夏と魔王と勇者と

おそらく、そいつの世界はそのころ、自分だけで出来上がっていたのだと思う。

魔王という固有名詞を持たない女。

女でもなく、魔族という中でただ孤独に前に立つもの。旗印。

夏のある日、勇者として育てられていた少年の俺は、呆然とその女に恐怖を覚えるしかなかかった。

なかったはずなのに、ツンツン頭の勇者の卵は年を取ることを許されなくなった妙齢の女性に対して、馬鹿みたいに立ち向かったのだ。

手にはヒノキの棒と布の服。レベルは2だった。その日にスライムとゴブリンを退治して、「ゴブリンはどこだ。俺はゴブリンを倒してやったのだ」

 と、興奮していたのを覚えている。馬鹿か俺はその時のことを思いだす。


 そんな中、人間の安全圏である勇者を育てるための森の中に、魔王は何気なく表れたのだという。何気なくだ。

 結局は人間は無力であり、魔族は恐ろしく強いものだということを思わせるある日のことだった。


「女、どうしてこんなところにいる?」

 俺は混乱していた。この森には勇者候補生である者でしか入ることしかできず、女と言えば乳臭いガキの女の子しかいないのだ。ハーフエルフの少女がよく俺の姉面をしてとてもうっとおしかったのを覚えている。

 彼女はそういえば、どこで何をしているのか。魔王の四天王を倒そうとしたときに行方不明になりかけて、ボロボロになってから、騎士団の団長をやっているのだとか聞いたことは覚えているが。


「さて、きまぐれかな」


 姉面をしたハーフエルフの顔を思い出す顔に、レベルが上がったヒノキの棒の勇者は気が大きくなっていたのだろう。

 角の生えた黒い絹の薄い服を着た女性に襲い掛かろうとしている。


「馬鹿にすんな!」

「そうね、馬鹿にしているのかもね」


 彼女は今は自分の力には遠く及ばない勇者の卵を殺せたのかもしれない。

 けれども、それを行わずにただ俺を抱き寄せて、何も言わずに小さな笑みを浮かべる。

 姉と弟。

 自分のカラスの濡れ羽色のようなをさらりとなであげる。俺は彼女の腰のまである髪が気持ちよかったのと夏の臭いとヒヤリとした彼女の体と顔に当たる胸の感触で頭がパニックになっていた。

 戯れだったとあとで述懐する。


「ほんと、かわいいわね」

「なにをす」


 棒を落とされ、呆然とさせられる勇者の卵である俺はなすすべもなく、抱かれ続けて、盛りのにおいと彼女のにおいとひんやりとする彼女の体に包まれて。

 何もできなかった。

ただ、顔を真っ赤にして、ドクドクと俺の心臓の音が体中を巡っていくような感触があるだけで何もできなかった。


「そうね、いつか、踊りましょう。あなたとなら、私は踊れるのかもしれない。とても優美なダンスを」


 その意味を当時の俺は悟ることはできなかった。今ではわかる。殺し合いを彼女はダンスと思っている。剣劇、血が湧き踊る命と命が切れる薄氷の上でのダンス。

 彼女の冷えた体を思わせる氷の上でのダンス。

 当時の魔王は心が冷え切り、氷のようなものだと言われていたのがよくわかることだった。

 夏のはずなのに、冷たい彼女の手が俺の頬に触れて、触れて。


――なんて、寂しい奴なんだ。


 と俺は思い、夢の中のような、

 魔王と勇者の出会いは殺し合いというものではない夏の出会いは終わった。


 俺の中に違和感を持たせながら。

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