それは、台本にはないセリフだった。

 舞台上で、三香はじっと透哉のことを見つめている。

 体育館はしんとして、誰も舞台上の異変に気づくものはなかった。劇が中断されることはない。まるで、誰一人知らないうちに、時間の流れそのものががらりと変わってしまったかのようだった。

 透哉は三香の様子に戸惑いつつも、劇の流れを壊さないようにアドリブをはじめている。

「――どうしてそんなことを言うんだい、アニエス?」

「…………」

 と、三香は首を振って、

「だって、それでは私は救われたことにならないのだから」

 彼女のセリフに、ほとんど迷いはない。

「僕にはわからないよ、アニエス。君はもう一度この世界に戻ってくることができるんだ。僕たちはもう一度、いっしょになって幸せに暮らすことができる」

「それでは、だめなの……」

「どうして?」

「それでは手遅れにしかならないから」

 三香は声を震わせながら言った。

「それじゃあまるで私は、あなたを苦しめるために存在していたみたい。今さら助けに来るくらいなら、どうして私が生きているあいだに、いつそうなってもいいように時を過ごしてこなかったの? どうして、私が死んだことだけを後悔するの?」

「でも、僕にはどうすることも――」

 透哉はあくまで劇を続けようとしながら、ふと気づいていた。

 それはアニエスの言葉ではなく、咲羽三香の言葉だった。

 彼女は震えるように、こぶしを強く握っていた。

 だから――

 藤間透哉は訊いた。

「……確かに僕は君といっしょにいたけれど、それは本当にいっしょにいたわけじゃなかったのかもしれない」

 三香は顔をあげて、透哉のことを見た。藤間透哉が自分の言葉に答えようとしていることに、三香は気づいた。

 そう、藤間透哉というのはそういうやつなのだ。ハルの言ったとおりに。

「少なくとも君にとっては、そうだったんだね?」

 こくりと、三香はうなずいている。

「どうすればいい? 君は僕に、どうして欲しい?」

 三香は震える小鳥のように声を振り絞った。

「私は――」

 三香はまっすぐに透哉を見つめた。

「私は、聞いてほしかった」

「…………」

「だって、私は」

 三香はその一言がまるで世界を変えてしまうような気がして、ずっと恐かった。藤間透哉の笑顔を見るたびに、それを失いたくないと思っていた。

「私はあなたが――」

 けれど彼女が本当に望んでいたのは、そんなことではなかった。

 彼女が望んでいたのは、透哉と恋人になることでも、透哉が彼女のことを好きだといってくれることでもなかった。

「――私は、あなたが好きだから」

 彼女はただ、その言葉を伝えたかっただけなのだ。その想いをきちんとこの世界で言葉にして、生みだしたかった。

 だから彼女はまじろぎもせず、透哉のことを見つめている。

 舞台の上では虚構が現実を半ば包みこんで、今だけは様々な物語を可能にしていた。

 スポットライトが二人を明るく照らす。

「……僕は一つ、謝らなくちゃいけないことがあるんだ」

 藤間透哉はゆっくりと、口を開いた。

「本当は何となく、気づいていたんだ。君がどう思っていたのか。もしかしたらそうなんじゃないかって」

 透哉はごまかすように視線をそらして、けれどやはり三香のほうに向きなおった。

「でも、僕にはどうしていいかわからなかった。僕自身がどう望んでいるのか、わからなかったから。君に答えたくても、どう答えていいかわからなかった」

 三香と透哉は、互いに瞳の奥をのぞきこんだ。ずっと昔にそうしたのと、同じように。

「だから君がそうして欲しいなら、僕は魔法は使わない」

 それは、ユリシスのセリフだった。

「けどそのかわり、待っていてい欲しい。僕がちゃんと、僕の気持ちに気づくまで」

 それは、藤間透哉のセリフだった。


ユリシス 時がたって、僕がいつか自然にこの場所にたどり着くまで、待っていて欲しい。それがいつになるかはわからない。何十年も先なのか、それとも明日のことなのか。

アニエス 私、待ってるわ。例えどれだけの時間がたっても、私は待ってる。だから今度ここにやって来たら、その時はずっとあなたといっしょにいたいと思う。

(舞台がゆっくりと暗くなっていく。)


ナ    この物語は、ここでいったん終わります。ユリシスとアニエスは再び別れ、それぞれの世界へと帰っていきました。この場所で、もう一度会うことを約束して。二人のその後のことは、まだわかっていません。けれどその物語はいずれ、また別の場所で語られるべきでしょう……。

(舞台が明るくなる。)


「あわわ、二人とも台本と違っちゃてるわよ」

 美守は舞台袖で見ながら慌てた。それはそうだ。何しろ話は、いまや完全に別なエンディングを迎えようとしている。

「大丈夫です、これで」

 その隣で、ハルが落ちついて言った。

「そ、そうなのかな……?」

 美守は慌てすぎて、いつもの調子に戻ってしまっているようだった。あれだけ劇を成功させようとしていたのに、今はただおろおろするばかりである。

 やがて舞台が暗くなって、ナレーションが入る。それは、アキの声だった。

 もちろん、こんなナレーションなど最初からありはしない。話を締めくくるために、二人が急いで継ぎ足したものだった。原稿を作るような暇はなかったので、ほとんどアドリブでしゃべっている。おまけにそれはハルがやるはずだったのに、アキが無理にかわっていた。

 けれど、アキは十分にその役をこなしていた。

 ナレーションが終わると舞台が明るくなり、生徒たちがその上に並んでいく。同時に、拍手が体育館いっぱいに響いていた。

 舞台は変に明るくて、まぶしい感じがした。緊張が解けたせいかもしれないし、いつの間にか世界が元に戻ろうとしているせいかもしれない。

 ハルとアキも手をつないで、列の中に並んだ。舞台中央では、三香と透哉が手を結んでいる。二人は心持ち強く、手を握っていた。それは互いをつなぎとめるための、小さな約束だった。

 それから全員で手をつないだまま、お辞儀をする。拍手はいっそう強まり、ゆっくりと幕は下りていった。

 こうして、五年生の劇は終わったのである。

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