8
その後、事件そのものはあっさりと解決してしまう。
数日たったある日、アキが登校してくると、小野俊樹の机のまわりには何人かのクラスメートが集まっていた。
「すげえだろ、これ」
俊樹は何かを見せては、しきりに自慢していた。アキがそっとのぞきこむと、それは何かの限定品らしいキャラクターグッズだった。アキはやれやれ、と思ってその場を離れてしまう。
窓際のところで、ハルが外を眺めていた。
「どうなっちゃってるの、これ?」
アキはその隣に立って、あの日と同じように騒いでいる俊樹たちに目をやった。
「だから、解決する必要なんてなかったんだよ。そもそものはじめから、問題なんてなかったんだから」
「箱が最初から、開けられてなかったみたいに……?」
アキは顔をしかめた。
「うん、何ていうか、俊樹は自慢がしたいんであって、ものそのものにはあまり興味がなかったんだよ。少し前までは珍しい石か何かの自慢をしてたし、その前はおもちゃの自慢をしてた。だからカードのことも最初は怒ったけど、結局はどうでもいいことなんだ。それに、ぼくは本当に盗んでないし」
「ベンショーしろって言われないかな?」
「たぶんね」
「うーん」
アキは呆れるような、馬鹿馬鹿しくなるような、けれどこれで良かったのかな、というような、妙な気分だった。あのカードが病気がちな少年の心を励ますのなら、もちろんそのほうが良かったのだろう。
ハルとアキはそれから、昨日のテレビだとか、ちょっとした出来事だとかを、他愛もなくしゃべりあった。
すべてが終わってしまっても、世界は何も変わっていないように見える。空の色が変わったわけでも、大地がみんな裏返ってしまったわけでもない。
この事件で変わったことといえば、わたしとハル君が友達になったことくらいだ、とアキは思っていた。
――けれどもちろん、そんなことはなかった。
放課後、誰もいなくなった教室で、ハルは一人佇んでいる。がらんとして電気もつけられていない教室は、死者の眠りを思わせるような穏やかさに満ちていた。
ハルは俊樹の机の上に、小さな紐をたらしていた。それは先端に小さな錘のついた、ダウジングに使うような形のペンダントである。
手の平にまきついた細い紐の下で、錘はぴくりとも動いてはいなかった。ハルの手はまっすぐにのばされ、その瞳は軽く閉じられている。
ハルはそこに残った、かすかな魔法の名残を感じていた。〝
(あれは、今まで感じたことがないような魔法だった……)
ハルはあのリングと同じ、魔法の道具であるペンダントをたらしながら、そっと考えていた。
(今までだって、誰かが魔法を使うのを感じたことはある。でもそれで、あんなふうに気持ちが悪くなるなんてことはなかった)
ハルの手の下で、錘が振れることはない。けれどそれは確かに、世界の〝揺らぎ〟を感じとっていた。もうほとんど薄れかかってはいるが、あの時体育館で感じたのと、同じ揺れを。
「…………」
ハルは目を開け、ペンダントをポケットの中にしまう。そして、本当なら自分に向けられるはずだった魔法について、考えてみる。
そう――
あの日教室にやってきた誰かは、本当は小野俊樹の机からカードを盗みだしたかったわけではなかった。それならわざわざ。ごみ箱に捨てたりはしない。
その誰かは、本当はハルの机から何かを盗みだしたかったのだ。
古い座席表。
教室の壁に貼られたその座席表には、本来は俊樹の机であるはずの場所に、宮藤晴の名前が書かれていた。今はもう書きなおされているが、あの日、教室にやってきた誰かは、それを見て俊樹の机をハルのものだと勘違いしたのだ。
だからこれは、ハルの起こした事件だった。教室にやってきた誰かは、本当はハルのことを狙っていたのだ。
おそらくはこの少年にまつわる、ある秘密のことで――
ハルの心臓の鼓動は、いつもと変わらない平静さで音を響かせていた。
どこか遠い場所で、小さな悲しみを感じたような気がしたが、それもすぐに消えてしまう。音もなく、言葉にすらならない悲しみを――
「…………」
ハルはカバンを持って、帰ろうとした。
――その時、不意に音がして、教室の扉が開いている。
一人の少女が、そこから姿を現していた。ハルには見覚えのない少女だった。
少女は長い、まっすぐな黒い髪をしている。目が涼やかで、手足が細く、少し力を入れて触れると折れてしまいそうな、華奢な体つきをしていた。ふわりとしたフレアスカートを身にまとっていて、清楚な月を思わせるような雰囲気をしている。
「――――」
少女は戸惑ったような、それにしては怯えも警戒もない様子で、ハルのことを見つめていた。その顔はほとんど無表情だといってもいいくらいである。
「教室に何か用があるの?」
彼女が黙ったままなので、ハルはこちらから尋ねてみた。そういう親切なところが、この少年にはある。
彼女は入口付近で、不自然なくらい落ちついた態度で教室の中を見まわした。
「今度、ここに転校することになったから」
と、彼女はまるで独り言でもつぶやくみたいに、ハルのほうを見ようともせずに言った。無機質で、冷たい、でもそれがひどく自然な感じのする少女だった。
「教室の下見をさせてもらってるの。先生はちょっと用事があるから、遅れて来るそうだけど」
「そう……」
なら、ハルにはこれ以上言うことはなかった。明日になれば、葉山先生が彼女を紹介してくれるだろう。
じゃあぼくは帰るから、とハルが行こうとしたとき、彼女はまるで同じ口調で、
「名前くらいは聞いておけばどうかしら、宮藤晴くん」
と、言った。
ハルは立ちどまった。少女は相変わらず、ハルのほうを見ようともしていない。
「それが一応の礼儀ってやつじゃないかしら。これからクラスメートになる人間の名前くらい、知っておくべきでしょう?」
少女の口調はあくまで落ちついていて、何かのついでにちょっと聞いているだけ、という感じだった。
「君は……?」
「どうして名前を知ってるのか、わからない?」
彼女はそう言ってからようやく、ハルのほうを向いた。
少女の瞳は、深く、静かな暗闇をたたえたような、不透明な色あいをしていた。
遠くの廊下から、足音が聞こえる。
「……でも、別に不思議じゃないでしょ。転校先のクラスメートの顔と名前くらい、調べておくものだと思うけど」
嘘だろう、と思ったが、ハルは何も言わない。でも、これはどういうことなのだろう。この少女は、どうして自分の名前を知っているのだろう?
けれどハルが何かを聞こうとする前に、葉山美守が教室に現れていた。
「あれ、宮藤くんまだ帰ってなかったの?」
彼女は何も知らない、明るい口調で言った。ハルが見ると、少女はもう興味をなくしてしまったように別の方向を向いている。
「いえ……これから帰るところです」
「まあいいや、ついでに紹介しとくわね。彼女は今度うちのクラスに転校してくることになった、
葉山美守は、明らかに何も知らない様子だった。少女に向かって、ハルのことを紹介する。
フユはそう言われて、よろしく宮藤くん、と挨拶した。相変わらず、その顔は無表情で何の思考も読みとることはできない。ハルは軽く頭を下げて、よろしく、と返事をした。
けれど――
彼女が偶然にハルのことを知っていたようには見えなかった。この少女は明らかに、宮藤晴だから、知っていたのである。
(何を知っているんだろう、この子は……)
ハルはそっと、フユの瞳の奥をうかがった。
けれどそこには、水底の深い深い場所で、ずっと光を知らない闇のようなものがあるばかりたった。それは普通では絶対に見ることのできないような、何かだった。
それはまるで――
世界から断絶してしまったかのような。
……世界は目に見えない場所で、静かに変わろうとしていた。
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