6
世界が白く、閉ざされていた。
三月には珍しい雪だった。
街には雪が積もって、すべてをモノクロにしている。空は鉛色の雲に覆われ、あたりはどこか薄暗かった。まるで冬に逆戻りしたような天気である。
ハルは白い息を吐きながら、歩いている。真新しい雪を踏むたびに、透明な無数の結晶が潰れる音が響いた。あたりに人影はなく、とても静かだった。きっと誰もが家の中で、息をひそめているのだろう。
道路には自動車の通った轍が残るばかりで、歩道には足跡一つつけられてはいない。ハルが振り返ると、自分のつけた足跡が、自分とは無関係なもののように並んでいた。
「…………」
白い息を吐いて、ハルは再び歩きだす。
一日眠ったおかげで、意識はだいぶはっきりしていた。そのくせ、眠ろうと思えばいくらでも眠れそうな奇妙な気分だったが、頭の中だけはすっきりとしている。
歩きながら、ハルは自分が何を思っているのか考えてみた。
そこには、かすかな不安があった。まるで、地の底まで続く暗い淵をのぞきこむように。
立ちどまって、ハルは軽く頭を振った。ゆっくりと息をすって、吐く。まるで呼吸の仕方を思い出そうとするすみたいに。
それからハルは、再び歩きはじめた。
――学校の前の坂道をのぼると、白い校舎が姿を現した。見なれた、いつもの星ヶ丘小学校である。駐車場には一台の車がとまっている。
ハルは玄関まで行って、そっと扉を開けてみた。
ガラス戸は何の抵抗もなく開いている。
校舎に入って扉を閉めると、重さのない水のような沈黙が耳を浸した。世界の圧力が、がらりと変わってしまったようである。手をのばすと、空気が脆いガラスのように砕けてしまいそうだった。
ハルは下駄箱で靴を履き替え、校舎に足を入れる。
けれどそこで、立ちどまった。
廊下のところに、一人の少女が座っている。
「遅いよ、ハル君」
と彼女、水奈瀬陽は言った。
「――どうして、ここに?」
ハルは何だか夢でも見ているような気がして、訊いた。
「どうしてって、ハル君が教えてくれないからでしょ」
そう言って、アキはよっというふうに立ちあがった。
「いいかげん、来ないのかと思ってたよ。吐く息は白くて寒いし、耳が痛くなるくらい静かだし、時計の音がやたら大きく響いてるし、わたしって何してるんだろうって気分だった。休みの日に、こんな誰もいない学校で友達を待ってるなんて、ばかみたいだって。何度も何度も帰ろうかと思ったけど、いや、ハル君なら必ず来るはずだ、と思って待ってたの。わたしでなけりゃとっくに帰ってるところだよ、ハル君」
言われて、ハルはよくわからないままうなずいてしまっている。アキは本気で文句を言っているようだった。
「どうしてぼくがここに来るって、わかったの?」
ハルは首を傾げてみせる。
「……フユに聞いたんだよ」
アキは何故か、ひどく言いにくそうだった。
「フユに――?」
「えと、やっぱり聞きたいかな、そのこと」
「うん」
「あのね、この前、ハル君とフユ、屋上で話してたでしょ。あれね、聞いてたんだ。というか、本当は聞こうとして聞こえなかったんだけど」
「ああ――」
そうか、とハルは思った。
あの時、どうしてフユが立ちどまったのか。どうして急に、アキのことを言いだしたりしたのか――
フユは、気づいていたのだ。
「それでね、それとなく聞いてみたわけ。無理に聞くつもりはなかったんだよ。でも教えてくれて、今日ハル君が学校に来るって、理由は教えてくれなかったけど、何かとっても大事な用があるとかって……」
アキの声は段々と、小さくなっていた。この少女はこの少女なりに、後ろめたさのようなものを感じているらしい。
けれどハルは、何だかおかしかった。この少女は、どれくらいここで待っていたのだろう? 一人きりで、来るあてもない自分を。そのあいだ、何を考えていたのだろう? 不安に、所在なげに、あたりを見まわしたりしていたのだろうか。
そう思うと、ハルは自然に笑ってしまう。
笑うと、いろいろなことがいつもと同じに戻っていくような気がした。
「……その、いいかな? わたしがついていっても」
ハルの笑いの意味には気づかず、アキはおずおずといった感じで尋ねている。
「いいよ」
笑いを消すように、ハルは首をうなずかせてみせた。
「本当に?」
ハルはもう一度こくりとうなずいて、「でも」とつけ加えた。
「アキは、それでいいの? これは、魔法を巡る話なんだ。世界には必要のないこと。本当は、知らなくていいことなんだ。知れば、何かが変わってしまうかもしれない」
「……あの時、言ったよね」
アキは少しだけ笑った。
「わたしはハル君のことが知りたいって。今も、それにこれからも。わたしはハル君のことを知りたいと思ってるんだよ。例えそれが、どんなことだとしても」
ハルは少し、うつむいた。心のどこかで、奇妙な温もりを感じたような気がした。
それはかつて感じた何かと似ているような気がしたが、ハルには思い出せないでいる。
「――一つ、頼んでもいいかな?」
と、ハルは言った。
「何?」
「手をつないで欲しいんだ」
「もちろん」
アキは微笑った。
「友達だもんね」
二人は横に並んで、手をつないだ。ハルの手は少し冷たく、震えていた。
「大丈夫?」
アキが心配そうに、一度訊く。
「うん」
ハルはにっこりと笑った。
「ありがとう、アキ――」
つないだ手が、ゆっくりと温められていた。
それは季節が巡り、世界が柔らかさを取り戻すのに似ている。
「……行こう」
ハルはそう言って、一歩を踏みだした。
※
体育館は冷たく、がらんとしていた。それは魂を喰いつくすような、寒々しい光景である。すべてが凍てつき、失われてしまったようにさえ思える。
窓からは外の光が射しこんでいたが、館内は薄いヴェールのような暗闇に覆われていた。あと数日に迫った卒業式のために、そこには教室から持ってきたイスが並べられている。
それはどこか、神聖な儀式の場のようにも見えた。
一人の男が、イスの一つに座っている。
黒い色調に統一された服を着て、かすかにうつむいていた。あたりの沈黙がそのまま形になったような、ひどく静かな雰囲気をしている。その姿は何かを待つように、百年も昔からそこにいた、という感じだった。
「…………」
やがて鉄の扉がゆっくりと開き、二人の子供が姿を現している。
「――ようこそ」
結城季早は立ちあがり、言った。
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