第3話
田子の浦は、静岡県西岸一帯を指す。このなかから人間一人を捜すとなると、至難の業だ。俺は無謀な仕事を引き受けたことを後悔した。
愚痴を言っても仕方がない。足立ねねがどこに行ったか、彼女の立場になって考えてみよう。
俺にわざわざ田子の浦と言ったからには、最も田子の浦的(tagonorally)な土地のはずだ。田子の浦の中の田子の浦といえば、田子の浦港だ。
それでまず富士市に向かった。
駅から出ると、タクシーを拾い、行き先を田子の浦港と告げた。
「港のどこですかね?」
と聞かれ、
「一番、観光客が来るところ」と答えた。それで漁協食堂前に降ろされた。
ちょうどいい。聞き込みの前に腹ごしらえだ。俺は、田子の浦名物シラス料理を食べた。
これを食べるためにわざわざ田子の浦に来たのだ。食通で知られる俺は、新鮮な生シラスと釜揚げシラスの両方を味わった。
「今回は星二つといったとこかな。さあ、目的の食事も終わったし、帰るとするか」
タクシーを呼ぼうとしたとき、大事なことを思い出した。
田子の浦までわざわざ来たのは、シラスを食べるためではない。一刻も早く、足立ねねを探し出さなければならない。
地道な聞き込みに頼るしかない。本人の写真があればいいが、残念ながら今は持っていない。
こういうこともあろうと、俺は人物画のデッサンの訓練を受けている。
食堂のオバちゃんに筆記具と裏面が白地のチラシを借り、食堂のテーブルの上で、ねねの顔を描き上げた。人を捜しています。足立ねね。二十歳。見かけたらラーチャー&スミスバーニー探偵社まで。と注意書きを入れた。
我ながら見事な出来で、どこぞの美術展に出品しようかと本気で考えた。その前に一時的に、食堂の壁に張っておく。
俺は食堂のオバちゃんに筆記具を返すついでに、
「人捜しに協力してください。こういう人、見かけませんでしたか?」と言って、絵を見せた。
すると、オバちゃんは笑い出した。
「なに、その顔」
足立ねねは、お世辞にも美人とはいえない。だが、見ず知らずの他人から笑われるほど不細工ではない。
「そうじゃなくて、その絵がへたくそすぎ」
ここまで容姿を侮辱されるとは。本人がここにいれば相当深く傷ついたに違いない。
それでも彼女は探し出さなければいけない。そこで、
「食堂の壁にこれを張りたいんですが」と頼んだ。
「え? それを。とんでもない」
オバちゃんは首を横に振った。
「だめだめ。そんな下手な絵。幼稚園児の落書きじゃないんだから」
ゴッホしかり、ゴーギャンしかり。天才は最初のうちはなかなか理解されないものである。
俺はあきらめて、いつの日か俺の才能に気づく画商が現れることを願った。
そこで、
「セロテープ貸してくれる?」と頼んだ。
「張っちゃダメよ」
「張るんじゃないよ」といって、角のあたりにテープをつけておいた。
「それじゃ」
と別れて、外に出ると、建物の外壁の見えやすい位置に張っておいた。
それから俺は、港湾労働者、主婦、学生などに聞き込みをしたが、参考になりそうな答えはなかった。
どいつもこいつも俺のことを気味悪がり、中には警察に通報する者もいた。
それで制服警官に職務質問を受けた。
「名前は?」
「名乗るほどの者ではないが、比由らあちゃ」
「ちゃんと本名を名乗りなさい」
「ヒユラアチャ」
「外国の人?」
「物心ついた時から日本人だ」
「どんな字書くの?」
「比較人類学の比に、旗本寄合席隠密支配内藤勘解由の由。残りはひらがな」
「もっと簡単に言いなさい」
こういう質問のために、用意した模範解答がある。
「?」
「比喩の比に理由の由。ひらがなのらあちゃんから、んをとってらあちゃ」
「変わった名前だね。本名?」
静岡県警には、いつものパターンが通じない。それで、俺は「警視総監の比由さんと同じ苗字」と叔父の名前を出した。
「警視総監? ここは静岡だから、うちには関係ないな」
彼の反応はそれだけだった。俺はアウェイに来たことを痛感した。
その警官には頭がおかしいと思われたようだが、特に危険はないと判断され、ブタ箱に入れられることはなかった。それなら、今夜泊まる場所を探さなければいけない。
こんな糞田舎にまともな宿があるとは思えないが、野宿はきつい。
「糞田舎で悪かったな。宿くらいあるがに」
警官はそう言ったくせに、富士市ではなく、静岡市のホテルを勧めてきた。
俺は警官の勧めてきたホテルには泊まりたくなかった。
それでも、県庁所在地で探すのは悪くないので、静岡駅で降りた。改札を出て、駅の中で遅めの夕食をとろうと、駅舎内の飲食店のショーケースや看板を眺めていたときのことだった。
「あ~」という若い女の声が聞こえた。
俺は振り返り、声の主を確認した。
誰あろう。
足立ねねだった。
彼女は俺を指さし、「変な格好!」と言って、笑っている。
これで三度目だが、会う度ごとに華やかに変身している。天性のカメレオン、いやシンデレラなのだろう。
そのとき彼女は一人ではなかった。ネックレスをかけた怪しげな金持ち風男と一緒だった。シンデレラは王子に出会ったのか。
俺はつい習性から咄嗟に人混みに紛れ、彼女の視線から逃れた。そのせいで彼女を見失ってしまった。
やはり、彼女は田子の浦に来ていた。この果てしなく広い田子の浦で奇跡的にもターゲットと遭遇できた。しかし、愚かな俺は彼女の姿を見失ってしまった。
大失態だが、今はそれどころではない。まだ、今夜の宿が決まっていないのだ。
その前に食事をすまさないといけない。
結局、カレーチェーン店でカツカレーを頼んだ。
店員に引かれるほど、福神漬けを皿に盛りつけた。
心のうちでは嫌な客だと思っているくせに、店員たちは声に出さない。
「また来るよ」
俺がそう言うと、彼らは愛想よく笑ったが、
「二度と来ないでください」と心の中で叫んでいた。
俺は駅前で今夜の宿を探し、ひときわ目立つきらびやかなホテルに入った。
「今夜、ここに泊まれないかな」とスタッフに尋ねた。
「尋ねた? 泊まる? 何のことです」
「満室なら仕方がない」
俺はあきらめて、パチンコ屋を出た。
何軒か回り、安っぽいビジネスホテルに空き室を見つけた。
部屋の鍵を受け取り、三階に上がった。
鍵を鍵穴に差し込むがうまくいかない。
それでもなんとかしてドアが開いた。
「ここで何してる?」
308号室の客が俺に聞いた。
「ここの客だ。部屋に入ろうとしただけだ」
「ここ308号室だけど。鍵見せて」
俺は客に鍵を渡した。
「あなたのは402号室。どうやったら、そんな間違いするんだ」
「では、どうすればいいんだ?」
「もう一階上がって、部屋の番号確認しろ」
そう言って、客はドアを閉めた。
俺は言われたとおり、非常階段を上がろうとした。すると、
「鍵返すの忘れてた。すまない」とさきほどの客に呼び止められた。
なんとか自分の部屋に入った。
最初にすることといえばあれだ。俺は冷蔵庫を確認した。各種ドリンクが揃っている。
清涼飲料水やアルコール飲料の飲み過ぎで、体調が悪くなり、ベッドの上に横たわった。
アルコールと炭酸の飲み合わせが悪いようで、俺は深い酩酊状態にあった。
なぜ、俺はここにいるのだろう。
理由が全く思いつかない。
思い出した。
人を探しに来たのだった。
そういえば、駅でターゲットの女を見たような気がする。
確かに俺は女を見つけた。
たしか、娘の母親から依頼を受けて、「の浦」というキーワードだけでこの地に見当をつけ、単身やってきたのだ。
フィクションでさえ、ほとんどありえない確率で俺は娘を見つけだした。
大成功ではないか。
残念なことにすぐに見失った。
まずは、娘が見つかったことを母親に連絡しなければならない。
娘の実家の電話番号は、俺の携帯電話に登録してある。
携帯は事務所の机に置いてきた。
事務所か響子の携帯に電話をかければいい。
しかし、問題がある。
俺は暗記している電話番号が、ただのひとつもないのだ。
救急も警察も時報も知らない。円周率をすべて覚えている俺は、逆に短い数字が覚えられないのだ。
困った。
のこのこ帰るしかない。
だが、何の問題もない。なぜなら、ねねの母親に娘が見つかったと連絡する必要がなくなったのだ。
よく考えると、静岡駅で遭遇した女は、足立ねねと少し似ているだけの別人だった。いや、少しも似ていなかった。
すると、足立ねねが田子の浦に来たかどうかも怪しくなる。
俺はやけになって、冷蔵庫の中身をすべて空にした。それが原因で手持ちの金が尽きるとは考えも及ばなかった。
翌日。チェックアウトをすますと、財布の残りが八百十円しかないことに気づいた。クレジットカードの類は持っていない。
これでは帰れない。
その前に昼飯だ。
税込みで八百円以内に収めないといけない。
そこで税込み八百円ポッキリという黒おでん定食を食べた。
これで一文無しだ。
いや、十円残っている。
住み込みで働ける仕事を探そうと、歩き回ったが、この辺りの人間はよそ者には冷たい。
あちこち歩き回っているうちに、公衆電話ボックスを見つけた。十円残っていたことを思い出し、私の目の前で遺体なき殺人事件が起きましたと、警察に通報しようと思ったが、110番が思い出せないうえ、先客がいる。
金色のジャケットを羽織り、ロイドめがねをかけた若い男で、内側からガラスに紙を貼っている。
俺はボックスの外側からその紙を見た。公衆電話の利用客が激減しているので、内側ではなく、紙の表側を外に向けている。
サーカスの求人広告だった。住み込みで働けるが、全国を移動しなくてはいけない。
伊賀忍法の奥義を究めた俺は、二メートルの深さに掘った穴の中から、地上まで飛び上がれる。サーカスの空中ブランコくらい、一日で習得できる。
男はセロテープで四隅を留め終わると、ボックスから出た。
俺は彼を呼び止め、
「サーカスで働くには、そこに記されている番号に電話すればいいのだな」と尋ねた。
「そうですが、僕はそこの団員なので、これから戻るところです。よろしければご案内します」
男はたしかにそう言った。俺の聞き違いではない。
俺がサーカスの求人広告を見た直後に関係者と出会った。こんな偶然があるのだろうか。シンクロニシティという言葉が浮かんだ。
「え?」
男はなぜかたじろぎ、言葉を失った。
「君の好意はありがたくうけとめる。だが、その前にサーカス団に電話をかけないと」
俺はボックスに入ろうとした。すると、
「僕がサーカスの人間なので、かけなくて結構です」と男は言った。
サーカスの団長に伊賀忍法空中ブランコもどきを披露し、俺はすぐに採用された。
巡業で全国を回っていたが、足立ねねを探すことをあきらめたわけではない。
あきらめてはいないが、行動の自由がきかない。こんなことではいつまで経っても相手を見つけることはできない。
そして、ある日。俺はショーの最中、伊賀忍法究極奥義「雲隠れ」を観客の前で行い、やっとのことで自由の身となった。
これから本格的に足立ねねを探していく。たぶん、見つかると思うが、俺は今自分がどこにいるのか知らなかった。
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