第2話
ほぼ一日、筋肉労働だったので、疲労が激しく、帰宅すると俺は鍵のことをすっかり忘れてしまった。
その夜、ゴミの中に埋もれる夢を見た。俺は水中にいるように、少しでも上に上がろうと必死だった。危うく死にかけたとき、枕元の携帯が鳴ったので目が覚めた。
閉店間際というラーメン屋からだった。
「夜分、申し訳ない。すぐ来てくれない? 大行列ができてるんだよ」
俺はベッドから跳ね起きると、コートを着て、帽子をかぶり、夜の大都会へ繰り出した。
俺が到着したときでも、まだ店の外に客が並んでいた。行列ができている割に、駐車場は空いている。俺は車を駐めた。
「すいません、店のものです。通ります」といって、俺は堂々と店の表から入った。
相席すればテーブル席に座れた。店のほうが忙しすぎて、客を案内する余裕がないのだろう。俺は「すいません」と断り、空いている椅子に座った。それからメニューを見て、
「この店で一番旨くて安いラーメン」と注文を入れると、厨房の店主が、
「ふざけてないで、早く来て」と叫んだ。
俺はふざけてなんかいない。ラーメンが食べたいから、ラーメン屋に入った。ただ、それだけのことだ。
しかし、
「そこどいて。外のお客さん、案内して」と言われ、外の客を空いている席に誘導した。
それから湯切りのラーチャーの出番だ。しかし、俺の他にバイトが一名いたので、俺は洗い物と配膳に徹した。
閉店時間になっても客足は絶えない。この日に限って、客が多いのはどういう理由があるのだろう。
テレビや雑誌などで、おおきく取り上げられたのか。俺はそう思ったが、
「ライバルの店が珍しく今日休み。北海道に研修旅行だって、うらやましいね」と店主は言った。
「社長、うちも対抗して沖縄旅行といきましょう。そこでソーキソバの作り方を覚えて、新メニューの登場だい!」
と俺が言うと、「あんた、今日だけの日雇い。うちの経営に口を出さないで」と注意された。
いつもの閉店時間を一時間すぎると、
「後はこっちでなんとかやるよ」と言われ、帰宅した。
ゴミ屋敷の片づけと、ラーメン屋の大繁盛のせいで、翌朝目覚めても疲れが残っていた。
それでもいつも通り、九時には事務所にいた。
つもりでいたが、
「お客さん来てます。起きてよ」
響子の声だ。ただし、携帯経由なので、実際の声と多少違う。
時刻は十時をすぎている。
「鍵を預けてあるという話なんですけど」
彼女の言うとおり、俺は家の鍵を預かっている。すぐにでも返したいのはやまやまだが、筋肉痛と眠気のため、いますぐ起きるのは辛い。
「そんなこと言われても、お客さん、待たせていいの?」
アシスタントの性格のきつさは、前からわかっていた。
「性格の問題じゃないでしょ」
俺は携帯のバッテリーを抜いた。
それからゴミ屋敷の夢の続きを見た。
それも、ドアがノックされる音で目覚めた。
俺は自力で起きあがると、ドアのところまでなんとか歩いた。
響子が来たのだろうと思ったら、ドアを開けると、足立ねねが立っていた。
昨日とは別人のように、おしゃれな格好だ。髪もきちんとウェーブし、つけまつげまでつけて、化粧も濃い。女性の見た目はメークと服装次第でどうとでもなるというが、俺の目には魔法使いの力で、みすぼらしい格好から豪華な衣装に変身したシンデレラのように見えた。
「あの~鍵返してくれます?」
そう言われても、一瞬何のことかわからなかった。二、三秒もすると、彼女の家の鍵を預かっていたことを思い出した。
「さっきの女の人が言ってたこと、本当だったんだ」
「今渡すから、一時間ほど待って欲しい」
「一時間も待てない!」
俺の暮らすマンションは、途方もない広さを誇る。誇張ではなく下手な王宮よりでかい。鍵をとりにいくのにも、普通なら優に一時間はかかるが、俺は全速力でクローゼットまで駆け、ハンガーにかけてあるコートのポケットから家の鍵を取り出し、ねねのところまでダッシュした。それで十秒ほどですんだ。
彼女は鍵を受け取ると、
「テレビが古いんだけど、あれまだ映るの?」
といって、居間兼寝室兼キッチンに鎮座する23インチのブラウン管を指さした。
「テレビのご機嫌次第さ。雨や風のときは、まともに見れたもんじゃない」
「どうして液晶買わないの?」
アンテナレベル問題以外にも、テレビ離れ、予算の問題、リモコンのボタンが多すぎて使い方がよくわからない、貞子が出るから怖い、待てば待つほど新しくていい製品が出るなど理由は様々だが、そのことについては誰にもふれて欲しくない。そこで俺は話題を変えた。
「これからゴミ屋敷に帰るのかい?」
「あんなところに行くわけないでしょ」
「せっかく綺麗にしたのに。外だけじゃない。中のゴミも完璧に片づけた。シンデレラが踊った宮殿みたいにピッカピッカだぜ」
「へえ。だけど、残念。私これから**(ビープ音)の浦に行くんだ」
「優雅なもんだね」
「それじゃ、これで」
そう言い残し、彼女は帰っていった。
それでこの件は終わったつもりでいた。二日後、俺の事務所にねねの母親から電話がかかってきた。
そのとき、響子は来客中だったので、電話は俺がとった。
「はい、もしもし」
「あの……わたくし、足立ねねの母親で小百合ともうします。先日は家の片づけで大変お世話になりました」
「こちらこそお世話になりました」と俺は形式的な挨拶を交わした。
「あの、田中産業様に聞いたんですけど、うちの娘がそちらさまに家の鍵を預けて、次の日にとりにうかがいましたでしょうか?」
「はい、おっしゃるとおりです」
たしかに足立ねねは、ゴミ屋敷を片づけた翌日の朝、俺のマンションまで来て鍵を受け取り、なんとかの浦まで旅行に行くと言い残し、帰っていった。
「なんとかの浦、そう言ったのですか?」
「はい」
「ノウラ」ははっきり聞き取れたが、その前はビープ音がかかってよく聞き取れなかった。
「え……」
母親の様子がおかしいので、俺は、
「それが何か」と尋ねた。
「実は、娘と連絡がつかないんです」
詳しく事情を聞いた。
足立ねねは携帯しか使わず、家に受話器はあるが今は固定電話の契約を解約している。
母親はゴミを片づけた日の夜に彼女に電話をかけたが、ねねはでない。
その後もかけ続けているが、今は電源が切れているか、電波がとどかない状態だそうだ。
俺は、「そのなになにが浦に携帯の基地局がないんじゃないかな」と言った。
「そうかもしれませんけど、連絡ひとつよこさないなんて」
本人が旅行に行くと言っていて、警察に届けるかは考えどころだ。こういう場合は探偵に頼むのがいいかもしれない。
「そうですね~、探偵ですか」
俺は、自分が探偵であることは黙っていた。自分から売り込んだと思われるのが嫌だったからだ。
「え、そちらさまは探偵さんですか」
ばれては仕方がない。俺は正直に、
「ラーチャー&スミスバーニー探偵社というところで働いているしがない探偵です」と明かした。
「それなら、ついでといってはなんですが、娘のこと調べていただけないでしょうか」
それから調査費用の説明をした。娘のことがなにより心配な母親は金額のことなど気にせず、よろしくお願いしますと、調査を依頼してきた。
はたして足立ねねは、俺と会った後、どこでどうしているのか。キーワードは「の浦」だ。
俺は地図を広げ、目を皿のようにして調べた。
なかなか見つからない。
俺の困り果てる姿を見て、響子が近づいてきた。
「すいませんけど、途中から話、聞かせてもらいました。わざとじゃありません。つい習性で聞き耳を立ててしまうんです」
「俺は忙しいんだ。暇人にかまっている余裕はない」
といって、俺は彼女を追い払おうとした。
「私だってお客さん相手してるんだから。そちらから助けを求めたのに、追い払うって。わかりました。すぐにどきます。ただひとつだけ。世界地図じゃなくて、日本地図のほうがいいと思います。それ以前に地図よりも、ネットで検索したほうが効率的だと思います」
そういって彼女は、客のところに戻った。
俺は、デスクの上のノートパソコンを開いた。それから電源を入れた。OSが起動した。問題はそこからだ。
俺はマウスを右手でつかんだ。ブラウザを立ち上げて、「の浦」で検索すればいい。
俺はブラウザを起動しようとしたが、ついいつものくせでトランプ的なゲームを動かしてしまった。
ゲームというものは、一旦始めてしまうとなかなか終わらない。
響子の客は帰っていった。
俺がなかなかクリアできないので、彼女が代わりに調べてプリントして、俺のデスクの上に置いた。だが、俺はまだゲームをクリアできていない。赤と黒を交互に順番に並べるのは至難の業だ。
三十分を超える苦闘の末、俺はゲームをあきらめた。
「負けたわけじゃない。コンピューターが可哀想だから、今回に限り見逃してやるんだ」
と言い訳している自分が情けなかった。
俺はプリント用紙を見た。
彼女が調べた結果、いくつかの候補が存在した。その中で俺が注目したのは、田子の浦だった。
田子の浦ゆうち出でて見れば、なんとやら。
俺がニューヨーク時代に詠んだ句は、いまや新古今和歌集に採用されている。
あの頃、俺はバリバリの刑事だった。
足立ねねは田子の浦にいる。元刑事の勘がそう囁いた。
しかし、田子の浦がどこにあるのかわからない。そこでもう一度だけ、地図に頼ることにした。
「世界地図は使わない」
響子がそう怒鳴った。
失踪者足立ねねは、静岡県の田子の浦にいる。そうわかっただけでも大進歩だ。ただ田子の浦といっても広い。探偵たるもの、事務所であれこれ詮索するだけではだめで、現地に足を運ばなくてはいけない。俺は響子に、
「これから田子の浦に行く」
とだけ伝えて、事務所を出た。
廊下を歩いているとき、「どこの浦ですか?」という彼女の声が聞こえたが、そのときは気にならなかった。
そういえば、まだ昼飯を食べていなかった。俺は同じフロア内のトンカツ屋に入り、トルコライスを注文した。
「そんなもの、メニューにないよ」
店主が言った。
「それなら、ザル大盛り」
「隣に行きな」
トンカツ屋の隣はソバ屋だ。二つの店はもともと同じ天ぷらそば屋だった。父親が亡くなると、二人の兄弟が跡を継ぎ、店を分けた。それでも互いに行き来でき、トンカツ屋からソバを注文することができる。それで、俺は「ザル大盛り」と注文した。
「だから最初からソバ食べるつもりなら、ソバ屋に行けって言うの。トンカツ食べるついでとか、向こうが満員で入れないとかなら、ソバ頼んでもいいよ。最初からソバ食べるのに、トンカツ屋に入る人間がどこにいるんだ」
といって、店主は怒りを爆発させた。
俺は、「目の前にいるじゃないか」と言いたかったが、火に油を注ぐことになるので、黙っておいた。
「もう注いでるよ!」
俺はソバ屋に移動した。そのとき、携帯を机の中に置き忘れたことに気づいた。いまさらのこのこと携帯忘れましたといって事務所に戻るのは恥ずかしい。携帯などなくてもなんの問題もない。公衆電話を使えばいいだけの話だ。
ザル大盛りを注文し、料理が出るのを待っている間、移動手段を考えた。車を使うべきか、電車にすべきか、迷った。旅は身軽なほうがいい。電車にしよう。俺は表の引き戸を開けると、ごちそうさまと言って、田子の浦へ向かった。
「ちょっと、まだ食べてないよ」
店主に言われて引き返し、移動手段を考えた。車を使うべきか、電車にすべきか、迷った。
「さっき、電車って言ってたよ」
俺はソバを食べ終わると、表の引き戸を開け、ごちそうさまと言って、田子の浦へ向かった。
「お勘定まだだよ」
ソバ屋を出て、駅に行った。列車がやってきた。天気は曇り。せめてこんなときくらい晴れて欲しかった。ただでさえ憂鬱な俺は、今後を思うとため息が出た。
行き先は万葉集に記された人跡未踏の地、田子の浦。富士樹海のすぐ近く。魑魅魍魎が蠢く人外魔境。おそらく俺は生きて帰ることはないだろう。
引き返すなら今のうちだ。
だが、もう列車に乗ってしまった。鉄道会社は払い戻しに応じてくれることはないだろう。電車賃が無駄になるのは避けたい。調査費用を使ってしまったからには、何が何でも足立ねねを見つけださなければいけない。
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