世界が白く、閉ざされていた。

 三月には珍しい雪だった。

 街には雪が積もって、すべてをモノクロにしている。空は鉛色の雲に覆われ、あたりはどこか薄暗かった。まるで冬に逆戻りしたような天気である。

 ハルは白い息を吐きながら、歩いている。真新しい雪を踏むたびに、透明な無数の結晶が潰れる音が響いた。あたりに人影はなく、とても静かだった。きっと誰もが家の中で、息をひそめているのだろう。

 道路には自動車の通った轍が残るばかりで、歩道には足跡一つつけられてはいない。ハルが振り返ると、自分のつけた足跡が、自分とは無関係なもののように並んでいた。

「…………」

 白い息を吐いて、ハルは再び歩きだす。

 一日眠ったおかげで、意識はだいぶはっきりしていた。そのくせ、眠ろうと思えばいくらでも眠れそうな奇妙な気分だったが、頭の中だけはすっきりとしている。

 歩きながら、ハルは自分が何を思っているのか考えてみた。

 そこには、かすかな不安があった。まるで、地の底まで続く暗い淵をのぞきこむように。

 立ちどまって、ハルは軽く頭を振った。ゆっくりと息をすって、吐く。まるで呼吸の仕方を思い出そうとするすみたいに。

 それからハルは、再び歩きはじめた。

 ――学校の前の坂道をのぼると、白い校舎が姿を現した。見なれた、いつもの星ヶ丘小学校である。駐車場には一台の車がとまっている。

 ハルは玄関まで行って、そっと扉を開けてみた。

 ガラス戸は何の抵抗もなく開いている。

 校舎に入って扉を閉めると、重さのない水のような沈黙が耳を浸した。世界の圧力が、がらりと変わってしまったようである。手をのばすと、空気が脆いガラスのように砕けてしまいそうだった。

 ハルは下駄箱で靴を履き替え、校舎に足を入れる。

 けれどそこで、立ちどまった。

 廊下のところに、一人の少女が座っている。

「遅いよ、ハル君」

 と彼女、水奈瀬陽は言った。

「――どうして、ここに?」

 ハルは何だか夢でも見ているような気がして、訊いた。

「どうしてって、ハル君が教えてくれないからでしょ」

 そう言って、アキはよっというふうに立ちあがった。

「いいかげん、来ないのかと思ってたよ。吐く息は白くて寒いし、耳が痛くなるくらい静かだし、時計の音がやたら大きく響いてるし、わたしって何してるんだろうって気分だった。休みの日に、こんな誰もいない学校で友達を待ってるなんて、ばかみたいだって。何度も何度も帰ろうかと思ったけど、いや、ハル君なら必ず来るはずだ、と思って待ってたの。わたしでなけりゃとっくに帰ってるところだよ、ハル君」

 言われて、ハルはよくわからないままうなずいてしまっている。アキは本気で文句を言っているようだった。

「どうしてぼくがここに来るって、わかったの?」

 ハルは首を傾げてみせる。

「……フユに聞いたんだよ」

 アキは何故か、ひどく言いにくそうだった。

「フユに――?」

「えと、やっぱり聞きたいかな、そのこと」

「うん」

「あのね、この前、ハル君とフユ、屋上で話してたでしょ。あれね、聞いてたんだ。というか、本当は聞こうとして聞こえなかったんだけど」

「ああ――」

 そうか、とハルは思った。

 あの時、どうしてフユが立ちどまったのか。どうして急に、アキのことを言いだしたりしたのか――

 フユは、気づいていたのだ。

「それでね、それとなく聞いてみたわけ。無理に聞くつもりはなかったんだよ。でも教えてくれて、今日ハル君が学校に来るって、理由は教えてくれなかったけど、何かとっても大事な用があるとかって……」

 アキの声は段々と、小さくなっていた。この少女はこの少女なりに、後ろめたさのようなものを感じているらしい。

 けれどハルは、何だかおかしかった。この少女は、どれくらいここで待っていたのだろう? 一人きりで、来るあてもない自分を。そのあいだ、何を考えていたのだろう? 不安に、所在なげに、あたりを見まわしたりしていたのだろうか。

 そう思うと、ハルは自然に笑ってしまう。

 笑うと、いろいろなことがいつもと同じに戻っていくような気がした。

「……その、いいかな? わたしがついていっても」

 ハルの笑いの意味には気づかず、アキはおずおずといった感じで尋ねている。

「いいよ」

 笑いを消すように、ハルは首をうなずかせてみせた。

「本当に?」

 ハルはもう一度こくりとうなずいて、「でも」とつけ加えた。

「アキは、それでいいの? これは、魔法を巡る話なんだ。世界には必要のないこと。本当は、知らなくていいことなんだ。知れば、何かが変わってしまうかもしれない」

「……あの時、言ったよね」

 アキは少しだけ笑った。

「わたしはハル君のことが知りたいって。今も、それにこれからも。わたしはハル君のことを知りたいと思ってるんだよ。例えそれが、どんなことだとしても」

 ハルは少し、うつむいた。心のどこかで、奇妙な温もりを感じたような気がした。

 それはかつて感じた何かと似ているような気がしたが、ハルには思い出せないでいる。

「――一つ、頼んでもいいかな?」

 と、ハルは言った。

「何?」

「手をつないで欲しいんだ」

「もちろん」

 アキは微笑った。

「友達だもんね」

 二人は横に並んで、手をつないだ。ハルの手は少し冷たく、震えていた。

「大丈夫?」

 アキが心配そうに、一度訊く。

「うん」

 ハルはにっこりと笑った。

「ありがとう、アキ――」

 つないだ手が、ゆっくりと温められていた。

 それは季節が巡り、世界が柔らかさを取り戻すのに似ている。

「……行こう」

 ハルはそう言って、一歩を踏みだした。



 体育館は冷たく、がらんとしていた。それは魂を喰いつくすような、寒々しい光景である。すべてが凍てつき、失われてしまったようにさえ思える。

 窓からは外の光が射しこんでいたが、館内は薄いヴェールのような暗闇に覆われていた。あと数日に迫った卒業式のために、そこには教室から持ってきたイスが並べられている。

 それはどこか、神聖な儀式の場のようにも見えた。

 一人の男が、イスの一つに座っている。

 黒い色調に統一された服を着て、かすかにうつむいていた。あたりの沈黙がそのまま形になったような、ひどく静かな雰囲気をしている。その姿は何かを待つように、百年も昔からそこにいた、という感じだった。

「…………」

 やがて鉄の扉がゆっくりと開き、二人の子供が姿を現している。

「――ようこそ」

 結城季早は立ちあがり、言った。

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