第4話 ஜ۩۞۩ஜ 4 ஜ۩۞۩ஜ
俺がアンカーからリードをはずした直後、
「まだ二時になってないよ」という声がした。この家の娘だ。名前はたしかアナヤ。
「アナヤじゃなくて、アヤナ」
「それで、ヤナアちゃん、俺に何か用かい?」
「何で散歩行こうとしてんの?」
「一言で言えば、これが仕事だからさ」
「行かなくていいと言ったよね」
「行くなとは言われてない」
「私、お金ないからね」
「未成年から恵んでもらおうとは思ってないさ」
それから俺とハインリッヒは、広告の効果を試すべく、いつものコースを歩いた。俺も彼も心なしか足取りは軽い。できるだけ周囲の注目を集めようと、ときには歌を歌いながら、通行人がいるとわざとゆっくり歩いた。
散歩が終わり、リードをアンカーに固定し、チラシをはずした。その日のハインリッヒは、いつになく饒舌だった。
「ワンワンワワワ(エルビス・プレスリーがまだ生きているって噂本当かい?)」
「きっと天国で生きているさ」
「バウーバウウー(俺もいつか天国に行く日が来るのかな)」
「たぶん、もうすぐさ」
俺が事務所に戻ろうと歩きかけたとき、後ろから呼び止める声がした。
「帰っちゃ駄目でしょ」
この家の娘ナアヤだった。
ヤアナはこれからどこかへ出かけるようで、こぎれいな格好をしていた。
「彼氏とデートかな。よかったら送っていくよ」
と俺は言ったが、車は用意してないので、笠松ビルまで歩かないといけない。
「デートじゃなくて、オーディション。アイドルは恋愛禁止」
俺と彼女は、ビルの駐車場まで歩いた。
「ここでお別れかな」
「バカ言わないで。これから一緒にオーディション会場まで行くの」
「残念だが、他に予定が入っている」
三時から犬の散歩を行わなくてはいけなかった。
「二時から出かけるのに、三時に仕事入れるなんて、信じられない。だけど、もう一人、おねえさんいるでしょ」
「彼女は便利屋じゃないと主張している」
「そんなのおかしいよ」
アヤナの言うことももっともだった。彼女を駐車場に駐めてあるマセラティに乗せて、俺はいったん事務所に戻った。
「なんで私が犬の散歩なんかしなきゃいけないの? しかも、若杉さんのところのアホ犬でしょ」
響子は、いつになくヒステリックな声を上げた。
「急用ができて、仕方がないんだ」
「そういうことなら仕方ないわね。わかりました。私が散歩に行きます」
と、心の広いおねえさんは引き受けてくれた。
俺は、ロレックスで時間を確認した。
「オーディションの時刻が迫っている」
俺はそういって、オフィスを出て、ドアを閉めた。廊下に出ると、響子の声がした。
「待ってよ! 私、散歩に行くなんて一言も言ってないわよ」
彼女の主張は、園児たちの歌声にかき消された。
かたつむりひくなめくじはなあに?
ひきざんならってないからわからない
オーディション会場までは車で一時間ほどだ。その間、違法ダウンロードして入手したお気に入りのナンバーをかけた。
オープンカーなので、音が外に流れる。音源が違法ダウンロードなので、聞いた連中はみんな犯罪者だ。
アヤナはやけに無口だった。緊張しているのだろう。だがいきなり、
「もし私が売れっ子アイドルになったら、おじさん、マネージャーにしてあげる」
と運転席の俺に話しかけた。
「そう言うけど、君が売れっ子アイドルになったら、俺のことなど忘れて、業界の有力者に媚を売ってるよ」
「そんなことないよ。私がアイドルになれたのも、おじさんの指導がよかったからだよ」
「俺は、君にアドバイスした記憶がないんだが」
「あの歌、教えてくれたのおじさんでしょ」
「あの歌?」
「アメ・フル・トキ」
「もう一度、聴かせてくれる?」
少女は音楽プレーヤーのスイッチを止め、俺にそうねだった。
昔、俺がバンドマンだった頃、当時つきあっていた彼女のために作った歌だった。長いこと歌っていなかったが、今、歌手を夢見る女の子に出会って、当時の情熱が蘇り、再び歌うことになった。
俺は、足を動かしてリズムをとり、ハンドルを握りながら歌い出した。アクセルやブレーキをやたらと動かすものだから、車はおかしな動きをした。
説明を受けてない 何ひとつ知らなかった oh~
人生を分け合ったけど テレビは僕を置いて 遠くに去っていった
雨降るとき テレビが見えぬ ひどすぎても 僕は耐えてゆく
総務省が行った これまでの政策に いまでも苦しんでる
よくなると願って oh yeahyeah チューナーを買ったけど 君は去っていった
雨降るとき テレビが見えぬ ひどすぎても 僕は耐えてゆく
雨降るとき テレビが見えぬ ひどすぎても 僕は耐えてゆく
テレビを観ることができず、残念な気分 チューナーを買ったけど テレビが見えぬ テレビが見えぬ
雨降るとき テレビが見えぬ ひどすぎても 僕は耐えてゆく
雨降るとき テレビが見えぬ すごくすごくすごくひどくても 僕は耐えてゆく
「メロはいいけど、変な歌詞」
少女は正直な感想を述べた。
会場に着いた。大きな告知パネルが立っている。
大型新人アイドル発掘。アイドルといっても、大勢で踊る寄せ集めではなくソロデビューで、有名プロデューサーがプロデュースし、CD発売と映画の主演が決まっている。
少女の緊張は隠しようもないほどで、歩く様も右手と右足が同時に前に出ている。
会場入り口に受付があった。
「本日のオーディションに応募しました若杉綾名ともうします。よろしくおねがいします」
と、彼女はあらかじめ考えておいたせりふを丁寧に読み上げた。
受付の段階から気を遣うとは先が思いやられる。
レコード会社主催のオーディションなので、受付の女はそこの社員か臨時のバイトなのだろう。女は、付き添いの俺のことを奇妙な目で見ている。
「ご心配なく、この子の父親です。ただし、血はつながってません」
と、俺は複雑な家庭事情を語った。
それで、女は愛想笑いを浮かべた。
綾名は笑顔を浮かべているが、心の底ではとんでもない人間を連れてきたと後悔しているのかもしれない。
受付は三時から六時までで、その間随時、面接が行われている。
控え室で待つ。二十人程度の人数だ。女の子ばかりで、男性は俺ひとりだ。一人で来ているか、同年代の女友達の付き添いなのだろう。さすがにボーイフレンドと来るわけにはいかないはずだ。
あくまでお世辞だが、どの子もそれなりに魅力的だ。
恋人はいませんと口では言うが、つきあっている男の一人や二人はいるのだろう。
「しっ!」
どうも俺は、アイドルというものがよくわからない。
他人の作った曲を歌い、他人の考えた振り付けを踊り、他人の考えたキャラクターになりすます。嘘の自分を演じて、良心が痛まないものなのか。
江戸時代に茶屋娘という職業があった。
お茶屋で茶を出すウェィトレスだが、どの娘がかわいいなどと瓦版などにとりあげられ、人気者になる者もいた。
アイドルといえど、所詮は現代の茶屋娘。江戸時代からまったく進歩のない過去の遺物。
「静かにしてよ。みんな笑ってるじゃない」
綾名の言うように、俺のほうを見て笑う子もいた。これがここの主催者が考えた人間性チェックだと知ったら、彼女たちは驚くだろう。
俺のその言葉で控え室は静まりかえった。
控え室の隣に面接室がある。この中でいったいどんなことが行われているのだろう。
そうだ。しばらく忘れていたが俺は忍者だった。ドアを開けずに、中をのぞき見ることくらい簡単にできる。
そこで俺は、ドアの前に立ち、ドアノブを回し、ゆっくりとドアを押した。
中は二十畳ほどの殺風景な部屋だった。
長机の向こうに三人のむさくるしい男がでんと構え、その前でいたいけな少女が、質問責めにあっている。
左はサラリーマン風、レコード会社の社員だろう。右はひげ面で芸術家風、フリーのミュージシャンか。真ん中はちょうど中間。立場は会社員だが、職種はクリエーターというやつだ。
「歌手と女優、どちらをメインにしていきますか」
「そうですね……どちらかというと、お芝居に力を入れたいと思います」
真ん中の面接官が俺に気づいた。
「そちらは?」
「若杉綾名の付添の者です」
「若杉?」
「この後で面接が予定されている居酒屋の娘です」
「それがなぜ今?」
「そうですね……どちらかというと、お芝居に力を入れたいと思います」
と、俺はいたいけな少女の言葉を繰り返した。
綾名がやってきて、俺の腕をつかみ、「すいません」と面接官に頭を下げた。
「アディオス」
俺は面接官達に永遠の別れを告げた。
また控え室で待つ。この退屈な時間、ゲーテの詩集でも読んでみたい気分だが、俺は平家物語のほうが好きだ。
「遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり」
秦の趙高は始皇帝に仕えた宦官だ。あるとき彼は二代皇帝の前で鹿を馬と言った。彼に反対して鹿と言った者は処刑された。馬鹿の語源と言われる。
「黙ってること、できないの?」
綾名がそう言った。
その直後、ドアが開き、さきほどの少女が目を泣きはらしながら出てきた。控え室にいた誰もが、それを見て、面接の恐ろしさを悟った。
これから地獄の面接が始まる。受かれば天国、落ちれば地獄。
何を聞かれるのだろう。とちったらどうしよう。歌はうまく歌えるだろうか。
長年のアイドルの夢が消えていく。
俺は心臓が張り裂けそうになり、ここから逃げ出そうとした。
「こんなことなら、オーディションなんか受けなきゃよかった」と大声で叫んだ。
「お願いだから黙ってて」
綾名にしかられた。
ドアが開いた。左端にいた面接官が顔を覗かせ、
「若杉綾名さん、お入りください」といった。
「はい」
俺はそう返事をして立ち上がった。なぜか、笑い声が起きた。
「おじさんはここで待ってて。絶対に中にはいらないでよ」
「もう君を傷つけるようなまねはしない。心を入れ替えて、ここでおとなしく待っているよ」
と俺はやさしくいった。
俺は彼女との約束を守り、控え室でひたすら待った。だが、面接のことが気になる。それは、一秒、一秒が永遠に思われるほど、気の遠くなるような時の流れだった。
そうだ。すっかり忘れていたが俺は忍者だった。部屋に入らなくても、中の様子くらい簡単にわかる。俺はドアに耳をくっつけ、聞き耳を立てた。
「特技はなんですか?」
「手裏剣です」
「珍しいですね……なんであなたがここにいるんです」
真ん中の面接官は、突如として現れた俺にそう尋ねた。
「俺がオーディション受けていけないなんてどこにも書いてなかったぞ」
左端の男は、
「対象者は13歳から16歳までの女の子です。おたくはどう見てもアウトです」と堅い。
だが、真ん中の男は融通がきく。
「でもそこまで言うなら、例外として、一回だけチャンスを与えます。何か一曲歌ってください」
このときのために日夜特訓した十八番。哀愁のトイレ事情。ノーベル文学賞作家が作詩し、史上最高の童謡と評価されている。
俺は、緊張で胸が張り裂けそうだ。だが、アイドルになるため、歌わなくてはいけない。
ぼくはうんちがひとりでできるんだ~だってもうあかちゃんじゃないんだもん
だけど、あかちゃんだってひとりでうんちしてるよ~それならぼくは、あかちゃんなのかな
三人の面接官は互いの顔を見合わせた。
真ん中の男が、
「驚きました。まさかここまで歌えるとは正直びっくりしました。半年間のレッスンの後、デビューすることになりますが、用意はよろしいですか」
俺はアイドルという柄ではない。だが、向こうがそこまで言うのなら、仕方がない。
俺自身が、オーディションを受けたわけではない。これは、よくある友達のオーディションの付き添いで、出かけたらまさかのスカウトというあれだ。
真ん中の男は、プロデューサーだった。
「キャッチフレーズはさすらいの地デジ難民。デビュー曲はアメ・フル・トキ。雨が降るとテレビ画像が乱れる、アンテナレベルの低いぼろアパートに暮らす地デジ難民の苦悩をせつなく歌う」
「ちょっと待った。アンテナレベルは低いが、五億もしたマンションをぼろアパートはないだろう」
俺は、プロデューサーの独断的な態度に抗議した。
「これは歌の世界。あなたの実生活そのものじゃないんです。キャラというやつ」
右の男も、「これから芸能界でやっていくんだから、そういうことわきまえてください」と忠告してきた。
俺は勘違いしていた。これからアイドルになるのだから、本来の自分とタレントキャラの区別はつけないといけない。
だから、ただ「がんばります」とだけ言って、その場を後にした。
しばらくして綾名が出てきた。俺のもとに駆け寄ると、
「あれほど入ってこないでって言ったでしょ。それに私より目立ってどうするの? 私、一曲も歌えなかったんだから」と非難してきた。
すると、さきほどの少女も、
「あなたもなの? 私も雑談して終わり」
「そういえば、面接時間、みんな短いみたいだけど」
俺は、夕方から別の仕事が入っていた。
「悪いが、おしゃべりはそこまでだ。敗軍の将勇を語らず。君たちは落ちたんだから、アイドルなんかあきらめてせっせと地道に働くことだ。よかったらハローワークまで送っていくけど」
「あなたには関係ないです」と少女。
「邪魔ばかりして」と綾名。
オーディションが何事もなく終わったので、俺は二人を自宅まで送っていく。
「何事もなく? 人の面接中に勝手に入ってきて大ハプニング」と綾名は言った。「でも、今考えると、面接官の人、おもしろがってたな」
「こっちは心臓が止まりそうなのに、向こうは適当なんだから」と少女は怒った。
この二人には悪いが、何万人ものアイドル希望者が応募するのだ。彼女達がデビューする確率も数万分の一。仮にデビューしても、売れっこになるのは厳しい。たとえ売れても、五年以内に消える確率は90%。
「うるさいな」
「何、この人」
「四千円返してよ」
本当のことをいっただけなのに、俺はさんざんに批判された。
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