第二章 英雄の後継

   一

『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々は、どこへゆくのか』


 意味や出典は知らずとも、誰もが一度は耳にした覚えのある言葉ではないだろうか。

 古き画家ゴーギャンが描いた絵画の表題として世に広まったその言葉は、多くの現代“西欧発祥の宗教における教理伝承システムカテキズム”が当然のごとく教理へ実装してやまない”グノーシス”という名の主義思想に端を発している。

 最古の記録は、西暦1世紀にまで遡るほど古い起源を持つ思想だ。

 世界の成り立ちを問い、それを司る存在を問い、善と悪に象徴される二元論の是非と意味を問うその思想は、光と闇というシンプルな対立構造を元に構築されていた当時の世界観へ立体的―――いやさ、多重・多元的な解釈と認識を呼び込むものだった。

 ある意味において、グノーシスの発明と発達こそが我々にとって真に、正しく世界を認識した瞬間なのだと言っても過言ではないだろう。

 全てが未発達な世界において、かけがえのない生活互助体という面が強かった“宗教”を通じて広まったその世界観は、多くの人間の想像力と好奇心を刺激し、様々な発展の礎として機能してきたのだ。

 そして世界観の拡大は、人間にパラダイムシフトを呼び込む。

 パラダイムシフト―――価値観の変容や革新とは、すなわち恐れを乗り越えるということだ。

 知恵を、思想を、時には絆をもって真実を解き明かし、見えざるが故、知らざるが故の畏れを振り払うということだ。

 それはまた、過酷で理不尽な世界へ立ち向かう術を持つということも意味する。

 陸を駆け、海を渡り、空を翔け抜けてたどり着いた真空の深遠にさえ立ち向かう力を、現在の我々は獲得したのである。

 はっきりと言おう。

 ここ木星圏は人間世界の“最果て”ではない。“最先端”なのだ、と。

 何故ならば、地球から最も遥かな場所に住まう我々こそは、人類で最も遠き彼方へと至った人間たちだからである。

 かつてないほどの“変革”を手にした人間たちだからである。

 人類の最先端を征き、外宇宙さえをも目前とする我々が得たテレパシー能力という変革が意味するものこそ、最先端を征く者であるが故に神が与えたもうた道しるべに他ならない。

 かつて、為政者とは虚偽を尽くすことを求められた。

 民衆を鼓舞するために。

 国民の意思と感情を一つにするために。

 戦うための理由を与えるために。

 聞こえの良い理想を騙り、嘘で塗り固めた夢想を騙り、都合の良い未来予想図を騙って見せねばならなかった。

 だが、私は幸運だ。

 テレパシー能力という、何よりの証拠があるが故に何一つとして騙る必要が無いのだから。

 だからこそ、私は誰にはばかることなく自身の理想を明かそう。

 私自身の真意を明かそう。

 私の理想とは、木星圏の更なる発展である。

 そして真意とは、証明することである。

 テレパシー能力への覚醒が進化であること。それが、より豊かな世界を築くのと同時に、やがては土星圏へと版図を広げ、果ては外宇宙へ飛び出し広大なりし星間文明へと発展を遂げるためのものであることの―――そして我々の“”こそが、その大いなる躍進の起点であるということの証明を、だ。

 全ては、そのための戦いなのである。

 古き枷は打ち壊されなければならない。何故ならば、すでに我らはテレパシー能力という翼にして資格を手に入れた新人類であるからだ。

 成長した子は義務を負う。

 親を超え、更なる発展の種子を育てる義務を、だ。

 国もまた然り。

 最果ての開拓地から木星圏という国へ成長した我らには、中央という名の縛鎖を断ち切り、遥かな未来へと飛翔する義務があるのだ。そのために己を尽くす義務があるのだ。

 だが、忘れないで欲しい。

 それは中央との決別を意味してはいないのだということを。

 中央に住む人々を旧人類と見下し、見限ることでは、断じて無いのだと言う事を。

 何故ならば、彼らもいずれ我らと同じ場所へ至る人々だからである。

 彼らもいつか目覚めるだろう。

 我らの足跡をたどり、やがては広き星間文明へといたった彼らを祝福し、迎え入れる日が来るのだろう。

 遥か遠き彼方。

現在いま”ではない、いつかで。

 ここではない、どこかで。

 だがしかし、どうか許して欲しい。

 そんな優しい祈りを持つ人々と知りながら、それでも木星圏を預かる者として、私は命じなければならない。

 戦え、と。

 何故ならば、相互理解など糸口さえ見えず、未だ混沌の渦中にある現在において、未来とは血と引き換えでしか勝ち取れないものだからだ。

 テレパシー能力への目覚めを知らず、未知への恐怖を募らせて迫る中央とわかり合える時はあまりも遠く、刻まれた溝は深い。

 開拓地という名の植民地でしかなかった過去と、未知の異能を得た現在でしか我々を推し量れぬ中央にとって、異端の排斥はあまりにも自然すぎる行為なのだ。

 そして我々は、“異端すぎる少数派”なのだ。

 だからこそ、力を示さねばならない。

 我々の可能性を示し、人類の先駆者たる事を中央の人々すべてに知らしめてやらねばならないのだ。

 かつての勇士たちが命がけでCALIBER要塞を奪取したことによって、かつてない繁栄と安寧の時を手にできたように、今度は我々が次の世代のため血を流す時なのだ。

 そう、“血”だ。そして“死”だ。

 私は何一つとして飾らない。

 人殺しと殉死を命じる者の覚悟として、私はその二つの言葉を美辞麗句では誤魔化さない。

 万が一、この戦いが敗北に終わったあかつきには、それを命じた者の責務として真っ先に絞首台の階段を登って見せることをここに誓う。

 木星圏の勇者たちよ。戦え!

 本国に住まう父母のために。

 妻子のために。

 恋人のために。

 兄弟姉妹たちのために。

 そして彼方の未来を信じ、虚空の世界で散った多くの英霊たちへ報いるために。

“彼方へ。そして未来へ。”

 先人達が遺したこの言葉を継ぐ者の一人として、私はここに、第二次CALIBER要塞攻防戦争の宣戦を布告するものである。



   *   *   *   *   *



 朗々とした演説が続いてゆく。

 野太いが明瞭で、言葉の一つ一つがはっきりと耳に届く、そんな声音だった。

 ディスプレイの右端―――四角く開いた小ウィンドゥで大写しになっているのは木星圏の最高指導者である木星圏コロニー議会議長カルノ・クスィだ。

 一般市民の出自でありながら、木星圏の黎明期を支えた名家出身の妻を後ろ盾にのし上がった彼のサクセスストーリーは華々しい。

 端正な顔立ちで数多くの女性票を集めた男の居姿は齢70を数える今となっても健在で、年齢を感じさせぬほど若々しい。まっすぐに伸びた背筋と長い脚による腰高のスタイル、細く薄いが肩幅のある身体に乗る細面は、老齢らしい皺を刻んではいたものの覇気で満ち満ちていた。

 そんな中で一つだけ奇異な点を挙げるとするのなら、彼が剃髪していたことだろう。

 議長就任の際の決意表明として色を絶つ宣言とともに剃り落としたものだ。才気あふれる気鋭の議員として、かつての亜麻色の長髪を望む女性支持者は未だ多い。だがしかし、形の良い頭蓋のためだろう。それは彼の美貌を不思議と損なってはおらず、むしろその眼差しを目立たせ彼の威風を際立たせてさえいた。

 輝くような青い双眸を浮かべ、優雅ささえ漂う微笑みを浮かべたスパニッシュの血統を感じさせる顔立ちの指導者。それがカルノ・クスィという男なのだった。

「彼方へ。そして未来へ……か」

 そんな男を横目に、ヴォルフ・ヴァルカンは無感情に呟いた。

 パイロット用の気密服とヘルメット姿でヴォルフが座すのは、座り慣れたブラッディ・ティアーズのコックピットシートだ。シートを中心に手を伸ばせば触れられるほどの距離で、半球状に配された外部モニター・ディスプレイが、黒一色の透明な宇宙を映し出している。星々を背に時折、大小の岩石が画面を横切っていった。

『彼も出世したものよねぇ。初選挙のときは、体の良い義父の傀儡だろうって下馬評だったのに』

 戦闘機らしい手狭なコックピット内に、外部からの通信音声が響く。

「アンナか。そっちはどうだ?」

『問題ないわ。哨戒コースを一回りしてきたけれど、敵機どころか大型デブリの一つも無し』

「そうか。こちらも同じだ。あとはジェイクたちを待って帰投しよう」

『了解。それにしても相変わらずの演説ね。気がつくと誘導されている感じ』

「多かれ少なかれ、そんなものだ。政治演説というものは、な」

 右へと頭を回してみやると、一機のブラッディ・ティアーズが減速しつつ横並び、顔面のI字型センサースリットをまたたかせていた。相棒であり、妻でもある同僚、アンナ・ヴァルカンが乗る機体だ。

 楔形シールドを持つ長肢多関節化された左腕をのぞけば、すぎるほどにプレーンな機体だった。

 無骨で太いが確実に人体のそれを装甲したといった風情の右腕に、多数の姿勢制御用ノズルを備えた脚部、そして前面に集中して配された増加装甲を透かして垣間見えるボディは、まるでリボルバー拳銃を縦にしたかのごとき形状をしていた。

 拳銃で言うところのグリップに相当する部位はボックス化され、底部に予備の燃料と推進剤を充填したプロペラントタンクが接続されている。そして左右と後部には大口径の推進器を備えた可動式推進器―――アクティブ・スラスターが魚類のヒレを思わせる体で伸びていた。

 形式番号JABT-10、パーソナルネーム“フレイムソード”―――木星圏において戦闘機の開発ライセンスを持つ三大メーカーが一つ、アシモ社によって開発された最初期の正式採用機“フレイム”の系譜を継ぐ機体である。

 軍による正式採用から8年を経ているものの、その堅実な設計と安定性は未だ高い評価を受け続けている。後継機であるフレイムソードⅡの配備が進みつつある木星軍においても、乗り慣れた既存機を愛機として更新を先延ばしにするパイロットは多く、ヴォルフや相棒であるアンナも、そうした古いパイロットたちの一人なのだった。

「そしてやっかいな奴ほど爪を隠す。義父の死をきっかけに奮起したなどと吹いてはいるが、元々油断ならん奴だったのだろうな」

『むしろ隠居した義父が逝去してからの活躍の方が凄かったものね。それがまさか議長にまで登り詰めるまでだなんて思ってもみなかったけれど』

「この御時世だからな。華々しい麒麟児は大衆受けにはうってつけだ。おまけに腹心は、かのジ・エッジときている。軍閥を恐れて奴に票を投じた政治家も多かろうよ」

 左手のファンクションボードのキーを叩く。

 正面のヘッドアップディスプレイが表示を変え、ディスプレイの中でヴォルフの視線を追って動いていた照準レティクルが正面ディスプレイ中央で固定された。

 自動索敵モードへ切り替え、機体の制御をコンピューターへと預けたのだ。右手を操縦桿から離し、ヘルメット右下のボタンを押してロックを解除する。

 バイザーがヘルメット内へ収納され、チンガードが左右へと展開した。

 軍人らしい発達した顎周りと、剣呑だが年輪を感じさせる深い眼差しが印象的な顔があらわとなる。そうしてヘルメットを脱ぎ外して座席の後ろへ放り投げると、わずかに汗でしめった白髪を軽くかきむしった。大小の傷と皺が刻まれた壮年の顔には、苦渋が色濃く浮かんでいる。

「なんにせよ、良くない流れだ」

『ワン・ハンズ基地の中央軍に動きは見られないって聞いているけれど?』

「そっちじゃない。古今東西、軍閥が幅を利かせ始める社会っていうのは、国家としてケチの付き始めだからだ」

『……初めて聞いたわよ。そんなの』

「俺の私見だ。だがな、先の演説の中で奴はグノーシスを引き合いに出した。グノーシスは多元・多重ではあっても、つまるところは二元論だ。物事を善と悪、正と負に切り分けて是非を問うものなのさ。だからこそ歴史的に、数えきれない軋轢の火種ともなってきた。わざわざ、そんなものを引き合いに出してきたその感性にこそ、危険極まる奴の本質が隠れている気がするよ」

『深読みしすぎじゃない? 聞こえの良い適当な言葉で他人の興味を引こうとする話術なんてよくあるものよ? それにああいう演説の文面って、本人じゃなく専門の人間が作っているものなのじゃないの?』

「かもしれないが―――いや、そうだといいのだが、な」

 未だ続く壮行会の演説を聞き流しながら、正面で点滅する照準レティクルを睨む。

 捉える敵を未だ持たぬまま虚空でまたたくそれは、まるで自身そのものの写し身に感じられた。

 物思うヴォルフをヘッドアップディスプレイのアラーム音が引き戻した。

 見れば、機体のレーダーが複数の戦艦とおぼしき機影を捉えている。発信されている識別信号を解析した機体の敵味方識別装置IFFによれば、木星軍に所属する艦艇とのことだ。

 未だ目視できる距離ではないものの、数時間後にはここへ到着することだろう。

『船名は……“グローリー・シリウス”。やっとご到着みたいね。彼が遺した最後の弟子が』

「ふん。なにが弟子だ。仰々しい。マスコミに祀り上げられて調子に乗っているような小僧だったならば怒鳴りつけてやるさ」

『そんなことを言って、本当は会うのが楽しみなくせに』

 アンナの含み笑いに肩をすくめるヴォルフの胸裏を、一つの孤影が過ぎってゆく。

『……できることなら聞いてみたいものね。彼のことを』

「……そうだな」

 かつては肩を並べ、競いさえした戦友と別れてからどれほどの時が流れたことだろう。

 思いはせるとともに、ヴォルフは自身の老いを痛烈に自覚していた。緩慢な水滴が石を穿つかのように少しずつ、無自覚な速度で磨耗してゆく―――いや、その結果として磨耗したこの身が兵士であり続けられるのはいつまでなのか。

 想像もできない。“兵士でなくなった自分”など知りたくもない。

 若かりし日は、戦場の華と散ることをこそ戦士の誉れと嘯いていた。

 だがいつしか、生き残れと、生きあがけと部下へ説く己へ変わり、気づけば永遠に続くとさえ思えた戦場は終わりを告げていた。

 多くの師を喪い、友の死へ立会い、部下を見殺しにしてきた。まるで己が死神のようだとさえ思える人生の終わりを、最近になってヴォルフは思い煩わずにいられないのだった。

(今度こそ、俺は戦場で死ねるのだろうか。彼らのように)

 ヴォルフよ。そんなにも、おまえは死にたいというのか? 胸中で呟くヴォルフに、内なる自身が問う。

 そうではない。

 そんな声にかぶりを振って、返す答えは不思議と即答できた。

 死にたいのではない。死と引き換えにヴォルフを救った彼らに報いる何かを残したいのだ。彼らがそうしてくれたように、ヴォルフ自身もまた、この命を誰かのために戦場で燃やし尽くしたいのだ。

(馬鹿な事を考えているな。俺も歳をくったか)

 加齢による肉体的な限界への不安が、そんな埒もない事を考えさせるのかもしれない。

 そんな自身に苦笑して、ヴォルフは右手を操縦桿へと伸ばした。

 握った操縦桿を軽く左へと傾けてゆく。コックピットが振動し、至近の景色が右へと流れ始めた。

 振り回されるような軽い慣性がヴォルフの身へかかる。操縦桿の操作に従って機体が旋回動作を始めたのだ。そうして180度近く回ったところで操縦桿を戻す。細かく操縦桿を振って慣性を打ち消しながら静止させると、正面モニターいっぱいに巨大な小惑星が映りこんだ。

 月の1/10程度のサイズであることを除けば、一見して月と見まがう真円の天体だ。

 直径300kmを越す小惑星の周囲を、二つの人工衛星リングが十字に取り囲んでいる。赤道に沿った第一リングと、縦に両極を分かつ第二リングの二本だ。

 資源惑星ガズン。それがこの小天体に人類が与えたかつての名称であり、リングは採掘された資源を運びあげるための軌道エレベーターと居住区画なのであった。だが木星圏の黎明期、中央が航路監視の名目で小惑星を接収するのと同時に要塞化し、軍備製造工場と港湾設備を持つ軍事基地へと変貌させてしまったのだ。

 本来は中央や木星圏へと供給されていた小惑星の資源は、そのまま要塞の稼動と維持のために使用され、外部からのエネルギー供給を必要としない完全スタンドアローンの要塞として30年近くもの時を稼動し続けている。

 要塞化とともにガズンの名は廃され、新たなる名が与えられた。それが―――

「CALIBER要塞。ここが再び戦場となる、か」

 要塞奪取のため編成されたブラッディ・ティアーズ大隊で戦い抜いた日々の記憶は未だ記憶に新しい。

「祈るぞ。クロモよ。おまえの弟子が、おまえの命と引き換える価値ある者である事を」

 胸に去来する無形の感情に言い知れぬ苦さを感じながら、ヴォルフは亡き旧友へと問いかけるのだった。




   二

 西暦末に重力を媒介する素粒子として重力子の実在が証明されてから、すでに200年以上の年月が経過している。

 しかし重力の生成と慣性の制御技術へいたる糸口と、大いに人々を期待せしめた発見は未だ実を結ぶには至っていない。

 もしそれがかなっていたならば、どうだったのだろう。

 まず重力生成と制御ができたならば、小惑星や人工衛星を地球と遜色の無い生活空間とすることができるだろう。そうすれば、遠心力による慣性重力を作るため振り子のように振り回され続ける閉鎖空間を居住区として生活することは無く、外側へ広げた形での小世界を手にできたに違いない。

 慣性制御技術が確立されていたならば、艦船の推進システムは効率の悪い推進剤噴射のくびきから開放され、余分な推進剤のスペースを居住性や機体の縮小に当てられたことだろう。更には、より高速で効率的な恒星間航行技術が確立されていた事は想像に難くない。

 軍神暦を生きる人々が切望してやまない夢の一つ―――それが重力子生成・制御技術なのだった。

 グラヴィティ・ブースター。

 中央が莫大な予算をかけて研究を続ける中で生まれたささやかな成果物だ。

 名の通り、それは特殊な波長の電磁波によって重力子に干渉し、重力を増幅するシステムである。

 恒常的に莫大な電力を要求する上に運用条件が厳しく、加えて限定的にしか増幅できない不自由さから試験的にCALIBER要塞へ敷設されたシステムだ。

 この設備稼働のためメイン3箇所、バックアップ2箇所の合計5箇所にも及ぶ専用の巨大発電設備が設けられ、24時間体制で稼動し続けている。

 また、衛星リングが備えた太陽光発電設備を補助動力とした核融合発電設備の発電量は1施設につき100MWにも及び、凄まじい電力に起因するローレンツ力は宇宙デブリを初めとした衝突物から設備を守る電磁障壁としてドーム状の天蓋表面へと転用されていた。

 そして基地の生命線であるが故、基地の裏側へと敷設されたはずの設備は現在、持ち主を異にしたことで裏返り、最も強固な小惑星の盾として機能を続けている。

 小惑星の実に半分近くを覆う強大な電磁場は地表を帯電させ、小惑星の表面を走る無数の電力網に沿って時折、雷にも似た稲光を走らせている。

「“ゼウスの雷”……か」

 第一次CALIBER要塞攻防戦の後、ここを訪れた当時の議長の言葉だ。

 死出の片道切符と引き換えに戦局を決定づけた伝説のブラッディ・ティアーズ小隊―――英雄クロモ・ドカトを擁する戦時の特別攻撃部隊である通称“ゼウス特攻隊”の名にあやかった呟きは以後、その稲光の通称ともなっている。

「ドカト教官……」

 そんな、高高度にある衛星リングからでは小さな星明りにも等しい眼下の煌めきを、優人は無言で見つめ続けていた。

 優人がたたずむのは軍港の一角にある展望室だ。

 休憩と慰安を目的に作られた展望室は広く、隅に設置されたガラスカプセル型の花壇やダーツ台、バスケットコートなど小規模な体育館を彷彿とさせる様相だ。室内に優人以外の人影は無く、ただただ静寂と空調のファン音が静かにたゆたい続けている。

 そんな部屋の一角の窓辺へ立ち尽くし、優人は窓外に見える小惑星を見つめ続けていた。

「すまない。待たせてしまったな」

 自動扉の開閉音とともに野太い声が閑散とした室内へ響き渡った。力強い声音だ。意思を伝えるための声を出し慣れた者に特有のはっきりとした声音が、10メートル近い距離に在ってすら微塵も輪郭を損ねず届く。

「ヴァルカン大尉だ。あぁ、敬礼は必要ないぞ。階級こそ上だが、アロンダイト所属である君は実質的には俺の上だからな」

 無重力下での歩行用に備わっている靴底のマグネットを鳴らながら近づいてくるのは、軍服の上からでもガッシリとした肉厚な体躯と知れる巨漢だった。大小の皺と傷にまみれた顔は壮年のそれだが、歩む体運びにはいささかの衰えも感じさせない。緊張をあらわにする優人に苦笑して、白髪混じりの頭をかくと右手の小ボトルを放った。

 呼びかけやそぶりも無しに放られたそれは、受け渡しと呼ぶにはやや性急なものだ。

 手首のスナップのみとは思えぬ速度で放られたそれは左へわずかに優人を逸れており、かつ高速で回転をかけられている。

 だが優人は慌てるそぶり一つ見せぬまま無造作に右手を伸ばし、難なくボトルを受け止めた。その様を目端に留めながら、ヴォルフは左手の小ボトルの蓋を開け口へ運ぶ。

(ほう。姿勢も崩さずに受け止めてみせるか。良い反応だ。軌道予測と空間認識のセンスも悪くない。強いて言うならば正面に回り込むくらいの堅実さがあれば完璧だったが、ここは若さか……まぁ、この様子なら、そこもいずれ経験で勝手に身に着けていくだろう)

 心地よい喜びが胸中に広がってゆくのをヴォルフは感じていた。

 顔も、背格好すら異なる若輩だが、そこには確かに懐かしい友人の匂いがあった。

(よく鍛え込まれている。元々の素質もあるのだろうが、やはり指導者に恵まれたのだろうな)

 低重力特有の直線的で減速の少ない軌道で飛ぶ物体への対処は難しい。特に重力への慣れを捨てきれない新兵となれば尚更だ。地味で根気強い指導を要求するだけに見逃されがちなセンスを丁寧に磨かれた新兵の姿へ、ヴォルフはかつてと変わらぬ友人の姿を見た気がした。

「あの……基地指令からは、特務に関わる極秘の面会とうかがっておりますが……」

「まぁ、飲め。酒でも酌み交わしたいところだが作戦前なのでな。味気ないが仕方がない」

 うながされるままボトルのキャップを外すと、湯煙とともにコーヒーの甘やかな香りが立ち昇った。

 軽く一口して目をみはる。

「これは……こんな貴重なものを……」

 飲み慣れたインスタントとは違う、手ずから焙煎されたコーヒー豆のそれだった。宇宙を住処として幾世代を重ねた現代においてもコーヒーは嗜好品の代表格の地位を譲っていない。

 それは厳しい規制下にある軍属においても変わらず、貴重な重量と体積の制限枠を割いて、こうした嗜好品を持ち込む者は多かった。だがそれを差し引いても、コーヒー豆や焙煎機器まで持ち込む者など聞いたことが無かった。

「うん? あぁ、気にするな。この要塞特有の文化みたいなものだ。他の基地コロニーとは違って、まっとうな重力があるからな。慣性重力では無いせいか、ここの農業施設じゃ作物の育ちが良いのさ。試験的にコーヒー栽培なんてやる余裕があるくらいに、な」

「そんなことが……」

「後方では、あまり知られていないことだからな。まぁ、驚くのも無理は無い。こっちの連中が勝手にやっていることなのでな。何しろ、こんな場所だ。ガス抜きの一環で見逃されているのさ。公然の秘密という奴だな」

 笑うヴォルフに戸惑いながら、コーヒーを一すすりする。コーヒーへの知見は無いが、芳醇な香と味わいは素人でもわかるほど上質なものだった。

「そういう意味じゃあ、この靴も、その一つだ。他所の基地じゃ、こんなもの社会化見学の学生か、お偉いさん方ぐらいしか使っていないだろう? だがここだけは特別だ。軍港を閉鎖している平時では、グラヴィティ・ブースターによる重力が効いているからな。普段から施設内を歩行するクセをつけておく必要があるというわけだ」

「なるほど」

 軽く靴底で床を叩いて見せたヴォルフに倣い、どこか窮屈そうに左右の踵を踏み鳴らす。パイロットスーツや宇宙活動用の機密服で機構自体には慣れてはいるものの、屋内で軍靴に組み込まれたマグネットの感触はどこか新鮮な感覚だった。

「それじゃあな」

 そんな優人を眩しそうに一瞥し、踵を返したヴォルフが右手を振る。

「え?」

「俺の用事は済んだ。あの連中のように鍛え残しでもあれば助言でもと思ったが、余計なお世話だったようだ。まぁ、達者でやれ」

「ちょ―――」

 突然の事に引きとめる暇すらなく、歩み去った広い背が自動扉の向こう側へと消えてゆく。

「なんだったん…だ……?」

 再び静寂に一人、残された中で優人は呆然と立ち尽くすのだった。



   *   *   *   *   *



「随分、早かったのね」

 展望室を後にし、長靴を鳴らせて廊下を歩むヴォルフを出迎えたのはアンナだった。

 パンツルックの軍装に身を包み、ソバージュがかったセミロングの栗毛と豹を思わせる引き締まった顔立ちが印象的な女性だ。

 夫であるヴォルフと同様に、壮年に差し掛かる年齢とは思えぬ体躯と身のこなしで左へ居並び歩を進めてゆく。

「それでどうだったの? 彼の弟子は」

「どうもこうもない」

 愉快げな弧を描くアンナに肩をすくめ、ヴォルフは口はしを吊り上げた。

「どうやら、あいつは相も変わらず良い仕事をする奴のままだったらしい、それだけだ」

「もっと話せば良かったのに。後方に行ってからの彼の事、私も知りたかったわ」

「そんなもの、これから幾らだって聞けるだろう。本人からな」

「ふふふ。そういえばそうだったわね」

 愉快げに微笑んで、前へと戻した眼差しが遠くなる。

「英雄の後継……重荷よね」

「ふん。軍人なんてのは全員が英雄志願者みたいなものだ。そんなものを重荷と思っているようじゃ先が知れる」

「よほど気に入ったのね」

「……そう見えるか?」

「えぇ。だって今、あなたの隊へ彼が配属になったときと同じ顔をしているもの」

「俺の試しに、まるで生き写しのようなリアクションをしやがったからな。師が師なら弟子も弟子、とでもいうのか。残りの二人はどうだか知らんが、少なくともあいつは師匠そっくりだ。性格なのだろうな。普段からも、クソ真面目で物事の割り切りが下手なせいで損ばかりしているんじゃあないかな」

「そんな子が彼の跡継ぎだなんて……責任を感じてしまうわね」

「仕方の無いことだ。あの時は、誰かが英雄にならなければならなかった。そしてそれは、負傷して前線を引いていた俺達ではなく、アイツらにしか出来ないことだった。もし、あの場に俺が居たならば絶対に奴らを行かせなかっただろう。だがもし、そうなっていたならば、あの戦いで木星軍の勝利は無かったかもしれない」

「ジレンマよね」

「忘れろ。今更どうにもならん過去だ。過去を悔やむより、やるべきことが今の俺たちにはある」

「そうね。行きましょう。きっとそれが、私達の後悔を晴らす事にもつながっているのでしょうから」





   三

「おかえりなさい。南風隊長」

 グローリー・シリウスへ戻り、再び第7ユニット整備場へと降り立った優人を出迎えたのはエレベートだった。

「マークから聞きましたよ。あの”ヴィヴィ”にお会いしてきたのでしょう? いいなぁ。自分も御一緒したかったです」

 出会ったときと何一つ変わらない屈託の無い笑顔が輝いている。年齢的に優人とは1歳しか違わないはずだったが、童顔も相まっていっそう幼く映った。

「内密の面会だったはずなのに……まったく彼は君が相手だと、とんと口が軽くなるみたいだね。いいかい。エレベート。こういうことは……うん? V……V……?」

「隊長?」

 怪訝に目をしばたたかせるエレベートの前で、優人の表情が固まっていた。モゴモゴと口中で反芻するのは、つい数十分前に出会った風変わりな大尉の名前だ。

「……V……ヴォルフ…V……ヴォルフ…………ヴォルフ・ヴァルカンか!? そうか。そういうことだったのか。それで僕に……し、しまった……どうして気づかなかったんだろう。いや、言ってよ。言ってくださいよ。そういう重要な事は!」

 押し寄せた後悔によろめき、頭を抱えてしゃがみこむ。聞き覚えは感じていたのだ。だがノンフィクション小説や映画など、メディアに出てくる彼は“V・V”という渾名でして呼称される事がないため頭の中ですぐにつながらなかったのだった。

「え? ま、まさか、お気づきにならないままニアミスされただけとか……なのですか?」

 信じられない、そんな顔と声音に、伏せた優人の顔が紅潮してゆく。

「あ、あのV・Vですよ!? 後の英雄クロモ・ドカトを初めとした歴戦の猛者たち―――ゼウス特攻隊の前身、木星軍第二機動師団所属の第七航宙戦闘機中隊“バッド・ノッカーズ”を率いたV・V隊長ですよ!? F宙域第3コロニー事件とか映画にもなって」

「わかっている。知っているよ。“不可能への反逆”は士官学校時代にリバイバル上映まで観に行ったし、ヴィジョン・データも高解像版を持っている。初回限定特典付きのハードメモリーセットで、ね」

 思わず語調を強めて立ち上がり、話題を断ち切るつもりで歩き出す。

「本当ですか!? 僕、再販版しか持っていないんですよ。あれの当事者インタビューって、発売直後に規制がかかって初回版以降は削除されちゃったじゃないですか。アングラサイトも検閲が厳しくて低解像度のが断片的にしか転がっていないし……いいなぁ。今度、是非お借りしたいです」

 だがしかし、エレベートは小走りに優人の左へ追いつくと、先ほど同じ輝くような眼差しで声をあげた。

「アングラ? 意外だね。失礼だけれど、君なら何でも手に入れ放題なのかと思っていたよ」

「……よく言われます。お恥ずかしい話なのですが、家を出るまで大衆娯楽的な物に触れることを許されていなくて……」

「それはまた凄いね」

「えぇ。特に戦記物やゴシップのようなものには母たちが目を光らせていて大変でした。マークやミリーがいてくれなかったなら、僕はもっと浮世離れした人間になっていたかもしれません」

 ため息まじりにエレベートが苦笑う。小さいが重い、彼なりの労苦を感じさせるため息だった。

「二人が君の“悪い友達”ってわけか」

「えぇ。だから二人には心から感謝しているんです。小さな頃は本当の兄弟同然に育ちましたし。ですが、ある時期からマークが妙に過保護になってしまって―――」

 複雑な表情でエレベートが肩越しに右を振り返る。目線を追ってみれば、マークが壁際にあるコンテナの影から心配そうに顔を覗かせている姿があった。

「……ずっと?」

「……あんな調子でして」

 顔を見合わせる中で優人がエレベートへ目配せを送る。

 その意を察し、不承不承のあきらめ顔で再びため息を一つ、ついたエレベートが左の袖口を軽くまくった。

 あらわとなったリストバンド型のシール・ギアのスライド式カバーを開け、タッチパネル式の画面に数度、右の指先を走らせる。

 そうして指を止めて数秒後、シール・ギアが振動音を立てた。

 タッチパネル式画面には、メール着信を告げるメッセージが浮かぶ。画面をタッチし、開いたメールの中身はただ一文字“わ”とだけ記されていた。

「隊長。これから私は艦載機の正規パイロットたちとの連携訓練がありますので、これで失礼いたします」

 顔を上げ、鋭い所作で敬礼をとったエレベートの顔から表情が消えている。マインドセットの心得があるのだろう。幼ささえ感じさせたゆるい空気が一変し、戦場の軍人らしい緊張を漂わせていた。

「彼については―――」

 その極端さに驚きながら敬礼を返す優人へ、軽く一礼しマークへと振り返る。

「マーク。そういうの、もういいから。僕が悪かった。謝るよ。これからは同僚なのだし、そもそも階級は君の方が上でしょう? 正直、面倒だからコソコソせず副隊長の仕事を頼むよ」

「坊ちゃま……」

 投げかけられたエレベートの言葉にマークの顔が輝く。

「坊ちゃまぁぁぁぁぁ!!」

 その言葉を待っていたとばかりにマークは路地裏を飛び出すと、両腕を広げてエレベートへと走り寄った。

「ようやく……ようやくこれで、またお傍にぃぃぃぃぃぃ!!」


 と――――。


 重々しい機械音が整備場の屋内に響き渡った。

 横合いから響く突然の轟音に思わずマークは足を止め、優人は驚きをあらわに振り返る。そんな中、いささかも動じた様子もないままスルリとエレベートは優人の横を抜け去り、グローリー・シリウスへの連絡通路へと消えてしまった。

「あぁ!?」

 喜悦から一転、絶望へと顔色を変えたマークが崩れ落ちる。

「ミ、ミリー?」

 数歩を後ずさる優人の視線の先で轟音を上げるのは一台のモーターサイクルだった。

 それも艦内移動用の電動三輪車ではない。コロニーで一般に普及している水素燃料電池を使用した電動バイクですらない。化石燃料を燃焼して動く数百年は昔の、書籍の中にしか存在しないはずの乗り物だった。

 野太く前後長のあるフレームと、低いが幅のある大柄な車体とワイドラジアルタイヤを持ち、左右後方へと伸びた鈍色の排気マフラーが吐き出す爆音は重厚の一言だ。女性としては長身とはいえ、幅広な車体が故、ミリーでも足が届ききらないためなのだろう。外付けされた電動式の可動スタンドが両脇から伸び、車体を支えている。

 黒塗りの車体の中で、有機的なフォルムの単眼ライト周りとは対照的に、幾何学的なデザインを持つV字型エンジンとフューエルタンク左右に配された大口径の吸気口が目を引く。

 ヴィ-MAXIMAMマキシマム

 西暦末期、化石燃料から水素燃料電池への転換期に発売された最後のガソリンエンジン搭載バイクたち―――その最終ラインナップに名を連ねる一台だ。

 元々は西暦1985年にヤマハ発動機から発売され、連綿とアップデートを繰り返されてきた人気車種V-MAXの末裔であり、古きエンジンシステムの最後を飾った伝説のバイクとして未だ所有を夢見るコレクターは数多い。

「馬鹿兄貴……」

 右手でアクセルを吹かしながら、左手で作業帽を目深に寄せたミリーが毒づく。

「人前で坊ちゃんに恥かかすなって、いつも言ってんだろ! おらぁぁぁぁぁ!!」

 左足の爪先がクラッチペダルを踏み込み、左の人差し指がクラッチレバーを開放する。同時に右手が大きくアクセルをひねり込み、白煙を上げてホイルスピンを見せた後輪が、コンマ数秒の間を置いて収納された電動スタンドの動きと引き換えに車体を前へと弾き飛ばす。

 凄まじい加速力と爆音を上げて疾走するバイクが目指すのは、悲嘆にくれて崩れ落ちたマークだ。

「ちょ―――」

 眼前で突如として始まった異次元の凶行に硬直する優人をよそに、くず折れていたマークが軽やかに立ち上がるやステップを踏んだ。

 まるで闘牛士さながらに身を翻し、ミリーのバイクを回避する。

「妹よ。たとえおまえでも私の愛は止められぬ。そう、愛ゆえに、愛ゆ――――おごろげばAHAUOHOJAPKOCDAOPK」

 行き過ぎたバイクの背を肩越しに見送り、余裕の笑みを浮かべたマークの姿が消え去った。

 残像すら残す勢いで一瞬にして消えたマークに、もはや何度目かもわからない驚きを浮かべて優人は絶句する。

 周囲を見回し、遠ざかるバイクへと目をやれば、白い布に絡み取られたマークが引きずられてゆく姿が見えた。

 狭い艦内故に、少しでも制動距離を稼ぐため搭載していたのだろう。特殊ワイヤーでつながれたそれは、ドラッグレースと呼ばれる短距離の直線レースで使用される大気制動用のパラシュートだ。本来はゴールラインを超えた後に展開し、車体のブレーキ機構だけでは不足する制動能力を補うためのものだが、ミリーはそれをマークとの接触寸前で射出したのだろう。

 そのためマークは車体に遅れてやってきたパラシュートにすくいとられてしまったのだ。

 怒号のような爆音に混じってマークの悲鳴が響き渡る。


 と――――。


 呆気に取られる左腕でシール・ギアが振動した。

 画面を見れば、グローリー・シリウスの艦橋から招聘のメッセージが届いている。

 そのメッセージと彼方で続く狂騒との間で数度、視線を彷徨わせた優人は小さく首肯すると、無言のまま踵を返すのだった。





   四

 不思議なもので、どれほど科学技術が進歩しようとも、こと人対人に属する物事は紀元前の頃から何一つ変わらない。

 勿論、道具や知識の発展により物事の高度化はしている。だが本質的な部分―――すなわち、物事の因果を結ぶためには感情と理由が必要であり、それによって発生した状況は知と暴をもってでしか征することができないという点においては、だ。

 宇宙という広大なフィールドにおいても、やはりそれは変わらず勝利のために人は足掻かねばならない。


 彼を知り。己を知れば百戦危うからず。


 紀元前、中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書“孫子”の中で謳われる言葉だ。戦う敵を知る事。それ無しに勝利はあり得ぬこと。そんな情報の重要性を説く言葉は、それから数千年を経た現在に至って尚、真理であり続けている。

「こんな特攻機で斥候か。つくづく歪だな。この宇宙における戦争というものは」

 重機の駆動音と技術士官たちの怒号が飛び交う整備場にあってさえ、ヴォルフの声音は聴く者の耳にいささかも意を損なわず届く。

 パイロット用の気密服をまとい、ヘルメットのチンガードを掴み持った左手を垂らして見上げるのは、整備台に固定された1機のブラッディ・ティアーズだ。

「蝙蝠……いえ、悪魔かしら。いくら試作機だからって、また随分と趣味に走ったものねぇ……」

 そんなヴォルフの右へアンナが歩み寄る。ヴォルフと同じく灰色の気密服姿だ。活動時間と防護性能を高めるため着ぶくれしたシルエットとなる一般のそれと違い、耐Gと操縦のための動きやすさを優先させたパイロットスーツは、身体のシルエットがわかるほど薄手だ。

 だが、それでいてスウェットのようなタイトさは感じられない。肘や脛といった要所を覆うカーボン製のプロテクションのみならず、スーツ内の環境調整用の軟質配管や生体モニター用の電装など、軍用装備にふさわしい機器と機能がそこかしこに見て取れるからだ。

 エナメルのような質感を持つ生地も、実際は気密と各種機能のためコンマ以下の厚みしかない特殊繊維が10層以上に渡って重ねられている。

「開発元はシェイド社らしい。正式採用機のトライアルで負けた機体を急ごしらえで改修したものらしいが、新機軸のアクティブ・スラスターに可変式レドーム、多層パターニングによる軽量化装甲……不採用の腹いせかヤケクソかは知らんが、また随分と奢ったものだ。採算度外視で盛ってやったぜ、といったところか」

 異様な風体の機体だった。

 機体シルエットが人体に近いほどテレパシー能力の発現効率が良くなるというテレパシストの特徴を踏まえ、人体に準拠したサイズ比の四肢を持つ通常機とは大きく異なる。

 全高12メートルと、ブラッディ・ティアーズの平均全高15メートルよりも低く設計されているものの、胴体の全長は7メートルとむしろ大きい。また、複座のためか胸部の前後長が長くとられており、索敵能力を上げるため大型の哨戒機構を搭載された頭部も同様だった。後頭部は備えた展開式レドームによって大きく肥大し、視野拡大のため側頭部から顔面部へ施された頭部装甲のスリット幅は広く、センサーやカメラアイの感度向上を優先した設計となっていた。

 そして鳥を思わせる逆関節の脚部に、二本の下腕を供えた右腕と、異形を通り越して悪魔的とさえいえる。

「こんな機体で出て行ったら、また中央からのエイリアン呼ばわりが深まりそうね」

「カタログスペックは破格なのだがな」

 ヘルメットを胸に抱いて右脇へ横並ぶアンナの呆れた声音に首肯し、右手のタブレットへ目を落とす。

 表示された機体マニュアルに記された機体名称は“ハリケーン”―――形式番号すら与えられず、開発コードそのままの名称のみが記されたマニュアルの内容は非常に雑然としたものだった。

 手書きのメモを撮影した画像を貼り付けただけのページすらあるその数ページをフリック操作で流し、舌打ちとともにタブレットをアンナへ放る。

「もういいの?」

「あぁ。やはり開発資料そのまますぎて取り扱いの参考にはなりそうもない。ジェイクたちにメーカーの技術屋どもを締め上げさせてはいるが……ワン・ハンズ基地現着までの1ヶ月で、道すがらなんとかするしかないな」

「無茶振りね」

「仕方があるまい。なにしろ敵方にもブラッディ・ティアーズがあることが知れたのだ。根本から迎撃体勢を織り直す必要がある。そのためには、まず情報だ」

「あってもなくても、結局は水際作戦にしかならないのではなくて? 本当に必要なの? こんな強行偵察が」

「……必要だ。業腹だが、な」

 眉をひそめたアンナの言葉に、苦虫を噛み潰した顔でヴォルフは首肯する。

「問題は敵方にブラッディ・ティアーズが在る事じゃあない。それを操るテレパシストがいるかもしれないという点にある。アンナ。そもそも我々の迎撃プランの骨子は何だ?」

「骨子……え、と……要するに籠城戦よね。要塞の近傍宙域に遊撃部隊を潜ませて、散発的にゲリラ戦をしかけながら持久戦に持ち込む、で良かったのかしら」

「そうだ。この見通しの良いスカスカな宇宙空間で、そんな芸当を可能にせしめているのがテレパシー能力だ。一方的に敵の思考を読み取り、常に先手を取り裏をかける絶対的なアドバンテージがあるからこそ、俺たちは前の戦いでも勝利を収めることができた。だが、それを敵も持っていたならどうなる?」

「……普通に各個撃破されて詰み、ね」

「中央製ブラッディ・ティアーズとやらが、単なる形だけの人型機動兵器だったのならば良い。だが、その可能性は薄いと―――いや、何らかの情報を軍上層部は掴んだのだろうな。だからこそシルウィットの奴は、こんな急造機を引っ張り出してきてまで無茶な作戦命令を俺たちに寄越してきたのだろう」

「片道切符の強行偵察……英雄V・Vも安く見られたものね」

「よせ。何度も言っているだろう。俺は部下に恵まれただけだ。俺が立てた無謀な作戦を奴らが命と引き換えに成し遂げ、英雄となる姿を安全な場所からただ見ていた傍観者にすぎない」

「冗談よ。だから“V・V”なんて略称で呼ばせて、どんなメディアにも貴方の名前を使わせなかったのだものね」 

 その気になれば英雄達を率いた大英雄として昇進を重ね、やがて政界へ打って出る事すら出来たできただろう。あるいは様々なメディアを渡り歩き、莫大な富を手にすることさえできたかもしれない。

 だがヴォルフはどちらも選ぶことはなかった。

 それどころか、英雄のリストに自身の名が載ることを拒み、褒賞も、報償さえ全てを、もはや帰らぬ部下達とその遺族達へ譲り渡したのだ。

 語ることを拒み、語られることを許さず、“V・V”という記号でのみ表される名も無きパイロットであろうとし続ける姿を、哀しく思うのと同時に誇らしくもアンナは思う。

「俺の我が侭のせいで、クロモの奴には悪い事をしてしまった。奴も、さぞや仰天したことだろう。何しろ、意識不明の重体から目を覚ましてみれば、救国の英雄なんてクソ御輿の上だったのだからな。しかも降りるハシゴは取り外し済みときている」

「あれは仕方が無いわ。唯一の生き残りってこと以上に、彼は背負ったものがドラマティックすぎたもの。彼が何を言ったところで世間が許してくれないわ。おまけに仕官学校時代から成績優秀、品行方正で生真面目、おまけに若くてハンサムだなんて、物語の主人公役には完璧すぎたもの」

「最初に出会ったときは、功を焦るだけの小便小僧だったのにな」

「ふふふ。何回も、ヴォルフの鉄拳が彼の頭に落ちていたわね」

「そんなにだったか?」

「えぇ。少なくとも、彼がヴォルフにポーカーで勝った回数以下では……ないと思うわ」

「違いない」

 同時に吹き出した二人の笑い声が整備場に響き渡る。

 腹をかかえ、心底おかしげに笑う二人を通りすがりの整備員達が奇異な眼差しで一瞥していった。

「そうか。そうだったな。一つ、思い出したよ」

 ひとしきり笑い合い、にじんだ涙を軽くぬぐいながらヴォルフは再びハリケーンを見上げた。

「俺は、またあのバカにこの鉄拳を落としてやらなけりゃいかんのだった」

「そうね。何しろ、私達より先に逝くなんて不孝をしでかしたのですもの。盛大に叱りつけてやらなきゃね」

「あぁ。アンナ。俺は、このクソッタレな人柱作戦が妙に楽しくなってきたぞ。そうだな。鬱々と作戦に臨むなど俺らしくない。最後まで笑って、この一番槍を振るってきてやるさ」

「賑やかな道中になりそうね。何しろメンバーには、鉄拳の落とし甲斐がありそうな頭が二つも混じっていることだし」

 どこか清々とした面持ちで語るヴォルフの横顔にそっと微笑み、アンナもまたハリケーンへと目を戻すのだった。





   五

 優人がグローリー・シリウスの艦長室へ呼び出されたのは、ヴォルフと顔合わせしてから一週間後のことだった。

「ようやく来たか」

 敬礼とともに入室した優人をイクシスの胡乱な眼差しが出迎える。

 神経質で落ち着きのない態度は相も変わらずだったが、微かなアルコール臭が室内に漂っていた。ストレスのためか最近は自室にこもって飲酒ばかりしているらしい。顔なじみの艦橋オペレーターたちがしていた噂を思い出す。

「上層部から今次防衛作戦の概要が開示された」

 予想通りの言葉に首肯し、執務机へ歩み寄る。

 散乱するコップや空の酒瓶、肴などを押しのけて置かれたA3サイズ端末の画面には、開戦に向けた各部隊の振り分け配置と基本行動プランなどが記されていた。

「我々は要塞後方の直衛艦隊に加わり、万が一に備えた撤退路の確保とサポートを行う事となる」

「撤退路……どういうことなのです? 司令部の直衛どころか我々は完全に要塞の後方ではありませんか。こんな場所、戦闘どころか流れ弾すら飛んできませんよ。ボーっと、戦いが終わるまで後ろから要塞を眺めていろと?」

「どうもこうもない。戦場の隅で大人しくしていろというだけの話だ。別に不思議はなかろう。要塞司令部にとって我々が厄介者であろうことは以前にも話した。まぁ、こうまであからさまにやられたのは気にくわんが、命令とあっては仕方が無い。ここは一つ、君子危うきに近寄らずということで―――」

「冗談じゃない! 僕は戦うためにここへ来たんだ!!」

 諸手を執務机に叩きつけ、激昂した優人が叫ぶ。

「司令部へ掛け合いましょう。何なら僕のアロンダイトとしての権限を使えば―――」

 言い募る優人へ右手を挙げてイクシスは制した。

「何を根拠にだ」

「え?」

 情緒不安定で付和雷同してばかりなイクシスらしからぬ、落ち着いた声音だった。

「自身の立場に酔ってはいないかね? 南風中尉」

 机上からタブレットを取り上げ、深く背を預けた回転椅子を回してイクシスは背を向けた。

「あの日、我々は知ったはずだ。局地戦とはいえ、紛れも無い戦場というものを」

 抑揚の無い声音が胸に刺さる。

「その結果として我々は生き延び、君は一躍、英雄となった。そう……生き延びたことで君は得たわけだ。貴重な戦士としての戦闘経験、そして栄光と勝利いう美酒の味を」

 まるで何も知らぬ者が語る他人事のような物言いに怒りが刹那、優人の眉間に火を灯す。

「……世間で君はこう呼ばれているそうだな。英雄が遺した最後の弟子達“ザ・ラスト・サンズの南風優人”、と。華々しい実績と評価、名声を手にして、君がパイロットとしての自分に自信を持つのもわからんでもない」

 きしむほど硬く拳を握り締めて立つ優人の姿を知ってか知らずか。まるで朗読でもするかのように淡々と、だがそれでいて当事者の神経を逆なでする他人事の論理でイクシスは続けてゆく。

「だがね。考えてみてもくれんかね。君と違って本艦のクルーたちは、過半数が実戦など経験したこともない新兵たちだ。護衛の名目で10機を超える艦載機こそあるが、どれもこれも稼動試験目的で預けられた試作機体とテストパイロットたちにすぎない。前線になど出られるわけがなかろう」

「ですが!」

「ならば私に命じるが良いさ。要塞司令部の命令など無視しろ。そして最前線の死地へ艦員たちをいざなえ、とな。先ほど君が言いかけた通り、アロンダイトの将校である君には、確かにそれを私に強要出来る権限がある」

 あくまで無感情に放たれた科白が、言い募ろうとした優人から言葉を奪い去る。

 できるはずがない。否、それを誰が命じられるというのだろう。

「しかし……それでは何のために、ここまで……」

「気持ちはわかるがね。命令は絶対だ。君も軍属ならば聞き分けたまえ。私に言われたくはないだろうがね。軍人の命令遵守は軍にとって大原則であり、大前提だ。そうだろう?」

 その言葉への反論を口にしかけて、だがそれが艦員たちの命を秤に載せることだと自問し、つぐむ。

「……気は済んだかな? ならば下がりたまえ。実戦参加こそないとはいえ、テンザネスを初めとした艦載機の稼動試験メニューは山積みだ。これ以上、無意味な問答に時間を割いている暇はあるまい。お互いに、な」

 数瞬、降りた沈黙を決着と断じ、振られたイクシスの右手に無言で踵を返す。

 その背で扉が閉まり、一人廊下にたたずむ中、優人は握り締めた右拳を振り上げた。

 熱い衝動のまま眼前の壁を殴りつけ――――かけたところで、とどまる。

「クソッ。どうして僕は……」

 歩み出す中で、自己嫌悪せずにはいられなかった。

 どんな場面、どんな状況でも、いつもこうなのだ。どれほど怒っても、どれほど悲しんでも、素直に感情を吐露する―――感情にまかせてふるまう事ができないのだ。

 冷静だとか、酷薄といった事とは違う。

 自分の中に、もう一人の自分がいて、頑なに感情が飽和するのを許さない。そんな気配が生じるたび感情にロックをかけてしまう。そんな感覚が自身の行動に制限をかけているのだ。

 そんな感覚を覚えるたび、閉塞感が優人の神経を締め上げる。

 行き場を失い、加熱した感情が心の内側を焼き焦がしていた。その苦しさに喘いで、だが助けになるものなどあるはずもなくて。

「……ミユキ……アンディ……柾人……」

 胸中に去来する幾人の面影を追い求めるように、優人は重い足取りを進めてゆくのだった。



   *   *   *   *   *



 優人が扉の向こう側へ消えるのと同時に、イクシスは回転椅子を回して執務机へ向き直った。

「……ふん。これで良いのだろう?」

 わずらわしげに鼻を鳴らして右手のタブレットを机上へ放り落とす。その画面には、先ほどイクシスが語ってみせた台詞がそのまま記された文書が表示されていた。

 嫌悪をあらわにその画面を睨みつけるイクシスの左手で、私室へ通じる自動扉が開く。

「まさか反論ひとつしないとは……こちらが思っていた以上に自己抑制の強い方でしたな」

 潜んで聞き耳を立てていたのだろう。あらわれたマークが軍靴を鳴らせて踏み入って来る。だが、仰々しいまでに静かな物腰は影を潜め、優人が消えた扉を見やる口元には嘲笑が浮かんでいた。

「腰抜け、とは呼びますまい。なにしろ秤に載るのは他人の命ですからね。むしろ、ここでアロンダイトの権限を振りかざすような馬鹿者でなかったことを素直に喜んでおくとしましょう」

「……仮にそうしたところで、君が現れておしまいだったのだろう? そもそもアロンダイトの強権はピエガ家の後ろ盾によるところが大きい。その勅旨で動いている君に逆らえる者など、この艦には誰もおるまい。彼も、そしてこの私もな」

 侮蔑をあらわに嘲笑うマークをイクシスが横目で睨みあげる。

「とんでもございません。私ごときが、ピエガの家名を振りかざすなど恐れ多い。普通に副隊長として、暴走する隊長殿をお諌めするだけですよ。今の私は、あくまで南風隊長の部下ですからね」

「ふん。監視役の間違いだろう。ピエガ家の御曹司のお守りついででな」

「心外ですね。私個人としては、あなた方を高く評価しております。ですが、我々アロンダイトとしても困っているのですよ。坊ちゃまはともかくとして、何もかもが不透明な英雄の後継者様には、ね」

「……君たちならば、我々が上層部に出した報告書を閲覧できるはずだが?」

「えぇ。勿論、拝読させていただきましたとも。だからこそ我々は、こう言わざるをえないのです。『なんの寝言だ。コレは? ふざけるな』とね」

「それこそ彼に罪はあるまい。大人げない話だとは思わないのかね。まるでローティーンのつまはじきだ。相応の経歴と実績によって抜擢されたはずの精鋭たちがすることではないのではないかね? 誰の差し金かは知らんが、わざわざこんな最前線の基地司令部にまで根を回すなど、彼の何がそこまで疎ましいのかね」

「相応の経歴と実績を持つからこそ、ですよ。艦長。だからこそ我々は、無為に傷を負うわけにはいかないのです。あんな得体のしれない新兵と機体を我々の末席に加えることだけでも許しがたいというのに、それをアロンダイトの名代として最前線に送り出すと言う。しかも議長の勅令で、ね。我々にも誇りと自負がある。長年に渡って首都の治安を守り、栄光と羨望を集めてきた精鋭部隊としての矜持というものが。そんな我々を蔑ろにするかのような、この勅令……許せないと彼らが思うのも無理はないでしょう?」

「ならば、むしろ最前線に放り込んで失態でも戦死でもさせらどうかね。その方が余程、簡単なのではないのか?」

 探る眼差しに形ばかりの笑顔で応え、マークは懐から懐中時計を取り出した。一見すると時代がかった機械式時計だが、表面処理と高精細画面に時計の盤面を投影した携帯端末だ。画面に指向性フィルター機能が施されているのだろう。イクシスの位置からでは時計の文字盤としか見えないが、マークの目には別の画面が見えている様子だった。

「坊ちゃまさえいなければ、そうしているところなのですがね。なにしろ古参どころか中枢の官僚へも数多くいるOBの面々たちも、彼の件ではおかんむりでして―――おっと。どうやらここまでです。予定よりも早く合同演習が終了したそうですのでね。坊ちゃまがお戻りになられるまでに、ディナーの御用意をせねば」

「待ちたまえ」

 小さなうなずきとともに踵を返し、足早に寄った扉の開閉スイッチへ手を伸ばす。マークの背に、イクシスは口を開いた。

「一方的に我々を戦場から遠ざけ、君たちアロンダイトは―――いや、ピエガ家は何を考えている? 御曹司を戦場に出したくないだけというのならば、そもそも何故、単独の愚連隊である本艦への配属を許したのだ? 単なる従軍経歴の箔付けということならば、首都直衛艦隊の旗艦にでも放り込めば良いだけの話だったはずではないのか?」

 政界の末席に名を連ねるイクシスにとって、ピエガ家の御曹司は知らぬ名では無い。まつわる噂もいくつか耳にした覚えがあるし、社交場で遠巻きに目にした事さえあった。

「私の人物眼など知れている。だが、そんな私の目から見ても、あの少年に水準以上の才覚があることはわかる。家の事を抜きにしても、こんな何が起こるかわからない場所へ、一兵士として派遣するべき人材でないはずだ。君たちのその支離滅裂さはなんなのだ。何がしたいのだ。君たちは」

 背に刺さるイクシスの視線に小さなため息をもらし、マークはただ一言だけ残して歩み去っていった。

「……色々あるのですよ。御家というものには、ね」



   *   *   *   *   *



「隊長!」

「エレベート?」

 鬱々とした気持ちのまま第七ユニットへ戻り、自室へと廊下を歩む背に声がかかった。

 振り返れば、息せき切った様相のエレベートが駆け寄ってくる。

「よかった。やっと……やっと見つけました……」

 着替える間も惜しんだのだろう。

 襟元をはだけたパイロットスーツ姿の右腕に抱えたヘルメットの中には、軍服を初めとした着替えが無造作に詰め込まれている。大きく肩を上下させながら両手を膝に落とし、あえぐ頬は上気し汗を滴らせていた。

「ど、どうしたの? こんなに慌てて……」

「大変なんです。合同訓練で要塞側のパイロットたちと話したのですけれど、いまあっちは大騒ぎになっているそうなんです。パイロットたちによる大規模なストやデモの呼びかけも飛び交っているらしくて」

 苦しげに呼吸を整えながら途切れ途切れに話すエレベートの顔は焦りで色を無くしている。

「穏やかじゃないね。なんでそんなことに?」

「V・Vです……」

「え?」

「だから、V・Vですよ! 要塞司令部が、次の作戦であの人を捨て駒にするらしいって噂が流れているそうなのです!!」

「!?」

 驚愕が、衝撃となって優人の中を走り抜けた。

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