8
いつもの朝だった。
太陽が昇り、世界がゆっくりと目覚めはじめる。空は昨日と同じように晴れ、陽の光がコップの中身を満たすように大地に注がれていた。
宮藤未名はいつものように起きて、朝食の準備をした。
そのあと父親は早くから出かけ、時刻は八時を過ぎようとしている。休日の朝で、一日のはじまりはいつもよりずっと遅かった。
未名は心持ちゆっくりとコーヒーをいれ、ぼんやりと朝を眺めながらそれを口にした。
もちろん――
そんなことになるなんて、未名は思っていない。
誰が、そんなことを思うだろう。
二階にあがり、部屋に入ったとき、未名は何も気づかなかった。カーテンが閉じられて薄暗い空間には、どこか海の底を思わせる静けさに満たされている。
ハルはまだ、眠っているようだった。
昨日熱を出して、体調がまだよくないのだろう。けれどそろそろ、目を覚まさなくてはならなかった。着替えもしなくてはならないだろうし、少しは食事をとったほうがいい。
未名はカーテンをそっと開き、朝の光を導いた。
暗い地下から抜けだしたように、部屋の中が白い光に包まれる。
未名は窓の前で少しだけのびをした。
「ハル、朝だよ」
そっと、声をかけてみた。
返事はない。
「ハル、いつまで寝てるの?」
けれどハルは深く眠っているように、ぴくりともしなかった。
「ハル……?」
未名はハルのそばに、近づいた。
「…………」
手を、のばした――
頬に、触れた――
冷たい。
呼吸を、していない。
ハルは日曜の朝の中で、死んでいた。
そのことを理解するのに、未名は長い時間がかかった。そのたった一つの事実を理解するために、未名はただじっとハルを見つめていた。
「……ハル?」
つぶやきが、ガラスが割れるようにして、もれた。
けれど――
その呼びかけに答える者は、もういない。
その名前の半分の意味は、もう失われてしまったのである。
「――――」
未名はひどく、頭が痛んだ。それが痛みであることを思い出しては、すぐに忘れてしまう。暗闇が否応なく世界を満たすように、白い空白が頭の中をどんどん埋めつくしていった。
どれくらい、時間がたったろう。
悲しみも、苦しみも、辛さも、苛立ちも、後悔も、焦燥も、自責も、憐憫も、無力感も、空虚も、絶望も――まだ、形になってはいない。
その白い空白が魂を覆う少し手前で、未名はあることを考えていた。
二つの可能性――
二つの、未来――
その二つの仮定の前で、未名は考えていた。いったい、どちらを選ぶべきなのか、と。
彼女はそして、選択した。
ハルを失って自分がこの世界に生きるくらいなら――
自分が失われてでもハルがこの世界に生きていたほうがいい――
宮藤未名はそう、選択したのだ。
〝
それは、そういう魔法だった。
一方の生命を得るために、他方の生命が失われなくてはならない。
未名はいつも首から下げていた指輪を取りだして、右手の人さし指にはめた。
世界に揺らぎを作り、それをゆっくりと形にしていく。
まるですべての川が海に到るように、それは自然と形を作っていた。
未名は目を開け――
そっと、ハルの額に口づけした。
魔法が世界の仕組みをほんの少しだけ変え、組み直している。失われたものが、ゆっくりと取り戻されようとしていた。ハルの身体にゆっくりと温もりが戻り、生命が鼓動しはじめている。
同時に――
宮藤未名の生命は、失われようとしていた。
完全世界を取り戻す代償を、彼女は払おうとしていた。ハルだけを一人残して、彼女は失われようとしている。そのことの意味も、十分に知りながら。
自分が失われてしまうことが、ハルにとってどういう意味を持つのかを、知りながら。
「…………」
けれど未名は、じっとハルのことを見つめていた。
ただ、優しく――
最後の時を――
そっと、見守るように。
未名はハルには聞こえない声で、語りかけていた。
「私は、本当は、ハルともっといたい。ハルともっと、生きていたい。ハルが笑ったところを、見たい。ハルが泣いているとき、そばにいたい。ハルが苦しんでいるとき、助けてあげたい。ハルが喜んでいるとき、いっしょに喜びたい」
失われていく生命の中で――
伝わらない言葉の中で――
宮藤未名はそれでも、確かに何かを残そうとしていた。
「でもそれは、もうできないの。私はもう、あなたといられない。あなたに、何もしてあげられない」
――ごめんね。
音もなく、未名は泣いている。
「ごめんね、こんなものしかあげられなくて。もっといろんなものを、あげたかった。いっしょに、過ごしたかった。誉めたり、叱ったり、抱きしめたり、喧嘩したり、悩んだり、驚いたり、笑ったり――」
未名の瞳が、ゆっくりと閉じられていく。
「でも、それはもう、無理みたい。私は二度と、ハルには会えないんだなあ――それだけが、少し、残念……」
そう言って、未名は眠るように倒れた。
躊躇も――
後悔も――
彼女はしていない。
そんなものは、必要なかったのだ。
宮藤未名はそれを、正しいことだと信じていたから。
これはその時、宮藤未名がハルに残した想いである。
それがハルに伝わることはなかった。真空中を言葉が伝わらないのと同じくらいに、それは無理なことだった。
けれど今――
その言葉は、ハルに届いていた。
宮藤晴の完全な魔法〈
それが誕生した、今だけは。
※
「ハル君に何をしたんですか……!?」
と、アキは季早に向かって叫んでいた。
いくら揺り動かしてみても、ハルはぴくりともしない。目を軽く閉じ、横になっていた。さっき季早が近づいて何かをしたら、ハルはいきなり倒れたのである。アキには何が起こったのか、さっぱりわからなかった。
わかっているのはただ――
ハルの体からは徐々に温度が失われている、ということだけ。
季早は右手を自分の前に掲げたまま、じっとしていた。それは形も、色も、重さもないものだったが、そこには確かに――宮藤晴の魂が、握られていた。
「ハル君、ハル君――!」
アキが必死になってハルの体を揺さぶる。何故だか、アキは泣きそうになっていた。
「無駄だよ」
冷たい声がして、アキの手はぴたりと止まる。
季早は昏い瞳をしたまま、かすかに微笑さえ浮かべている。
「彼には生きる理由がもうないんだからね」
「生きる、理由……?」
「魂をなくすというのは、そういうことなんだ」
アキは何と言っていいかわからなかった。魂、生きる理由、魔法――?
「どうして――」
「ん……?」
「どうして、あなたはこんなことをするんですか――」
季早はその問いかけに、少しのためらいもなく、
「娘を生き返らせるためさ」
と、答えていた。
「生き返、らせる……?」
「そうさ」
季早は卒業式の準備がされた体育館を見渡して、
「あの子はこの世界から失われてしまった。あの子はもう、年をとることもできない。可能性とつながりの一切を失うこと。死ぬというのは、結局はそういうことなんだ」
「わからない……」
アキは首を振った。
「そんなの、正しいことじゃありません。死んだ人間を生き返らせるだなんて」
「だったら聞くがね」
季早は軽く笑いを浮かべている。
「正しいことって、何だい?」
「え――」
「もしこの世界が正しい場所だというなら、どうして僕の娘は死ななくてはならなかったんだろう? この世界のどこに、正しさがあるっていうんだろう?」
「だ、だからって、ハル君にこんなことをして……魔法を使ってでもそんなことをしようだなんて、間違ってます」
アキがそう言うと、季早は、「ああ」という顔をした。
「君は知らないんだね」
「……?」
「彼は一度、死んでるんだよ」
「え――」
「宮藤晴は一度死んで、魔法を使って生命を取り戻しているんだ。母親の生命を犠牲にして、ね」
アキは一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「〝蘇生魔法〟の効果を受けた魂。僕が必要としたのは、それだった。ただの魂では、だめなんだ。それでは、死の事実に冒されて結局、魂は失われてしまう」
季早はその感触を確かめるかのように、右手を少しだけ動かしている。
「けれど一度死んで蘇った魂なら、どうだろう? それは死の事実を前にしても、魂の安定を揺るがせにはしない。それは死んだ人間に、死んだという事実を崩さないまま魂を取り戻すことができるんだ」
アキはわからないまま、首を振った。何も、聞きたくなかった。どうしてこの人は、そんなことを望んでしまったのだろう? そんなことを、願ってしまったのだろう? 結局、魔法を使ってできるのは、そんなことだけなのだろうか――?
「それは、幸せになることとは違います」
何故だか、アキは泣きながら言った。けれどアキは、自分が泣いていることには気づいていない。傍らで、ハルの体はどんどん冷たくなっていた。
「違わないさ」
「魔法はそんなことのためにあるんじゃありません」
「いいや、そのためにあるんだよ。人がかつて捨てた完全な世界。魔法は、それを取り戻すためにこそあるんだ」
「そんなの、嘘です」
「嘘じゃないさ」
「だったら、どうして――」
アキはうつむいて、ハルを見た。横になったハルの顔は、何故だかかすれてよく見えなかった。
「どうして、ハル君は――」
そうだ――
それで幸せになれるというのなら――
失ったものをあまさず取り戻せるというのなら――
どうして、宮藤晴は――
「大人にならなくちゃ、いけなかったんですか?」
「――――」
「魔法で何もかも取り戻せるだなんて、嘘です。魔法でできることなんて、たかが知れてる。それより、そんなものより、わたしたちにできることのほうがもっと、もっとたくさんあるんです。それを失ってしまうことのほうが、もっとずっとひどいことなんです」
アキはこの一年間、ハルと友達になってからのことを思い出していた。
この少年は決して、魔法をそんなふうには考えていなかった。宮藤晴は、誰よりも魔法についてよく知っていた。いつだって、ハルはその人のことを一番に考えていた。大切なのは幸せになることじゃない。幸せに気づくことだ。
涙があふれて、アキは目を開けていられなかった。ハルの体は、すっかり冷たくなってしまっている。その鼓動は、すっかり停まってしまっている。
「ハル君は絶対に、そんなことしたりしない。魔法をそんなふうに使ったりしない。もっと、ずっといい方法を考える。もっと、ずっと幸せになれる方法を――」
「言いたいことは、それだけかな?」
季早は変わらない口調で言った。
「何を言っても無駄だよ。これはなくしていないものにはわからないものだからね。君はただ、知らないだけなんだ。この世界と、たった一つで等価なものが存在するということを。そして、それを失ってしまうということを」
その言葉のほとんどを、アキは聞いていない。涙がぽたぽた零れて、何も考えられなかった。
ハルと過ごしてきた今までの時間は、結局ここに到るしかなかったのだろうか。
もう鼓動の停まってしまったこの少年は、こうなるしかなかったのだろうか。
「…………」
けれど――
「……?」
ふと顔をあげると――
そこには、ハルが立っていた。
アキのかすむ視界の中で、けれどハルは確かに立っている。呆然と、季早がそれを見つめていた。
「何故、君は魂を抜きとられて生きているんだ……?」
ハルはまだどこかぼんやりと、目覚めたばかりのような、夢見はじめたばかりのような、そんな表情をしていた。
「これは、ちょっとした間違いみたいなものなんだ」
「……?」
「〝完全な魔法〟、それが誕生するときに生じた世界の大きな揺らぎのようなものが、これを可能にしたんだ。本来なら、こんなことは絶対に起こらなかっただろうけど、それは今だからこそ、完全魔法が生まれた不安定な今だからこそ、可能だったんだ」
「何を、言っている?」
「〈絶対調律〉……でもこの魔法だけでは、こんなふうにすることはできなかった。そこまでする力は、ぼくにはなかった」
「…………」
「ここでは今、時間さえもが混乱している。完全魔法が誕生したことで、いろんなものが揺らいでいる。だからぼくは、『未来』と『今』を調律することが可能だった。僕はこのあと魂を取り戻したぼくと、今魂を失っているぼくを調律したんだ」
――それは、パラドックスだった。
未来の自分が過去の自分を殺してしまうのと同じように、未来の自分が今の自分を助けてしまうことなど、本来なら起こりえないことだった。時間の絶対性が揺るがない限り、それはどうしようもない矛盾をはらんでしまう。
けれど完全な魔法が誕生した今だけは、それが可能だったのである。
「何が、いったい……魂は、確かにここに……」
季早はわけがわからないといった顔をしていた。この少年、宮藤晴はいったい何を言っているのだ。魂は確かにここにあるというのに……完全な魔法が誕生した揺らぎ? 未来と今を調律する?
それはいったい、どういうことなのだ――?
「…………」
ハルは一歩、季早のほうに近よった。
季早は自分でも気づかないうちに、一歩下がっている。
「〈絶対調律〉はすべての均衡を取り戻すことができる」
「…………」
「だからぼくは今、あなたを調律する」
ハルはそう言って、ゆっくりと右手をのばしている。
世界のどこか深くで、小さな鐘の音のようなものが響いた。
その瞬間、季早の意識は霧散する。世界からすべての光が、消えてしまったかのように――
※
〈絶対調律〉の魔法を簡単に説明するなら、それは〝すべてのバランスを零に戻す〟魔法だった。
卑近な例を使って説明するなら、例えば、沸騰した薬缶のお湯と、冷めきったスープにこの魔法をかければ、それは適当な温度のものに変わるのである。二つのものの平衡をとる。
――こう聞くとまるで何でもないような魔法に思えるが、そうではない。
地球の熱収支を考える場合でも、収入である太陽光線は、赤外放射などの地球からの支出によって、そのバランスをゼロに保たれている。気候が安定状態にあるためには、それが必要なのだ。ゼロというのはつまり、もっとも安定した状態、ということだった。
太陽の引力と地球の周回速度がつりあっているから地球は公転しているし、地球の引力と月の周回速度がつりあっているから、月は落ちてこない。
すべては結局、ゼロで安定している。
それはハルらしい、すべてのものの釣りあいをとるための魔法だった。二つのもののプラス、マイナスをあわせてゼロにしてしまう。
そう、今までの事件でハルがそうしてきたのと同じように――
今、ハルは結城季早を調律しようとしていた。
けれどいったい、何と何をあわせるというのだろう――?
ハルは言った。
「あなたはちょうど、ぼくとは逆の立場に立っているんです」
そう、つまりハルは――
※
「…………」
ハルが気づいたとき、あたりはとても静かだった。
横になったまま首だけを動かすと、隣ではアキが正座をしている。彼女はハルが目を覚ましたことに気づいているのか、いないのか、どこかぼんやりとしていた。
まだ意識のはっきりしないまま、ハルは天井を見あげた。体育館の天井はひどく遠くて、薄ぼんやりとした暗闇に包まれている。どれくらい横になっていたのか、背中がひどく冷たい。体育館の床は氷のように冷えきっていた。
あたりは相変わらず、静かである。
ハルは呼吸を整えてから、ゆっくりと起きあがった。頭が立ちくらみのときのようにくらくらして、背中を無理に引きはがすような、不快な感覚があった。
蛇口をいくらひねっても水が出てこないような感じで、体にうまく力が入らない。目のピントをあわすのにさえ、苦労した。呼吸をするのさえ、疲れてしまう。
――無理もない、ことだった。
何しろハルは、魂の半分だけを使って動いていたのである。未来の自分の魂を間借りして、かなりの時間をその状態で過ごしていた。簡単にすべてが元通りになるはずがない。
ハルは何度か息をすったり吐いたりしてから、苦労してあぐらを組んだ。油断するとひどい頭痛がやってきそうな感じである。
それから、ようやくあたりの様子をうかがった。
隣では、さっきと同じようにアキが正座をしている。窓の外は相変わらず灰色に覆われていて、館内は薄暗い。空気は冷たく、しんとしていた。
そして――
そして、向こうには結城季早の姿がある。
季早は床に座って、かすかにうつむいていた。
「…………」
ハルはちょっと、アキのほうを見る。
気づいて、アキもハルのほうを見た。二人は無言で、短い視線を交わしている。
けれど結局、二人は何も言わなかった。たぶん、そのほうがいいのだろう。そうしたほうがいいときは、ある。
そう、季早は――
結城季早は座ったまま、静かに泣いていた。
それは悲しみだけが音もなく流れていくような、とても穏やかな涙だった。何かがゆっくりと、零れ落ちていく――
まるで白夜の夜に、優しい闇がやって来たように。
ハルとアキはただ黙って、そんな季早を見るともなく見つめていた。何かが、季早の中で終わったのだ。
母親をなくした宮藤晴と――
娘をなくした結城季早――
その二つの釣りあいが、今とられようとしていた。季早はかつて、宮藤未名が流したのと同じ涙を流していた。それは結城可奈のための涙であり、ハルのための涙でもある。
季早はハルのために――かつてハルが知るべきだった悲しみのために、泣いていた。
〈絶対調律〉
今、すべては調律されようとしていた。
けれどそれは、何かを元に戻すのではない。終わってしまった時間を、やり直すことはできない。失ったものを元に戻すことは、誰にもできなかった。
それはすべてをまた、ゼロからはじめるための魔法である。
結城季早は、いつまでも泣き続けた。ずっと昔に忘れてしまった涙を、季早は同じだけの時間をかけて、思い出そうとしていた。
アキはぼんやりとそんな光景を眺めながら、尋ねている。
「これから、どうしようか?」
「うん――」
うなずいてから、ハルは言った。
「……帰ろう、ぼくたちの世界に」
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