6
しばらくは、誰も口をきかない。奇妙な沈黙があたりを満たしていた。まるで世界がそっと聞き耳を立てているような沈黙である。誰かが小さく息を吐けば、それだけで何かが壊れてしまいそうな。
夏の太陽と木陰の下で、蝉の声だけがやかましく鳴り続けている。
「どうして……?」
栩あかりがそっと、ためらうようにその言葉を言った。
「どうして私のぬいぐるみを取ったりしたの、ひかりちゃん?」
ひかりは、その言葉に答えない。
「ぬいぐるみが欲しかったんだったら、そう言ってくれれば私はいつだって――」
「違うわよ!」
ひかりは胸のどこかから押しあがってくる言葉を、飲み下すべきかどうか迷うように口元を震わせていた。けれど、
「――私は、私にならなくちゃいけなかった」
と、何かを押しつぶすように言った。
あるいは――
押しつぶされたのは、彼女のほうだったのかもしれない。
「あの時、私は決断しなくちゃいけなかった。それは何でもないようなことだったけど、たまたま座るテーブルが別々になったみたいなことだったけど、でも私は知ってしまったから。世界にはそういうこともあるんだって、世界はそういう場所なんだって……」
ひかりはぐっと、歯をかみしめるようにして口を閉ざした。
「私は……私にならなくちゃいけなかった。私たちはいつもいっしょにいられるわけじゃない。いつか、離ればなれになってしまうかもしれない。いつか、永遠の別れを経験することになるかもしれない。そうなった時、私はそれでも世界で生きていけるように――」
「………」
「私はだから、あかりと同じ存在であることを、やめなくてはならなかった」
何かが脆くも崩れてしまうように――
何かが静かに壊れてしまうように――
栩ひかりは、言った。
それは小さな少女の、とても大きな決断だった。自分を作り変えてしまうこと。自分の魂の半分を捨てて、そこに無理矢理別のものを詰めこんでしまうこと。彼女はそれを誰にも言わず、誰の力も借りず、自分ひとりでやり遂げることを選んだ。
「じゃあ、どうしてぬいぐるみを――?」
あかりは水の中で無理に息をするような様子で言った。
「…………」
ひかりは何かを押し殺そうとするように、かすかにうつむいている。
「許せなかったから」
そしてひかりもまた、水の中で必死に息をするような様子で答えた。そうでもしなければ、息の仕方を忘れてしまう、というように。
「私は、許せなかった。あかりだけがそのことを知らずにいられることが。あかりだけが、それを失わずにすんでいることが。この世界がどういう場所かも知らず、平気な顔でその場所にいられることが。私は、私だけがそうなってしまったことを、許せなかった」
吐き出すようにして、ひかりは言った。
「…………」
あかりはそれに対して、何も答えられない。
何が、答えられただろう――?
世界が水底に沈んでいくような、不思議な感覚があった。透明な水はいつしか光をさえぎって、暗い闇だけが世界を静かに押しつぶそうとしている。
栩あかりと栩ひかりは、呼吸を失おうとしていた。
「…………」
その時、ハルは何かを言った。
あかりとひかりは、少しだけ顔をあげる。
「――君たちはやっぱり、二人で生きているみたいだね」
「……?」
二人はよくわからない、という顔でハルのことを見た。ハルは、この少年はいつものような落ちついた表情を浮かべ、言葉を継いでいる。
「この事件は、結局君たち二人が起こしたようなものなんだ。君たちは、〝仲直り〟がしたかっただけなんだよ――」
「馬鹿じゃないの、あんた」
ひかりが、かちんときたように言った。
「私はあかりが許せないって言ったのよ。私だけがこんなふうになって、それを知りもしないあかりが。だからぬいぐるみを取ってやったんだから」
「でもね」
ハルはそれでも、落ちついたまま言った。
「あかりちゃんは、君がぬいぐるみを隠したことを知っていたんだよ」
言われて、ひかりは戸惑うように動きをとめる。
栩あかりが最初にハルの家を訪れたとき、彼女はこう言ったのだった。「捕まっちゃったのかも」と。あれは、ぬいぐるみのことをわかったうえでの発言だったのだろう。
「本当をいえば、あかりちゃんは犯人を知りたかったわけでも、ぬいぐるみを取りかえしたかったわけでもないんだ。彼女の〝本当に大切なもの〟は、君のことだった。彼女が〝本当に知りたかったこと〟は、君がどうしてそんなことをしたのか、だった」
「そんなの……」
「君たちは子供の頃、ほとんど同じ存在だといってもよかった――あかりちゃんはたぶん、かなり正確に君の考えをトレースすることができたんじゃないかな。魔法を使って、ぬいぐるみを隠してしまう方法を、君が考えるのと同じように。だからはじめから、あかりちゃんにはわかっていたんだ」
「……だからどうしたっていうのよ」
ふん、というふうに彼女は言う。
「そんなのあんたの憶測だし、だからどうだっていうわけでもないじゃない」
「それに、もう一つあるんだ」
とハルはじっと彼女の目をのぞきこみながら、言った。
ひかりはぎくりとしたように、目を震わせている。
「それは君もやっぱり、〝知ってもらいたかった〟ということだよ」
「…………」
「たんにあかりちゃんを苦しめたかっただけなら、ほかにいくらでも方法はあったはずだよ。わざわざこんなまわりくどいことをしなくても、魔法の――他人の力を借りるなんて厄介な真似をしなくても、君にはそれができたはずなんだ。でも、そうしなかった。わざとややこしい方法をとり、簡単には本当のことがわからないようにした。君はある種のメッセージとして、この事件を起こしたんだ。そうでなければ、こんな事件を起こさなかったはずだよ。君はあかりちゃんに知ってもらいたくて、こんなことをしたんだ――」
ハルの言葉はゆっくりと、見えない時間の中に消えていった。
なくなったぬいぐるみ。それが〝象徴〟していたもの。
栩あかりが、知らなくてはいけなかったこと――
栩ひかりが、知られなくてはいけなかったこと――
二人が起こした事件。
けれど魔法の関わったこの事件は――
結局のところ、解決されたのである。
栩ひかりはゆっくりと、時計の針を巻き戻すように言った。
「――ごめんなさい」
木の下では、小さな二人の少女が、存在をわかちあったもう一人の自分と向きあっていた。おそらくは、これからも二人でこの世界を生きていけるように。
手助けは、もういらない。少なくとも、しばらくのあいだは――
「すごいね、ハル君」
その場を離れてから、アキは感心したように言った。
「どうして二人のことがわかったの? あかりちゃんにしても、ひかりちゃんにしても……」
「知らないよ」
「?」
「あれは、適当なことを言っただけなんだ。だから解決したのは、二人自身なんだよ。ぼくはいうなら、二人の長いところと短いところをあわせて、バランスをとっただけなんだ」
アキはしばらく、言葉が出てこなかった。
そんな嘘八百を並べながら、この少年はごく落ちついた口調でしゃべっていたのだ。アキは驚いていいのか、呆れていいのか、よくわからなかった。
「別の意味ですごいね、君は……」
「――それより、ちょっと話をしておかなくちゃいけないんだ」
「誰と?」
「〝魔法使い〟だよ」
「久良野奈津?」
二人は公園の、芝生の生えた広場のほうに歩いていく。そこではナツと子供たちが、相変わらずの様子で遊んでいた。
ハルとアキがちょっと立ちどまって見ていると、子供たちは芝生の上を奇妙なものに乗って遊んでいた。ぱっと見るかぎり、それはビニールプールをひっくり返しただけのもののように見える。
久良野奈津は東屋のような場所で、日陰の下に座っていた。
「ホバークラフトだよ」
二人がやって来ると、ナツはあごで示すようにして言った。
「下に〝プロペラ〟を描いて、浮くようにしてある。ああいう大きいものはちょっと疲れるな。なんていうか、頭の芯が揺れるみたいで」
ナツはベンチの背もたれにぐったりと体を預けて、手足をだらしなくのばしていた。
「君は本当に魔法を使えるんだね」
ハルは単刀直入に訊いた。
「そう、魔法使いさ」
ナツはやはり、何のためらいもなく答える。ハルはそんな相手に向かって言った。
「――実は、ぼくもそうなんだ」
「へえ……」
感心したように、ナツは姿勢を正した。
「そうか、あんたも魔法使いなのか」
「君の使ってる魔法とは、少し違うけどね」
「まあ想像はつくな。〝あれ〟はいろんなことができるだろうし」
ナツはまるであけっぴろげな、警戒のない様子である。ハルは質問した。
「君はあれが、〝人が言葉を得て忘れてしまった力〟だと、知っているの?」
「いや、詳しくは知らない。気づいたらできるようになってた。でもそう言われると、確かに〝そういうもの〟だとはわかるな」
「なら、あまりおおっぴらに使うべきものじゃないとは思わなかったの?」
「何でだ?」
ナツはけれど、逆に問い返している。
「魔法を使って、何かいけないことでもあるのか? あんたも魔法使いなんだろう。魔法は使わないのか?」
「……こういうことでは、使わないよ」
「ふうん、僕はそんなこと、気にしないけどな。どうせ誰も信じやしないし、あれは〝そうだと知っている人間〟でなければ、魔法だとはわからないものだろう。あいつらだって――」
と、ナツは楽しそうに遊んでいる子供たちのほうに顔を振って、
「――もう少しすれば、これが魔法だっていうことも忘れてしまうんだ。たぶん、そのほうが都合がいいんだろうな。これは、もう世界には必要のない力だから」
「…………」
「まあ、あんたがどう考えようが、僕がどう考えようが、関係ないけどな。魔法は確かに存在しているし、魔法使いも確かに存在している、それだけだろ?」
ナツはそう言って、再び背もたれに体を預けている。ナツはハルの考えに反対しているわけでも、自分の考えを正しいと主張しているわけでもなかった。おそらくナツは、魔法が何だろうと、本当にどうだっていいのだろう。
二人のやりとりを聞きながら、アキは同じ魔法使いでもずいぶん違うものだな、と思っていた。ハルと比べると、この少年は魔法に対する拘泥がずっと小さい。
それとも、久良野奈津のような魔法の使いかたのほうが、本当は正しいのだろうか?
(ハル君は、どう思ってるんだろう……)
そんなことを考えて、アキがハルのことを見ようとすると、
「そういえば、ぬいぐるみは見つかったのか?」
と、ナツがふと思い出したようにして訊いた。
「……見つかったよ」
ハルは落ちついて、答えている。
「そりゃよかった」
ナツはにっこり笑って、何でもなさそうに言った。もちろん、それが見つかったということは、この少年が何をしたのかわかっている、ということでもある。そのくせ、ナツはどういうわけか悪びれもしていなかった。
「たぶん、あんたなら見つけるだろうと思ってたよ。何となく、そんな感じがした。同じ魔法使いとしての勘、てやつかな?」
「ジッパーは君のアイデアなの?」
ハルは訊いてみた。
「ん、いや、違うね。あれを提案してきたのは栩ひかりだよ。まあ、聞いたときはうまくいくだろうとは思ったけどな」
「君はどうして……」
ハルは少しだけ、声に緊張をにじませた。
「どうして、ひかりちゃんに協力したんだい?」
ナツは少しだけ、黙っていた。まるでどこか遠くにある、時間のずれにでも目を凝らすみたいに。
「……双子だからさ」
「?」
ハルがその言葉の意味を確かめる前に、ナツはもうしゃべってしまっている。
「たいした理由ってわけじゃない。けどそれ以上は、うまく言えないな。言いたくないんじゃなくて、言ってもよくわからない。僕自身にも、な。まあ、ごく個人的な理由、というやつか」
「…………」
「簡単に言うなら、〝頼まれたから〟だな。二人の事情なんて、僕は知らないし。ちょっとしたいたずらにつきあってやるくらい、特に問題はないだろう?」
ナツはそう、気軽そうな笑顔を浮かべて言っている。
(この人は――)
と、ハルはじっとナツの目をのぞきこんでみた。
それはある部分まではとても澄んでいるのに、それ以上いくと急に不透明になって何も見えなくなってしまうような、不思議な瞳だった。
ハルはふと、久良野奈津というこの少年も、何か奇妙な秘密を抱えているのかもしれないと、そんなことを思った。
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