Mr.ハードボイルド ~魔の遊園地
@kkb
第1話
俺の名は比由らあちゃ。本当は頼太になるはずだったが、申請ミスでらあちゃが本名だ。今日もお江戸の平和を守る。悪党ども、覚悟しやがれ。岡っ引きの意地を見せてやる。
「てえへんだ、てえへんだ!」
「なんだい、この糞暑いときに」
「それがご隠居、堀川に土左衛門が上がったんだってよ」
「そりゃ、てえへんだ。早く番所に届けねえと」
「ところがよ、ご隠居。矢場にいた連中のいうところじゃ、その土左衛門、首がちょん切られてるのに、陸に上がると、立ち上がって歩き出したっていうから、驚き桃の木さんしょの木だぜ」
「矢場というと、ヤバイの語源の?」
「突っ込むところ、そこかい? まあ、いい。話を合わせるぜ。ああ、あそこはやばいやつらでいっぱいさ。そういうご隠居だって、若い時分はずいぶん通ったって聞いてるぜ」
「馬鹿言うねえ。俺なんか、通ったうちにはいらねえ。どぶねずみのお響っていうあばずれ女なんか、ヤバイなんてもんじゃねえ」
「あなたがやばいことなんて、あそこの保育園児でも知ってるから、早く私の話を聞いて」
アシスタント兼愛人の飯室響子がそう怒鳴った。彼女は、最近亭主に逃げられたばかりのオールドミスで、なにかにつけて口うるさい。
「亭主に逃げられて、オールドミスって矛盾してる。それに私、あなたの愛人になった記憶ないけど」
俺の名は比由らあちゃ。本当は頼太になるはずだったが、申請ミスでらあちゃが本名だ。今日もお江戸の…………
「はじめから繰り返さないでよ」
彼女は、両手を組んで、神に祈るように語りはじめた。
「もう時間ないから、手っ取り早く説明するわ。今回の依頼人は、魔法と剣の王国」
その名は俺も耳にしたことがある。本当の国名は、ティンランディア王国という。デボノア大陸の南端にあり、国土のほとんどが栃の木で覆われているらしい。そこの王子は、貧しい漁師の娘に求婚したが、魔法使いの仕業で、その娘の耳が巨大化して、婚約は見送られた。その魔法使い退治の依頼が、俺の経営するラーチャー&スミスバーニー探偵社に来たというわけだ。生憎、所長の俺はそういうメルヘンチックでリアリティのない設定は、受け付けない体質だ。だから、彼女には、
「お嬢ちゃん、俺はそういう趣味はこれっぽっちもないので。おとぎ話ならそこの保育園でやってきな」
といっておいた。
ところが、彼女は
「魔法と剣の王国というのは、おとぎ話じゃなくてテーマパークの名前」
とネタばらしをしてしまった。これから話がおもしろくなるところだったのに。いくらバツ一でも子供の夢を壊す権利はない。
「悪かったわね。バツ一で。ちなみにまだ結婚したことないんですけど……」
俺としたことがとんだ早とちりだったようだ。そこで俺は、
「ベイビー、ご機嫌斜めみたいけど、おじさんがマジックを披露するから、見てください」
俺は呪文を唱えた。すると、殺風景なオフィスは、夢の国へと変わった。
「そこのスタッフの方が、三時にこちらに来られる予定ですけど、ちょうど今、お菓子切らしてて。所長、すいませんが、今から買ってきてもらえませんか」
と彼女はいって、地図と商品名の書かれたメモを俺に渡した。
そろそろ俺のことを説明したほうがいいだろう。らあちゃという名前は本名だ。戸籍上そうなってるから仕方がない。生後まもなくのことなので又聞きだが、どうやら、漁師の父親が名前を申請する際、市役所の窓口係から書類の不備を指摘され、意固地になって、そういう名前にしてしまったようだ。
生まれて間もない赤子を本名で呼ぶことは少ない。大抵なになにちゃんなどと、本名から連想される通称で呼ぶことぐらい、俺がわざわざ説明しなくてもわかるはずだ。他ならぬこの俺も、らいちゃんと呼ばれ始めた。らいちゃんよりも、ア音のらあちゃんのほうが呼びやすく、いつの間にか、といっても生後数日のうちに、俺の呼称はらあちゃんに変更された。
酒飲みでわがままな俺の親父は、現在の尾鷲市役所市民サービス課窓口係に行って、息子の名前を申請した。そこで一悶着あったようだが、今となっては詳細はわからない。俺の想像するに、最初の一枚が不備で却下され、二枚目を書き直している際、やけを起こして、下の名をらあちゃんにして申請した。
しかも、んの文字が人に見えたようで、さすがにらあちゃ人ではまずいと考え、また書き直し。「ん」のミスを認めたくないので、「らあちゃ」で決まった。
窓口係を困らせる嫌がらせのつもりだったのだろうが、違法ではないので、係の立場からは受け入れるしかなかった。
親父はどうしようもないほど頑固者で、戸籍だけでなく、普段使用する名前もひらがなのらあちゃにすることにこだわった。最大の被害者はこの俺だ。なにしろ子供の頃のニックネームは、「変な名前」なのだから。
この名前は、俺の人格に様々な悪影響を与えた。中でも最大の問題は、自分の思っていることを声にだしてしまうことだ。いってみれば独り言なのだが、その内容に特徴がある。小説の地の文を読み上げているように、世間の人間はとらえているようだ。もちろん、この文章も俺の独り言だ。
話を事件に戻そう。
魔法と剣の王国は、このところ大きなトラブルを抱えていた。園内に謎の怪人が現れたというのだ。それもショーの最中、舞台上にいきなり登場したのだからたまげる。
といっても、被害はない。怪人はショーの内容に合わせて、せりふをしゃべったので、他の出演者もアドリブで対応することができた。それで、その時点ではサプライズゲストと勘違いしたほどだ。客も当然、演出と思ったようだが、結局なんだったのかわからず、警察沙汰にしたくないので、俺に調査依頼が来た。
俺に依頼が来たはずなのに、相手方との打ち合わせは響子が行う流れになった。来客用のお菓子を買ってきてくださいと言われ、トレンチコートと中折れ帽という出で立ちで買い物に向かっているのだ。
目的地の老舗洋菓子店「ピエリ」は、一見洋服の仕立て屋を思わせる店構えで、自動ドアが壊れているのか、ガラス扉の前に立っても、ぴくりとも動かず、客が入るのを拒んでいるようだ。
すると中から、銀縁めがねの老紳士が出てきて、手で扉を内側に開いた。
「どうしたんですか」
「菓子屋に服の仕立てを頼む人間がいるのかい?」
「ケーキ屋さんなら隣だけど、そのよれよれのコート、うちで預かりましょうか?」
「そうしたいのはやまやまだが、あいにく、急いでいるので、今度また」
と、俺は永遠の別れを仕立て屋の店主に告げた。
紆余曲折があったものの、老舗洋菓子店ピエリまで、あと一息だった。しかし、そのとき神の意地悪に俺は気づいた。
「そういえば、財布忘れていた」などと声を出して言おうものなら、たちまち周りを野次馬に囲まれ、いい笑いものになるだろう。だから、俺は財布を忘れたなどと、口が裂けても言うことはできなかった。
このまま事務所に引き返すのも気がひける。何かいいアイデアはないかと思案していると、あることを思い出した。そういえば、右のポケットに自販機で缶コーヒーを買った釣り銭70円が入っていたのだ。
70円では老舗洋菓子店では門前払いの対象だ。しかし、VIP御用達のラーチャー&スミスバーニー探偵社だ。たかが菓子といえども、そこいらのコンビニで買うわけにはいかない。
そこで俺はすぐ近くにあったコンビニを利用することにした。いい年こいた大人が、百円に満たない駄菓子だけ買って帰るのは恥ずかしい。周囲の目を気にしながら、十円の駄菓子六個をレジに持っていった。消費税を入れても、おつりが来るかもしれない。たぶん、来る。いや、きっと来る。
レジには先客がいた。赤いTシャツが似合わない小太りの若い男だ。男は不機嫌そうな表情で俺のほうを向いたが、俺と目が合うと、さっと目をそらし、何事もなかったかのように、レジの前を見つめた。会計が終わると、チェッと舌打ちし、すたこらさっさと店を出ていった。
いよいよ俺の番だ。たかが駄菓子を買う程度のことに、この店は何時間待たせるのだろう。
「いらっしゃいませ」
店員はマニュアル通りの対応をしているが、緊張しているのが見て取れる。
きっと心の中では面倒な客が来た、適当にやりすごそうと考えているに違いない。
俺に心のうちを悟られて動揺した店員は、高利貸しが債務者からはぎとるように、俺から虎の子の七十円を受け取り、レジの中に入れた。そして数円の釣り銭を俺に渡そうとした。
しかし、バビロンの大富豪と呼ばれたこの俺が、その程度のはした金を恵んでもらうわけにはいかない。だから、以前から言いたかったあのせりふを、この機会に言うのだ。
「釣りはいらねえぜ」
俺の美声が店内に響き渡った。
なんとすがすがしい気分だろう。たかが数円のコストでこの快感を味わえるとは、世の中うまくできたものだ。
俺は爽快な気分で、店を出ていこうとした。すると、「お客様、商品、お忘れです」と呼び止められた。他の客が俺のことを笑った。その程度のことなら、いくら笑われようと構わない。ただ、財布を忘れて、仕方なくコンビニで買い物をすましていることだけは誰にも知られたくなかった。
親兄弟にさえ、うち明けてないのだ。見ず知らずの他人に財布を忘れた事実を知られることは死ぬほど恥ずかしい。
「財布、忘れたんだって」
女子中学生二人組の片方がそう言った。彼女は他人の心が読めるのか。世の中は不思議なことだらけだ。俺は、レジ袋を下げたまま、あやかしの魔窟を逃げ出した。
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