三つめの事件
1
駅に着くと、ちょうどバスがやってきたところだった。ハルは古めかしい感じのそのバスに乗って、中ほど後ろの席に座る。
日曜の昼下がり、バスに乗っているのはハル一人きりだった。窓からの陽射しに、くすんだ色のシートは明るい温もりを含んでいる。ハルは上着を脱いで、少しだけ窓を開けた。
季節は秋も半ばを迎えようとしていて、夏の暑気はどこにも残っていない。まるで何かがそっと零れ落ちていくように、空気は次第にその冷たさを増していた。
時間が来て、ゆっくりとバスが動き出す。駅前のロータリーをぐるりとまわり、バスはのんびりと散歩に出るような調子で走りはじめた。
ハルがここにやってきたのは、人に会うためだった。その人物のことを、ハルはよく知っている。ついこのあいだも、ハルはその人物に会ったばかりだった。
静かに時間を揺らすようなバスの震動を感じながら、ハルは頬杖をついて窓の外を眺めている。
駅前の商店街や住宅地を抜けると、道の横にはいつの間にか田んぼや畑が広がっていた。黄金色の稲穂のほとんどはもう刈りとられ、収穫の遅いものが少しだけ風に揺れている。
しばらくすると目的の停留所の名前が告げられ、ハルはブザーを押した。
バスを降りると、住宅地の中を歩きだし、目的の場所に向かう。そこかしこに緑が多く、落ちついた感じの家が並んでいた。
しばらくして、向こうから人がやって来ている。
三十代半ばといったところの、背の高い男だった。少し線の細い感じがしたが、かといって華奢というほどではない。服装は全体が黒で統一されていて、折り目正しい感じがした。不思議と、静かな感じのする人物である。
――どこか、白夜の世界の夜を思わせるように。
「…………」
ハルはごく自然に、その人の傍らを通り過ぎようとした。相手が自分のことを知っているとは思っていない。
けれどハルがその横を通りすぎようとすると、
「君が、宮藤晴くん?」
と、声をかけられた。
「……?」
ハルはわからないまま、男のほうを見た。
男は軽く、微笑を浮かべている。
「やっぱり、そうだったのか。聞いていた印象と同じだったんでね。それに〝
「ぼくを、知ってるんですか?」
ハルは落ちついて訊きかえした。
「まあそうだね」
男はやはり、笑顔を浮かべている。子供が懐きそうな感じの笑顔だった。
「今日は佐乃世さんを訪ねてきたんだけどね、いろいろ参考になる話を聞かせてもらったよ。もし君が彼女の家に行くなら、よろしく伝えておいてくれないかな?」
「ええ――伝えておきます」
男の表情は変わらない。
「今日は運がいいらしいね。佐乃世さんだけでなく、こうして君にも会えたんだから」
「…………」
「それじゃあ、僕はもう行くよ。おばあさんによろしく」
もう一度、同じように笑ってみせると、男は向こうへ歩いていってしまった。
ハルはしばらく立ちどまって、それを見送っている。
秋の時間はゆっくりと、何でもないように落ちつきを取り戻しはじめていた。
「よく来たわね、ハル」
そう言って、佐乃世
そこは彼女の家の一階で、二人は居間に向かいあって座っている。ベランダの向こうには小さな庭が広がっていて、澄んだ光が部屋の中に差しこんでいた。庭に通じるガラス戸は開かれていて、時々レースのカーテンが柔らかい鳥の羽根みたいに揺れた。
佐乃世来理――
彼女はハルの、母方の祖母にあたる人物だった。おばあさんといってもまだ若く、六十を少し越えたくらいの年齢である。連れあいとはだいぶ前に死に別れ、今は一人で自由に暮らしている。娘はハルの母親一人きりだった。
「どうかしら、さっき焼いたばかりだけど?」
そう言って、来理はテーブルの上のお菓子をすすめた。
「いただきます」
ハルは上品な食器の上に乗ったそれを一つつまんで、口に入れてみる。来理の作ったお菓子は相変わらずおいしくて、不思議な味がした。
来理は満足そうにそれを眺めながら、
「学校のほうは、どうかしら?」
「問題ないよ。友達もいるし、クラスのみんなも仲がいいしね」
「そう」
それから来理は、ごく落ちついた様子で訊いた。
「……体のほうは、変わりないかしら?」
「大丈夫だよ」
ハルは鈴の音のするような、ティーカップに口をつけている。
「本当に大丈夫?」
「本当にだよ」
ハルがそう答えると、来理は安心したような、けれどまだ心配そうな表情を浮かべた。
「わかっているとは思うけど、あなたの体は少し人とは違うのだから。いいかしら? あなたがあの魔法でどんな影響を受けたかは、誰にもわからないのよ。とても難しい魔法だし、前例もあまりないのだから」
「わかってるよ」
ハルは笑って答えてみせる。それはハルの〝魂〟に関わる問題だった。わかっていないはずがない。
「――だから魔法に関わる一通りのことは習ったし、練習もした。もし何かおかしなことがあったら、ぼくが自分でどうにかできるように」
「ええ、そうね」
来理も少しだけ笑う。
「あなたはとても優秀な魔法使いになれるわ。よい素質を持ってる。魔法と血筋はあまり関係ないけれど、母親に似たのかもしれないわね。それにあなたは、とても優しい子よ。それだけで十分なくらいに」
「…………」
ハルは何となく赤くなって、ごまかすようにお菓子をつまんだ。クッキーにはその甘さの奥に、柔らかな苦味があった。
「そういえば、さっき男の人に会ったよ。キリばあちゃんに、よろしくって言ってた」
「ええ」
来理はカップをとって、そっとお茶を口に含んだ。
「――あの人も、魔法使いなんでしょう?」
ハルがそう訊くと、来理は困ったように苦笑してカップを置いた。
「あなたは本当に優秀な子ね、ハル」
「それ以外には考えられなかっただけだよ」
「そうね、普通の人がわざわざこんなところに〝魔法管理者〟の一人を訪ねてくるわけはないわね」
来理はそう、落ちついた笑顔を浮かべて言った。
魔法管理者――
一般に、魔法使いが魔法を使うためには〝魔術具〟が必要だった。それがなければ、〝揺らぎ〟を作っても魔法の形にはできないのである。それは例えばハルが〝感知魔法〟のために使ったペンダントだったり、〝読心魔法〟に使った奇妙な形のオブジェだったりする。
来理はそうした魔術具を保存、管理するために選ばれた管理者の一人で、家の倉庫にはいくつもの魔術具が保管されていた。
ハルが時々使う魔術具は、彼女から借りだしたものである。そしてまた、管理の必要のうえから、彼女が魔法に関する知識を多く持っていることも、当然なことではあった。
「……
と、来理は言った。
「いくつかの魔法を組みあわせて使うような、難しい魔法。成功する見込みはとても低いけど、彼はその魔法について、私に質問しにきたの」
「…………」
「何に使うつもりなのかは、聞かなかったわ。けれど彼の気持ちは……よくわかるわね。取りかえしのつかないものを失ってしまえば、人は魔法にでも頼らないと、生きてはいけないのかもしれないから」
来理はそう言って、ただ静かに微笑している。
(そうなんだろうか……)
ハルは黙ったまま、けれどよくわからなかった。ハルにとって魔法は、決して失ったものを取り戻せるようなものではなかった。ハルはそのことを、よく知っている。
ハルが無言でいると、来理もそのことに気づいたようだった。彼女は少しだけ微笑みの色をずらして、
「そうね、あなたにはそんな話はわからないかもしれない。魔法で何もかもが救えるわけじゃないと、あなたは知っているから。でもそれでも、人はそんな小さな願いを抱かずにはいられないときがあるのよ」
「…………」
「この話は、これくらいにしておきましょう」
と、来理は何かを察したように穏やかに言った。彼女にとっても、魔法は決して人を幸福にする力ではなかった。
「……それより、今度学校で学芸会があるそうね」
来理は話題を変えた。
「うん」
「あなたのクラスは、何をするのかしら?」
「劇だよ。学年合同のだけど」
「どんな劇?」
「ギリシャ神話の、オルフェウスみたいな話かな……」
「ずいぶんロマンチックね。面白そうだわ」
「そうかな……」
ハルは何故か、あまり気乗りしない様子で言った。そして実際、それは気乗りしないことではあった。
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