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宮址森高校の文化祭は、その名を
どうしてそういう名前であるのか、生徒のほとんどは知ることがない。若者にとって重要なのは、楽しめるというただ一点だ。
この日は学校外の人間も訪れ、浮かれたムードの形成に一役買う。
手作りの装飾に彩られた校内、各々に趣向を凝らした出し物、ビラ配りや呼び込みの声――
質や規模において、それらの大抵は一般に想像される域を出ない。しかし、そうしたものこそが好まれる時もまたある。
いつもより人通りの多い廊下を、二人は苦労してすり抜けていった。そうして落ち着ける場所まで来ると、揃って安堵の息を吐く。
先程までクラスの催しに従事し、今しがた休憩時間を迎えた、由と花紗里である。
「思ってたより盛り上がるね……。山潟さんは、どこか行きたいところはある?」
額の汗を拭いながら、由は花紗里の様子を窺う。
いつもとはまた少し違って、そわそわとしている彼女がそこにいた。
教室を離れる際、級友たちに意味深なサインを贈られたこと――だけが原因ではないだろう。どうやらこの手の騒ぎ全般が、苦手な
「……ううん。特には」
下を見ながら彼女は言う。
予想通りの答えではある。そして
まるきりデートコースの選定だ。そんな雑念が頭をもたげ、地図に印を付ける作業はずいぶんと進みが遅かったものだが。
「そっか。じゃあ、僕の好みでもいいかな? いくつか気になってたところがあって」
花紗里が頷きを返し、二人は再び歩き出した。
◆
輝く日差しが照りつける。
観衆は興奮に染まっている。彼らから放たれる歓声は、絶え間ない熱として場を包み、時には知己への応援として鋭く飛んだ。
“パイレーツ・バトル!”
そう題したアトラクションを提供しているのは、創意ある宮址森高校ラフティングクラブである。
彼らは学校のプールにゴムボートを浮かべ、参加者に水鉄砲で撃ち合わせる遊びを実現させた。
パンフレットで一目見て、由はこれぞと感じたものだ。花紗里も楽しんでくれるだろうと。
彼の失敗は、その魅力の分かりやすさをもう少し考慮しなかったことだった。
七外祭でひときわ異彩を放つこのスポットに、人が集まらないわけがない。
結果――由と花紗里はみなぎる日の下、長蛇の列に並んだ末に、ようやくボートへ乗ることができた。
半袖のシャツから伸びる由の腕には、くっきりと汗の珠が浮かんでいる。水除けにかぶせられたビニールが恨めしい。
男の格好でこれなのだから、ブラウスの上にベストを着る花紗里は、なおさら暑いことだろう。
「……山潟さん、大丈夫?」
前に座る彼女に由は問う。
口数がいつも以上に少ない。具合を悪くしていないだろうかと。
「大丈夫」
幸い、返事はしっかりしていた。
ほっと息をついたところへ、花紗里は唐突に振り返る。
由は戸惑った。その目がいやに据わっていた。
「南ヶ川くん。操縦、しっかりお願いね」
「え。あ、うん」
反射的に頷いてみせると、彼女は前に顔を戻した。
微動だにしないその背中から、何やら気迫のようなものが漂っている気がする。
『……では、そろそろ各チーム練習を終えられたでしょうか! 間もなく試合開始です!』
プールサイドに立つラフティングクラブ員が、マイクに向けて声を張り上げる。
『最後にもう一度ルールを確認しましょう!
観客の皆様もご覧の通り、1チームは二人一組! 操船と射撃の担当に分かれます!
一度に競うチームは四つ! スタート地点はプールの四隅!
狙う的は相手の船のマスト! 試合終了時、紙の濡れた枚数が最も少ないチームが勝利です!』
本物の帆が装備されているわけでは、無論ない。
各々のボートには枝付きの柱が立てられ、そこに多数の紙が下げられているのだ。
これをなるべく無事に保てばいい、ということらしい。
由はオールを握った。必然、彼が操船の担当だった。
花紗里はプラスチックの水鉄砲を手に取る。戦闘態勢が整った。
『そうそう、故意によるボートの接触は反則と見なしますのでご注意を! それではレディー――ゴーッ!』
直後、試合開始。
由はすぐさま前に漕ぎ出そうとし、
「待って。あっち」
花紗里の声にそれを止められる。
彼女が指差す方向には、一番近い敵チームの姿。
「あそこ、
「……本当だ。よく見てるね、山潟さん」
由は感嘆の声を漏らした。魔法少女としての経験ゆえなのか。
だが、続く言葉はなお予想を超えた。
「だから、突撃しよう。私たちで無理矢理巻き込んでやろう」
「…………山潟さん?」
彼女は振り返った。ひとすじの汗が伝う顔の中にあって、その瞳には静かな意志が満たされていた。
「どうしたの?」
「――りょ、了解!」
由はそちらに進路を定めた。動き出したボートの上で、花紗里は落ち着き払って銃を構える。
おそらくは意図してのことなのだろう。
水鉄砲は安っぽい作りで、一発ごとに水を汲む必要があり、飛距離も大して望めない。
その銃口を、花紗里は大袈裟なくらい上に向けた。そして撃った。青空を背に飛んだ雫の線が、絶妙な弧を描いて敵の帆を捕らえた。
『――おーっと! これはチーム南ヶ川、スナイパーの仕事! チーム今里は慌てて前進を開始! しかし逃れる先は既に他二組の戦場! 主催側としては正直ありがたい展開です!』
「まだまだ。追って」
「は、はい!」
由は覚えたてのオール捌きを駆使して敵を追う。花紗里は冷静に弾を補充しては、逃げる相手の船を後ろから撃つ。何発かが命中し、その帆に新たな染みを刻む。
別段、はしゃいでいるわけではない。動作はむしろ淡々としている。声も、いつも通りに低く抑えたものだ。
だが今の花紗里は明らかに普段と違う。明らかに――
(――そう、積極的だ!)
的確な表現を見つけ、由は得心する。
彼がそう考える間にも、花紗里は次々と指示を飛ばし、自身は標的を撃ち抜いていく。いつしか四つのボートはプール中央に集い、乱戦の様相を呈していた。
いったい彼女はどうしてしまったのか。
会場の雰囲気にあてられたのか。それともあまり強い日差しを浴びて、文字通り熱くなったのか。
どちらかではありそうだが、二択の先は分からない。また、分かったから何ができるわけでもない。
ただ――。
『チーム馳がバランスを崩す! 転覆すれば奮闘も水の泡だ! 立て直しましたがその隙にチーム今里が攻撃! チーム橋本と南ヶ川も互いに撃ち合う!』
狙いを逸れた弾が由の額にかかる。冷たい水の爽やかな感触。
由は懸命にボートを操り、有利な位置を絶えず探り続けた。そうして敵の攻撃が外れ、あるいは花紗里が戦果を上げるごとに、密かな達成感が胸の内に生まれた。
それは少しずつ積み重なり、心を揺さぶるような刺激になっていった。
「――よし、やってやるぞ!」
やがて、彼は叫んだ。
花紗里は応えない。振り返りもしない。自分の役目に集中しているからだ。
それがまた不思議と誇らしくて、オールを握る手に一層の力を込める。
ひときわ高まった観衆の声援が、彼らの上に降り注いだ。
◆
投げ上げられたコマが落ち、二本の棒を繋ぐ紐に受け止められる。
軽妙な音楽のリズムに乗せて、紐は生き物のように滑らかに動き、輪を描く軌道でコマを操る。
真っ暗な体育館の中、ただ一つ明るく照らされたステージ。
今は奇術部がその場を使い、来場者たちの目を楽しませている。
(ディアボロ、っていうんだったっけ)
不可思議な動きだった。
コマはある時は紐と密着し、激しく奔放に踊って見せる。固定されているとしか思えない。
しかしまた別の瞬間には、いともたやすく結びつきを解き、空中技を鮮やかに披露する。
激しく回転しているようでありながらまったく移動しないこともあり、一方では垂らされた紐を登攀してのけることさえある。
だが由にとっての関心事は、見事な曲芸よりも身近な人間だ。
横目を使って見てみれば、花紗里はすぐ隣の席で、真剣な顔をして舞台に見入っている。
視線を落とす。彼女の細い手首には、勝利の証たる素朴なブレスレット。
木の枝と押し花を編んで作ったそれは、ラフティングクラブが出向いた渓流で素材を集めたものらしい。
(……楽しんでもらえてる、のかな)
花紗里と共に動き始めてから、その問いは何度も浮かびかけ、その度に深みに沈め直した。そんなことは後で考えるべきなのだから。
ところがこうして腰を落ち着けてしまうと、もういけなかった。意識は目の前の演技よりも、内からの疑問に引き寄せられてしまう。
そして疑問は由の胸の内を、予想もしない鋭さで刺した。
自分が誘ったのだから、退屈させては申し訳が立たない。そんな月並な理屈とは由来が違うと思えた。
思い出すのは先程のプール。今もまだ耳に残る歓声。
普段と違う花紗里はあの時、何を感じていただろうか。何を感じていたと、自分は思いたがっているのだろうか。
流れる音楽が佳境に入り、パフォーマンスも山場を見せる。
動作の勢いに乗せるまま、片方の棒から手を離す。それはコマを支点に円の軌道で戻り、再び演者の手中に収まる。
次にはコマを緩やかに放り、重力に任せるかと見せて、振るった紐で瞬時に引き戻す。鞭じみた動きに感嘆の声が上がる。
そして、
そして唐突に、光と音が消えた。
観客はわずかな間だけ期待に息を呑んだ。演出の一環という可能性が、最も先に彼らの思考に巡った。
しばらく待っても何も起こらないと、やがて沈黙は不安のざわめきに変わった。何が起きたか確かめようにも、ステージ照明だけが唯一の光源だったのだ。
「……山潟さん?」
「いるよ。……どうしたんだろう」
由が小声を隣に向けると、同じく小さな反応が返った。
彼女の声にも戸惑いの色がある。ならば逆に、バッドの仕業などではないのだろうが――
「――か、火事だ!」
それ自体ひらめく火のような言葉が、闇の中のどこかから上がった。
由は見た。ステージの袖。垂れ幕に隠されたその場所から、赤い炎が這い出してきている。
彼だけではない。全員がそれを見た。木造の床を侵攻し、ゆっくりと燃え広がる炎を。
恐慌が襲った。
パイプ椅子の蹴り倒される音。どっと動き出した人々の波は、しかし逃げる先を見失っている。
誰かの肩が由にぶつかった。転びかけてあやうく踏みとどまる。倒れていたら頭があったであろう場所を、いくつもの足が踏みつけていった。
子供の泣き声。
「痛っ――」
花紗里がよろめく。由は傍らにありながらもおぼろげな彼女に、その腕に、なんとか狙いを定めて手を伸ばした。掴んだ。
彼女の側も咄嗟に意図を汲み、もう片方の手で由の腕を握った。引き寄せる。一瞬後、二人は制御を失った人の渦の、ごく狭い空白地帯で身を寄せ合っていた。
「あ――」
「山潟さん、魔法だ!」
目を見開いた花紗里の顔を、由の視線は捉えていなかった。
彼はステージの炎を睨みつけていた。それに抗する方法が、電光のように閃いていた。
「照明をお願い! それから――僕の声を大きくして!」
「……わ、分かった!」
迷う暇はなかった。
花紗里は淡い光に体を包んだ。瞬きの後、そこに魔法少女が現れる。
紫の帽子、紫の長衣。彼女は銀の剣を杖として掲げた。暗い体育館の内部を、柔らかな光が照らし出した。
人々が反射的に動きを止める。その機を逃さず由は叫んだ。
『落ち着いてください! 大丈夫! 焦らなければみんな避難できます!』
魔法で何倍にも拡大された声が、恐怖を弾き飛ばす音の波となった。
居合わせた何人かは再度ステージを見やる。
『押さず、走らず、足元に注意して! 出口に近い人から順に逃げてください! 外に出てもすぐには立ち止まらないように!』
一転、集団の動きに理性が戻った。
体育館両脇の扉が開かれ、堰き止められていた水が流れるように、速やかに人を吐き出していく。
その間も炎は徐々に広がり、今や舞台から客席へ降りようとしていたが、もはやその中に誰をも呑み込むことはないと思えた。
「……ありがとう」
小さな声を偶然聞きつけ、避難者の一人がそちらを見る。
風変わりな格好の少女がいた。仮装をした生徒の姿は、この日あちらこちらで見かけたものだった。
彼は特に気に留めず、そのまま出口へ急いだ。
「何とかなってよかった。……やっぱりすごいよ、山潟さんの魔法は」
由は屈託なく笑って言った。
花紗里は俯き、帽子の
◆
曰く、火災の原因は、電気系統のショートだった。
体育館は半焼したものの、死者や重傷者は出ずに済んだ。幸いにも照明とマイクが生き返ったことで、避難がスムーズに行われたのが大きかったという。
しかし必然的に文化祭は切り上げられ、生徒には帰宅が指示された。
祭りの余韻も何もない、煮え切らない幕切れ。発散の場を失ったエネルギーが、陽炎となって夏の日に溶けている。
「……あんまり美味しくないね、これ」
正直なコメントに、由は苦笑した。
花紗里がもそもそと食べているのは、パック詰めされた焼きそばだ。由の手元にも同じものがある。
唐突な営業終了の直前、かろうじて模擬店から確保した食料。何だかんだと物を食べる暇がなかった二人には、確かにえり好みする余裕はなかったのだが。
「そう?」
「そうだよ。食べてみなって」
促され、彼もまた割り箸をパキリと鳴らす。
一口食べる。ぬるい。かけすぎたソースが塩辛く、細切れの野菜は黒く焦げ、苦味ばかりを伝えてくる。
何度も噛んで苦労して飲み込むと、ぎとついた油の感触が口の中に残った。
「……そうかも」
「でしょ」
言いながら、しかし花紗里は食事の手を止めなかった。由もまた箸を置くことはしない。
二人はそうして、しばらく黙って食べた。草のにおいを孕んだ風が、ベンチに座る彼らを通り過ぎた。
この公園は、花紗里の家からほど近い位置にある。
由は花紗里を送っていくと言った。花紗里は気負いなくそれを受け入れた。どちらともがなんとなく、そうするのが自然のように感じて。
よって現在、彼らはここにいた。なぜと理由を互いに問うこともなく、揃って遅い昼食を取ることになった。
公園は彼らを除けば無人だった。
穏やかな静寂の満ちた場所。そこにじっとしていると、今日の出来事の激しさが、既に昔のことのように思えてくる。
由は記憶をなぞった。ボートに乗って、水鉄砲での撃ち合い。あの時は歓声に包まれていた。
体育館での火事騒ぎ。無我夢中だから気にしなかったが、振り返ると思い切ったことをした。そして花紗里の魔法。
「……今日は、楽しかったんだと思う」
やがて、花紗里は呟くように言った。
由は彼女を見た。いつも通りの静かな横顔に、今は少し赤色が差していた。
「火事とか色々あったけど、それも含めて。……不謹慎かな、こういうの」
「……いいや。僕も――」
……ああ、そうか、と由は思った。
わだかまる気持ちが何であったのか、すとんと腑に落ちた気分だった。
「――僕も、楽しかった」
「……そっか」
前を向いたまま、花紗里は頷く。
「プールの時さ。なんか、ごめんね。私、ちょっと変で。命令とかしちゃって」
「全然いいよ、そんなの。むしろそのおかげで勝てたんだから」
この気持ちは、願いだった。
楽しんでいてほしい、という願い。
叶えば喜ばしく、裏切られれば怖ろしいもの。
自分が楽しかったから、花紗里にも楽しくあってほしい。
この日ずっと抱えていた疑問は、不安は、そこに由来していたのだ。
「私、お礼を言わなくちゃいけない。今までのことも。高校なんて全然期待してなかったのに、南ヶ川くんのおかげで、少し明るい気持ちになれたから」
「……それは、」
由は言葉に詰まった。
――その願いが、叶えられて。
思いもかけぬほど多くのものが、胸の内を急速に満たしたために。
花紗里は彼に顔を向けた。
彼女は笑っていた。風にそよぎ、青々とした葉を揺らす木々を後ろにして。
いつか、初めて見た時とは違う。憑き物の落ちたような、透き通った笑顔だった。
「……だから、もうやめようよ」
ゆえに。
「私には、もういいんだ。でないと、きっと、私は私の失敗を忘れて、特別じゃないことにしてしまうから」
そう花紗里が語った時も、由は驚くことはしなかった。
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