第2話
俺が事務所に戻ると、響子は応接セットで客と打ち合わせ中だった。
客は、見るからに頭の弱そうな若い女で、鼻が根本から日本人離れして高く、体も顔もやせこけているので、鳥を連想させた。響子の説明に水飲み鳥のようにうなずいていた。
響子は俺のほうを見ると、人差し指を口の前に持ってきて、「しっ!」と言った。
幸い俺の声は客に届いていない。
「聞こえないように話しているから安心しな」
「聞こえてるから注意してるんでしょ」
「あの方は?」と、女は俺のほうを見て言った。
「さっきお話したここの代表、一応所長ということになってますけど、調査と関係ないので、あまり気にしないでください」
女が会釈したので、俺も心なしか頭を下げ、響子の隣に腰掛けた。
「関係ないって言ってるのに、来るんだから」
「コートは脱がないんですか」
女の客は、不思議そうに俺に尋ねた。
「ここは通風がいいので、風が強いときがあるものでね」と俺は嘘を言った。「ところでそちら様は?」
「申し遅れました。わたくし剣と魔法の王国の長谷川という者です」
剣と魔法の王国の長谷川とは、どういう意味なのだろう。普通に考えると、剣と魔法の王国に所属している長谷川ということになる。剣と魔法の王国、本当にそんなところがあるのだろうか。
響子は、「違うから、少し黙ってて」と俺を叱った。
「話の通りの方ですね」
長谷川はそう言って笑った。
「話の通り?」
俺は聞いた。
「小説みたいに独り言を話すって聞いています」
俺は、自分自身でも独り言を話している自覚はある。だが、それは俺以外に知っている者はいないはずだ。いや、ひとりいる。隣のアシスタントだ。長谷川という女が、そのことを知っているのは、響子が吹聴したに違いない。
「あんたが、独り言を話すなんて、あそこの保育園児でも知ってるよ!」
響子は俺のほうを向いて、睨みつけた。
きまずい沈黙。この空気を変えるには、
「あ、あんなところにサワタリガニが、なんて手はやめてね」
彼女は、前もって俺の手を読んでいた。
しかし、俺には他の手段もある。
そのとき俺は、天啓を受けたように、大切なことを思い出した。
「そうだ、お茶菓子を買ってきたんだった」
俺はレジ袋から一個十円の駄菓子を、さも高級品であるかのように恭しくとりだし、テーブルの上に置いた。
もちろん、「つまらないものですが」と謙遜しておいた。本当につまらないものだから、嘘ではない。
「なんてもの買ってくるのよ。値段までばらさなくてもいいのに!」
響子はその場にいたたまれなくなったようで、「お菓子が出たので、コーヒー、淹れてきます」といって立ち上がった。その衝撃で俺の体は大きく傾いた。
「人をデブみたいに言わない」
長谷川は、響子の体型がおもしろいのか大笑いしている。
「体型がおもしろいんじゃなくて、お二人のやりとりがおかしいんです」
彼女はそう言ったが、俺は、
「お二人のやりとりがおもしろいんじゃなくて、体型がおかしいんです」と聞き違えた。
そのときだった。いきなりドアが開いて、このビルのオーナー笠松大五が乱入してきた。
俺を見るなり、脂ぎった顔に作り笑いを浮かべて、
「将棋の相手、探してるんだけど」とすっとぼけた。
「すっとぼけてなんかないよ」
彼は断りもなく、俺の隣に腰を下ろした。いきなりのことで何がなんだかわからない、前作を読んでいない事件関係者のために説明しよう。
俺が入居している地上四階、地下ゼロ階建ての超高層ビルは、笠松ビルといって、戦後のどさくさでぼろもうけした大五の父親が昭和の終わり頃に建てた、これといって特徴のない雑居ビルだ。
やり手だった父親と違い、どら息子は親の資産を食いつぶすだけで、昼間っからギャンブルや将棋にあけくれるどうしようもないだめ人間だ。放蕩三昧の挙げ句、唯一残ったのがこの老朽ビルだ。
「もう俺は慣れてるから、あんたが何言っても、ちっとも気にならないけど、こっちのお客さんの手前、だめ人間はやめてくれないかな」
笠松は我慢の限界に達し、俺に不満を漏らした。
「いえ、信じてないので大丈夫です」と、鳥のくちばしを思わせる鼻をした女が言った。
「そこまで鼻高いですかね?」と、女は首を傾げた。
笠松が来たので、響子は四人分のコーヒーを淹れて、テーブルに置いた。ドシンと大きな音を立てて、俺の真向かいに座ると、
「では、明日の午前十時に私がそちらにお伺いします。長谷川さんはどちらにいますか?」
「管理事務所にいます。入場ゲートで係りに伝えていただければ、わかるようにしておきます」
俺も会話に加えて欲しい。
「アシスタントだけでなく、俺も行くべきだが、あいにく、明日はふさがっている。社会にはびこる害虫どもを退治する予定でね」
「こちらは私ご指名なので、所長はハクビシンとかスズメバチの事件お願いします」と響子は言った。
なぜ、俺が害虫駆除をするのかというと、俺のところで害虫駆除の仕事を請け負っているからだ。
なにを隠そうラーチャー&スミスバーニー探偵社の広告は、
何でもおまかせ便利屋探偵。一般雑用、害虫駆除、清掃全般、不要品回収、浮気調査、人探し、不可能犯罪解決等々、と二番目に害虫駆除が来ている。それだけ需要があるのだが、うちは害虫駆除業者ではない。客から害虫駆除の仕事を受けて、専門の業者に回す代理店のような立場だ。しかし、ほぼ個人経営の有限会社長岡害虫駆除だけでは、人手が足りないことが多く、俺は長岡害虫駆除からの依頼で、害虫駆除の仕事を手伝うという、複雑な関係を維持している。
「持ちつ持たれつってやつだな」
笠松は、複雑な比喩を用いて表現した。
「比喩なんて使ってないような……」
長谷川が困っているようなので、解説しよう。
比喩とはすなわち……、
俺の名は比由らあちゃ。本当は頼太になるはずだったが、申請ミスでらあちゃが本名だ。今日もお江戸の平和を守る。悪党ども、覚悟しやがれ。岡っ引きの意地を見せてやる。
「てえへんだ、てえへんだ!」
「なんだい、この糞暑いときに」
「それがご隠居、堀川に土左衛門が上がったんだってよ」
「一日に何回繰り返すつもり!」
響子の言葉で、俺のループはそこで停止した。
というわけで、話を元に戻す必要がある。しかし、どこから戻せばいいのかわからなくなった。
俺は助けを求めるように、響子を見た。
「アシスタントの私だけでなく、所長も行ったほうがいいけど、いろいろ予定があって行くことができない、でしょ?」
そう、それだ!
明日は、犬の散歩が三件の他、引っ越しのごみ片付けが予定されていて、やむをえず、アシスタントを行かせることにした。
「へえ、所長は行かないんだ」
響子がいやみったらしく言った。
「あいにく、体はひとつしかないものでね」
「せっかく、ただで絶叫マシン乗れるチャンスなのに」
「その話、詳しく聞かせてくれないか」
「うちは絶叫マシンと呼べるようなものはありません。ハイテクのアトラクションなら凄いんですけど」
と長谷川が自慢した。それなら是非、行ってみたい。しかし、今更明日の予定をキャンセルできない。それなら明後日にすればいい。どうせ、脳みそがボノボより小さい響子のことだ。明日中に解決は無理。所長みずからでかけて、事件を解決することになる。
「そんなことしゃべってないで、早く、将棋やりましょう」
俺と笠松は、将棋を指しに廊下を挟んだ向かいの管理人室に向かった。
三十分後、ほとんど俺の勝ちが決まっていた。しかし、響子があわてて管理人室のドアを開けた。
「仕事よ。保育園の運転」
彼女の後ろには、保育士「さのえりか」がいた。
「わざわざひらがなで言わなくてもいいのに」
響子は言った。
「話し言葉に漢字もひらがなもないだろう」と俺が言うと、
「今、保育士括弧ひらがなさのえりか括弧閉じるって言いました」と彼女は言った。
さのは、前に出ると、
「あつし君のお母さんがどうしても迎えにこれないので、送って欲しいって言われて、私、手が離せないので、お願いします」
後、二手で王手を決めるところだったが、俺は仕事を優先した。
「悪いけど、でかけないといけない」
俺はそう言って立ち上がった。
「このままだと俺の負けだから助かったよ」と、笠松は事実上の敗北を認めた。
しかし、
「どう見ても、俺が勝ってるよ」
笠松はそう指摘した。
俺は、愛車マセラティで園児を無事送り届けた。人はなぜか、俺のマセラティを国産軽と呼ぶ。その日は車と縁があるようで、夜には居酒屋に呼ばれ、酔っぱらいの代行運転をすることになった。
たかが怪人騒動程度に、この俺がわざわざ出向くまでのことはない。剣と魔法の王国は響子に任せきりだった。俺のほうも結構忙しく、翌日も刑事時代の仲間から凶悪犯罪の捜査協力を依頼され、被害者の友人が怪しいと指摘した。警察はその友人を重要参考人として検挙する手柄をたて、俺は夕方からカラオケで接待を受けた。
翌々日の早朝、響子からメールが入っているのに気づいた。
「アスノショーニ アラワレルト カイジンカラ ヨコクアリ」
一読しただけでは、何のことかわからない。俺は、シーザー暗号と見当をつけた。それで、五時間かけて、
「明日のショーに 現れると 怪人から 予告あり」と解読した。
怪人から予告があったということは、無能なアシスタントはまだ怪人をつかまえていないということを意味する。やはり、助手ごときで解決できるような案件ではないようだ。それで、俺は現地に向かうことになった。
そして、予告された日が来た。俺は眠い目をこすりながら、車を運転して、事務所に出勤した。ビルの裏口のところに、各階のテナントの郵便受けがある。郵便受けを覗いたら、差出人不明の封筒が届いていた。
俺は、おそるおそる開封しようとした。
すでに開封済みだった。
封筒の中には、一枚のメモ用紙が入っていた。そこには、謎の文字が記されている。暗号解読なら得意中の得意だ。
ヒユラーチャーよ。剣と魔法の王国には決して近づくでない。近づくとたたりが起きる。もし、この忠告を無視して、のこのこと出かけるようなら、お前は生きて、王国から出ることはない。
怪人より(冗談です)
超難解な暗号だったが、俺はたちまち解読した。それは一種の脅迫文だった。こんなこけ脅しに屈するような俺ではない。
「どうしようかな……怖いから行くのやめようかな」
と俺が廊下で怯えていると、笠松ビル一階の保育園に通園するため、母親に連れられた四歳くらいの男児が、
「あ、バカだ!」と俺を指さし大声で叫んだ。
「バカじゃありません。おじさんに失礼です」
と、母親は子供をしかりつけた。
「だって、みんなバカって言ってるよ」
「すいません」
母親は平謝りした。
「小さなお子さんのことですから、僕はまったく気にしていません」と俺は余裕を見せた。
馬鹿と言われて、俺は深く傷つき、脅迫文が来たことをすっかり忘れてしまった。それから事務所に寄らずに、さっき車から降りたばかりの駐車場に戻り、また車に乗った。これから剣と魔法の王国に出かけるのだ。
運転をしている間、俺は事務所に向かわずに、自宅から直接剣と魔法の王国に行けばよかったことに気づいた。
俺は愛車を剣と王国の駐車場に駐めた。警備会社の警備員が暇そうにしていた。案内板の矢印に従って、入場ゲートに向かった。一般客はそこで入場券を購入するのだが、俺は仕事で来ている。係員に来意を告げると、脇にある関係者専用出入り口から入って、近くにある管理事務所に行くように言われた。
管理事務所に行くと、長谷川がいた。地味な顔に似合わない、鮮やかなどどめ色のスタッフジャンパーを来ている。
「どどめ色じゃありません。ラベンダーパープルです」
「所用があって、今頃参上しましたので、よろしく」と俺は挨拶した。
「所長さんまでいらしたんですか」
所長さんまで……俺は別段必要ないと暗に匂わせる言い方だ。
「そんなことは思ってません」
と彼女は言ったが、俺がここに来たのにはそれなりの目的がある。
ただし、業務上の極秘作戦なので、現時点では依頼人といえどもその目的を明かすわけにはいかない。それで、
「仕事で来たんじゃない。たまには、遊園地でくつろぐのもいいと思ってね」と言った。
「それなら、入場ゲートから普通のお客さんとして入られたらどうです?」
俺は、一般客を装って怪人を調べる。だが、そのことはスタッフに知られてはいけない。
「そういうことですか。それなら、あれがいるな」
と彼女は言って、俺にフリーチケットを渡してくれた。
こうして俺は、自分の金を一切使わずに入場し、数千円分のチケットを手に入れた。何を隠そう、来園の隠された目的は、仕事を装って、一般客として遊ぶことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます