麗しき占い師は運命の糸を辿る

いわくらなつき

第1話 目に見えない縁

 赤、白、ピンク。

 バレンタインを意識させる、華やかで可愛らしいハートの装飾が店を彩るカフェ。その一角では店内の雰囲気に負けず劣らずな雰囲気を醸し出すふたりの女が顔を寄せ合って熱心に話し込んでいた。

「うっわー、梨花の彼氏超良い人そー!大学の人だっけ?年上?」

 最新型のスマートフォンに映し出された画像にかじりつき、興奮気味にそう問いかけてくる親友に対して、自慢げな表情にならぬよう細心の注意を払って梨花は口を開く。

「そ。彼、大学の院生なの」

「うらやま。梨花の大学の院生とか将来有望じゃん。うらやまー!」

 最初と最後に同じ言葉を繰り返す相手に、まんざらでもない梨花は口の端をニッと釣り上がらせてしまう。

「いーなーいーなー、余裕のある年上彼氏!就活で疲れた身を癒してくれそー。菜緒の彼氏なんて就活前だってのに追試に追われてるダメダメっぷりだよ?今年は科目数少ないのに。帰ったら見てあげなきゃ」

「わ、そりゃ大変。頑張って」

 菜緒には高校から付き合っている彼氏がいる。

 高校の頃、テスト前になると彼に対して叱咤していた菜緒の姿が不意に思い浮かび、梨花はくすくすと思い出し笑いをしてしまった。

「あーぁ。茉緒たちもついに就活の時期だよー?いやだー、胃痛めそー」

「ね。将来が決まっちゃうとか怖いなあ。なんか、信じらんない」

「ほんとそれ!ついこの間まで高校生だったのに」

「え、それは菜緒の中で流れる時間がおかしいだけだよ」

「あ、ひどーい」


 就職活動を目前に控えた梨花と菜緒。ふたりは高校からの同級生だ。

 大学生になり、それぞれ別の大学に通いだしたがちょくちょくこうしてふたりは顔を合わせていた。

 今回は就活目前にゆっくり会う最後のチャンス。お互いに励まし合おうと約束しておきながらこうして恋愛話に移ってしまうもは女のサガだ。致し方あるまい。

「んもー。彼氏ができたんならもっとはやく菜緒に言ってくれたら良かったのに。けど、梨花の事だから相談も必要ないくらいトントン拍子で進んだって感じ?」

「ふふ、どーでしょー」

「きゃー。さっすが、狙った獲物は逃がさない、竹山梨花!」

「やめてよ、野生動物じゃあるまいし」

 その後も高校時代のはずかしいような、こそばゆいような、最早黒歴史とも呼べる恋愛話を掘り起こされ梨花は「お手洗い行ってくる」と言って菜緒から逃げるようにして席を立った。


 トイレに並んだ小さな鏡で髪と化粧を整え、こちらを見つめる自分の顔を梨花もじっと見つめ返した。

『梨花の事だから相談も必要ないくらいトントン拍子で進んだって感じ?』

 菜緒の言葉を思い出し、梨花はふっと笑ってしまう。


 ―――言う程順調だった訳でも相談の必要がない訳でもないんだけどね


 丹念に手を洗いつつ、梨花は心の中で菜緒の言葉に反論をしておいた。

 梨花の彼氏、池田良平とは入学してすぐに大学のサークルで知り合った。

 学年的にも年齢的にも上である彼に梨花は生まれて初めての一目惚れを体験し、あの手この手どうにかここまで漕ぎつけた。付き合いだしたのはここ最近、半年ほど前からだ。

 だが、ここに来て、梨花は彼に女の影を感じていた。

 彼の友好関係はそう広くない。友達も男ばかり。高校の同級生か研究室にしか女の繋がりはない程だ。

 それに対して梨花の友好関係は広く、男友達も比較的多い。彼が梨花に疑いの目を向けるのであれば仕方のない事だが、彼を疑ってしまう程に彼の様子はどこかおかしい。いや、実際はそこまで明白な変化ではないはずだが。

 会う日数は変わっていないが、いつの間にか会う時間が少しだけ短くなった。

 テスト期間は梨花が切羽詰まっていたためあまり会えず、ようやく彼に会えて喜んでから一週間も経たずにその小さな変化に梨花は気が付いてしまった。その後、梨花は興味本位で彼の後をこっそりつけてみた。分かった事と言えば市の図書館、又は大学や一人暮らしをするアパートよりも遠いカフェに通っている事のふたつ。

 研究に関する勉強かな?と最初は思ったが、どうも違う。

 次第に梨花と会う際に浮かべる笑顔が以前よりも輝きが薄くなった気がした。まあ、これは単に梨花の思い込みかもしれない。最終的には女の勘としか言いようがない。


 ―――浮気、なのかな

 相手を振る事ばかりだった梨花にとって、これは納得がいかなかった。彼が目移りしてしまう原因が自分だなんて不甲斐ないにも程がある。問い詰めたい。

 かと言って、彼が無実であった場合そんな疑いを抱いて問い詰めた暁にはもれなく彼が引いてしまうであろう、と付き合いこそまだ短くとも長い事彼を見てきた梨花には予想できる反応のひとつだ。

 昔から、梨花は恋愛において百戦錬磨のはずだった。

 見た目もそう悪い方ではないと自負している。それに加え髪型から服装、雰囲気まで、相手の好みのとことん合わせてきた。そうして何としてでも好きになった相手を自分自身へ振り向かせてきたのだ。

 終わりの時に別れを切り出すのはいつだって梨花であった。相手にサヨナラを伝えるは梨花の役目なのだ。

 そのおかげかこういった状況の対処がてんで出来ない。梨花が相手に冷め切った心境であれば浮気につながる行動を察知した途端にさっさとポイしてしまうのだが、残念ながらいま現在の梨花にはそういう気持ちが一切ない。本当に好きなのだ、彼の事が。


 ―――独占欲ってやつかな…我ながらガキ臭い

 自分の中で膨らむ感情に反省と呆れを感じ、溜め息を漏らす。

 彼を泳がせて帰ってくるのを待つのも手だがその間に見ず知らずの相手から彼に決定打を叩き込まれればこちらが捨てられる。

 それに彼はこれと決めたら譲らない頑固な一面がある。梨花とは別れる覚悟で密会じみたことをしている可能性もあるのだ。

 彼との別れは何としてでも避けたい。それが梨花の思いだ。

 策を練りながら今回ばかりは菜緒に相談してみようかな…、と珍しく弱気な考えまで浮上してきたところで濡れた手をハンカチでふき取り、菜緒の待つカフェに引き返した。

 今日、菜緒とふたりで訪れたカフェは高校時代からのお気に入りの店で、テスト週間が終わるとご褒美と称してよく甘いものを食べに来ていた。おすすめはお手製のアップルパイ。


 そんな通い慣れた場所だからこそ、梨花は新しい発見に足を止めてしまった。


 男性用と女性用のトイレへ入る扉が並ぶ通路の先、いままで行き止まりだとばかり思っていたがどうやら通路が右に折れているようだ。曲がり角にちょこんと置かれた看板の矢印がそちらを向いて、その古ぼけた看板にある矢印の上には『あなたの縁、占います』と書かれている。

 ―――この辺に占い師っていたんだ

 思わず感心してその看板を遠目からしげしげと見つめる。梨花は以前、菜緒と興味本位で手相占いを受け、それ以来案外占いも馬鹿に出来ないな、と思えていたのだ。

 なぜなら今の彼との出会いを最初に言い当てたのはその占い師であったからだ。 まだ高校生であった梨花に対して『十九歳になる前に良い出会いがあるね』と占い師は断言した。『同じ時期に変な出会いもあるから惑わされないように注意』とも言われたが、彼との出会いで梨花は確信した。あの占い師が言っていた事は本当なのだ、と。

 通路にテーブルを置いて占い師が待ち構えている場合に備え、梨花はヒールの音を極限まで忍ばせて覗き見ようとする。占い師がいませんように、と祈りながらそっと目を向けた。

 右に折れた通路、その突き当りには木製の扉がこちらを向いているだけで通路はしんと静まり返っていた。立て看板に書かれた書体に似た文字で『占い』と書かれた看板がぶら下がっている。その下には趣味の悪い〝眼〟の絵が取り付けられていて梨花をじっと見つめている。

 ―――うわー。なんか、本格的かも

 あからさまに怪しい雰囲気のそれに梨花は興味を惹かれた、が、すぐに退散した。惹きつけられると同時に何か底知れない恐怖、そして覚えのない奇妙な懐かしさを感じたからだ。


 逃げるようにしてその場を後にした梨花はカフェの明るい雰囲気に呑まれた途端心底ほっとした。通路が肌寒かったせいか、体の内から温かさを感じ取れる。菜緒はスマートフォンのゲームに夢中で梨花が席に着いても「おかえり」と言うだけで顔を上げない。

「ねえ、この近くに占いやってるお店あるって知ってた?」

 梨花は占い好きの菜緒にすぐさま聞いてみる。

「えー?占い?このビルに?」

「そう。トイレのある通路をそのまま真っ直ぐ行ったところに。高校の時、どこで占ってもらおうかって検索かけたけど、ここは出てきてなかったよね?」

「うーん、そうだったかも」

 梨花の話を半分も聞いていないような曖昧な菜緒の返答に梨花は顔をしかめた。ゲームに夢中な菜緒に聞くのを早々に諦め、梨花は自分で検索をかけることにした。


【○○ビル 四階 占い】


 検索結果はすぐに出た。

 このビルとは関係のないビルの四階にある占い館、このカフェの紹介文、ビルとも四階とも関係のない占い師の情報が無作為に並ぶ。梨花は他にも検索内容を変えて試みたものの、ここはどうやっても占い関連で引っかからない。

「本当に当たる占い師さんがやってる店なのかもよ」

 いつの間にかゲームを終えた菜緒が梨花の検索結果を覗き見て、そう口を挟んできた。

「ほら、お金かけた宣伝なしで人伝にだけ伝わる占いどころとか、なんかありそうじゃん?」

 菜緒の言葉に「たしかに…」と言葉を返す。すると菜緒は急に目を輝かせる。菜緒が占い好きだからこそ、梨花があの手相占いを受けたのだ。彼女が興味を持たないはずがない。

「見たい見たい!行こ行こ!」

 菜緒に急かされ梨花はカップに残っていた冷め切ったアップルティーを飲み干した。すっかり冷えた紅茶に梨花は身震いする。せかせかと会計を済ませ、ふたりは店を出た。

「あれ、立て看板が…」

 店を出てすぐ、梨花は角を目前に梨花は先ほど目にした立て看板がなくなっている事に気付く。注目して見なければ見落としてしまうであろう地味な立て看板が数分前まであった場所から完全に姿を消していた。

「こっちー?」

「あ、うん。そう」

 看板の存在を元より知らない菜緒は梨花のように立ち止まることはなく、躊躇なく曲がり角を曲がっていった。彼女に遅れて梨花も角を曲がると木製の扉がふたりを待ち構えていた。

 看板同様消えているのでは、と心の片隅で不安に思いはじめた梨花は扉が存在していた事にホッと胸を撫で下ろす。夢か幻覚であったら怖すぎる。

 しかし扉にも多少の変化があった。

 『占い』と書かれた看板も悪趣味な眼の絵もなくなっていたのだ。

「お店閉まっちゃったのかなあ」

 変化のあった扉をしげしげと見つめる梨花の横で菜緒は残念そうな声をあげる。

「占いパワーが尽きたから本日の営業は終了!的な?ぽいわー、ありそう」

「なにそれ」

 菜緒の発言に思わず笑ってしまった。菜緒も梨花の笑みに釣られて笑い出すが扉に同化している装飾に菜緒は気が付き、興奮気味に梨花へ話しかける。

「なにこれー!眼だよ、眼!」

 そう言って扉に付けられていた眼のそれを菜緒は手動で開いては閉じるを繰り返した。梨花が見たあの悪趣味な絵は『占い』の看板とは違い扉にしっかり取り付けられていた。

「これでオープン・クローズを表示してるのかなー?コワーイ!気持ち悪ーい!けど雰囲気あるわー」

 菜緒が実演してみせた手動の仕組みを見て梨花はひとり納得し、安堵した。魔法じゃあるまいし、そんな非現実的な事があるはずもないが、梨花はこの眼が店に入ろうとする客を選別するためにこの通路を見ているのでは、と思えていた。

「えー、機会があれば入ってみたいかも」

 そう言って菜緒は急に意欲を見せだした。きらきらと大きな目を輝かせ梨花に顔を向ける。

「手相かな、タロットカードかな、それとも水晶とか陰陽師的なのかな。どんな占い師さんなんだろう。梨花、今度試しに入ってみてよ」

「えっ、あたしひとりで?」

 ぎょっとする梨花に菜緒はコクコクと何度も頷く。

「就活終わるまで菜緒、こっち戻れないもん。梨花はこっちで就活でしょ?時間あったら入って感想教えてよ。ちょっと入って、見学。逃げても良いからさ」

「逃げて良いって…」

 なんと無責任な、と思ったが梨花は頭の片隅でスケジュールの確認を行っていた。菜緒に言われなくとも入りたいのは梨花も同じで、この謎の多い占いの店に興味が湧いていた。

「…考えとく」

 肯定も否定もしない言葉を並べつつ、来週にしようと梨花は心の中でひとり決断した。


 あっと言う間に時間は流れ、翌週。

 梨花は再び例のビルへ来ていた。今回はもちろん、ひとりで。

 ―――お店やっていますように

 祈る気持ちで目的の店がある階の〝4〟のボタンを押した。ガゴガゴ…と不安をかき立てる音を鳴らしてエレベーターは上へと動き出す。

 ―――できれば先客がいてくれますように

 さらに祈りを付けたし――先客がいれば梨花を占い始める前に逃げ出せるかもしれない――頭上で点滅する数字のランプを梨花は見つめた。階が上がる度に動くランプの点滅は運命のカウントダウンでもしているようで、自然と梨花の心拍数も上がっていく。

 もしも占い師の話に乗せられるうちにすぐさま占われても良いように、梨花の財布にはそれなりの額を入れて来た。金銭的な問題は解消済み。

 だが、そこまでして訪れた割にいまだ踏ん切りがついていなかった。そもそもこのお金は就職活動の遠征用に貯めていたお金だ。無駄遣いはしたくない。それでもこうして曖昧な心境のまま来たのには理由がある。


 一週間が過ぎても彼は相変わらずおかしなままだった。バレンタインの日にはそれは嬉しそうに梨花が手渡したチョコを受け取ってくれはしたが、鞄の中には綺麗に包装された市販のチョコが入っていた。

 『研究室の後輩にもらったんだ』

 目ざとく見つけだした梨花に対して彼は先手を打つようにそう言って、笑った。


 ―――絶対、怪しい

 疑いがあるだけに、彼の発言を信じ切れずにいた。カフェ店員に一目惚れでもしたか、図書館で中学か高校の同級生とでも再会でもしたか。そんな予想を最近になって打ち出した。

 チン、とエレベーターは目的の階への到着を軽快に告げる。昼時で賑わう行きつけのカフェには立ち止まらずに、そのまま通路を突き進んでいった。

 梨花はコツコツと前回とは違いヒールの音を踏み鳴らす。

 後戻りしないよう、自分を奮い立たせるリズムを刻む。耳の内側では血が脈打つ音が忙しなく響いていた。それを振りほどくためにも尚更梨花は歩調を早めていった。

 黒塗りの立て看板は昔からそこに佇んでいたかのようにひっそりと梨花の視界に入り込んだ。

 『あなたの縁、占います』そう看板に書かれた文字を梨花は頭の中で反復する。

 ―――あなたの縁、占います。

 よし、と意気込んだ梨花は颯爽と角を曲がった。


 木製の扉は梨花を静かに出迎えていた。もちろん、あの趣味の悪い眼の木造の絵も。

 しかし、いざひとりで扉の前に立つと、どこからか漂う重厚感に圧倒される。自分の知らない場所へ踏み込むのだからしょうがない事なのかもしれない。扉にかけられた眼はしっかりと開いていた。菜緒の考えが正しければ〝開店中〟であるはずだ。

 ぎゅっと握りしめた拳で扉を叩こうとしたタイミングで、扉がガランガランと慌ただしい音を立て、ひとりでに開いた。

「次もまたよろしく頼んま~す」

 自動には見えない扉が梨花の到着とほぼ同時に開いた原因は、丁度店内から出ようとしていた少年のせいだった。

 少年の耳にはいくつかピアスがぶら下がっており、髪は誰もが目を引くオレンジ。びくっと肩を揺らした梨花の存在に気付くと男は無言で見つめ返してきた。

「切杉さ~ん、客来てますよ~。起きとけよ~」

 店内にいるらしい‟切杉さん”に対して大声を張り上げてそう言い残すと、少年は梨花の横をすっとすり抜けさっさと元来たであろう道を歩き去っていった。

 去っていく少年の後姿が見えなくなるまで突っ立っていた梨花はバタンと音を立てて閉まった前方の扉の音で現実に引き戻された。

 こうなってしまっては入る以外他ない。

 グッと奥歯を噛みしめ再び扉を開け放した。

「し、失礼します…」

 そっと呟き、中に入る。梨花が扉を開けると勢いよく風が通り過ぎ、扉の上に取り付けられたベルが控えめに鳴った。


 思ったより広い店内にはいくつかの電球と謎の吊り輪が場所を選ばずに天井からぶら下げられている。それだけでも異質と言いくるめられそうだが、それだけでは収まらなかった。

 入ってすぐ目につくマネキンたちが壁際に種類も統一感を出そうともしていないアンティーク風の椅子と共に並んでいるのだ。

 ひとつしかない窓は大きく開け放たれ少々傷んだレースのカーテンが風に揺れている。その近くには何も入っていないように見える鳥籠。テーブル。

 そうして部屋の中央には部屋の雰囲気にまったくもって似つかわしくないロココ調の真っ赤なソファー。

 そこには家主、いや、‟切杉さん”と少年に呼ばれていた占い師だと思われる男が寝転んでいた。清潔感のないその男はだらしなく煙草をふかせたまま、先ほどまで客の少年がいただろうにもう眠り込んでいる。

 時折、口元にある火のついた煙草から吸殻がはらはらと零れ落ちていた。真下にはすでに小さな灰色の山ができている。

「あの…危ないですよ?起きてください」

 そのうち燃え尽きて口を火傷するのでは、とか、無駄に高級そうな年代物のソファーを汚してしまうのでは、等と緊張よりも心配が勝り、梨花は自然とそう声をかけていた。

 男は「んん…」と唸り、うっすらと目をあけた。やけに澄んだ男の瞳には梨花が映り込んでいて、疑いを抱いた微妙な笑顔を浮かべた顔をしている。

「あぁ、お元気そうで何より…」

 幼児のように目を擦る男は梨花を知り合いだと勘違いしているらしい。しばしばと目を瞬かせ、男は梨花の顔を黙って見つめ返してきた。

「え、えっと…」

「どういったご用件で?」

 狼狽える梨花を遮って男が問いかけてきた。

「あ…っと、占いを、お願いしたくて…」

 そこで梨花は内心、しまった、と思った。

 これでは逃げるに逃げられない。せめて値段を聞いてからお願いしたいと言えば良かった、と後悔をする。そもそもこんな不潔極まりない男が本当に占いが出来るのだろうか。詐欺ではないだろうか、と梨花は疑い始めた。

 すっかり考えに気を取られ、動きの止まってしまった梨花の替わりに男が口を開く。

「実のところ、世で言うような〝占い〟は副業でして」

「…え?副業…ですか?」

「えぇ、えぇ。ただ縁を占っているのは本当でしてねえ。私は縁を繋いだり結んだり切ったりしております」

 説明にも何もなっていない、意味不明な事を男は言い放つ。男は梨花の表情も気にせず新しい煙草を口に咥えた。

 ―――何言ってんだ、コイツ

 梨花は頭の中で悪態をついた。やはり、詐欺の一種だろうか。

「今、あなたは恋人との縁で悩んでおられるようにお見受けします」

 男の言葉に梨花はピクリと肩を揺らしてしまう。

「わ、分かるんですか?」

 これでは肯定しているようなものだが、梨花は反射的にそう口にしてしまった。男は黙って梨花の言葉に頷いた。男の視線は梨花の目や顔ではなく、手元のあたりを彷徨っている。

「それが要件で来たのでしょう?」

 会話を始めてから、初めて目が合った。

 顔を上げた男の顔に左右対称に並ぶ、吸い込まれそうな程に澄み切った瞳に見つめられた梨花は、頷く以外の選択肢を奪われてしまった。


「私と縁を結ぶ気はありますか?」


「……えっ、縁?」

 ぼうっとしていた梨花はその問いかけで現実に引き戻される。

 ———縁が何だって?

「結んでいただければあなたの縁を占いましょう。ちなみに、占いの料金は千円です」

 ポケットに忍ばせていたらしい電卓をカタカタ鳴らし、1000の数字を梨花に見せつける。なんとも良心的な値段だ。

 男は「もう一度問いましょう」と言うと、コホンとひとつ咳払いをして、寝転んでいたソファーから身を起こし背筋を正した。

 髭を剃って髪を整えれば瞳が際立って良い男に変貌できるだろうに、と梨花は関係のないところを悔やみだす。

「私と縁を結ぶ気はありますか?」

「……おねがいします」

 ———これじゃ完全に誘導されてるじゃない

 内心そう反省しつつも、何故だか不思議と悔いはない。千円なら安いもんだ、と梨花は自分自身に言い聞かせておく。男は梨花の返答に満足そうに頷くと、ちょいちょいと指先を動かしこちら側へ梨花が近付くように促した。

「右腕を出してください」

 髭面の男からの一言に梨花は身を固める。何をする気だろう。

「…直接触ったりはしませんので、ご安心を」

 警戒心を剥き出しにした梨花を説得させるためか、男は間をおいて言葉を付け足した。それを受け、梨花は渋々指定された右腕を前に差し出した。

「料金は後払いです。すべて終わったら頂戴いたしますので、今はそう思っておいてください」

 ———今は?

 男の発言に疑問を抱きつつ男の不可思議な行動を梨花は目で追った。梨花の右腕、手首の下辺りで何かを掴み取っているらしい。髪の絡まりを解すかのように指先で慎重にほぐしている。

 その様子を興味深く観察しながら、梨花は頭の片隅でもしものための策を練り始める。

 まだ料金は支払っていない。宗教じみたおかしな勧誘を持ちかけられたら即逃げよう。梨花は静かにそう決心した。

「あぁ、ようやく解けた。もう少々お待ちを」

 男は黙々と謎の行動を続けている。

 梨花はふと、男が咥える煙草の煙に香りが無い事に気が付く。煙草嫌いな梨花の周りを取り巻いているはずなのに、あのむせ返る匂いが微塵もない。

 占い師は見えない何かを持ちあげたままの片手を空いた片手の方へと引き寄せている。今度は男にしか見えていない何かを結んでいるらしい。これが男の言う縁を結ぶという行為なのだろうか。

 正直な話、気味が悪い

「できた。終わり」

 そう言って男はググッと伸びをし、ソファーの背もたれにもたれかかる。集中を要する仕事を終えて体の緊張を解きほぐしているようだ。

 男の指先、自分の手首あたりに目を向けていた梨花は眉を潜め、男の行動に難色を示す。さっきまでの行動は結局なんだったのだろうか。だが、そんな疑問も一瞬にして吹き飛んだ。

 梨花は男の手先から顔へと目を移したところで、はっと息を呑んだ。


 梨花の目の前に座っていたのは美しい青年だった。

 そこいらの三流芸能人よりもずっと顔が整っている。少々不健康そうな青白い肌は男の儚さを際立たせ、顔に不釣り合いな煙草を口にするその姿は妙に艶やかで色っぽい。ソファーから投げ出された足は長く、黒い髪はカーテンと同じく室内に吹き込む微風に揺れ動き、手に取らなくともその髪がどれだけダメージのないさらさらした髪質かが見て取れた。

 切れ長の目は疲れ切っているのか虚ろで光が少ない。

 けれど、酷く澄み切っている。その瞳はまぎれもなく先ほどまで梨花が目にしていたあの不潔そうな占い師の男だ。

「…腹減った」

「え?」

 男に魅入られていた梨花は彼が動かす薄い唇からボソッと無造作に吐き出された言葉で我に返る。今はお昼時。確かに、腹を空かせる頃合いだ。

「お嬢さん、昼食はどうするおつもりで?」

 プハーッと煙を吐き出すと同時に美青年は梨花へ問いかける。彼を取り巻くくすんだ灰色の煙が心なしか煌めいて見えた。

 ―――お、おじょうさん…!

 彼から呼びかけに梨花は初恋のように胸を躍らせていた。

「と、とくに考えていませんでした…夜にバイトが入ってるくらいで、六時過ぎくらいまで予定は入れていなかったので…」

 しどろもどろにそう説明すると男は無表情のまま、一度だけ頷いた。

「それは丁度良い。では、お嬢さんがこれまで食べてきた中で一番美味しかったランチのお店を紹介していただけませんか?そこで詳しく話を聞きましょう」

 男はそう言っておもむろに立ち上がる。女の平均身長よりやや高めの梨花よりも十センチは背が高そうだ。

 身に着けていた服は少々シワの寄ったスーツ。ワイシャツの上にはグレーのベストを着ている。ジャケットとハットを壁際の椅子の下に置いていた衣装ケースから取り出すとテーブルの上に投げ出されていた小さな鏡で男は身だしなみを整える。

「私からも話したい事がありますしね」

 そこで初めて、無表情のままだった男の顔に笑顔、とまではいかないがうっすらとした笑みが浮かんだ。その小さな変化に梨花は再び息を呑んだ。


 梨花は占い師の男にのぼせた顔色をさせ、ぼうっとしたまま男を連れ、ビルから地下道を通ってすぐの駅に近い洋食屋へと入った。ここであればバイト直前、ギリギリの時間まで男と一緒に過ごせるし、何より男の出した条件通り食事が美味しい。加えて値段が安く学生の身分である梨花の財布に優しい。

 昼時で込み合う時間帯では会ったが、来店してすぐに運良く席へと着くことが出来た。

「お嬢さんのおすすめは?」

「えっ…と…、ハヤシライスですね。あとはオムライスもおすすめで!このお店、ソースが三種類あって、」

「ではそのハヤシライスにしましょうか」

 透明なビニールに包まれていた手拭をさっと取り出し、丹念に手を拭いていた男は話を遮って梨花が最初に進めた品で即決する。

 梨花はメニューを眺め、今回は何にしようかと迷っていると男が近くに来た店員に「ハヤシライス二つ」とさっさと注文を済ませてしまった。

 勝手に注文を済ませてしまった男にいじけた態度を見せる梨花をよそに、男は思い出したように頭の上に乗せていた帽子を脱いだ。

 男はそのまま、あまりに自然すぎる動作で帽子の中から銀色のハサミを取り出した。美容師がカットに使う物より大きく、中学校の家庭科で使った布切りバサミに近い。


 驚いた梨花はぎょっとして目を見開いた。

「な、なににつかうんですか、それ」

 動揺を隠しきれていない口調で男に問う。美青年の占い師はいわくありげな微笑みを浮かべ、ジャケットの内ポケットにハサミを仕舞い込んだ。

「商売道具です。お気になさらず」

 ———これ以上、詮索するなって事かな

 男の態度から梨花はそう結論付けておいた。咄嗟にハサミに関して男へ聞いてしまったが、あまり深入りしない方が良い気がしたのだ。

「さて、料理が来るまであなたのお話を聞きましょうか」

「あ。えと、はい」

 梨花は彼氏への不安と疑問と疑惑を包み隠さず話していった。男がさっさと注文してしまった事への小さな怒りは途端に彼への怒りに様変わりする。占い師の男は席に着いてすぐに置かれたお冷のグラスをくるくる回しながら梨花の話に耳を傾けていた。

「昔、彼との出会いを占いで言い当てられたので、また占いで何か助言してもらえないかなー…なんて、思いまして」

 そこまで言い終えると梨花はポッと顔を赤らめた。我ながら馬鹿な話だ。占いに答えやヒントを貰おうだなんて。だが、言い当てられた実例があるだけに何とも言えない気もしてくる。

「けど、その、アホっぽいですよね。それなら前に占ってもらった手相占いの占い師さんのところに行けばいのに。だけど、どうしても、就活で忙しくなる前にはっきりさせたくて…」

 梨花は言い訳がましくペラペラと口を動かした。占い師はグラスを回し、黙ったまま梨花の話に耳を傾けている。

「お待たせしました。ハヤシライスお二つ、お持ちしました」

 不意に現れた店員の一言にやけに緊張していた梨花はビクッと椅子から体を跳ねさせ過剰に反応してしまう。

 その様子に店員は首を傾げたものの占い師の男からの「どうも」という一声に軽く会釈をし、皿を二枚置いてそそくさと離れて行った。

「んん、これは美味しそうですね」

 運ばれてきた白い皿から立ち込める香りを堪能し、占い師は今までにない瞳の輝きを見せた。

「いただきます」

「あ、はい。いただきます…」

 ———話、ちゃんと聞いてくれてたのかな?

 何の受け答えもなく男は一心不乱にハヤシライスをたいらげていく。一心不乱、と言っても食い散らかしている訳ではなく上品に、そして丁寧に最後の一口まで味わって食している。のそのそと遅い動きで梨花が半分ほど食べたところで、占い師の美青年は「ごちそうさまでした」と言って手を合わせた。

「たいへん美味なハヤシライスでした。良いですね、ごちそうは。身も心も満たされます」

 満ち足りた顔で占い師の男は口元を拭いている。心なしか、頬や唇の血色が良くなった気がした。

 男の小さな変化を観察するようにしてジロジロと見ていると「せっかくの料理が冷めますよ」と注意されてしまった。

「お嬢さんは私に何かしらの助言を求めて来店されたようですが、私はそんな不確かなものよりも正確且つ実用性のある言動と行動を示す事が出来ます」

 梨花の言っていた事に対する返事だろうか。梨花は注意されたにも関わらず再び動きが固まり、視線が占い師へ釘付けになる。

「余程結婚がしたいのですね、交際されている方と」

 ふふ、と不敵な笑みを顔に貼り付ける男の目を梨花は唖然として見つめた。男の顔に並ぶふたつの瞳はビー玉のようで何の熱意も伝わりそうもない。それでもこの目を前にしては心を見透かされていると錯覚してもおかしくはなかった。

「お嬢さんが彼氏さんへさらに結ぼうとしている糸はまるで鎖のようですから」

 ———この占い師はいったい何を言っているの?

 カチャン、と鋭い音を立てて梨花の手元からスプーンが滑り落ちた。唖然とする梨花は身動きが取れず、ぽかんと口を開いたまま、何も言い出せないでいる。

「相手への執着心が余程強いんですね。」

 えらく愉快そうな顔で占い師の男はそう言いのけた。梨花は固まった体の声帯部分をどうにか奮い立たせて動かし、喉から声を絞り出した。

「……幸せに、なりたいんです」

「ほう。しあわせ、ですか」

 梨花の思う‟しあわせ”に興味があるのか単に馬鹿にしているだけなのか、男は梨花の言う‟”しあわせの部分だけ切り取り、猫なで声で繰り返した。

「母はあたしの就職が無事決まって大学を卒業したらすぐにでも父と離婚する気なんです」

 握りしめた拳の中、綺麗にネイルされ整えられた爪が手に食い込む痛みを鈍く感じ取りながら、梨花は淡々と説明を続けた。

 占いの内容とは無縁なのにな、と冷静になりつつある脳の片隅で思うものの梨花の口は止まらなかった。

「父との結婚を母は後悔しています。できちゃった結婚だったんだからぐちぐち言うな、と父は酔った時に母に怒鳴りつけていました。母はもっと相手を吟味すれば良かったとと思っているみたいで」

 声が震える。「あたしと姉を生んだのは後悔してないみたいなんですけど」と付け足しておいたが、梨花は今にも泣いてしまいそうだった。

「あたしは、別に、幸せな結婚をして母や父を見返したい訳ではありません。父の事はあたしも嫌いなので。暴力的なんです、大抵の矛先は母に向かうんですけど」

 黙っていた占い師の男は小さく頷き、足を組み替えた。

「えぇ、お嬢さんの糸を見ればどれが父親と繋がっているか一目瞭然ですよ。ちょっとばかり‟変”ですからねぇ」

 男は意味ありげにテーブルの下で握りしめている梨花の手元に視線を向けて、そう言った。

「あたしは、この人だ、と思った人を、絶対に手放したりなんてしたくないんです」

 そう言い切った梨花は美しい占い師から顔を逸らし俯く。

「そうですか、分かりました」

 思ったより明るい口調でそう言いだした占い師に背けていた顔を向ける。男はすました態度で帽子をかぶり直していた。

「それではお嬢さんがお付き合いなされている方の元へと参りましょうか」

「…へ?」

 占い師からの提案に梨花は目を点にさせる。立ち上がった男はグラスの水を飲み干し、タンッと軽い音を立ててテーブルに戻した。そうして目だけで梨花にさっさとハヤシライスを食べ終えるよう促す。

「今日中に片付けておきたいでしょう?それに彼氏さんとの距離はそう遠くないと思いますよ」

 そう言って梨花の動かないままの右腕から伸びる見えない何かを人差し指で弾く。

「あ、ちなみに私、財布を持ってきていないので食事代は占いの追加料金という事で」

 ちゃかりした言葉を言い残し、人とは思えぬ美しさを持つ占い師は呆然とする梨花を置き去りにして、さっさと店を出て行ってしまった。



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