第3話 最高に素敵なランチ

 俺は廊下を入り口から見て右側に寄った。それで彼女は、「とんかつ屋さんじゃなくてよかった」と喜んだ。しかし、俺は表までいかず、そのまま保育所の自動ドアの前に立った。

「いたずらはやめてよ」

 彼女は注意した。


 俺の体重に反応したのか、当然のようにドアが開いた。俺はそのまま保育所の中に足を進めた。

「どこ行くの?」

 小さな靴が並んでいる靴箱の横を過ぎ、中に続く引き戸を開けた。

「あっ、変なひとだ」

 何人かの幼児が俺のことを指さした。

「あの人知ってるよ。ヒューラァチャーだ」


 二十畳ほどのスペースに、滑り台やぬいぐるみなどが無造作に置かれ、二歳から六歳くらいまでの二十人ほどの幼児が、あまり興味なさそうに遊んでいる。一辺が二十センチ程度の色とりどりの立方体を階段のように積み並べ、実際に階段のように上がっていくが、残念なことに上階が存在しないので、おびえながら飛び降りる幼児もいる。「なかねさとし」という名札をつけた男児が、人生もこの上につながらない階段と同じだと気づくには、後何年かかるのだろう。


 廊下側の壁には背の低い棚が並び、園児達の荷物が納めてある。棚の上が窓なのだが、ここの子供達は棚の上に上がり、窓越しに廊下を通る大人達をからかう。サッシの鍵は二重になっているので、窓を開けることは今のところないようだ。それでも保育士はたえず注意をしている。「たなにはのぼらない」と注意書きまで張ってある。


 無認可だけに保育士の数も少なく、いつもみかけるのは若い男女が一人ずつ。先生が手一杯なので、ここの園児はたちが悪い。俺が廊下を通るたびに、変なおじさんだ、ばーか、などと声をかけてくる。園児達が俺のことを知っているのは、俺自身が時々ここに出入りするからだ。いくら小学校で数年遅れたからといって、三十すぎて入園したわけではない。


「ぷっ」響子に聞こえたようだ。


 以前は郊外の一戸建ての建物だったこの保育所は少子化にあわせて、都会のビルに引っ越しをした。雑居ビルということもあり、ガラの悪い人間も出入りすることもある。二年くらい前に、三階の飲み屋から出た酔っぱらい客が、保育所の子供にからかわれたと因縁をつけたことがあった。

 昼間の営業時間外に無理を言って飲みに来たようなやつだ。ろくなやつじゃなかった。たまたま調査を終え事務所に戻る途中だった俺は、状況を察するとすかさず中に入り、暴れる男の腕を取り、そのまま床に投げつけた。男は「今度、兄貴達と一緒に来るからな。覚えてろよ」と脅し文句を言って、逃げ去った。それ以来、俺はこの保育所の用心棒を請け負っている。報酬は顧問料という名目で受け取っている。


「用心棒というより、ときどき雑用が入るって感じだけど」

 響子がしらけたように言った。

 青年保育士が、

「もうお話はよろしいですか。子供達も待ってますし」といって、隣室を指した。

 俺は響子を連れて隣の部屋に向かった。テーブルが並べられ流し台まである。食堂に使っているのだ。

「目の前にとんかつ屋があるのに、わざわざ食堂用意するなんて、非経済的だな」

 と俺が言うと、しばしの沈黙が訪れた。

 その沈黙を破ったのは響子だった。

 ……。

 ……。

 ……。

「私が話し出すまで、黙ってるなんて汚い。非経済的だなと俺が言うと、私が何かけちつける想定なのね。わかったわよ、言えばいいんでしょ。この子達に毎日とんかつ食べろと言うの?」

「あそこにはお子さまランチがあるぜ」と俺は決めた。

「はいはい、わかりました」


 テーブルのうえには、カレーライスが二皿盛りつけられていたが、あまりそれらしくない。それらしくないというのは、カレーライスを造ろうとしたのだが、うまくできていないということだ。どうやったらカレーライスらしくないカレーライスができるんだと聞かれても困るが、実際、料理に見えないからそう表現したまでだ。

「うちの子供達が一生懸命作りました」と、さきほどの青年が自慢する。

「これ、毒味ってこと?」

 響子は明らかに怯えている。

「毒味は失礼だ。試食というべきだな」

 俺は保育所の肩を持った。

「本当は僕たちが食べないといけないんですが、午後からハンバーガーたくさん作るんで、カレーまで食べるのはきついんです。比由さんに事情を話したら、快く引き受けてくださって」

 と、青年は響子に説明した。傍目にはくどいているように見えるが、まだこの時点では二人の交際は始まっていなかった。


「すいません」

 響子は何故か青年に謝った。

「いいです。何を言われようと、もう慣れてますから」

 青年はすねたように言った。

 俺は話を戻す必要を感じ、

「せっかく作った食べ物を捨てるわけにはいかないからな」

 と、さきほどの青年の説明に対する感想を述べた。

 響子も同じように、青年の説明に対する感想を述べることになる。

「え? なんて言えばいいの? え~と、やっぱり、毒味じゃないの、で合ってるかな?」


 いつのまにか幼児達が集まってきて、俺と響子の一挙手一投足を見つめている。俺達は、彼らの手前、料理とさえいえない実験食を食べざるをえない状況に追い込まれている。

「どうするの?」

 彼女は声を潜め、困惑した表情で俺に訊いた。幼児達は無言のまま、自分達が精魂込めて造った作品の評価を待っている。

「あんな顔されたら、こちらだって困るわ」

 響子は、幼児達に文句を言ったつもりだが、相手には伝わらない。

「とにかく座ろう」

「座ったら食べるしかなくなるわよ」

「立っていようが座ろうが食べることに変わりはない」

 俺の言うことが正しいと判断した彼女は、先に座った。


「まだ座ってないわよ」

「座るんだろ?」

 椅子を引いたことから、そう予測しただけのことだ。

 結局、俺達は二人揃って実験台になることになった。


「うわあ、おいしそう」という響子の気乗りのしない声がわざとらしく室内に反響する。

「いただきます」と両手を合わせた後、彼女はスプーンを右手でつかんだ。心なしか肩が上がっているのは、必死になっている証拠だ。渾身の勇気を振り絞り、彼女は最初の一口に挑んだ。そして……、 


 衝撃は予想以上だったようで、大きく見開かれた両目から涙があふれている。

「おいしい。おいしすぎて涙がでちゃう」とハンカチを取り出し、眼にあてた。「こんなおいしいもの生まれて初めて」

 それからも芸能人のグルメリポートでさえ滅多に聞かれない賛辞を連発し、彼女はカレーライスのおよそ半分を平らげた。涙ぐましい努力とはこういうことなんだろう。

 素直に喜ぶ幼児達は、その純真さから彼女の本心を知ることはないのだろう。あるいは、いつか大人になったとき、彼女のやさしさを理解するかもしれない。


「しゃべってないで、あなたも食べてよ」

 彼女は俺にふった。

 いよいよ俺の番だ。スプーンをとり、恐る恐るカレーライスに近づける。ライスとカレーを見事な配分でスプーンに乗せると、口に近づける。俺は禅僧の心境で挑んだ。

 予想したほどのことはない……そんな感想は数秒後見事に覆った。辛いのではない。比喩らあちゃーと呼ばれた俺がたとえることができないほどまずい。それに説明しながら食べるので、大変だ。

 俺は耐えきれず、その場から立ち上がると、いたいけな幼児達の心を傷つけないように、吐いても大丈夫な場所を探した。流し台は近いが幼児達から丸見えだ。食堂の隣にトイレはあるが使用中だった。


 そこで俺は遊戯室に駆け込むと、廊下側の窓のクレセント錠をはずし窓を開き、船酔いで吐くとき船から海に顔を出すように、できるだけ廊下に顔を突きだし、廊下の床に向かって思い切り吐いた。

 すまない、笠松ビル。はき出すとずいぶん楽になった。俺は幼児達をごまかすため、

「おーい、みんな、ここのカレーはうまいぞ」と世間に周知させるかのごとく叫んだ。

 俺は窓を閉め振り返った。幼児達は俺を見上げ、「うまいぞ」と復唱している。

 響子は、俺のことを英雄のように見つめ、「なんて優しい人なの」としきりに関心している。


 保育士の青年は事情を察し、「すいません、すぐに片づけます」といって、ぞうきんと水の入ったバケツを手に廊下に向かった。

 質実剛健をモットーとする一階フロアの掟を破ってまでも、彼らにトラウマを残してはいけないのだ。

 俺は、彼らの自信を深めるため、

「君たちの料理はうますぎる。おじさんとおばさんだけが食べるのはもったいない。もっといろいろな人に食べてもらったほうがいい」とアドバイスした。

「おばさんって、私、おばさんなの?」

 響子は年齢のことで文句を言った。自称二十三でも幼児達からすれば、充分おばさんなのだ。


「わたちがつくったの」

 帰り際、胸に「ふゆきみゆ」と名札がしてある三歳くらいの女児がそう言った。

 俺は、「将来はいいシェフになるぜ。その前に早くここを卒園することだな」と、彼女には理解できない賛辞を送り、入り口に向かった。

 俺は振り向くと、「ごちそうさま。うますぎて寿命が十年縮まったぜ」と、捨てぜりふを残して思い出深い遊戯室を去った。


 廊下に出ると、バケツを下げた青年が入り口に向かってくる途中だった。

「すいません。あそこまでひどいとは……」

「いいよ。ただだから」と俺は余裕を見せたが、心境は複雑だった。俺は、そのときはじめて青年の胸にも名札があることに気づいた。「ませいわお」と、ひらがななのが情けなかった。


「これは子供達にも読めるように」と言い訳する彼を後に、俺とアシスタントは二度目の昼食をとりに外へ向かおうとした。すると、

「外行くのならコートとってくる」と響子が言うので、「ほら、鍵」と鍵束を投げたが、運動神経の著しく鈍い彼女は受け損ねた。……と、予測したが、ナイスキャッチだった。


 ませいわおは、職場に戻らず、その場に立ったままだ。

「そういえば、比由さんってお名前がひらがなでしたね」と、嫌みったらしく俺に言った。

 名字も名前もひらがなの男にそう言われても、俺は少しも堪えなかった。

「名札がひらがなだけで、戸籍上はどちらも漢字です」と嘘の上塗りをした後で、ませいわおは負け犬のように尻尾を丸めて職場に戻っていこうとする。

「しっぽなんてはえてません」とませいわおはおーるひらがなでもんくをいったがひらがなばかりでとうてんもなくぶんしょうてきにはずいぶんよみづらい。

 そんな負け犬のませいわおは、最後にこう言い残し、笠松保育園に入っていった。

「比由さんってもしかして、名前にコンプレックス持ってません?」


 ……名前にコンプレックス持ってません?


 俺の脳裏に子供時代の悪夢が蘇る。


「ひゆらーちゃー、変な名前」

 クラスのひとりが脈絡もなくそう叫んだ。

 それからクラス中が「変な名前」の大合唱。

 俺はその場にいたたまれず、教室を抜け出して、校庭の片隅で、三重県教育委員会と尾鷲市役所市民サービス課総合窓口係を呪った。



 その日の午後は、急ぎで片づける仕事がなかったのと、たまには息抜きもいいと思い、事務所に戻らず響子とランデブーと決めた。彼女に言わせると、「要するに暇ってこと」なのだが、デートの間中、彼女は楽しそうにはしゃいでいた。俺としては、芸術の秋にふさわしい華麗かつ優美なデートコースを用意したのに、彼女ときたら、「ゲーセンくらい一人で来ればいいのに」と不満を言いながらも、一万円近く使ってくれた。

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