何かがそっと積み重なっていくように、時間が過ぎていった。一日一日が奇妙な重みを増していき、やがてその重み自体が積み重なって出来上がったような一日が、やって来ている。

 ――学芸会、当日。

 その日、空はきれいに晴れあがっていた。

 体育館には全校生徒のイスが並べられ、窓には厚手のカーテンがひかれている。白熱電球は不透明な粒子のような光をあたりに散らし、館内はざわざわとした空気に包まれていた。

 プログラムによれば、五年生の劇がはじまるのは三番目、三年生の出し物の次だった。奇数の学年が先に発表するようになっている。一番最初は一年生による合唱で、生きることと成長することを歌った女性デュオの曲を練習したものだった。

 プログラムの合間の休憩時間に入ると、美守が声をかけて準備にとりかかっている。この休憩時間のあいだに、衣装変えや舞台道具の搬入などを行わなければならなかった。

 五年生全員が立ちあがって、それぞれ移動をはじめる。体育館を出るとき、何人かは保護者の席に親の姿を見つけて、手を振ったりした。

 ハルも少しだけ祖母の姿を探してみたが、うまく見つからない。時間は伝えてあったが、遅れているのかもしれなかった。ハルはあまり気にせず、準備にとりかかった。

 衣装変えに何人かは教室で着替えなくてはならないが、ハルには特にその必要はなかった。魔法使いのローブと帽子をかぶるだけなのだ。

(どうなんだろう……)

 その衣装を手にとって、ハルはため息をついた。ディズニー映画のファンタジアみたいな格好だった。通りすぎる人が、時々珍しそうに眺めたりしている。

「ハルのお兄ちゃん」

 とその時、不意に声が聞こえた。

 ハルが振りむくと、そこには栩あかり――口調からして、そうだろう――の姿があった。彼女は明るいワンピースを着て、背中には蝶の羽根らしきものがつけられている。三年生は次が出番だから、その衣装なのだろう。

「あかりちゃん、久しぶりだね。それ、蝶の格好なの?」

「そうです。『親指姫』で葉っぱに乗った親指姫を運んであげる役です」

 双子の姉のほうの、ひかりも姿を現した。

「――変な格好」

 彼女はハルの格好をしげしげと眺めて、鉈で割るような批評をした。

「それって魔法使いなわけ。全然、似あってないけど」

「ぼくも同感だけどね」

 ハルは苦笑するように言う。

「二人のほうはよく似あってるね。同じ役なの?」

「そうです、おそろいです」

 あかりは嬉しそうに言う。

「どこがよ、こんなの」

 その隣で、ひかりは不機嫌そうだった。

「センスがないし、羽根は邪魔だし、それに親指姫の乗った葉っぱ、というか台車を引っぱるだけの役なのよ。本当は一人の役なのに、双子だからって二人にされちゃうし」

 言いつつ、ひかりはまんざらでもなさそうな様子だった。

 仲直りは、それなりにうまくいっているのだろう。

 ハルはそんな二人を眺めつつ、少しだけ微笑している。確かに、魔法使いも悪くはないのかもしれなかった。

(少しくらい、やる気になったほうがいいかな)

 ふと、そんなことを思ったりもした。

「…………」

 その時――

 ハルの横を、誰かが通りぬけている。その瞬間、ハルは何故か奇妙な感覚を覚えた。何か、重い塊を飲みこんだような――

 その誰かに、ハルは見覚えがあるような気がした。けれどその奇妙な感覚に気をとられたせいで、そのことをとっさに思い出せないでいる。

 記憶の奇妙なぶれの中でハルがようやく振りむくと、その相手はすでに体育館の人ごみにまぎれようとしていた。背中がわずかにのぞくばかりである。

(何だろう……?)

 その人物に、ハルはどこかで会っているような気がした。けれどいったいどこで会ったのかが、ハルには思い出せないでいる。つい最近のような気もしたし、だいぶ前のような気もした――

「ハル、そろそろ行こうぜ」

 そんなことを考えていると、急に後ろから声がかけられた。

 見ると、友達の一人が舞台道具の運びだしにかかっている。ほかのみんなも準備を終えて、道具運びにかかっていた。

「うん、今行く」

 いい加減に、二人としゃべっている場合でもないらしい。

「それじゃあ、私たちも行きます」

 と、あかりが言った。二人のほうが出番は先である。

「二人ともがんばってね」

 ハルは明るく、言葉をかけてやった。

「てか、魔法使いだったらもうちょっと気の利いた励ましとかはないわけ?」

 ひかりが無理に怒ったような口調で、そんなことを言った。何故だか、彼女の頬は少し赤い。

「……そうだね」

 ハルは少し考えて、

「〝汝に授けたるは魔法の力。この不完全な世界に、完全を求めるために残されたもの。幾百もの星の中から、汝に選ばれた力。この力は汝の願いを叶え、汝の失ったものを取り戻すであろう。ただし願いを叶えられるのはただ一度。それでは汝、今はすみやかに行くべし〟」

「何ですか、それ?」

 あかりが不思議そうに訊いた。

「劇のセリフだよ」

 ハルはそう、笑って答えている。


 三年生の劇『親指姫』が終わると、拍手とともに幕が下りていった。

 その間、五年のクラスは衣装を着たまま準備室の前で待機していたが、「さあ、行こうか」という美守の声で全員が立ちあがっている。休憩時間のざわめきがはじまる中、舞台準備のために道具の移動にかかった。

 準備室では三年生の片づけがもたついているようだった。低学年らしく、なかなか要領よく行かないらしい。

 見かねた五年生の何人かが、準備室に入って手伝いをはじめた。とりあえず道具を外に出してしまわなければ、こちらの準備ができないのである。

 ハルがふと見ると、咲羽三香も準備室の中に入っていくところだった。三香は白いドレスに腕輪を身につけている。ヒロインらしく、控えめながらも存在感のある姿だった。

 彼女の顔色が悪いように見えて、ハルは何となく気になったが、その姿はすぐに見えなくなってしまう。あまり人数が入っても仕方ないので、ハルは入口のところで様子をうかがうだけにしていた。

 ――そっちの端持って。違うよ、そっちの端。

 ――これ壊しちゃっていいかな? そのほうが運びやすそうだし。

 ――この台車重くないかな。車輪のとこおかしくなってない?

 ――着替えるのなんてあとでいいから、さっさと運びださないと。

 どうやら準備の練習はしていても、撤収の練習はしていなかったらしい。ひどい混雑ぶりで、あまり効率がよさそうには見えなかった。これだと、多少おかしなことがあっても気づきはしないだろう。

 それでもようやく舞台道具を運び終えると、今度は五年のクラスの搬入作業がはじまった。さすがに高学年だけあって、こちらはきびきびしている。

 休憩時間が終わるぎりぎりには、準備はすべて終わっていた。

 全員が所定の配置についている。

 時計の針が、奇妙な粘性を持って動いていた。

 心臓が、いつになく強く鼓動しているのがわかる。

 やがて体育館の電気が、音を立てて消された。

 幕がゆっくりと、あがっていく。


 ――劇の、はじまりだった。

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