第5話 ஜ۩۞۩ஜ 5 ஜ۩۞۩ஜ

 オーディションの翌日の月曜にはいろいろあって、俺は若杉綾名のことをすっかり忘れていた。


 午前中。響子はVIP客の依頼で何かと忙しいようだが、俺はひまだった。同じ暇人のビルオーナー笠松大五と管理人室で将棋を指していた。

 俺の実力はセミプロ。俺よりはるかに年上の大五は小学生レベルといったところだ。

 これだけ力の差があると、すぐに俺が勝ってしまう。

「また私の負けのようです。もう将棋も飽きましたな」

 自分が勝てないものだから、大五は自分から誘った将棋をやめたいと言っている。

 俺はそんな弱気の彼に、

「もうあきらめるのかい?人生と同じでまだ逆転するかもしれないぜ」と励ました。

 だが、俺の勝ちは明らかだ。


「そのようですな。もう勝負はついてます」

 大五は負けを認めた。

 が、

「王手」彼はそう言った。


「将棋ばかりじゃいやになるでしょう。囲碁なんかどうです? これはこれで奥深いゲームです」

 最近、囲碁の世界王者がコンピュータに負けたことが話題になった。将棋はとうの昔に、コンピュータが人間を追い越した。囲碁は将棋より複雑な思考を必要とするということだ。

 それなら、IQ230の俺の頭脳を活かせる。


「あなたがそこまで言うなら、相手をしてあげますが、将棋と違って一切手抜きはしません。その代わりハンディを差し上げます」

 といって、俺は相手の挑戦を受けた。


 囲碁は白石と黒石で囲った陣地の広さを競う遊びだ。先行は黒。実力差がある場合、弱い方が黒側となり、最初の時点で数目多く置いた状況からゲームを始める。


「九目といきたいが十六目かな」と俺は言った。

「十六目なんて聞いたことがない。そんなにハンディつけたら勝負にならない」

 将棋で負け続けているくせに、大五は俺の囲碁の実力を甘く見ていた。だが、俺は十六目にこだわった。

「仕方ありません」


 十六目のハンディをつけたにも関わらず、白が勝った。常識的にはありえない。俺は目に涙を浮かべて、事務所に戻った。


「また負けたみたいね」

 響子は、顔をあげずにそう言った。

「ああ、あの年寄りもいい加減、あきらめればいいのに」


 そのとき、保育所の女がドアを開けて入ってきた。女の名は、さのえりか。響子と同じくらいの歳だが、名前がひらがなだ。

「あの、すいません。お散歩のほう、お願いしたいんですが」

 意外な依頼内容に響子は驚いた。

「犬でも飼われたんですか?」

「犬の散歩じゃなくて、園児たちのお散歩です。一人熱を出した子がいまして、ませさんが病院に行ってます。私が誘導するので、一番後ろで歩いてもらえればいいです」

 外を歩くので、付き添いの大人は二人は欲しい。ただ歩くだけの、アホでもできそうな仕事だ。

「出番だな、飯室君」

 響子にふさわしい仕事だ。

「はい、わかりました」

 彼女は引き受けた。

 それで、俺が出歩くことになった。


 廊下で園児たちがでてくるのを待つ。

「今日はませ先生がいないから、ひゆ先生が一緒だよ」

 えりかは彼らにそう説明した。

 俺を見ると、早速ガキどもが騒ぎ出す。

「あ、バカだ!」

「バカなんかやだ。あっち行け!」

 しかし、いつまでも廊下にいるわけにはいかないので、一同はぞろぞろと歩き出した。俺は最後尾で、逸脱する者がいないか見張る。


 園児の気が散るからできるだけ黙っていろと、俺は事前に注意されていた。そこで、口笛を吹くことにした。平地ながら、ちょっとしたハイキング気分だ。


「ラーチャー、静かにしろ」

 前の子供に注意された。


(……しゃべってはいけない。しゃべると大変なことになる。しゃべらなくても大変なことになる。俺は黙っていることの出来ない体質だ。もう我慢の限界だ……)

 一歩外に出ると子供たちはおとなしかった。外でおしゃべりしないように、よほどきつく言われているのだろう。

(しまった。しゃべってしまった)


 横断歩道を渡るときは手を上げる。義務教育で習ったはずだが、大人でそんなことをしている者を見たことがない。


「ラーチャー、しゃべるな」



 途中、知り合いの酒屋に出くわした。

「今日は犬の散歩じゃなくて、ガキの散歩かい?」

「これが散歩に見えるとは、老眼鏡でも買ったらどうだ」

「相変わらず、いけすかねえ野郎だな」


「先生、ラーチャーがしゃべったよ」

 密告者にそう告げられた。


(しゃべってはいけない……口笛に意識を集中……)


 歩いている間に俺の口笛の技術はどんどん上達していった。四分音符もスタッカートも正確に表現できる。

 俺はハーメルンの笛吹という伝説を思い出した。13世紀。ネズミ取りの男に、町は謝礼を払わなかった。ネズミ取りは笛を吹いて、町の子供たちをどこかへ連れていってしまった。


「何しゃべってんだよ、ラーチャー」

 俺のすぐ前の男児がやたらからんでくる。

「この町もこれで見納めだから、今のうちにしっかりと目に焼き付けておくんだな」


 次の交差点で俺は行列と別の方向に進んだ。後部の何人かの園児はそれに気づいて、俺のほうについてくる。

 それにつられて、ほとんどが俺のほうに寄ってきた。

「みんな、どこに行くの? こっちだよ」

 先頭のえりかが叫んでも、子供達は戻らない。


「比由さん、困ります」

 彼女は俺のところに来て抗議した。俺は歩き続ける。

「彼らに足りないのは自由だ。子供のうちから、決められたルートを歩いては、大人になったとき、自分で自分のことを決められなくなる」

 彼女は俺の教育論に反論できず、最後尾について、園児達を見張った。


 ハーメルンの笛吹の最終ゴールは笠松ビルだ。 

 俺は無事園児たちを送り届けた。しかし、えりかは、

「まだ五分も歩いてません。途中から近回りするなんて卑怯です。小さな子供でもちゃんと歩いているのに、いい大人がズルして、恥ずかしくないですか?」

 と批判してきた。

「雨の日もあれば曇りの日もある。これも最近はやりのTPOってやつだよ」

 と俺が説明すると、彼女は表情を和らげ、

「そういうことでしたか。誤解してすいません」とわびた。


「わびてません。もう二度と頼みません」

 彼女はそう言って保育園に戻っていった。




 オーディション二次選考の結果は、合格者のみ連絡がある。連絡がなければ落ちたということだ。

金曜日、なんと綾名に連絡が来たという。その情報を綾名の母親から知らされ、俺は翌日土曜の散歩のついでに、彼女に祝辞を述べることにした。

 俺は、若杉家の裏庭から二階に向かって、

「おめでとう。君がアイドルになれたのも、全部、俺の指導がよかったからだよ」

 と大声で叫んだ。するとあわてて、彼女が出てきた。

「恥ずかしいからやめて」

「恥ずかしがることなんかないさ。念願のアイドルになれたんだから、これから俺と二人三脚で芸能界をこずるく渡り歩こう。ずるがしこい君のことだから、きっとトップアイドルになれるさ」

 俺がいくら褒めそやしても、彼女はにこりともしない。


 なぜ、彼女は不機嫌なのだろう。

 そうか、まだ最終選考が残っているから、喜んでいる場合ではない。

「運だけでここまで来た君のことだから、きっと大丈夫さ」


「そうじゃなくて」

 ようやく彼女は、重い口を開き始めた。


「あのとき右側に監督がいたでしょう。あの人、おじさんのこと気に入って、その格好で映画に出て欲しいって言ってて、連絡とりたいから私に電話があった。私? 歌も歌ってないから、受かるわけないでしょ」

「つまりその、俺がアイドルになるってことか?」

 きらびやかな衣装を着て踊るのは性に合わない。


「ちゃんと聞いてよ。その格好で映画に出演するの」

「つまりその、俺がアイドルになるってことか?」

 常日頃から地味な生き方を貫いている俺は、きらびやかな衣装を着て踊るのは性に合わない。


「そうじゃなくて、おじさんが映画に出るんだけど、アイドルとしてじゃなく、俳優としてなの」


「つまりその、あのとき面接官だった監督が、俺が俳優だと見抜いたのか」

 さすがは演劇人。たったあれだけの時間で、俺の過去を見抜くとはさすがだ。だが、俺が俳優だったのはとうの昔、それも外国でのことだ。正直、今の日本の映画界が俺を必要としていると思わない。


「おじさんが昔俳優かどうか関係なく、とにかく映画に出て欲しいということ」

「それには問題がある。こう見えても俺は私立探偵だ。世間に顔を知られるのは、業務上差し支えがある」

「だったら、断ったら。私には関係ないもん」


 そのときハイリリッヒが、オオカミの遠吠えのように吠えた。

「ワオーーーーーーーン(おい、散歩はどうした?)」


 俺とハインリッヒが歩き出すと、アヤナがついてきた。

「ねえ、なんで私が受けたオーディションなのにおじさんが受かるの?」

「俺はアイドルになる気はない」

「アイドルじゃなくて、映画俳優」

「役者に戻るくらいなら、制服着て踊っていたほうがましだ」

「本当に断る気?」

「ああ」

「せっかくのチャンスなのに」

「代わりに君が出れば?」

「本人指名なのに、出られるわけないじゃない」


 世の中とは皮肉なものだ。出たくても出られない。出たくない人間に限って、出てくれと頼まれる。

「でも、私がオーディション受けたことで、おじさんがスターになれたら、私うれしいよ」

 彼女はそう言ってくれたが、残念ながら、俺は断るつもりだった。


 ところが、事務所に戻ると、先週のひげ面が応接椅子に座り、響子が相手をしていた。

 どうも二人の様子がおかしい。

「そんなこと急に言われても困ります」

「そこをなんとか。今考えている役のイメージにぴったりなんです」

「探偵なので、顔出しNGなんです」

「でも何でもしますって宣伝してますよね?」

「あれは便利屋の所長の話です。私は探偵なので、職務に制限があります」

「そういうことですか……いいでしょう。所長さん、目当てで来たんですから」


 監督は俺に気づくと立ち上がり、

「あ、どうも、初めましてじゃなくて、二回目か。私、映画監督の吉岡と言います」

 と挨拶した。

「はて、どこかでお会いしましたか?」

 と、俺はわざとすっとぼけた。


「気にしないでください。いつもあんな感じです」

 響子が解説した。

「あれがいいんです。その、『とすっとぼけた』という説明があることで、展開がおもしろくなるんです」

「それなら、俺が映画に出なくても、せりふをそう書けば、いいだけの話だろう」

 俺の指摘に監督は、

「そ、そうか……役者なら誰でも出来るってことですよね」と気づき、「ご本人にご出演いただかなくても、いいわけですね」

 とまとめた。 

 監督はそこで黙った。無言で俺に何かを伝えようとしている。そうか、つまり、あれだな。


 俺は権利の関係については目をつぶることにした。

「ご理解いただけてありがとうございます。その代わり、役名をラー油チャーシューにします」

「ぷっ」その名前を聞いて、響子が吹き出した。「ラー油チャーシューだって」

 そこから大声で笑い出した。

 なぜか俺は自分が侮辱された気分になり、過去の嫌な記憶を思い出した。


「ヒユラーチャー、変な名前!」

 小学六年の秋。復学したばかりで授業についていけず、俺はクラス中からバカ扱いを受けた。おまけに名前があれなので、徹底的にからかわれた。

「変な名前」

 一人がそう叫ぶと、パンデミックのように周りの生徒に感染し、俺はいたたまれなくなり、教室を抜け出した。

 校庭の隅、雑木林のすぐ前にある松尾芭蕉像の下で、ひとり世の不条理を嘆いた。

 このまま学校を抜け出して、家に帰ろうか。家に帰ったら母親にしかられる。こんなことなら、忍者のところにずっといればよかった。

 後、二年で免許皆伝だと師匠は約束してくれた。それなのに俺は、修行のつらさに耐えられず、山を下り、実家に帰ってしまった。


「その話本当なの?」

 響子が聞いた。監督も興味深そうに見守っている。

「ああ。俺は五年間家に帰らなかった。それなのに、マスコミの追求を恐れた三重県教育委員会が隠蔽した」


 監督は、「その設定、いただいていいですかね」と聞いた。

「ご自由に」

 俺は答えた。

「忍者で探偵か。台本大幅に書き直しだな」

 監督は上機嫌で帰っていった。

 響子は、「おもしろそうだから、出てみればいいのに」と残念がった。俺が、「君にも出演してほしいと言っていたよな」と突っ込むと、

「たぶん、というか絶対、私、棒読みの大根だから断りました。だって私の足、大根みたいでしょ」 と言って、執拗に太ももを見せつけてきた。

 俺は彼女の自尊心を傷つけまいと、

「君が大根? そんなことはないよ。その足で大根とは、大根に失礼だよ」と褒めておいた。


 いつものように激怒する展開を期待していたが、不思議なことに響子は目の前にいるのに、違う方向から彼女の声がした。

「危ない! 気をつけて」


 気がつくと、俺は自分のデスクで鉛筆を削っていた。けずりかすが机の上だけでなく、床まで散乱している。

 いまどきナイフで鉛筆を削るのは珍しいが、鉛筆が短すぎて、鉛筆削りで対応できないから仕方がない。


 前には響子は腕を組んで、仁王像のようにたちはだかる。


「さっきから何をしているのですか?」

「モノは大切にしないとね。田舎の村長さんに教わらなかったのかい?」

 東北の寒村出身の彼女は、出身地コンプレックスを抱えていた。


「私は都会育ちです。それより、新品の鉛筆がどうしてそこまで短くなるんですか?」


 たしかに新品の鉛筆がここまで短くなるのはおかしい。だが、天地開闢以来、誰もこの謎を解き明かしていない。


「所長がさっきから、ぶつぶつひとりごとを言いながら、削り続けていたからです」


「ということは……どこからどこまでが現実なんだ?」

 俺は自問自答したが、答えが出なかった。


「まずはっきりさせたほうがいいのは、今日は金曜日です。所長が鉛筆を削り初めてすぐ、電話がかかってきて、私が出ました。それなのに、所長は自分宛に若杉さんからかかって来たという設定で作り話を始めました。つまり、映画の出演の件は全部あなたの妄想だったのです」


 妄想……たしかに俺にはその傾向がある。だが、いくらなんでもひどい。いくら探偵とはいえ、彼女に人の夢を壊す権利があるのだろうか。


「いい夢みてたところ、起こしてしまったのはすいません。でも、そのままにしてたら危なかったわよ。だって後残り二センチしか鉛筆ないから」

 彼女が起こしてくれなかったら、鉛筆を削り負えた俺は、自分の指を削っていったかもしれない。

 危ういところだった。考えるとぞっとする。だが、俺はそんなことはおくびにもださず、落ち着いている様子を演出するため、タバコを吸った。

 落ち着いている様子を演出する……格好をつけているように聞こえるかもしれない。

 だが、断じて俺は格好をつけてタバコを吸っているのではない。


 すでに日は傾き、園児たちは家に帰っていく。関係者以外も平気で駐める関係者駐車場は裏手にあるので、彼らの半分くらいはラーチャー&スミスバーニー探偵社のドアの前を通る。

 その際、やたらと「バーカ」「出てこい」などと声をかけてくる。

 ドアをノックする子供もいる。

 親達も毎度のことで注意しなくなっている。

 そんな礼儀知らずの彼らも、まもなく俺の偉業に圧倒されることになるだろう。

 史上最大級の難事件「バカスギル家の犬事件」もそろそろクライマックスにさしかかっていた。俺はすでに事件解決の目処を立てていた。

 警視総監直々の依頼で、警視庁の全面協力があったとはいえ、調査は困難を極めた。


 今回に限り、俺はアシスタントの力を借りるつもりはない。それでも探偵の嗅覚は鋭い。

「バスカビル家の犬じゃなくて、バカスギル家の犬? 若杉さんの犬に何かあったの?」

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