は男も行動を観察しだす。

 占い師は洋食屋でハサミを仕舞い込んだ内ポケットとはとは反対の内ポケットから淵のない眼鏡を取り出し、滑らかな動きで眼鏡をかけた。そのままの顔も素敵だが、眼鏡をかけインテリ風の雰囲気も良く似合っている。…いや、似合っている位では美青年の姿を表現しきれていないが、本当に素敵だ。

「お嬢さんはそこの自販機の横で待っててくださいね」

 今までにないにっこりした笑みで男は梨花に自分から離れるように指示を出す。完璧な笑顔を前に逆らうことが出来ない梨花は素直に後ろへ後退した。

「さーて、彼氏さんはどちらに…うーむ…」

 見えない糸を手に、腕を揺らしたり回したりしながら男はカフェを見据えて梨花の彼氏を見つけ出そうとしている。この占い師の行動を見ているとかなりの変人だ。ちゅおいよお

「…あなた、そんな行動していて職質されたりしない?」

 男の行動を何となく理解出来ている梨花からすれば縁の糸を手繰っているだけなのだろうが――占い師は今、万歳のポーズを決めている――不審な行動を続ける占い師に梨花は聞いてみた。しかし男は集中しているのか梨花の質問にすぐには答えてくれなかった。

 車がちょうど十台通り過ぎたところで男は親切なのか極端なマイペースなのか、ようやく梨花の問いかけに答えてくれた。

「まあ、普通は見えていないので」

「…え?」

 咄嗟に呑み込めない答えに梨花は聞き返す。だが占い師の男は「あぁ、いたいた」と言ってまた自分だけの世界に引きずりこまれてしまった。

 ―――いつまで待てばいいんだろう

 絶世の美女、もとい絶世の美男の観察にも飽きてきた梨花はふうと息を吐き出す。好みと言えば好みでもあるが、くしゃっとした人当たりの良い笑顔を向けてくれる良太さんの方が彼氏としては梨花に適しているな、と思い始めていた頃だった。美しい占い師が深刻そうな、加えて面倒事の始まりを告げるかのように盛大な溜め息を漏らした。

「お嬢さん、あなたに選択肢を与えましょう」

 くるりと優雅に身を翻した占い師が梨花に語りかける。声は先ほどの溜め息からは考えられない程明るく陽気な声色だ。

「一つ、池田良太との縁を切る」

 その発言にぎょっとした梨花は縁石に足をかけ、すました態度を取る占い師に詰め寄った。

「な、なにいってんのよ!?」

「まぁまぁ、最後までお聞きなさいな」

 戸惑いから動揺へ、そして行き着いた怒りの声を発する梨花を妙に手慣れた様子で宥める。

「一つ、彼との縁…いえ、糸を今より強く太い縁で結ぶ」

 ぴくりと反応した梨花の顔色を伺いながら、男は続けた。

「最後に一つ、どちらの選択も選ばない。お嬢さん自身の力や策略で現状を変える。お嬢さんが変えられると見込んでいるからこそ、私はこの提案もしている事をお忘れなく。縁を占った結果、私からお嬢さんへ与えられる選択肢は以上です」

 そこまで一気に喋り続けたこの世のものとは思えない美しさを纏った青年は至極優しげな口調で梨花に選択を迫る。

「さて、お嬢さん。いかがなさいますか?」

 にい、と悪戯に吊り上った薄く血色もさほどよくない唇を梨花は見つめる。口元が動かないのを見ると、これ以上占い師の男から話す事はないようだ。

「…今より強く太い糸で結ぶと、どうなるの?」

 興奮を抑えきれない、欲望の渦巻く声が自然と梨花の口から零れ落ちていく。この口ぶりではほぼ梨花の選択は決まったも同然だが、確認のため一応聞いておく。

「そうですね、今回の場合ですと結婚への道が近付きます。私から言えるのはここまでです」

 ―――あぁ、嬉しい

 新たに結ぶ糸は今より強力な赤い糸に違いない。ひとりでにそう結論付けた。梨花の顔に勝利の微笑みが浮かぶ。笑わずにはいられない、とはこういった状況の事を指すのだろうか。

「あたしと彼を…良太さんと、今より強い縁で、糸で、結んで…!」

「では、一食分の食費を追加でお願いします」

 間髪入れずに男が請求してきた新たな追加料金に梨花の中で芽生えた勝利は瞬時に萎む。

「え、どういう事?」

「私はお嬢さんの〝縁を占う〟とは言いましたが繋いだり結んだり切ったりには別途で料金が発生します。まったく、そんな都合良く考えないで下さい」

 憎たらしいくらいの輝く笑みを顔に貼り付けた美しい占い師はそう言いのけた。

 ―――コイツ…っ!

 沸々と梨花の中で怒りが湧き上がっていく。そんな梨花の怒りや呆れを知った上で男は言葉を付け足した。

「それに私は現金ではなくお嬢さんのような可愛らしい方との食事の時間が欲しいんですよ。ひとりの食事は寂しいですからね」

「言葉巧みね」

「嘘はついていませんよ?」

 梨花は緩やかなブラウンのアイラインが引かれた目でキッと睨みつけるが目の前に立つ美しい男は、この男でないと作れない至極の笑みを浮かべたまま梨花の答えを待っている。

「…分かった。分かったわよ」

「まいどどうも」

 考え抜いた末、いや、もう出かかっていた答えではあったが、梨花は男の要求を渋々承諾した。たったの食事一回分で池田良太との結婚がほぼ約束されるのなら、梨花がそのチャンスを逃すわけにはいかなかった。

「それではあちらのカフェに参りましょう」

「え、そんな、困るわ!」

 男の発言に思わず反論する。見知らぬ顔立ちの整った男と二人で彼のいるカフェに来店となれば彼に見られる危険性、そして梨花同様にあちらからも浮気の疑念を抱かれてしまう。

「さっきも言いましたが私は基本的に見えていません。それに本人がいないと結べるものも結べません。お嬢さん、まだ時間もあるでしょう?今日中に片付けてしまいましょう」

 そう断言して男は車通りが途切れきった道路を横断してカフェに向かって行ってしまった。


 全国展開する赤いロゴマークが目印のカフェを前に、梨花は歩みを止めた。

「ねぇ、良太さん…彼に、何て言えばいいのよ。偶然ね、とか?馬鹿みたいじゃない」

「バイトまで時間が空いたとでも言えば良いんじゃないですか。カウンターとお嬢さん方との中間あたりに私は座りますので、私の事は気にせず飲み物を受け取ったら彼の元へ行ってくださいね」

 さっさと店に入ろうとした占い師は何か思い出したかのように「あ、」と口にする。

「コーヒー代、追加でお願いしますね」

「また!?」

「別途料金の一部です。それに言ったじゃないですか、財布持って来ていないんです」

 梨花の前に差し出された細く白い指が並ぶ男の手のひらに渋々五百円玉を乗せた。それを恭しく、梨花の手のひらごと男は両手で包み込み、相手をうっとりさせる顔を梨花に向けてくる。

「お釣りは後ほど返しますね」

 律儀なのか梨花が言い返せなくなるための策略なのか。冷たい手ですっと梨花の手から小銭を抜き取り、占い師は颯爽とカフェ店員が客を待ち構えるカウンターへと近付いて行った。

 初めて彼に直接触れられたが、どうも温かみのない手であった。酷い冷え性だろうか。

「…あっ、いらっしゃいませ!」

 梨花が店に入ってすぐ、可愛らしいショートボブの店員が不自然な間を開けて占い師の男に声をかけた。あんな絶世の美形を前にその存在を見落とすなんて、そんな馬鹿な事ある?

「ブラックコーヒーをお願いします」

 店員の動揺も失態も気にする素振りを見せず、見せかけの営業スマイルで男は注文をする。店員はぽおっとした目で「コーヒーが…おひとつ…」と注文を繰り返していた。

「あと後ろの女性にも同じコーヒーを。会計はこちらがします」

「…は?」

 梨花が男の言動に仰天して思わず声を出すと、占い師は口元に人差し指をあて静かにするよう促した。

「ただ、席は別なのでそれぞれ運べるようにしてもらえるかな?」

「は、はい。かしこまりました」

 男の指示に素直に従い、梨花と歳の近そうな店員はせかせかと準備を進めていく。さも自分の金かのように男は会計を済ませると、カウンターに二つのコーヒーが並んで差し出された。

「ごゆっくり」

占い師は「ありがとう」と朗らかな笑みを浮かべるが隣に立つ梨花は曇り顔のまま。洋食屋同様に男の勝手な注文に納得がいかないし、何より梨花はコーヒーより紅茶派だ。

「じゃ、また後で」

 梨花の耳元でぼそっと呟くと美しい男は離れて行ってしまった。彼の急な接近にどきどきした梨花はすぐに動けなかった。

 ―――あんな詐欺師まがいの男に翻弄されてたまるか!

 奥歯をグッと噛みしめ、梨花は自分自身に言い聞かせる。いくら美形男子相手とは言えワガママ法大好き放題なあの占い師のペースに流されてはいけない。こっちは客で金を払う側だ。ちくちょう。帰りはとっちめてやる。

 梨花はぷりぷりして店内にいるはずの彼氏の姿を探す。池田良太はカウンターの横に立つ梨花からすぐに見える二人掛けのテーブルにパソコンを開いてカタカタと文字を打ち込んでいた。

「りょ、良太さん」

 上ずった声色で梨花は彼氏に声をかけた。笑顔がトレードマークの彼にしては珍しく目を見開いて顔をさせ、梨花の突然の登場をあからさまに驚いていた。

「梨花ちゃん、どうしたの?」

「えっと…バイトがあるのに早めに駅近くに着いちゃって。時間を潰そうかと」

 男が言い訳の案をほぼそのまま口にする。だが、梨花の発言に彼は首を傾げた。

「けど、ここだと駅までちょっと離れすぎてない…?」

 池田良太の発言はもっともで、梨花の笑みが途端に引きつりだす。彼の様子を見るに梨花の登場を単に不思議がっているだけで怪しんでいる訳ではなさそうだ。

「あー…っと、ここのカフェに高校時代のクラスメイトがバイトしてるって最近聞いて、今日はいるかなーって。けど、今日はシフト入ってないみたいだったけど」

 いけしゃあしゃあと梨花は嘘を口にする。彼には分からない範囲でありそうな話だ。

「えっ、そうなの?」

 次に顔色を変えたのは池田良太の方た。梨花の嘘にさっと顔色を変え、酷く困ったような、動揺を隠しきれていない顔になる。それを見た梨花はすっと目を細めた。

 ―――このカフェの店員に関して何かあるな

 自分の事を差し置いて、彼の変化を梨花は怪しむ。

「立ち話も何ですし、座っても良いですか?」

「あっ、うん。もちろん。待ってね、今パソコンしまうから」

 彼の顔は既にトレードマークでの笑顔に戻っていた。梨花はささっと席に腰掛け、彼の片付けが終わるまで何気なく店内を見わたす素振りを装い、占い師の男へ目を向けた。

 男は店に入る前に言っていた通り、カウンターと梨花達が座る席との中間あたりにあるソファー席にひとりで座っていた。折角お金を出してあげたコーヒーにはまだ手を付けていない。手先をくるくる動かし、腕に何か巻きつけている。

 ―――なんでみんなあの占い師を見ないんだろう

 不可思議な行動を繰り返す男には誰一人として目を向けない。占い師の行動はそこまで派手な動作ではないため目立ちはしないがよくよく見れば不可解な行動だと気付くだろうし、何より整い過ぎたあの顔に釘付けにならないはずがない。

 これではまるで、あの男が透明人間か何かのようだ。

 ―――そもそもあの男って何者なの?

 何故だか今まで一度も不思議に思えてこなかった疑問が唐突に湧いてきた。副業で占いをする、縁を占う美青年の占い師。まるで早口言葉のようだ。

「梨花ちゃん?もう良いよ」

「っあ、はい」

 彼からの片付けを待っていたのだと思い出す。すっかり頭から吹っ飛んでいた。

「コーヒーなんだ、珍しいね」

 テーブルに置いたマグカップを覗き込み、池田良太は少々驚いた声でそう言った。

「えと…あの、良太さんの真似をしてみようかなー…なんて」

 へらへら笑って新たな嘘を注ぎ足す。彼は研究室でも外でも家でもいつだって飲み物はコーヒーにを選ぶ人だ。独特な苦みや佳織が好きらしい。梨花にはまだ分からない良さだ。

 ―――そう悪い嘘でもないだろう

 彼の反応を待ちつつ梨花はそう思い込んでおく。たまに食べたり飲んだりする物を真似たって、相手が彼女であればそこそこ可愛く思えるはず。

「あはは、そっかそっか」

 ―――ほらね、満更でもなさそう

 そう思いつつも梨花は彼の反応に心から安堵し、ほっと息を吐き出す。嘘を吐くにはそれなりの勇気とそれを突き通す覚悟が必要なのだ。

「梨花ちゃん顔色悪くない?体調悪いの?」

「え?そうですか…?」

 彼からの指摘に首を捻る。占い師に会いに行くため、今日は気合を入れていつもとは少しだけ化粧を変えたせいかもしれない。明るめのファンデーションを塗りすぎただろうか。

「平気です、これからバイトだし。あっ、バイト終わりに良太さんの家へ帰って良いですよね?」

「うん。だけど、バイト終わってから気分が悪くなった時は真っ直ぐ自分の家に帰るんだよ。なんならバイト先まで迎えに行って送っていくから」

 ―――優しいヒト

 強張っていた梨花の顔にふっと自然な笑顔が溢れる。しあわせなのだ。素敵で優しく笑顔の似合う池田良太さん。梨花には自分にはこの人しかいないと錯覚しきった状態だった。

「ありがとうがざいます」

 心からの感謝を梨花は彼に伝えた。

 

 ―――――……ぷつん


 梨花の言葉とほぼ同時に、何かが切れる音がした。

 店内で流れるBGMに比べ、冷め切ったその音は梨花の耳にしっかりと届いてきた。しかし梨花の目の前に座る彼も店内にいる客も店員も誰一人としてその音に気が付いていない。

 店内で唯一その音を耳にした梨花は迷うことなく一方へと視線を向けた。

 洋食屋で目にしたハサミを片手に、店内のライトでそれを煌めかせる占い師の男がいた。ハサミはもう使い終えたらしく、梨花が目を向けてすぐにテーブルに置いていた。

 じっと見つめていると、彼だけに見えていたはずの〝何か〟が何故だか梨花の目にもボンヤリ見えてきた。梨花は食い入るようにその〝糸〟を凝視する。

 彼が手にしている糸は血のように赤く、糸で言うと靴ひもや書類を縛る紐のような糸。その糸は勝手に収縮しようとしているのか、男はそれが手元から離れてしまわぬようグイグイ引っ張っていた。

 言い様のない勝利。きっとあの天使のような占い師はあたしと彼をより太く強固な赤い糸で結んでいるんだ。なんて嬉しい。梨花は今にも大声で笑い出しそうになる。占い師の男はそこから暫くモゾモゾと動き続けていたが、作業を終えると大きく伸びをして梨花の方へ視線を寄越した。まるで梨花が見つめていたのを知っていたかのように。男の顔は一仕事を終えた満足げな顔ではない。少々不満げな顔をしてコーヒーを指差している。食にうるさそうな男の事だ、コーヒーが冷めるとでも言いたいのだろう。

 それとなく一度だけ頷き、自然と弧を描いたままの唇を白いマグカップにつけた。

池田良太は梨花が横を振り向いている間は不思議そうな目で見ていたが、梨花がコーヒーを口にしようとすると今度は心配そうな目に変わる。途端、梨花の顔が歪んだ。

「にがっ」

 梨花は二十二歳を目前にしておいて今回が初のブラックコーヒーだった。ビールは苦いから、と飲み会で毎度毎度避けている梨花には当然の事かもしれない。

 梨花の反応に心配そうにしていた彼はぷっと吹きだした。

「そりゃそうだよ。梨花ちゃん、ブラックに挑戦するんだーってただ見てたけど、砂糖かミルク入れた方が好みの味だと思うよ。持ってこようか?」

「むー。子ども扱いしないでください」

 梨花は強がり、そのまま半分ほどコーヒーを飲み込んでしまう。辛みで舌がピリピリする感覚とは違うが、舌におかしな膜が張り付いた感覚に陥る。

「…やっぱ甘くします」

「うん、そうしなそうしな」

 負けを認めた梨花を面白そうに見ていた彼に「バカにしてー」と悪態をつく。それでも梨花の顔には笑顔が戻ってきていた。チラッと視線をずらして占い師を視界に入れると、横顔からも分かるくらいに満足そうな顔をしている。良かった。

 占い師にばかり気を取られていた梨花はそこでようやく違和感を抱いた。美青年が腰掛けるソファー、広々としたそれは頑張れば三人は座れそうだ。そんなソファーには美青年の他に見知らぬ年老いた男性が占い師の真隣にどっしりと腰掛けていた。

 別に、ソファーに座るのが悪いともおかしいとも思わない。だが何も他に席が空いているというのにわざわざ占い師の隣に座る必要があるだろうか。それに、占い師が座るそのすぐ隣に置かれたまったく同じタイプのソファーはガラ空きだ。そっちがあるだろうに。

 いつの間にやらこちらに戻ってきた池田良太が梨花へ親切に手渡してくれた砂糖の入れ物、それを持つ梨花の手が震えてきた。

 ―――あの占い師、本当に見えていない…の…?

 じゃあ何であたしには見える、何で洋食屋とカフェの店員は見えていたの。なんでどうしてどういう事なの。さまざまな疑問の声がめまぐるしく頭の中を駆け抜ける。

 言葉の波に押され、梨花の震えていた手から無頓着な白い陶器が滑り落ちた。

 ―――――……カシャン

「あっ」

 耳に痛い陶器の割れる音と梨花の声はほぼ同時。テーブルからさらさらした白い砂糖の滝が床に向かって落ちていく。

「わ、梨花ちゃん大丈夫?怪我はない?」

「お客様、大丈夫ですか?」

 音を聞きつけた店員と梨花が小瓶を落とす様を見ていた彼から心配する声がかけられる。なんだ、どうした、と糸の切れた音には反応しなかった店内の客の視線が四方から降り注がれる。

 わたわたと狼狽える梨花を池田良太は立ち上がらせ、店員に案内された別の席へと移る。店員から彼と同じく怪我はないかと問われ、梨花は頭を振る。

「もともと劣化していたので割れやすかったのかもしれません。大変失礼いたしました、服や持ち物に汚れはありませんか?」

「あ、いえ。特には…」

「新しい飲み物を入れ直して参ります。失礼しました」

 ―――失礼したのはこっちなのに

 店員の対応に罪悪感を覚える。横にいる彼から注がれる視線も、まばらになった野次馬の目もなんだか申し訳ないし恥ずかしかった。

「結構な量入ってたし重かったのかもね。ごめんね、俺が適量入れてくれば良かったのに」

「バカ言わないでください、考え事してたら手が滑っただけなの」

 そう、問題なのは〝周りから見えない占い師の男〟だ。

 バッと店内の方へ顔を向けるも、あの神々しい顔はどこにもない。座っていたはずのソファーには先ほど目にした年老いた男性が座っているだけ。梨花が引き起こした騒動の内に店を出て行ったのだろうか。それとも、梨花が周りと同じく占い師を〝見えなく〟なってしまったか。

「あた、あたしっ、バイトが!良太さん、代わりにコーヒー飲んじゃってください!」

「え、梨花ちゃん?」

 血相を変えた梨花は彼の驚いた声に立ち止まることなく駆け足気味に店を出た。たぶん、コーヒーを準備しているであろう店員も彼と同じような顔で梨花の姿を見ていただろう。

 駅近くの洋食屋からここまで来た道を引き返そうとした。だが、これは単に梨花の勘ではあるが、男の営む占いの店に戻っている可能性の方が高い気がした。

 ―――けどあの店が魔法みたいになくなっていたら、どうしよう…

 気合を入れてヒールの高い靴なんて履いて来るんじゃなかった、と朝の自分に後悔しながら出来る限りの速さで梨花は足を進めていった。

「おや、お嬢さん。お早いお戻りで」

 あまりにあっけなく〝問題の男〟は梨花の前に姿を現した。思わずその場で崩れ落ちそうになる。男は洋食屋を出た後と同じくコンビニで煙草をふかしていた。煙草の先か昇る煙は灰色ではなく半透明な淡いブルー。広がる煙には満天の星空さながらの輝きを宿している。

「騒動が糸を結び終えた後で良かったですね。最中に騒ぎにでもなっていたら失敗していましたよ、まったく、困ったお嬢さんだ」

 携帯型の吸殻入れに男は煙草を押し付け火を消した。パチパチと火花ではなく星が跳ねるが、生まれた途端に光を失い消えていった。そこまでの一連の動作をただただ見ていた梨花は大きな溜め息をつき、声を張り上げる。

「もー!勝手にいなくなったりして!びっくりしたじゃない!」

「こっちだって驚きましたよ。急に視線を集めるような愚行をお嬢さんがするんですから」

 男はやれやれと肩をすくめ、膝に手を置いて息を整えていた梨花の前に立つ。

「お時間はまだよろしいですよね?店に戻って最後の話があります」

 梨花はチラリと左腕の――クリスマスに良太さんからプレゼントされたお気に入り――腕時計に目をやる。バイトまでの猶予は一時間半。店に戻って、との事だが、まだ大丈夫そうだ。

「えぇ良いわ。あたしも占い師さんに聞きたい事あるし」

 梨花は妙に挑発的な態度で「行きましょ」と占い師の男を急かした。美しい男はくすっと口元を緩め、肩を並べて初めて出会ったあの占いの店へと戻り始めた。

「ねえ、あなたって周りから見えたり見えなかったりするのはどうして?」

 しばらく歩いたところで梨花が占い師に問いかけた。男は梨花に目もくれず、癖なのか、頭に乗せていた帽子を手元でクルクル回しながら梨花の質問にのっそりと答えた。

「そうですねぇ…早い話、お嬢さんと縁を結んでいるせいですかね」

「けどお昼に入った店の店員やカフェの店員にも見えていたじゃない」

 いまいち納得のいかない梨花はさらに問いかける。

「それは〝お嬢さんを認識した〟から〝私が見える〟ようになっただけですね。お嬢さんが来店するまでカウンターに立っていた店員は私に気が付いていなかったでしょう?」

 そう言われると確かに、と梨花は押し黙る。無視できない美しさを持ちあわせる男を前に接客をしない店員に疑問を抱いたのは確かなのだから。

「それなのにお嬢さんときたら。店内の視線を集めに集め、私みたいな注目の的になりうる存在を白昼堂々と晒すところでしたよ」

 占い師は「あぁ恐ろしい」と胡散臭い演技で身震いしてみせる。

「あなたの存在ってバレチャいけないの?」

「一風変わった思考回路のお嬢さんは最初から疑わなかったようですが、縁を操るだなんて普通ではないでしょう?縁を繋いだり結んだり切ったり、そもそも縁が見えてる時点で私は明らかに異常です。そう思うでしょう?」

「でも、それは…」

 ―――あまりに自然なことに思えたから

 出会ったことのないそれはそれは不思議な青年、それも生きている者とは思えぬ美しさ。ありえないであろう行動や力を持っていても何の違和感もない。それどころか梨花にはそれが当然のように感じられたのだ。

 言い淀んだままの梨花をそのままに占い師は考え込む仕草をする。何を考え込んでいるのか聞こうと「ねえ」と声をかけるが、横目で一睨みされ梨花は口を閉じる。機嫌が悪くなったのだろうか。

その後は二人揃って押し黙ったまま歩き続け、見慣れたビルに到着した。エレベーターに乗り込んですぐ、チン、と軽快な音で四階への到達を告げた。男は長い脚でスタスタと先を歩き、年季の入った鍵で店を開けた。それと同時に扉にかけられた趣味の悪い眼の看板を開かせる。今にもギョロギョロと動き出しそうで気味が悪い。

「ねえ、この眼、悪趣味過ぎない?」

 もう機嫌は直ったのか、男はすぐに言葉を返してくれた。

「言ったでしょう。扉の眼と私の風貌で警戒させると。普通の人ならこの眼を前にして扉に近付こうとも、ましてや店に入ろうともしないんです。ケチ付けないで下さい」

 失礼な、と梨花は男の発言に反発する。

「えー。じゃあ、あたしは何なのよ」

「頭のネジが外れた一風変わったお嬢さん、とでも言えば良いですかね」

「なによ!あたしの頭がおかしいって言うの?」

「まさか。大切な客様にそんな事」

 そうは言っても顔には冷笑的な笑みが浮かんでいる。完全に梨花を馬鹿にした態度だ。

「ねえ、あたしと彼に今より強い縁を結んだって事なの?」 

 店に入り、男が閉めていた窓を開け放ったところで梨花は一番聞きたかった話を投げかけた。その質問は予想外だったのか心のない瞳を見せたあり隠したりして目を瞬かせている。

「糸が見えたんですか?」

「ぼやっとね。はっきりとは見えなかったけど、色とか…ねえ、どうなの?」

 どこか残念そうな、無念そうな、何とも言えない表情で「どうでしょうね」と曖昧な答えを占い師は口にした。梨花は納得がいかなかったが、歩いていた時のように不機嫌になられてはかなわないので黙っておいた。

 男は無造作に帽子とジャケットを衣装ケースに仕舞い込み、内ポケットから銀色のハサミを取り出した。ハサミに歪みがないか片目を閉じて確認している様子を梨花は壁際に並んだ椅子の一つに腰掛け眺める。

「潮時ですかね」

 不意に美しい占い師の男は口にした。

「何が?」

「いやなに、竹山梨花さんとのご縁が、です。まあもう一回位は大丈夫でしょうけど」

 男の口からこうもあっさり梨花のフルネームが出たことに一瞬驚いてしまう。いったいいつ占い師の男に自己紹介をしただろうか。梨花が驚いている間に、占い師は机の引き出しにハサミを仕舞い、替わりに小さな銀色の糸切りバサミを手にしていた。

「それ、何に使うのつもり?」

 ハサミの名前からして明らかだが、梨花は一応聞いておく。

「お嬢さんとの縁を切るのに使います」

 梨花は予想はしていたものの、男のあっさりした物言いにあんぐりと口を開く。

「えー、なんでよ!切らなくてもいいじゃない。あたしとはもうお友達でしょう?」

「縁の占いはこれにて終了となります」

 占い師は「ありがとうございました」と言って、蛍の光をBGMに閉店後になって店を出た客に対してお辞儀をする店員さながらに深々と頭を下げている。

「そんなぁ…じゃあ切ったらもうあなたの事は見えなくなるの?」

「いえ、最初にこの部屋で見た男に見えるようになります。それと記憶の一部がなくなります」

 ぐりぐりと大げさに腕を振り回し、男は「今言っても仕方ないですけどね」と呟く。荒療治でもはじめるかのようだ。それを前にして梨花はしょんぼりと眉を下げる。

「忘れちゃうって事?」

「えぇ。だから大体の質問には親切に答えてやったんですよ。忘れられる範囲の事は、ね」

 男は目だけで感謝しろ、と訴えてくる。最初の紳士的な態度はどこへ行ったのやら。いや、最初からこの占い師はやりたいようにしかやっていない。男が紳士的なのは上辺だけだ。

「料金は目が覚めましたら払っていただきます。他にも目が覚めた後にあれこれ指示を出しますので、頼みますから素直に従ってくださいね」

「あ、ねぇ、待って。食事は?また一緒にしましょうって言ったじゃない」

 男が自分の発言を忘れているのでは、と梨花は急いで言葉にした。

「あぁ。それは次回の最後になる食事で結構です」

「次回?縁を切ってもまたここに来れるの?」

 次がある事に梨花は素直に喜んだ。また会えるんだ、と思うと胸が熱くなる。この美しい占い師にはどうも抗いがたい引力がある。顔を輝かせる梨花に男は無表情で語りかける。

「お嬢さん、今回の来店が本当に初めてだとお思いですか?」

 ひやりと体を撫でる冷たい口調。男の言葉は一瞬にして室内を凍りつけた。梨花はぶるりと身を震わせ「何言ってんの…?」と反射的に口にする。

「お嬢さんから散々質問攻めされたのですから、私だってお嬢さんに問いてもいいでしょう?」

「へ、変な事言わないで。そんな…だって、ここ、初めて見たし…存在自体今まで気付いてなかったってのに…」

 しかし、そこで梨花はハッとする。あの悪趣味な眼のある扉を見た時の感覚。気味の悪さに加え、ほんの少し〝懐かしさ〟を感じた。それと同時に〝底知れない恐怖〟も。

 本能的な逃走精神だろうか。熊を前にしたように梨花はじりじりと扉の方へ後ずさった。

「逃げても無駄です。こちらには〝糸〟がありますから」

 天使のような悪魔はクイッと自らの腕を後方へ動かす。

 梨花は言葉の意味を理解するより早く効果を体験させられる。最初に糸を結ばれた右腕を引っ張られたのだ。梨花には見えない男と繋がる糸に引き寄せられ、梨花は力無く部屋の中央に置かれた真っ赤なソファーの方へよろけ「きゃっ」と口にしてソファーに身を沈めた。

右腕は男の方へ突き出されたまま。抵抗して腕を引こうにもピクリとも動かず、かなりの力で引っ張られているのだと分かる。

 恐怖の顔を覗かせる梨花へ占い師は天使としか思えない至極の笑みをして最後の挨拶をする。

「またのご来店、お待ちしております」

 ―――――……ぷつっ

 引っ張られていた梨花の右腕は糸の効力を失い重力に従いソファーの背もたれにずり落ちた。

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