7
ハルはアキと並んで、体育館に立っていた。手はもう離している。あたりはしんとして、自分たちの心臓の音が聞こえてきそうだった。
向こうのほう、体育館の中央付近に男が一人立っている。
結城季早はいつかのときと同じ格好をしていた。遠すぎてよくわからないが、季早は笑っているようだった。ごく自然に、新月のような柔らかな微笑を浮かべて。
ハルは一人で季早のほうに歩いていって、三メートルほどのところで足をとめた。それが、近づけるぎりぎりの距離だった。
「お久しぶりです、季早さん」
季早は例の、子供が懐きそうな感じの笑顔を浮かべた。
「そうだね、宮藤くん」
二人はイスの置かれていない中央の通路で、向かいあった。それは年齢も背格好もまるで違う二人だったが、不思議と同じ印象を与えている。
「もう僕の名前を知っているようだけど、確か自己紹介がまだだったね」
いくぶんのんびりした口調で、季早は言った。
「僕は結城季早。季早は季節の〝季〟に、〝早〟い、だ」
「宮藤晴です。天気が晴れるの〝晴〟」
互いに名乗り終えると、季早はおかしそうに笑っている。ハルは不思議そうに季早のことを見た。
「いや……」
季早は笑いを戻して、
「どうも妙なものだと思ったんだ。まさかこうして、君のほうから僕に会いに来るなんて思ってもみなかったからね。少し意外だった」
「そうですか……」
「向こうにいるのは、友達かい?」
季早はアキのほうを見た。
「そうです」
「彼女は、どうしてここに? 君が連れてきたとも思えないけど」
「ええ、ぼくがここに連れてきたわけじゃありません。でも彼女はぼくを心配して、ここにいてくれています」
「じゃあ君がもしも危ない目にあったら、彼女は君を助けようとするだろうね?」
季早の言葉に、ハルは軽く首を振って、
「いえ――たぶん、そうはならないでしょう。彼女は魔法使いじゃありませんから」
「ふむ」
季早はもう一度アキのほうを見て、
「まあいいだろう。どっちにしろ、あの子が邪魔できるとは思えないからね」
そっと、笑った。それは前と同じ笑顔なのに、ぞっとするような冷たさを含んでいる。
「君はもう、僕が何をしようとしてるのかわかっているのかい?」
「……大体のところは、わかっていると思います」
「それなのに、ここまでやって来た?」
試すように、季早はハルのことを見た。
「彼女は、君は何も気づいていない、と言ってたよ。たぶん、人が好すぎるんだろう、とね。もっとも、僕は必ずしもそうは思えなかったけど」
「彼女というのは、フユのことですね?」
途中で、ハルは質問する。季早はうなずいて、
「そう、本当は今日も彼女が手伝ってくれる予定だったんだが、僕が断わった」
「どうしてです?」
「君と二人で話がしたかったんだよ、宮藤くん。どうして僕に会いたいなんて思ったのか、それにどのくらいこのことについて知っているのか、とかね」
「…………」
「もしかしたら、君は僕がこの学校にはじめて来たときのことから、知っているのかい?」
「ええ」
「それは面白いな」
季早は話をうながすように、口を閉じた。
ハルはゆっくりと、話しはじめている。
「そのことに気づいたのは、ごく最近のことです」
慎重に、足どりを確かめるように、ハルは言葉を継いでいく。
「春のあの時に体育館で感じた魔法と、学芸会の日にあなたとすれ違ったときの感じ。正直、それが同じものだとわかったのは、ただの偶然でした。もしかしたら、ずっとそのことには気づかなかったかもしれない。そしてそれに気づかなかったら、ぼくはあなたのことがわからずにいたかもしれない」
「…………」
「四月の全校集会のあの時、魔法を使ったのはあなただった。あの日、あなたは招かれてたか自分で頼んだかして、学校にやって来た。そして何かの都合で一人になったときに、あなたは五年生の教室に向かった。教室の座席表でぼくの机を確認し、引きだしの中を調べてみた。そしてそこにあった箱を見つけて、中身だけを取りだした」
一つめの事件の、それが真実だった。
「でも理由については、よくわからないんです。それにあの座席表は古いもので、本当の席とは違ってました」
「だろうね」
季早はそのことを聞かされても、たいして驚かないようだった。
「名前の書いてあるものがなかったからどうにも判断できなかったけど、君の机とは違う気はしてたよ。けどあまり時間もなかったから、結局君の言うとおりにした」
「どうして、そんなことを?」
「理由はいくつかあるんだけどね」
季早はちょっと考えるように、
「君のことが知りたかった、というのが一番の理由かもしれないな。君がいったいどんな少年なのか、僕には気になっていた。だから君の言うとおり、僕はあの日集会に呼ばれて、参加した。本当はそんなものどうでも良かったんだけど、都合がいいと思ってね。僕は集会のあいだに娘の教室を見たいからといって、一人にさせてもらった。そのあいだに、君たちの教室に向かった」
季早は苦笑して、
「けど箱の中身を見て、何だか腹が立ってきてね。どうしてこんな下らないものを、後生大事に抱えているんだろう。もっと大切なものがいくらでもあるだろうに、って。それに実のところ、中身を箱に戻すことはできなかった。そのまま持って帰ってしまってもよかったけど、万一見つかると厄介だしね。結局、隣のクラスのごみ箱に捨てさせてもらった」
「それは知っています」
ハルが言うと、季早はにやっと笑った。
「君はずいぶん頭がいいらしい」
ハルはその言葉にはとりあわず、
「それが、最初の事件です。それからあなたは、たくさんの猫を捕まえている。あなたの目的から考えると、たぶん実験してたんでしょうね」
「ご名答。これにはずいぶん彼女に協力してもらったよ。何しろ彼女は何かを閉じこめてしまうのが得意だからね。おかげで順調に実験を進めることができた」
実験の内容については触れず、ハルは、
「フユはあなたに、魔術具も渡しているはずです」
と言った。
「その通り、よくわかったね。ああ、学芸会のときのことか。やっぱり君は気づいてたんだね。彼女は口止めのほうを優先したらしいけど、結局は同じことだったらしい」
季早はおかしそうに言う。
「ぼくにわかっていたのは、その三つのことでした。それからぼくは、事故のことについても調べました。あなたの娘さん――結城可奈の亡くなった事故のことを」
季早はどういう表情もない顔でハルを見ていた。
それは――
世界が壊れてしまったような表情に、似ている。
「事故の内容については、あまり重要ではありません。問題なのは、それがこの世界の不完全さを表わしている、ということです。どんなに大切なものでも、この世界からは簡単に失われてしまう。そしてそれが失われたとき、人がどうするのか」
そうだ――
人はその時、誰もが同じことを願うだろう。
「ぼくはそのことを知っています。あなたはちょうど、ぼくとは逆の立場に立っているんです。だからぼくには、あなたが何をしようとしているのかよくわかる。でもそれが本当に正しいことなのかどうか、ぼくにはわかりません。それで人が幸せになれるのかどうか」
「そうかい?」
季早はかすかに、笑った。
「ええ、あなたはそれで、本当に幸せになれると思っているんですか?」
「――幸せになるのは悲しいこと」
ぽつりと、つぶやくように季早は言った。
「……?」
「君は、そうは思わないかな? 何かを得るということは、何かを失うことだ。人は大切なものを作ったかもしれないが、同時にそれを失ってしまう可能性も、作ったんだ。それは、どういうことなんだろう? 人は結局、悲しみを増やしただけなんじゃないかな?」
「…………」
「僕はかつて、とても大切な人がいたんだ。その人のことを、僕は確かに愛していた。たぶん、そのために僕は生まれたんだと思えるくらい。この世界で、そんなふうに何かを信じられることはとても少ない」
季早はそう言うと、壊れやすい古い時間にそっと手を触れるように黙っていた。
いや――
あるいはその時間はもう、壊れてしまっているのかもしれない。
「彼女は結局、子供を産むときになくなってしまったよ。はじめから、それは少し難しいことだったんだ。出産して、数日後には息を引きとった。彼女は――自分の子供の顔さえ、見ることができなかった」
「…………」
「その時僕は、何が悲しいのかもわからなかった。涙なんて出なかったよ。何のために泣いていいのかもわからなかった。彼女がもうこの世界にはいないんだということが、どういうことなのか理解できなかった。僕と娘を残して、彼女という存在がこの世界から欠けてしまったんだということが」
まるで世界との圧力をあわせるように、季早は一度息をついた。
「僕は娘といっしょに暮らしはじめた。不思議な気分だったが、それは悪くなかったよ。それは不完全ではあるけど、幸せな時間だった。僕はそうして、たぶん時間をかけて彼女の死を受け入れてたんだ」
けれど――
「けれど娘は死んだ」
季早は笑いもしなかった。
「僕にはやはり、何が何だかわからなかったよ。どうして彼女までが失われなくてはならないんだろう? この世界は、いったいどういう場所なんだろう? 僕にわかったのはただ、人が生きるにはこの世界はあまりにも不完全だ、ということだけだ」
「それで……」
「そう、それでだ」
季早は少しだけ、目をつむる。
「普通の魂では、だめだった。それは一度死んだ魂でなくてはだめだったんだ」
そう言って、季早はじっとハルのことを見つめた。そこに、季早のいう〝魂〟が見えてでもいるかのように。
「魂――?」
「〝生命の材料〟とでもいうべきものだ。それは再生産されることのない、この世界でただ一つきりの存在だ。それが失われてしまったとき、僕たちにはもうそれを取り戻すことはできない」
「…………」
「解決編はこの辺で終わりにしよう。ここからが、本当の魔法の話だ」
「――ところで君は、魔法には二つの種類があることを知っているかい?」
ハルは黙っていたが、季早は構わずに続ける。
「一つは魔術具を使った、
「…………」
「もう一つは、
それは例えば、あの公園で久良野奈津の使ったような魔法である。
ハルは訊いてみた。
「教室であなたが使ったのは、それですか?」
「そうだね。僕の魔法〈
言いながら、季早はしゃがんで、からっぽの空間から何か拾いあげる動作をしている。
「……?」
立ちあがったとき、季早の手には一枚の鏡が握られていた。直径三十センチといったところの、ひどく古めかしい鏡である。その鏡はあらかじめ、〝隠形魔法〟でそこに用意されていたらしい。
ハルはその鏡に映った自分を、すでに見てしまっていた。
「わかるかい? 〝閉じた空間〟〝中身〟、それが何を意味するのか。たぶん、君ならもうわかっているだろうね。僕が何をしようとしているのか、何ができるのか、君にはわかったんだから。そして君は――魔法使いなんだから」
季早は鏡を構えたまま、ゆっくりとハルに近づいた。鏡には、ハルの姿が写しとられている。
「何度も何度も実験したよ。けどさすがにそれをつかむのは難しかった。何度も失敗したし、そもそもうまくいくかどうかもわからなかった。ただ――僕には、諦めるための理由が欠けていたんだ」
ハルのすぐ前で、季早は立ちどまった。手をのばせば相手に触れられる距離だった。
〝
季早はそっと、手をのばした――
「もちろん、これを人間に試すのははじめてだ。うまくいくかどうか、実際のところはわからない。けどきっと、成功するよ。少なくとも僕は、そう信じている」
その手がそのままのびて――
ずぶりと、ハルの体にすいこまれた。
やがて季早はその手を、ゆっくりと引き抜いている。
その手には、何もつかまれてはいない。
けれどそこには――
ハルの魂が存在していた。
「僕は〝完全世界〟を取り戻す……!」
季早は宣言するように、言った。
(ああ、そうなんだ)
ハルは急速に失われていく意識の中で思っていた。
(結局、人は……)
そうしてその意識は――
どこまでも暗い闇の中へ、堕ちていった。
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