9
こうして、事件は終わる。
それは完全世界を取り戻そうとした、一人の男が起こしたものだった。この不完全な世界で、あまりに多くのものを失ってしまった男――
けれど結局、魔法を使っても人は幸せになることはできないのである。一度失ってしまったものを、人は再び得ることはできないのだから。
何かを失ったとき人にできるのは、それをはじめからやり直すことだけだった。けれどそれは、何かを諦めたわけでも、投げ捨てたわけでもない。
それは――
失ったものを大切にする、ということだ。
巡る季節がまたはじまるように、人は何かをやり直すことができる。失ったものは、静止した時間の中にしか存在しない。人はそれでは、この世界で生きていくことはできない。
かつて世界は完全だった。
けれど人はそこをあとにした。そして様々なものを魔法とともに失った。
――同時に、そのかわりになるものを、同じくらいたくさん手にして。
いずれにせよ、魔法を巡るこの話は終わる。
宮藤晴を巡る、四つの事件の話は――
※
だからこれは、後日談のようなものになる。
それは春にはまだ少し早い、風の冷たい日のことだった。空は晴れていて、手をのばせば触れられそうな陽射しが、地上には注いでいる。
宮藤恭介は小さな水桶を持って、一人で霊園を歩いていた。あたりに人影はなく、世界はどこまでも静かである。
恭介は黒いスーツ姿で、ネクタイはしていない。普段通りに無造作な髪に、少し無精ひげを生やしていた。それは精悍、というには物足りないが、どこか安心できる風貌だった。茫洋として、空に浮かんだ綿雲に似ている。
玉砂利の道をゆっくりと踏みしめながら、恭介は目的の墓に向かっていた。高台の斜面に作られたその墓地からは、市内を一望にすることができる。
風が少しだけ吹いて、葉を落とした木の枝を揺らした。
「……?」
恭介は目的の墓の前で、つと足をとめた。誰かが、墓の前に立っている。
見覚えのない、男だった。年は、二つか三つ、違うくらいだろう。すらりとした、静かな佇まいをしている。
砂利を踏む音を立てながら近づくと、男のほうでも気づいたように振り返った。
「――こんにちは」
男は、笑顔を浮かべて軽く頭を下げている。
「こんにちは」
と恭介も同じように挨拶を返してから、
「失礼ですけど、未名の知りあいのかたですか?」
と、訊いてみた。
「ええ――そんなものですね」
男は妙な言いかたをして、けれどそのことについては何も言わず、
「あなたは、お父さんですか?」
と、質問した。
恭介はその言いかたを不思議に思ったが、「ええ、そうです」と答えている。男はそれには構わず、
「少し、話をしてもいいですか? せっかく、こうして会えたものですから」
「…………」
恭介は特にどういうこともなく考えていたが、無造作にうなずいている。別に急ぐわけでもなかった。
男はそれに対して軽く笑顔を浮かべて、体をどけている。恭介は水桶を墓の前に置いて、少しだけ手をあわせた。それから近くの石段に腰を下ろし、煙草に火をつける。
「いりますか?」
ゆっくりと一息ついてから、恭介は訊いた。
男は立ったまま、首を振っている。
恭介はしばらく煙草を吸ってから、
「もしかして、ハルの知りあいですか?」
と、訊いた。
「ええ――」
「これは、外れたら聞き流してもらいたいんですが」
言いながら、恭介は携帯用の灰皿に煙草の灰を落としている。
「あなたも、魔法使いなんでしょ?」
男はちょっと、黙っている。恭介は相変わらず煙草を吸いながら、
「まあ未名かハルの知りあいといえば、その可能性はあります。それに何ていうか、魔法使いっていうのはちょっと独特な雰囲気をしていますよ」
「あなたも、そうなんですか――?」
「俺……? 俺ですか」
恭介は笑った。
「俺は違いますよ。俺には魔法なんて少しも使えない。ただの普通の、一般人です」
男――結城季早は、様子をうかがうように恭介のことを見ていた。この父親は、その子供とよく似ている。
「これは不躾ですけど」
と、季早は言った。
「彼女が……宮藤未名さんが亡くなったときのことを、聞かせてもらっても構わないでしょうか?」
恭介は季早のことを見て、それからおもむろに煙草の煙を吐きだしている。
「どうしてですか?」
「同じことを願ったものとして、です……」
「…………」
恭介はしばらく、何も言わなかった。それからゆっくりと一度、息をついてから、
「あの日、俺は家にはいなかったんです」
と、話しはじめた。
「朝から出かけていました。だから実際に何があったかは、知りません。未名の魔法のことは知っていましたが、その時はそんなことについては考えられなかった」
指の先で、煙草がゆっくりと燃えていた。
「はじめにハルから電話があったときは、何だかよくわかりませんでしたね。未名が死んでいるっていうんですけど、その内容はともかく、ハルの様子が妙でした。何というか、落ちつきすぎてるんですね。もっとも、俺としてはそれは気が動顚しすぎてかえって落ちついてるんだろう、とは思っていましたけど」
恭介は一度、煙草を吸った。季早は黙って聞いている。宮藤恭介はどちらかといえば独り言のように、続けた。
「結局、家についてみると、未名は確かに死んでました。よく覚えてますけど、ハルは電話の横で床に座りこんでました。未名は、ハルの部屋で横になって倒れてました。手に、見覚えのある指輪をしてて、それで何があったかわかったんです――ああ、こいつはハルの代わりに死んでしまったんだなって」
「…………」
「でもその時、そのことには気づいてませんでしたね。俺自身、混乱してましたから。それに気づいたのは、葬式やら何もかもが終わってからです」
恭介は灰皿で煙草を消して、そのままポケットにしまった。
「ハルにかかった〝魔法〟について、気づいたのはね」
「…………」
「佐乃世さんにも聞いてみたから、間違いなかったですね。ハルは生き返ったとき、違う魔法にもかかっていた……いや、副作用というべきかな。ハルは母親のことを、忘れてしまった。それを治すことはできません。そうすれば、魔法の効果そのものが消えてしまうことになる。そうしたら、ハルは死んでしまうしかない」
恭介はため息をついた。
「忘れたといっても、正確には忘れたわけじゃなかった。というか、忘れたならそれはそれでよかったのかもしれない――ハルは母親という存在の意味を、なくしてしまったんです。子供にとって、母親というのは大きい存在です。絶対、といっていいかもしれない。ハルはそれをなくしてしまった――ハルは、大人にならなくては生きのびられなかったんです」
季早は、恭介のことを見つめる。そう、宮藤晴が、あの少年が抱えていたものは、それだった。彼はあまりに大きなものを、失ってしまっていた。
そしてそれは、決して――取り戻すことはできない。
けれど――
「あなた自身は、どうなんですか?」
と、季早は訊いた。
「……?」
「あなたも、大切なものを失ってしまったはずです。その時、あなたはどうしたんです。世界を、憎んだりはしなかったんですか? それを取り戻したい、とは?」
恭介はその言葉を、しばらく考えていた。まるで空から降ってきた雪の一片を、手の平の上で眺めるみたいに。
「――悲しみのぶんだけ、この世界で生きていくことができる」
と、恭介は言った。
「?」
「未名はよく、そう言ってました。何かが悲しいのは、それだけそのものが大切だったからだ。だからその大切さのぶんだけ、人は生きていくことができる。それは失われたものじゃなくて、手に入れたものなんです……彼女がいなくなったとき、確かに世界のほとんどは意味をなくしました。でもその悲しみは、彼女が残してくれたものなんです」
「…………」
「そうは、思いませんか?」
「……ええ」
季早は少し、笑った。確かに、そうだ。
幸せになるのは、悲しいこと――
それから恭介は立ちあがって、服の埃を払っている。そろそろ、長話も終わるときだった。
「すみません。こんなふうに立ちいったことを聞かせてもらって」
「いや、別に――俺も、誰かにこんなふうに話したことはなかったですからね。悪くない。少し、肩の重みがとれたような感じです」
「そうですか」
そして二人が別れていこうとしたとき、季早は道の途中でふと振り返って、言った。
「宮藤さん」
「はい……?」
「ハル君の、力になってあげてください。たぶん彼は、これからもそういう力を必要とするでしょう」
恭介はその言葉にちょっと首をかしげて、けれど軽くうなずいてみせた。季早は少し笑って、今度こそ本当に行ってしまう。
「…………」
恭介は新しい煙草に火をつけて、ぼんやりとそれを吸った。まだ少し冷たい風が吹いて、煙草の煙をたなびかせている。
それは事件が終わってから、しばらくした日のことだった。
春はまだ、少しだけ遠い――
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