二つめの事件

 時刻は、七時をすぎようとしていた。

 夏になって陽が落ちるのが遅くなったとはいえ、さすがにもう暗くなりはじめている。家々には小さな明かりが灯り、子供たちは家路を急ぎはじめていた。

 丘にそって作られた住宅地、笹代台ささしろだいでもそれは変わらない。ハルも、そんな光の中の一つにいた。そこは二階建ての、ごく普通の住宅である。家の側面には小さな庭があって、反対にはガレージがついている。

 そこには、ハル一人しかいない。

 父親も母親も、その家の中にはいなかった。父親の宮藤恭介きょうすけはまだ仕事から帰っていないし、母親は何年か前に亡くなっている。

 誰もいないその家でハルが何をしていたかというと――夕食を作っていた。

 背が足らないので、台所では小さな踏み台を使って材料を刻んでいるが、慣れた手つきだった。今は料理の下ごしらえをしているところである。

 ずいぶん前から、食事に関することはハルがやっていた。最初の頃はそうではなかったが、結局はそうなった。父親が奇妙なものばかり作るせいだ。父親の言い分を、ハルは全面的に却下した。

 そういうわけで、世界が静かに闇に包まれるその時間、ハルは夕食の準備をしていた。

 ――チャイムの音が鳴ったのは、そんな時のことである。

 来客の予定はなかったので、ハルは不思議に思いながら玄関に向かった。もしかしたら、近所のおじいさんが野菜でも持ってきてくれたのかもしれない。

 けれどドアを開けると、そこには見なれた顔が待っていた。

「こんばんは」

 と、アキはいつもの明るい表情で言う。

 その後ろに、見知らぬ少女を連れて。


「ハル君、何してたの?」

 とアキは訊いた。居間のソファに座って、テーブルには冷たいお茶が置かれている。

「夕飯の仕度」

「む……」

 アキは変な顔をした。そんな顔もすることができた。

「ハル君て料理作るの?」

「うん」

「ちなみに何作ってた?」

「鶏肉の煮込みに、焼きナス、あと味噌汁だね」

「ふむ、ふむ」

「もしかして、ぼくが夕食に何を作ってるか聞きたくてやって来たの?」

「ううん、違うよ」

 皮肉っぽいハルの口調に、けれどアキは何のためらいもなく首を振っている。あんまり人の皮肉とか、からかいとかに反応しない少女なのだ。

「実はね、ハル君にお願いがあるんだけど」

 そう言って、アキは隣に座る少女に目をやった。

 丁寧に整えられた髪をして、大人しそうな瞳をしている。年は小学校低学年くらいといったところだろう。知らない家に来て、緊張しているようだった。

 彼女の名前は、くぬぎあかりというらしい。

「お願いって?」

 ハルはアキに訊いてみた。

「うん……」

 アキはごく落ちついてお茶を飲んでから、

「探して欲しいものがあるんだ」

 アキはあかりのほうを見た。栩あかりはとても決まり悪そうな顔で座っている。

「猫、なんだけどね」

「猫……?」

「の、ぬいぐるみなんだけど……」

「猫の――ぬいぐるみがなくなったの?」

「うん」

「どこかに落としちゃったってこと?」

「らしいんだけど……」

 アキは何だか、要領を得ない言いかたをした。その隣で、栩あかりは身を小さくするようにじっとしている。

「……ところで」

 と、ハルは一度お茶に口をつけてから、アキのほうに向かって訊いた。

「どうしてぼくに頼むの?」

「ん――」

 アキは何かごまかすように笑っている。

「だってハル君、そういうの得意でしょ」

「得意?」

「そうでしょ?」

 やれやれと思ったが、ハルはそれを表情に出したりはしない。いつからぼくは探偵になったんだろう。

 その時、不意に、

「……どこにも見つからないんです」

 と、身を固くしたままで栩あかりは言った。とても必死で、真剣な声だった。瞳が危うげに揺れている。その目からは今にも涙が零れ落ちそうだった。

 ハルは姿勢を正して、その小さな女の子と向きあった。

「君のぬいぐるみが、どこかにいっちゃったんだね?」

 こくん、とあかりはうなずいている。

「とても大切なものだったんだね?」

 こくん、とあかりはさっきよりも強くうなずいた。

「……わかった、ぼくもそのぬいぐるみを探してみるよ」

 途端に、あかりの目の揺らぎが消えて、まっすぐにハルを見つめている。

「本当に、クロのこと見つけてくれますか?」

「クロっていうのは、ぬいぐるみのことだね?」

「はい」

「見つかるかどうかはわからないけど、ぼくにできるかぎりのことはするよ」

 あかりはその言葉で、少し安心したようだった。ようやく表情をやわらげて、思い出したようにお茶に口をつけている。

「とにかく、明日の放課後からでも探してみよう。状況とか経緯とか、調べなきゃいけないし」

「そうだね。あかりちゃんも、それでいい?」

 あかりはこくん、とうなずいた。

「一応聞くけど、心当たりとかはないの?」

 ハルは最後にそう訊いてみた。

 しばらくしてから、あかりはぽつりと言った。

「……捕まっちゃったのかも」

「え――?」

 ハルもアキも、その言葉にきょとんとしてしまう。

 けれどあかりはうつむいて、それ以上何も言おうとはしなかった。それがどういう意味なのか、二人は知らない。子供っぽい、空想的な心配の仕方なのかもしれなかった。

 ハルがその言葉の本当の意味に気づくのは、だいぶあとのことである。


 次の日の放課後、ハルは約束通りあかりの教室へ向かった。アキは用事があるとかで、少し遅れるということである。

 階段を一つ下りて、三年生の教室に向かう。栩あかりは三年の生徒だった。

 三、四年のクラスがある二階は、小さな子供たちでごった返している。一つか二つ年が違うだけだというのに、子供たちは変に幼い感じがした。ついこのあいだまで、自分たちもそうだったというのに――

 そんなことをぼんやり考えながら、ハルはあかりの教室に向かう。子供たちは時折、上級生の姿に奇異の視線を投げかけつつ、友達同士でふざけあいながら下校していった。

 その途中でハルはふと、足をとめる。

 向こうから、栩あかりがこちらにやってきていた。一応、教室で待っているように言ったはずだが、不安になって探しに来たのかもしれない。

「あかりちゃん」

 と、ハルは軽く手をあげて、呼びかけてみた。

 けれど、彼女の反応はどこか奇妙である。

「?」

 怪訝な表情で、ハルのことを見ている。それはまるで、知らない人間を見るような視線だった。

「栩……あかりちゃん?」

 ハルはよくわからないまま、もう一度呼びかけてみた。少女は昨日よりいくぶん無造作にセットされた髪に、意志の強そうな瞳をしている。

「もしかして」

 と、栩あかりと同じ姿をした彼女は言った。

「あかりと間違えてるんじゃないの?」

「……?」

「私は栩ひかり。あかりの双子の姉よ」

 ひかりはそう言うと、まっすぐにハルのことを見つめた。どこか不機嫌そうな、ひどく気の強そうな顔をしている。妹とは対照的な少女だった。

「あかりに何か用なの? えっと……」

「ぼくはハル。宮藤晴っていうんだ」

 ハルは丁寧に名前を名乗った。

「そのハルさんが、あかりに何か用?」

「ちょっと頼まれごとをしたんだ」

「頼まれごと?」

「猫のぬいぐるみを探すことだよ」

 ああ、という顔をひかりはする。

「あれのことね」

「何か知ってるの?」

 ハルは少し、その言葉が気になった。

「知ってるっていうか、公園でなくしたあれのことでしょ。まだ探してたんだ。てっきり諦めたのかと思ってたけど」

「公園?」

「詳しいことなら、あかりに聞けばいいでしょ」

 ひかりはふん、という感じで顔をそらしている。

「でも、一つだけ忠告しておいてあげる」

「……?」

「あれはわよ。探すだけ、無駄。いらない苦労をしたくなかったら、早めに諦めちゃったほうがいいわよ」

 それだけ言うと、ひかりはさっさと行ってしまった。妹のぬいぐるみ探しを手伝う気はないらしい。二人は仲が悪いのだろうか?

(双子なのに……?)

 けれど双子どころか兄弟さえいないハルには、その辺のことはよくわからない。

 ただわかっているのは、一つ――

 

 ハルは彼女の後ろ姿を、少しだけ見送った。


 あかりの言う公園までは、学校から歩いて十分ほどの距離だった。

 ハルとアキ、それからあかりの三人は、その場所に向かっている。夏の太陽の下で、住宅地の道はひどく静かだった。まるで、時間そのものが地面に焼きつけられているようでもある。

「それで、ぬいぐるみはその公園でなくしたんだね?」

 と、歩きながらハルはあかりに向かって訊いた。

 あかりはこくん、とうなずいている。やはり、姉のひかりとは正反対の大人しさだった。

「それまでは、ずっと持ってた?」

「……公園までは、ずっと持ってました」

「ぬいぐるみの大きさとかは?」

「小さいネコさんと同じくらいです。色は黒くて、ふわふわしてます」

「――あのさ、ハル君」

 三人はあかりを右手に、ハルとアキが並んで歩いていた。左手から、アキが呼びかけている。

「その、簡単に見つけられないの? あの時みたいに魔ほ――」

 ぱっ、とその口がふさがれている。

 アキが目をぱちくりさせていると、ハルが指を口にあて、しー、というふうに唇を動かした。しゃべるな、ということだろう。

 アキはとりあえず、目だけでうなずいておいた。

 ハルは手で口をふさぐのをやめて、アキを少し離れたところに連れていった。そのあいだ、あかりは何だかよくわからない顔のままじっと動こうとしていない。大人しい少女である。

 会話が聞こえない程度に離れたところで、ハルはつかんでいたアキの手を離した。

「だめだよ」

 と、ハルは言った。

「ん――」

「魔法のこと」

 そう言われてアキは、ああ、という顔をする。

「秘密だったっけ」

「だったっけ、じゃなくて、だめなんだ。魔法のことは、できるだけ人に知られちゃいけない。説明したよね?」

「でもあかりちゃんはまだ小さいし、まあ大丈夫かなって……」

 ハルは困ったように首を振った。

「魔法のことは、誰にも話しちゃいけない」

 真剣な口調だった。

 アキはその剣幕に、思わずうん、とうなずいてしまう。

「……でもさ、それはともかくとして、今回も前みたいに魔法で探せないの? ほら、前にカード見つけたみたいに」

「無理だよ」

 ハルは首を振った。

「どうして?」

「あの魔法じゃたぶん見つけられない。少なくとも、ぼくの力じゃできない。ぼくがあれで探せる範囲は、すごく狭いんだ。それに魔法の事件じゃないと、魔法は使えない。魔法をむやみに使っちゃいけない」

「うー」

 アキは納得したのか、していないのか、奇妙なうめき声のようなものをあげている。

「わかった?」

「――わかった」

 そこまで話が終わると、二人はあかりのところに戻っていった。あかりは二人に対して質問したりはしない。とはいえ、さすがに何があったのか気にしている様子だった。

「いや、えとね……」

 アキはしどろもどろになって何か言おうとする。

「……その、魔法みたいに簡単に見つけられないかなぁ、って話。でもそんなうまくはいかないよね」

 ごまかすように笑う。

 あかりはそれで納得したのかどうか、ちょっと不思議そうな顔で二人のことを見ていた。

 けれど――

「魔法なら、使えますよ」

 と、栩あかりは言った。

 二人は同時にあかりのことを見ている。

「魔法なら、使えます」

「…………」

「ナツのお兄ちゃんは使なんです」

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