第一章 英雄の残像

   一

 規則的な呼吸音と、電子機器の動作音が室内に響き続けている。

 カーテンを引かれたガラス窓からは柔らかな日差しが差し込み、真白い壁とベッドのシーツを白く輝かせていた。

 ベッドに横たわり、寝息を立てるのは一人の青年だ。

 意識不明の重症で運び込まれてから三か月にもなるが、未だ一度として目を覚ましてはいない。

 長い眠りの対価か、痩せ細った頬はこけ、血の気が薄れた肌は18歳という年齢の瑞々しさを失ってしまっている。

 屈託のない笑顔が似合う童顔の青年は今、どんな夢をみているのだろう。

 埒もない考えが胸裏をよぎる。

 乾いてカサついた顔へ手を伸ばし、目元にかかった伸び放題の前髪を軽く梳いた女性は憂いで瞳を潤ませた。

 スラリとした肢体にノースリーブのワンピースを身に着け、背中まである栗色の長髪をパレットでまとめた妙齢の女性だ。形の良い目鼻立ちをした美人だが、角を感じさせない物静かな佇まいが彼女の穏やかな性格を代弁しているかのようだった。

「もう、あれから6か月もたつのね……」

 涙をこらえるように天井を見上げ、座したパイプ椅子の背もたれに身を預けてゆく。しなる背もたれが小さく軋む。か細いその音はまるで、悲痛な女性の胸中を代弁しているかのように感じられた。

 エル・ティン。それが彼女の名前だ。

 意識を失って久しい青年―――アル・ワンの同僚であり、敵襲を受けての脱出行を共にした戦友でもある。

「そうそう。また昨日もテレビで特番が組まれていたわ。凄いね。アル君たち、まるで政治家かアイドルみたい。きっと、起きたらビックリするわね」

 手狭な個室の病室の脇には、見舞いの品が山と積まれている。知人や親類からのものが大部分ではあるが、中には地域の非営利団体から届けられた回復祈願の千羽鶴なども混じっている。

「おじいさん怒っていたわよ? おまえのせいで注文が殺到して隠居していられなくなったって。アル君の実家って、地元では有名な酒造家だったのね。目が醒めたら、責任とって家を継げと伝えておいてくれって言い残していったわ。アル君、お酒は苦手なのにね」

 ベッドの傍らから優しく語り掛けるエルに、しかしアルは答えない。

 手術は成功し、五体に負った裂傷や骨折はほぼ癒えている。だが戦闘によって脳に深いダメージを負った彼が目覚める可能性は五分と、語った主治医の言葉がエルの胸を締め付けていた。

「アル君のお父さんと、お母さんも心配していたわ。あと、弟さん……アル君とは双子なんですってね。そっくりだったから驚いたわ。でも、包帯だらけのアル君を見て凄く取り乱してね。もう、大騒ぎ……そのとき聞いたわ。士官学校に入ったのは、体の弱い妹さんのためだったんですってね。上位の成績で士官になれば、士官特権でネクス・セントラルの医療施設に入れてあげられるからって」

 視線を右へ流し、サイドテーブルに置かれたフォトスタンドを見やる。

 携帯端末で撮影したものなのだろう。斜めに傾いた構図の中、大写しになったアルの右後ろで指を指して笑う同じ顔の弟と、似た面影を宿した幼い少女が屈託のない笑顔で写っている。六歳下と聞いているから、入院さえしていなければ幼年学校を卒業する年頃か。

「馬鹿ね。なら欲をかかないで、程々にしておきなさいよ。どうしてあんな無茶……」

 わかっている。

 わかっているのだ。

 全てはエルたち仲間を守るためだった。

 明るく気ままで、すぐに逃げだす小心者のくせに、最後の一線だけは絶対にはみ出せなかったのだ。どんなに苦しくとも、後ずさりしても、絶対に守るべきモノより後ろへは下がらない。震えて、泣き出して、失禁したとしても踏みとどまってしまう。盾になろうとしてしまう。恐らく自身さえ気づいていなかったその勇気こそが、彼の本質であり強さだったのだろう。


 永遠の三番手。


 それが陽方第七基地にパイロット訓練兵として配属されてきた三人と出会い、最初に訓練補助のオペレートをした際に抱いた感想であり、評価だった。

 軽薄で多弁だが、素人目にもそれとわかる天才的なセンスと操縦適性に溢れた一番手―――アンディ・ハレー。

 大人しく影は薄いが、一番手とは違った形の才覚を示して追いすがる二番手―――南風優人。

 そんな二人に比べてアルが放つ輝きはエルの目にひどくくすんで映り、彼が前線に征くまでの一時の親交が終われば、ひとひらの雪が解けるように忘却してしまうだろう人間とさえ思っていたのだ。

 それは敵の襲撃を受け、基地を脱出してからの逃避行の最中ですら変わらず、自身を含めた艦員の命運を握っているのはあくまでドカトと、二人の秀才パイロットたちだけだと思っていた。

 ドカトが死に、アンディが裏切った後も、アルが優人と共にボロボロの機体で発進した時でさえも、だ。

 だが、最後に彼は踏みとどまってみせた。

 エルたちが危機に陥った瞬間、真っ先に飛び出したのは優人ではなくアルだった。

 結果としてアルは敵機に一蹴され、幻想機を得た優人が艦を救った。

 だが、それはアルが優人に劣っていることを意味してはいない。

 エルにとって二人は等しく英雄であり、艦員すべての恩人なのだった。

「アル君……」

 沈鬱な表情で再びアルへと目を戻した背で電子音が上がった。自動扉のロックが外側から解除され、誰かが部屋へと足を踏み入れてきたのだ。

「エル…先輩……?」

 戸惑い混じりの声音が、懐かしい気持ちを喚起させる。そうだ。いい歳をして、人見知りの治らない青年はいつも、こんな風にエルへ話しかけてきていた。

 もう戻らない日々の匂いに我知らず微笑んで、エルは振り返った。

「久しぶりね。優人ゆうと君」

 だがしかし、瞳の中の孤影が現在のそれに塗り替えられた瞬間、エルは目をみはった。

 物静かな性格そのままに、どことなくひ弱さを感じさせていたはずの眼差しには鋭利な気配が宿り、血の気が薄れた顔色は憔悴の色を隠しきれていない。あまり食事もれていないのだろう。頬は少しこけ、肌も荒れていた。皺一つ無い軍服の紺色と真新しさが、余計にその印象を助長している。

「優人くん…よ……ね?」

「ええ。お久しぶりです。エル先輩」

 思わず口をついた戸惑いに、青年が薄く笑う。悲しいような、寂しいような、こぼれそうな涙を必死にこらえている、そんな切なさを感じさせる表情だった。

「随分とかかりましたが、ようやく拘留から開放されまして……」

「大変だったわね。優人君は一番の当事者ですもの。私たちのほとんどは2ヶ月目くらいに誓約書へのサインを書かされて終わりだったけれど、むしろよくこれくらいで済んだわ。下手をしたら軍事裁判だってありえたのじゃないかしら」

 非常事態であったとはいえ、無断で軍の機密兵器を持ち出し、あまつさえ大破・喪失させたのだ。結果としてそれが新たな青き機体を召喚せしめたとはいえ、その罪状は変わらない。軍規に照らし合わせるならば、軍事裁判にかけるまでもなく、その場で銃殺刑に処されていてもおかしくはない。

「まぁ、その……色々とありまして……最終的には先輩たちと同じです。他言無用の誓約書に監視と行動制限、あとは―――」

 左袖を軽くまくってみせたそこには金属製のリストバンドが嵌められている。

 木星軍が作戦行動中の軍属へ着用を義務化している軍用のシール・ギアだ。

 剛性と機能維持に特化しているため飾り気が無い上、200gを切る民生品に比べて350gと重い。また、動作安定性保持のため携帯端末としての機能も最小限に留められているため、使い勝手の悪さを嫌う者も多い。また、携行中は行動や言動の記録も常に行われていることもあり、作戦行動中以外は私物のシール・ギアへ持ち替える者がほとんどだった。

「これの常備を義務付けられたことくらいですね」

 ため息まじりに肩をすくめ、袖を戻す。

 それは未だ優人がエルたちとは桁違いの監視状況にあることを如実にあらわしていた。

「だから僕がいるときは気をつけてください。こいつを通して常に居場所をトレースされている上に、僕とした会話も全て録音されています。玄関口では監視役の人たちが待っていますしね」

 やはり、と。無言で首肯するエルに薄く笑って、優人はアルへと顔を振り向けた。

「アル……」

 エルのかたわらへと歩み寄り、変わり果てた親友の姿にくしゃりと顔が歪む。

「僕たち二人とも昇進だってさ。笑うよな。功績を挙げたわけでもない、訓練課程を終えたばかりの新米が中尉だなんて……」

 乾いた笑いをもらしながら、右の人指し指で軽くアルの左頬をはじく。

「早く起きろよ。ずるいぞ。英雄の弟子なんて役目、いつまで僕一人に押し付けているつもりなんだよ」

「優人君。アル君は……」

「病状は聞いています。でも大丈夫ですよ。音を上げるの早いわりに、アルは結構しぶといですからね。なんのかんのいいながら、訓練中だって手を抜いた姿は見たことありませんし」

 どこか懐かし気に語る優人の横顔を見つめるエルを、奇妙な既視感がとらえてゆく。笑んでいるのに、どこか拭い切れない寂寥を匂わせる横顔を見たことがある気がしたのだ。あれは一体、誰の横顔だったか。

「そういえばエル先輩は除隊されたそうですね」

「え? え、えぇ……」

 記憶をたぐる最中、ふいにかけられた言葉に我へと帰る。

「なんだか疲れちゃって……元々、ネクス・セントラルの市民権が欲しくて入隊したようなものだったし」

「たしか除隊者は最低1年間の抑留でしたっけ」

「そう。働き口は軍が斡旋してくれるっていうし、ここの市民権ももらえるならいいかな、って。それに……」

 寂しげに微笑んだエルが手を伸ばし、アルの首元で掛けずれた毛布を軽く戻す。よく見ればベッドが軽く微動し、小さな振動音を立てていた。ベッドに備わる血行障害防止システムだ。

「アル君が目を覚ましたときに誰もいなかったら可哀想でしょう? 最近はコロニー間の往来も難しくなってきているし」

 意識不明中の患者は植物的な自律機能は動いているものの、動物的な自律機能が停止しているため寝返りが打てない。そのため放っておくと、背中など荷重がかかる箇所の血行が悪化し血行障害を初めとしたさまざまな病気を併発させてしまう。それを防止するため、定期的にベッドの座面が変形し、簡易的なマッサージと荷重のかかるポイントの変更を行っているのだ。

「それにしても、よく面会許可が下りましたね。看護師さんに聞きましたよ。ほぼ毎日、来ているそうじゃありませんか。アルの家族ならともかく、僕でさえここへ来るまでの手続きに1週間もかかったのに……除隊したエル先輩が、よくそんな許可をとりつけられましたね」

「あら、簡単よ」

「?」

「だって私―――」

 いたずらっぽく笑んだエルが軽く左手を上げてみせる。その薬指には、簡素だが質の高い純銀と一目で分かる指輪がはめられていた。

「だって私、アル君の婚約者だもの」

「…………え?」

 一瞬の思考停止へと、陥った優人の顔が固まる。

 頬を赤らめて微笑むエルと、その左手の指輪の間を幾度も見渡して、事態を飲み込んだ瞬間、反射的にアルの襟元へ伸びた左手を右手で掴みとめた。

「え? え? ちょ、ちょっと待ってください。待ってください。え? え? あれ? え? 僕ら、いやいやアルとエル先輩って、まだ知り合ってから半年くらいしか経っていませんよね。いないはずですよね? あれ? え? え? え?」

 思いもかけない言葉に動揺し目を白黒させる優人に、口元を押さえたエルが吹き出す。

「もう。驚きすぎよ。やぁね。そんな顔しなくたっていいじゃない」

 そうしてひとしきり笑うとエルは肩をすくめ、小さな微笑を口元に浮かべたままアルを見やった。

「基地を脱出してからずっと、がんばっているアル君を励ましたりしているうちになんとなく、ね」

 エルの視線を追って見るアルは未だ昏睡に囚われたままだ。彼は今、どんな夢を見ているのだろう。埒もない考えが胸裏を過ぎる。懐かしい陽だまりの日々か、それとも裏切りにまみれた戦火のリフレインか。眠るアルの顔に表情は無く、青白く血の気が薄れた肌とこけた頬が、彼の彷徨う無窮を思わせてならなかった。

「アル……」

 小さく口をついた友の名が、かすれて響くことすらなく尻すぼむ。

「僕は行くことにしたよ。どこまで行けるのかはわからないし、行った先にアイツがいる保証は何もないけれど。それでも、あの戦場にしか答えは無い気がするんだ」

 懐から手のひらほどのプラスティックケースを取り出す。

 簡素な黒塗りの四角いケースの蓋には“アル・ワン”の名とともに、木星に重なる一筋の流れ星を象ったエンブレムが刻印されている。木星軍首都“ネクス・セントラル”防衛を担う近衛師団“アロンダイト”のエンブレムだ。目覚めれば優人と同様にアルにも軍部は迫るのだろう。この徽章を受け取り、死んだ英雄の後継として軍へ復帰せよ、と。、

「アル。おまえはここでみんなを頼むよ。最前線は僕が引き受けるから、さ」

「やっぱり行くのね? 優人君……」

 アルの枕元にケースを置いた優人が、小さな会釈ひとつとともに踵を返す。

 振り返らぬ背に満ちた緊張の色をエルは知っていた。

 それはかつて、エルたち艦員を守るため決死の出撃をする際に彼が見せた背中だった。

 かける言葉を失い、顔を曇らせたエルの眼差しの先で扉が閉じてゆく。

 その先へ消えた知己の背姿に、エルは小さな溜息をこぼすのだった。




   二

 ネクス・セントラル西端にある緑化区域の一角には、巨大な紡錘形の葬儀施設が建てられている。

 全長20メートルにもなる煙突塔の頂部からは常に火葬の煙がたゆたいつづけ、たもとから放射状に広がる施設の中を喪服姿の人々が暗い表情で行き交う。宗派や各個の意向に合わせた葬送形式生に応じるため幾つものブロックで区切られた施設の外縁には、その縁を沿う形で更に無数の小部屋が設けられていた。

 そんな施設の中を優人は進む。

 手には白い水仙の花束を、身には黒の喪服を身に着け、歩む中で左手のシールギアを見やった。

 携帯端末でもあるシールギアの立体投影地図を頼りに歩む先は、施設外縁の小部屋の一つだ。“208”と書かれた扉の前で足を止め、小さな呼吸をひとつする。やがて意を決した表情で優人は左手を扉へかざした。

 左手首のシールギアの個人認証が読み込まれ、開錠された扉が開いてゆく。

 そうして踏み込んだ先には、青々と茂る緑の芝が地平の彼方まで広がっていた。本物の光景ではない。本物と見まがうほど精緻に構築された三次元画像の投影による仮想の光景だ。

 背後で扉が閉じ、一面の緑の世界に取り残されてしまう。だが優人は驚くそぶり一つ見せぬまま数歩を進むと、そこに建つ十字の墓石へ口をひらいた。

「本当は柾人まさとも来られれば良かったのだけれど……」

 墓石の中央には、“南風はえ”の家名が彫られている。墓石自体は本物だが、直に彫られたとしか見えない文字は投影画像だ。

 歩み寄った優人が左手を向けると、その袂にある石室のカバーが展開し、直径三十センチ程の小箱がせりだしてきた。遺品を収めるためのケースだ。閉鎖空間であるコロニーでは、衛生管理の観点から死体は全て焼却し有機還元することが義務付けられている。その代わりとして、一定量までの遺品を公共の葬儀施設が預かる形となっているのだ。

 その小箱に右手を伸ばして上蓋を開ける。

 中身は無い。そんな空の小箱へ優人は、懐から取り出した二つの指輪をそっと置いた。古ぶるしい純銀の指輪だ。それはかつて、優人の父と母が身に着けていたものだった。

「おかえりなさい。父さん。母さん……」

 レイジ・トライエフと名を変え、束の間の再会とともに姿を消した弟の顔が胸裏をよぎる。父母の形見を兄へと託し、去った弟は今この瞬間も戦場に身を置いているのだろうか。

「正直いうとね。少し、恨みに思っていたんだ」

 蓋を閉じ、軽く押しやる。すると、所作を読み取った機構がケースを再び囲い込み、墓石の袂へと飲み込んでいった。

「中央へ脱出した三人は、きっと僕のことなんか忘れて幸せにやっているのだろうなって」

 空となった右手を無意識に握りしめ、震わせながら優人は墓石の名へと目を向ける。

「とんでもない勘違いだ。中央がテレパシストを市民として歓迎するわけがないじゃないか。柾人は何も言わなかったけれど、あいつの顔をみればわかる。父さんと母さんは病死なんかじゃない。殺されたんだ。中央の生体実験の犠牲になって……」

 暖かかった父と母。

 思えば、生き別れてから10年以上もの歳月が過ぎてしまっている。

 当時の優人は七歳。もはや記憶は薄れ、顔どころか声さえ上手く思い出せない。だがしかし優人は覚えていた。たしかにあった父母のぬくもりと、そこに覚えた安らぎは優人の心の片隅に在り続けていた。

「ごめんなさい。父さん。母さん」

 小さな独白が、室内に響く空調の音へ紛れてゆく。

「いつも言っていたよね。いつかきっと分かり合える日が来る。望めば木星圏の人々すべてが地球を目の当たりにできる日がきっと来る。だから決して武器をとってはいけない。憎んではいけないって」

 士気高揚と情報操作を目的とした政府の広報映像がテレビで流れるたび、寂しげにそう語っていた両親を覚えている。

「戦うのはいい。けれどそれは、感情的な暴力ではなく理性で裏打ちされた論説をもってでなければならない。そんな街頭演説を聴いたことがあるんだ」

 遥かな少年の日に偶然、街で耳にした初老の男の演説姿が脳裏を過ぎる。

「父さんたちに似ているって思った。きっと同じ思いの人なんだろうなって。でも……そんな正論を語る人たちは、皆から罵声と石を投げつけられていたよ」

 テレパシーシンドロームの混乱おさまらぬ日々の最中だった。誰もが傷つき、降りかかった理不尽への憤りに吐け口を求めていた。

 多くの人間にシール・ギアが行き渡り、暴動や内乱が鎮圧されゆく中で人々は恐れたのだ。恐れずにはいられなかった。いつまた理不尽に日々の安寧が踏みにじられるのか、と。

「この場を借りて懺悔するよ。僕もそうなんだ。僕も、やるせない感情のまま、彼らに石を投げつけてしまった人間の一人なんだ。あんなに言い聞かせられていたのに……あんなに平和を願っている父さんたちを知っていたのに……」

 恨みなどなかった。

 憎しみなどなかった。

 怒りや悲しみすらなく、あるのはただ、息詰まるような閉塞感と嫉妬だけだった。

 こんなに苦しんだというのに、悲しんだというのに、ふたたびそれが繰り返されるかもしれないというのに、あの論者たちはそれを進化と受け入れろという。他人事の凶事と、彼方の場所で我が世の春を謳歌している地球圏を憎むなという。

「きっと誰もが苦しかったんだと思う。自分の中に色々なものがたまりすぎて、吐き出さなきゃパンクしてしまいそうになっていたんだ。あの人たちが正しいだなんて十分すぎるほどわかっていたさ。でも、だから余計に腹が立ったんだ。同じものを抱えているくせに、同じように苦しんで悲しんだはずなのに、まるで自分たちは違うとばかりに正論を語れる姿が妬ましかった。妬ましくて……羨ましかった……信じたいのに。本当は自分たちだって彼らのようにありたいのに……そう言える自分のままでいたかったのに……それが苦しくて、悔しかったんだ」

 木星圏全土に蔓延し、いまだ拭い去ることのできないテレパシーシンドロームへの恐怖。

「ブラッディ・ティアーズ……あの呪われた兵器の姿は、きっと僕たちの恐怖の形なのかもしれないね」

 内乱と暴動鎮圧のため、シール・ギア開発と並行して誕生した人型機動兵器ブラッディ・ティアーズ。だが、その開発経緯や詳細な配備記録は一切が闇に包まれている。

 当時は軍の組織的な機構が機能しておらず、地域の軍属たちが自己判断で全てを行っていたため記録らしい記録が残っていないのだ。

 多くの人々にとってそれは、いつのまにか気づいたときには存在し、象徴となっていた謎の多い兵器なのだった。だがしかし、その始まりを暴くことにどれだけの意味があるのだろう。すでに戦端は開かれ、ブラッディ・ティアーズという名の剣を執る以外の選択肢は閉ざされてしまっているのだから。

 戦うしかないのだ。少なくとも、今この時代を生きる限りにおいては。

「……パイロットになったよ。それもブラッディ・ティアーズのパイロットさ。ごめんなさい。誰かを傷つけるかもしれない、死んでしまう危険があるかもしれないから軍属だけにはならないでって、母さんは僕に言ってくれたことがあったのにね」

 右手を胸にあて、黙祷を捧げる。

 もはや顔も思い出せない両親は、涅槃で安らかに眠れているだろうか。

「なんでだろう。やっとまた会えたのに、なんだか謝ってばかりだ」

 ゆっくりを瞼を開き、両親の指輪たちへ小さく微笑む。

「きっと二人は怒るのかな。それとも悲しむのかな。ごめんなさい。それでも、きっと僕は行かなきゃいけないんだ。そうしなければならない理由が……笑ってしまうくらい、たくさんできてしまったから」

 かがみ込んで遺品ケースの蓋を閉じる。

 手を放すと機構が遺品ケースを墓石の下へと収納し、石室のカバーが閉じていった。そうして地下の機械倉庫へ保管され、再び息子たちの来訪を待ち続けるのだろう。

「さようなら。父さん。母さん」

 墓石を前に、いま一度の黙祷を優人は捧げてゆく。

 口をついたのは、訣別の言葉だった。

 小さな予感があったのだ。恐らくは二度と、自身が再びここへ戻ることはないであろう。そんな確信じみた予感が、だ。

 長い黙祷を終えた優人が踵を返す。

 ゆっくりと歩み去る顔にあるものは、すでに哀悼ではなかった。

(柾人。アンディ。僕も行くぞ。おまえたちがいる戦場へ)




   三

 航宙戦艦グローリー・シリウス。それがその船の名称だった。

 木星の本土防衛および木星軍の旗艦護衛を目的として建造された4隻の最新鋭戦艦―――栄光を名に冠するシリーズの4番艦にしてそれは、つい半年前に進水式を終えたばかりの新造艦でもある。

 エンジンを初めとした各部の調整と慣熟のため哨戒名義で木星圏を巡っていた艦は今、首都コロニー“ネクス・セントラル”の宇宙港で全長213メートルもの船体を休めている。

 係留と整備のため、港湾のメンテナンス機構に左右から両舷を挟み込まれ、解放された各部の搬入口から資材を飲み込んでいる船体は、一見すると鎧魚にも似た外観をしていた。

 上下の無い宇宙を航行する航宙船舶らしく、上部へ突き出た艦橋を持たない紡錘型の船体前部を、分厚い展開式の装甲が覆っている。航路にスペースデブリが多いための防護措置だ。そのまま戦場において強固な盾ともなる表面には特殊な電磁処理が施されており、受けたレーダー波を拡散させることで正対した敵艦のレーダー有効範囲を狭める機能が付加されていた。

 船体の中央付近の外周を5本の金属ラインが走っている。

 外部の景色や音声などの情報を取得し、その直下の船体中央位置へ内蔵された艦橋へフィードバックするためのユニットたちが走行するモノレールだ。これにより得られた情報を内部艦橋の窓へ投影することで、艦橋を外部へ露出することないままそれと同様の景観を実現している。

 更にグローリーシリーズは試験的に船体自体の拡張性能向上が図られ、後部の外周に8基もの拡張ユニット接続用ハードポイントを備えていた。これにより、戦艦の名を冠しながら実質的に別の艦種への換装が可能となっている。

 現在、接続されているユニットは六つだ。

 ユニットを覆う展開式の外装は同一規格のため一見すると全て同じものに見える。だが八角形の亀の甲羅にも似たユニット内部には、最新鋭の設備がそれぞれに稼動をしているのだ。

 その一つである左舷真横に位置するユニット―――艦載機の格納と整備を目的とした第2ユニット内部の一角で、白い整備作業用ツナギ服姿の青年整備兵キース・ダカーは歩む足を止めた。

「まったく、とんでもない艦ですね。全部のせ―――いや、どちらかといえばビュッフェでしょうか。戦艦のユニット化なんて誰が考えたのだか。しかも肝心要の拡張ユニットは、まだまだ試験運用中の試作品で数も種類も少ないらしいですし、仕様書に書かれているとやらが出来る日なんてくるのでしょうかね……だいたいが実運用を見込んでいる次の“スター”シリーズ建造計画からして、さっそく仕様決めでもめているそうですし、ただでさえ金のかかる上に建造期間も耐用年数もバカ長い戦艦の拡張ユニットなんて誰得なのだかって話ですよ。次世代の艦がこのユニットを使おうって頃には、ユニットの方が旧世代なのじゃないですかね。きっと」

 手元の携帯端末に目を落としたまま肩をすくめる。ゴーグル型の視覚補正機器が主流の現在においてはアナクロな黒い金属フレームの眼鏡をかけた痩身の青年は、つい一週間前にグローリー・シリウスへ配属となったばかりの新兵だ。

「新米が何を偉そうに。細かい事はいいんじゃよ。古かろうが新しかろうが、試作品だろうが量産品だろうが、使えないなら使えるようにしちまえばいいだけなのじゃからな」

 生真面目な表情で艦船の仕様書類を読みふけるキースの背中を、後ろから壮年の老兵が右手ではたいた。

 小気味の良い音とともに前へとつんのめり、たたらを踏んで振り返ったキースの顔が渋面を作る。

「こういうのホント、やめてください。立派なパワハラですよ。これ」

「初心な小娘じゃあるまいし、野郎が何をひ弱い事いっとるんじゃ。ほれ、とっとと第三搬入口へ行かんか。艦載機の搬入準備はもう始まっとるぞ」

 曲がりかけた腰を伸ばしながら仁王立ちしている老兵―――ルークが、顎で左の彼方を指し示す。その視線を追った先では、重々しい金属音とともに壁の一部が左右へと開きだしていた。すでに艦外から伸びてきた搬入用ゲートのトンネルが接続されており、扉の解放と同時に内部の走行レールが艦側の接続ポートと連結されてゆく。

「今日の搬入予定は3機でしたよね。艦載機も、これで昨日の分と合わせて7機ですか。なんだか戦艦というより空母じみてきましたね」

「仕方なかろう。この宙域に関してだけでいえば、現代戦争の主役はブラッディ・ティアーズじゃ。潜在的な物量はともかく、人的資源が圧倒的に不足しとるワシらが中央相手に艦隊戦なぞできんしな。目いっぱいまで個の力を引き上げて泥仕合にもっていくしかなかろう」

「それは承知していますが……」

 ゲート内のレールを走行し、艦内へと搬入されゆくコンテナ群に続いてブラッディ・ティアーズたちが姿を現す。トレーラーの上に寝かされ、シートで覆われた様相からは人型のシルエットしか判別できない。だが、そのシート一枚の下には最新鋭の新型ブラッディ・ティアーズが目覚めの時を待っているはずだった。

「ですが、こう思わずにはいられないのです。はたして、これで“どの程度”戦いうるのだろうか、と……」

 手元の携帯端末にはグローリー・シリウスへ搬入が予定されている新型機たちの仕様書が表示されている。試作艦の色合いが濃いとはいえ最新鋭の近衛艦へ配備される機体だけに、いずれも次期主力が見込まれる次世代型の先鋭機ぞろいだ。

 つい数か月前まで触れていた訓練機とは比較にならないパワーと高性能ぶりはキース自身、十二分に理解してはいる。だがそれでも、かつて目の当たりにした青きブラッディ・ティアーズたちに対抗できるとは思えないのだ。

「整備長。今度の戦いは、はたして戦いと―――」

 呼べるものになるのでしょうか。続く言葉を、ルークの柏手が遮った。打ち合う両手のひらが立てる小気味の良い音に我へと返り、居心地悪げに周囲を見舞わす。

「そのくらいにしとけ」

 キースの背中を叩いて顎をしゃくり、ルークが軽く地面を蹴った。

 長期の居住と利便性の面から0.5G程度に重力調整された港湾区画の宙を、わずかな放物線を描いて小柄な老躯が滑ってゆく。

「す、すみません。つい……」

「用心せぇ。この忙しい中、おまえにまでいなくなられちゃかなわん」

 その右隣へと着地し、小さな謝罪を口にする。自身のシール・ギアを通じて未だ軍の監視下にあることを思い出したのだ。

 巻き込まれただけのキースに詳しいことはわからない。だがかつて出会った青いブラッディ・ティアーズと、それに付随する一連の事件については緘口令が敷かれている。一切の秘匿を条件に事件後の拘留からは解放されたものの、依然として猜疑の視線が向けられている状況は変わらない。裏切者と交友関係にあったキースたちには特に、だ。

「くだらない不注意や金に目のくらんだ馬鹿が、すでに何人か投獄されとるらしいしの。まったく……この世の中には馬鹿者しかおらんのか」

 再び足元を蹴りつけて行くルークの言葉に、散り散りとなった仲間たちを思う。

 木星圏へ帰還し軍に拘束されてから一度も顔を見ていない友人たちは何をしているのだろうか。連日の報道で、アルが昏睡状態にあるままなことだけは知っているのだが―――と、ふいに視界の端を横切った人影へキースは目をみはった。

 宙を滑る中でたたらを踏んで立ち止まり、慌ててそちらを見やる。その先では、資材の搬入路を通ってきた連絡バスから士官が数人、降りてきていた。連絡のあった艦載機のパイロットたちだろう。

 いずれも紺色の軍装を身にまとい、左肩口に銀鎖を飾っている。木星軍から認可された正規パイロットの証だ。階級が上がるに従って本数が増え、華々しい功績や評価如何によっては、それが絡むパーソナルマークが下賜される。すべからくが無印の一本なあたり、正規パイロットとはいっても初配属と実戦未経験の少尉たちなのだろう。

「なにしとる! とっとと―――」

 呆けたように立ち尽くすキースの傍らへ、引き返してきたルークもまた声を詰まらせた。

 そんな二人の姿に気づいたのだろう。その中の一人が、破顔して駆け寄ってくる。パイロットたちの中でただ一人、二本の鎖を飾る中尉だ。襟元には、木星軍首都“ネクス・セントラル”防衛を担う近衛師団“アロンダイト”のエンブレムが真新しい銀の輝きを放っている。

「整備長! キースも!」

「優人か……」

「南風くん」

 久方ぶりに出会う知己の顔に、ルークの顔が緩む。普段は鉄面皮を決め込んでいるキースも、このときばかりは相好を崩していた。

「まさか二人が、この艦に配属されていただなんて……」

 手荷物を放りだして歩み寄り、二人を見回した優人が右手を差し出す。

「ワシらだけじゃあないぞ。グレイ・ティガーに乗っておった奴はこぞって放り込まれとる。しかも艦長は、あのイクシスじゃしの」

「要は厄介払いですよ。一か所に集めておいた方が監視もやりやすいですしね」

「変わらないね。二人とも」

 その手を握り返し、笑う二人へ返す優人の胸に安堵が広がってゆく。記憶の中のかつてそのままに笑う二人の姿は、事件後から初めて目にする変わらない仲間の姿だったのだ。

「何をいっとる。あれからまだ半年もたっておらんのじゃぞ。そうそう老け込んでたまるかい」

「まぁ、私としましては、もうちょっと落ち着いていただいても一向にかまわないのですけれどねぇ」

 ため息混じりにこぼしたキースに鼻を鳴らし、ルークが腕組みして睨みあげる。

「ふん。スカした落ち着きなんぞが現場で何の役に立つものかよ。どれだけ演算機と科学技術が発達しようと古今東西、あくせく手足を回すこと以上に成果を上げる手段なぞありはせん。小難しい理屈をこねる暇があるなら、勘と経験をまず磨け。それが現場仕事っちゅうもんじゃろがい」

「いえいえ。辞書には老成という言葉がありまして。お歳をめされると普通、人間は落ち着きを手にいれてゆくものらしいですよ」

「ほうほう。なら、益々ワシには関係ないのぅ。なにしろ生涯現役じゃし。隠居するようなオイボレにゃならんし。永遠の20歳じゃし」

「いえいえいえいえ。整備長殿。哀しいことですが加齢は全人類に等しく降りかかるものでして」

「ほうほうほうほう。ケツの青いガキンチョが、一丁前に屁理屈こくか。この未熟者めが」

「いえいえいえいえいえいえいえ。男子三日会わざれば括目して見よ、ですよ。私など、つい先日、二等航宙機整備士試験の合格通知を受けておりますし。未熟者なんて卒業済みですし」

「ほうほうほうほうほうほうほう。合格率40%の壁を一発合格とは凄いのう。さすがじゃのう。じゃが残念じゃったのう。ワシなんか上級もっとるもんね~。そんな科白はの、せめて一等が受かってから言わんか。この未熟者めが」

「いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ。私まだ19歳ですから。あれの受験資格は20歳からじゃありませんか。知っているクセに、なんて大人げない。いいでしょう。来年に一発合格して、その科白を撤回させてあげますよ」

「ほうほうほうほうほうほうほうほうほうほう。だが残念じゃったなぁ。一等はいくら試験に受かったところで、そこから実務経験3年以上なけりゃ資格は授与されんのじゃ。つ・ま・り、どうあがこうとおまえは、あと最低4年間は未熟者のままというわけじゃよ。この未熟者めが」

「くっ。こ、このジジイ……」

「なんか言ったか? この未熟者めが」

「い、いえ! なんでもないであります。整備長殿!」

「そうかそうか。この未熟者めが」

 額に浮かべた険をヒクつかせながら、表情だけは笑顔で口喧嘩を続ける二人に苦笑して、肩をすくめる頭上で艦内放送が響き渡った。

 女性オペレーターの声音で事務的に告げられたのは、優人に対する艦長室への出頭要請だ。

 口喧嘩の矛を収め、複雑な面持ちで見つめてくる二人に優人は再び肩をすくめてみせる。

「……じゃあ、また後で」

 片手を上げて言い残し、優人は踵を返すのだった。




   四

 どうしてこうなった。

 つい1か月ほど前に艦長職と特務を拝命して以降、幾度くり返したかわからない述懐をレナード・イクシスは繰り返し続けていた。

 ビヤ樽のように肥え太った身を深くソファに沈めたまま部屋を見回してゆく。

 最新鋭艦の、それも艦長室とあるだけあって部屋は約50平方メートルと広く、隣室にはベッドルームとリビングといった生活スペースが別室として用意されていた。壁際の調度はイクシス自身が持ち込んだ一級品ぞろいであり、リビングにはワインセラーを初めとした贅沢品が満載されている充実ぶりだ。

 だが、それでもイクシスの気分はいささかも晴れなかった。

「どうしてこうなった……」

 胸中で呟くのみでは足りず、とうとう口をついた言葉とともに執務机に額を押し付け、両手でバリバリと頭髪をかきむしる。

 考えれば考えるほど憂鬱は増し、針でつついたように胃が痛んだ。

「なんでワシが……なんでワシが……」

 使命は果たしたはずだった。

 組する軍閥政党の指令を見事に果たし、死地から見事に凱旋を果たしたはずだった。

 当初の予定とは異なる経緯を経ることとなったとはいえ本来、コクピットユニットのみであったはずの幻想機”テンザネス”は完全体で木星軍へと引き渡され、レイジ・トライエフを初めとした一党との接触も無事に成功したと聞いている。

 当初の予定以上の成果だ。

 そう、幻想機のコクピットユニット輸送任務は大成功を納めたはずだったのだ。

 その成功により文字通りの“箔”を付けたイクシスは目論見通りに軍閥政党内での地位を上げ、あとは後方から復讐を成就させるべく暗躍と謀略へ加担するだけとなるはずだったのだ。

 だがしかし、戻ったイクシスを迎えたのは叱責と糾弾だけだった。

(ふざけるな! ワシは命がけで帰ってきたのだぞ!? 危うく殺されるところだったのだぞ! なのに……ふざけるな! そんなに大事か! あの役立たずのポンコツパイロットが……このワシよりも……ワシ…より……も……)

 基地副司令という立場でありながら基地を見捨てて逃げ出してきたばかりか、その逃避行の最中に不世出の英雄を死なせた無能者―――それは英雄の死による動揺を抑えるため軍部が優人たちを称えれば称えるほど深まり、イクシスの名を貶めていった。

 やがてその非難は、イクシスが最高責任者CEOを務めるホワイトスター・コーポレーションを直撃した。木星圏の穀物流通40%をまかなうまでに成長し、かつて以上の隆盛を誇っていた一大企業の株価は急落し、不買運動や数多の取引停止によってグループの存続すら危ぶまれるところにまで追い詰められてしまっている。

 企業グループ内からもイクシスの更迭を求める声が各所から上がり、失脚どころか下手をすれば投獄の可能性すら出てきている有様だ。

「ちきしょう……ちきしょう……」

 考えても、考えても答えが出ない。

 いったい自分はどこで道を間違えてしまったというのだろう。内から自身を焦がす屈辱に震えながら、思い出すのはテレパシーシンドロームの悪夢だった。

 薄暗い部屋の片隅で毛布にくるまって震え続けた日々は未だ色あせない記憶としてイクシスの脳裏に焼き付いている。

「いやだ……いやだ……またあんな……あんな日々に戻るのか……戻ってしまうというのか。この私が……」

 覚えている。幾度となく嘔吐を繰り返してのたうち回った床は吐瀉物にまみれ、室内は胃酸と腐臭でむせかえるようだった。嘔吐と悲鳴で焼きついた喉は火箸を押し付けられたように腫れあがり、声を出すどころかしゃくりあげることですら激痛が走った。

 明かりを落とした室内は暗いが関係ない。神経性の充血で膨れ上がった眼球が今にも瞼を飛び出さん勢いで加熱を続けていたからだ。視界は霞み、色彩どころか影形さえも曖昧な世界の中で、ただただ怯え、震えながら誰かの助けを待ち続けた。

 その日を思い出して幾度、涙を流してきただろう。自身を見捨てた一族への恨みを幾度、吐いてきただろう。

 眠るたびに悪夢として自身を苛む記憶への恐怖を払拭するために選んだ復讐の道―――その半ばにさえたどり着けないまま終わってしまうというのだろうか。無能者の烙印を押され、世間の嘲笑を浴びながら敗残者として消えてゆく。そんな結末が、レナード・イクシスという人生の終着点だったというのだろうか。

「ふざけるな!」

 執務机に両の拳を叩きつけ、身を起こしたイクシスは叫んだ。

「ワシは負けんぞ! 貴様らに復讐するまでは! 貴様らが無様に地を這い、命乞いする姿を見るまでワシは終わってなどやるものか。ワシはイクシスだ。ワシこそがイクシスなのだ。ワシだけが、”イクシス”なのだ」

 復讐心を湛えて虚空を見据える双眸に映るのは、レナード一人を見捨てて中央へと逃げおおせた一族の人間たちだ。

「後悔させてやる! 私の前にひれ伏せさせてやる!」

 涙が視界をにじませてゆく。

 眉間へこみ上げた熱が、イクシスの感情に拍車をかけてゆく。

「必ず……必ず……」

 こぼれてゆく。

 こぼれた涙が、机の上で震える両手を濡らしてゆく。

 頬を伝う涙は熱く。こぼれて伝い冷えた両手の滴たちは冷たかった。

 胸裏で渦巻く感情が、ただただ苦しい。

 その苦しみに溺れ、あえぐ中でイクシスは呪詛をこぼし続けるのだった。



   *   *   *   *   *



「失礼いたします」

 艦長室へ足を踏み入れた優人を出迎えたのは、執務机の向こう側に立つイクシスの背中だった。

「艦長?」

 敬礼を解き、執務机へ歩み寄った優人の足が止まる。右手を挙げて優人を制したイクシスはしかし、振り返らぬまま執務机の上を指さした。

 電源の入ったB5サイズのタブレットには艦内マップが表示され、先ほど資材が搬入された場所とは逆側―――右舷真横へと接続されたユニットへのガイドメッセージが浮かんでいる。

「上から話は聞いている。まずは昇進おめでとうといっておこうか」

 泣きはらし、赤く腫れあがった目元を隠すためなのだろう。振り返らぬままの言葉に困惑する優人をよそに、イクシスは両手を後ろ手に組み直して続けてゆく。

「エーデル・ローゼ特務隊。それが、近衛師団アロンダイト麾下の独立遊撃部隊として編制された我々の部隊名だ。“高貴なる薔薇エーデル・ローゼ”。ふざけた名前だとは思わんかね。この艦どころか、木星圏中を探したところで、咲いた本物の薔薇を見たことのある人間が何人いることか。君とて、見たことはあるまい?」

「はい……たしか植生が人工環境に適応できず、生育困難な地球の植物と聞いております」

「その通りだ。厳密には、蕾はつけても開花をしない、だがね。どこまでも我々を小馬鹿にしくさる高慢ちきな花の名だよ。まったく、どいつもコイツもそんなものをありがたがりおって。忌々しい……」

 疑似環境技術の向上により、人類が宇宙においてストレスの無い生活環境を手に入れて久しい。だが不思議な物で、どれほど人間にストレスが無い環境であろうともそうした人工環境に拒否反応を示す生物があった。

 薔薇もその一つであり、宇宙での完全な生育条件特定や品種改良には中央でさえ至っていないのが実情なのだった。

「ですが“ローズ”ネームをいただいたということは、相当な期待を受けているということなのでは?」

 中世において薔薇が特権階級社会の象徴であったように、その名を冠するということは木星軍において特別な意味を持つ。

「あぁ、そうだ。ローズを名乗る我々は軍内のあらゆる施設・設備を最優先で使えるばかりか、独自の判断による単独行動権までもが与えられる。だがね。期待? 冗談じゃない。単なる放逐だよ。これはな。未知数で不穏な異分子予備軍である我々になぞ、どのお偉方も関わり合いたくないのということなのさ」

 憤懣やるかたない様子で吐き捨てたイクシスの両肩が震えている。紅潮した両の耳から、後ろ姿からでもその渋面が容易く想像できた。

「ネクス・セントラルの奴らは安全圏から品定めするつもりでいやがるのだろうよ。幻想機の利用価値と、我々の中に潜む不穏分子を、まとめてあぶりだすためにな」

「我々は泳がされている、と?」

「南風中尉。気をつけておくことだ。表向き、君とテンザネスは軍が秘密裏に独自開発した新機軸の実験機とテストパイロットということとなっている。本艦の任務もCALIBER要塞への正式配備ではなく、あくまで艦と機体の実戦データ取得を目的とした後方での要塞直衛任務だ。だが、突然に湧いて出たテンザネスの存在に疑いの眼差しを向けている者は多い。要塞へ到着すれば、あの手この手で情報を引き出そうとしてくるだろう。他の軍事派閥や、これまで市場を独占してきた三大メーカーの手先どもと一緒になってな」

 人類が武器という概念を手にして以降、軍需産業は“金の生る木”だ。ありとあらゆる面で最新鋭かつ最高の品質を要求されるが故に、付随効果としての経済効果は計り知れない。

 自衛や侵略といった目的を問わず、そのリードが自身の栄枯盛衰へ直結するものであるからこそ、ありとあらゆる手段をもってして莫大な富をつぎ込まれるものだからだ。

 そして軍需産業の活性化は、同時に経済を大幅に活性化させる。

 連綿と続いてきた悲劇の構図は、悲しいことに人類が宇宙へ進出して幾世紀を経た現在も変わらない。

 中央という強大な敵を持ち、CALIBER要塞という橋頭保を持つ特殊な成り立ちがため、軍産複合体の側面を併せ持つ木星圏では特にその傾向が強かった。

「三大メーカー……たしかに、彼らからすればテンザネスの存在は目を引くでしょうね」

 国防省と提携し、ブラッディ・ティアーズを初めとした兵器開発認可を受けている三つの軍事企業――――もし彼らがテンザネスを知り、それが中央の手によって作り上げられたブラッディ・ティアーズなのだと知れば、やっきになってその技術を手に入れようとするだろう。

「そういうことだ。いざ戦闘ともなればテンザネスを矢面に立たせざるを得ないが、それまでは私の命令なしに出撃することは許さん。いいな。合わせて、君にも行動制限をかけさせてもらうぞ。テンザネスを格納した第7ユニットのみに、だ。本艦との連絡については艦橋からの直接通信もしくは私直属の連絡員が担当する。細かい内容は、その端末を確認しておくように」

 ありていに言えば、軟禁と同義のそれに胸中で小さなため息をつく。

 自身とテンザネスの事を鑑みれば当然の措置であり十分に予見もしていたが、いざともなると憂鬱を禁じえなかった。なにしろほんの2週間前まで3か月もの長期間、拘留されていたばかりなのだ。

「了解いたしました」

 だが軍属にとり上官の命令は絶対だ。

 命令遵守の必要性と堅守については、今は亡き上官から徹底的に叩き込まれてきてもいる。

 執務机からタブレットを拾い上げ、敬礼とともに拝命の言葉を口にする。

「南風優人中尉。これよりグローリー・シリウスへ着任いたします」

 振り返らぬままのイクシスへ再度の敬礼を一つ残し、優人は艦長室を後にするのだった。




   五

 瞼の裏側の闇に想い、浮かべるのはいつも知己の顔だった。

 手入れのゆきとどいた瑞々しい黒髪の三つ編みを左肩から前に垂らし、度の薄いフレームレスの眼鏡ごしに見えるクリクリとした大きな黒瞳が印象的な、どこかひかえめな印象の女性だった。150センチ弱と低い背丈のせいか、軍服を着ていてもどこか少女然としている。

 ミユキ・ラベルダ。

 胸の内を焦がす恋情が、今はただ苦しい。

 自身よりも頭一つ分と少し、高い背丈の優人を見上げる顔は複雑な表情を浮かべていた。


 そんな顔をしないで。


 つきかけた言葉が、口を開く寸前で消えてしまう。

 胸の奥からこみ上げてつのる慕情に、彼女が応えることが無いことを知っているから。

 人並み外れた能力に頼らずとも、はっきりと察せてしまう表情の意味を知っていたから。


 ごめんなさい。優人くん……。


 耳の奥でこだまし続ける残響は、かつて想いを告げた優人への答えだった。

 最初からわかっていた結果であり、当然の結末でもあるそれを、未だ他愛の無い人生のつまづきと過去に流すことができずにいる。

 ひどく簡単な話ではあるのだ。

 意中の女性が慕っていたのは、優人ではなく別の男だった。ただ、それだけの話なのだ。


 アイツがいなくなった今ならば。


 そんな浅ましい気持ちが無かったと言えば嘘になる。

 どんな言い訳をしたところで、その男が二人の前から姿を消し、恋を争うどころか再会さえかなわぬ身となっているのは事実なのだから。

 だが、それは少女にとり恋の終わりを意味してはいなかった。

(間男だな。まるで……)

 小さな引け目が、針のように胸を刺す。

 彼方を見据え、自身へ恋する幼馴染みへなど目もくれずに去った男―――アンディを未だ想うミユキと、そんな彼女への恋情を捨てきれない優人。

 なんとも不毛な構図だと皮肉交じりに思う。

 こんな気持ちを引きずることに何の意味があるというのか。かなわぬ初恋のポートレートとして胸裏のコルクボードに一刺しとともに貼りつけてしまえば良いのだ。そうすればやがて、日々とともに重ね貼られる記憶で埋もれ、色あせ、忘却されてゆくことだろう。そうしていつか、老い果てた日にふと思い出すのだ。甘くも苦い、追憶の一ページとして。

 だが、それでも。そうなのだとわかってはいても。それ以上に欲してしまうのだ。欲せずにはいられないのだ。

 彼女を。

 彼女と名を呼び合い、交わした抱擁の中で体温を感じ合う資格を手に入れたい。

 そう願い、手を伸ばさずにはいられなかったのだ。だからこそ、全てを承知していながら想いを告白したのだ。

 今更そのことに後悔は無い。

 恋も告白も、嘘偽りの無い自身の感情に従った真実であるのだから。

 だが、彼女によって下された拒絶という結果に未だ、異を唱える自身がいる。

 あきらめてはならない。

 あきらめたくない。

 あきらめてなどたまるものか。

 何故、たかが拒絶の一つ程度で引き下がるのだ。欲するのならば奪ってしまえば良いだけではないかと、理性で拘束された胸裏の獣が囁いてくるのだ。

 下卑た本能の声音に、背筋が凍りつく。

 爪先から頭頂までの隅々を、おぞましい寒気が走りぬけ、吐き気をもよおす不快感を喚起させてゆく。

(やめろ……)

 額をつたい落ちる汗が、氷のように冷たかった。

(うるさい……)

 おこりのように身は震え、だが身の内は灼熱感が荒れ狂っていた。

(黙れ……)

 クツクツと、優人の内で獣が笑う。

 嘲笑まじりに悪を囁く。

 奪うなど簡単な事なのだ、と。

 蹂躙ひとつで、こんなくだらない葛藤は簡単に解決ではないか。

 あの小さな肩に爪を立ててしまえ。

 たおやかな身がまとう衣服を引き裂き、細い腰元をかき抱いてしまえ。

 唇を奪え。

 拒絶の言葉など自身の唇でふさいでしまえ。

 涙をこぼす双眸などは無視してしまえ。

 おまえ以外の男を映す瞳になど用は無いのだから。

 奪え。

 奪え。

 奪え。

 欲望のままに牙を立て、血をすすり、肉をむさぼり尽くしてしまえ。

 きっと心地よいぞ。

 あの女の中は、熱は、鳴き声は、おまえが知るどんな快楽よりも大きな悦びを与えてくれるだろう。

 あの女がこぼす雫は、どんな極上のワインよりも瑞々しく喉を潤し、甘い芳香でおまえを酔わせてくれるだろう。

 奪えば良いのだ。

 欲するのならば奪うべきなのだ。

 理性など、くだらない。

 欲するのならば、望むべきなのだ。

 望んだのならば、奪うべきなのだ。

 奪ったのならば、むさぼるべきなのだ。

 蹂躙し、従属を強い、飼い慣らせば、やがて心も変わってゆこう。おまえの色ひとつに染まってゆこう。

 拒絶は霧消し、ただ従順におまえを求め従う女となろう。

 欲せ。

 欲せ。

 欲せ。

 おまえが心から、あの女を求めるのならば。

 奪え。

 奪え。

 奪え。

 おまえが心より、あの女を望むというのならば。

 食らえ。

 食らえ。

 食らえ。

 おまえが心より、あの女に魅せられているというのならば。

 無数の感情が渦を巻く。

 優人を飲み込み、狂わせんとする灼熱の奔流が炎のように逆巻いては荒れ狂っている。

 のたうつ炎が刹那、人の姿をとっては崩れてを繰り返していた。

 炎が刹那、絵描きだすそれは、たおやかな女の肢体のシルエットをしていた。

 淫靡に、どこまでも扇情的なシルエットがうごめくたび少しずつ、獣を拘束する鉄鎖が緩んでゆく。

 形にならない嬌声が、渦巻く感情の怒号に入り混じった。

 猛獣が上げる咆哮とも、絹を引き裂く女の悲鳴にも似た奇異な声音だった。

 響くたび、反響するたび音量を増す声音が轟音となって聴覚を奪ってゆく。

 その耳障り極まる音に耐えかねて。

 胸を焦がす黒い感情に恐怖して。

 優人は叫んでいた。

 自身を蝕む獣と同じ声音で……。



   *   *   *   *   *



「!!!!!!!!!!!」

 声にならない悲鳴とともに、優人は跳ね起きた。

 同時に鈍い音と激痛が右側頭部を走り抜けてゆく。くの字に曲げた身を震わせ、小さくうめきながら右を見やると、見慣れた鏡像が渋面を浮かべてこちらを睨みつけていた。

(眠ってい…た……?)

 収束してゆく疼痛と引き換えに意識が覚醒してゆく。

 無機質な鋼材の壁面を透かす窓から目を離し、見回すと怪訝に向けられた視線たちと目があった。

 苦笑いとともに小さく会釈し、景色とも呼べぬ窓の外へ顔を向ける。

 優人が身を置いているのは、艦の竜骨に沿って設けられた艦内移動用のモノレールだ。全長200メートルを超える上、運用効率優先で居住性が悪い戦艦内をスムーズに移動するため、グローリー・シリウスの艦内には、この内部中央を走る路線の他に、艦の両舷内側を走る形で4本のモノレールが設置されている。

 いざともなれば非常用の脱出艇にもなる10人乗りのモノレールには、優人以外にも3人の艦員が乗車していた。二人掛けシート5列の最後部に乗る優人の位置からでは襟元の階級章まで確認することは出来ないが、士官専用の中央線に乗車しているからには下士官でないことは確実だろう。

(寝ていたというより、一瞬だけ意識が落ちたって感じか)

 見やった左手首シール・ギアの液晶パネルでは、木星圏の標準時間と併記して艦内時間がデジタルを刻み続けている。その時刻から、モノレールが出発してから5分と経過していないことがわかった。

(よく覚えていないけれど、嫌な夢…だった……)

 優人は見た夢の内容を覚えている経験はあまり無く、見たとしてもその内容を引きずることはあまり無いのだが、先ほど見たそれは奇妙なほど嫌悪感を掻き立てられた。

 違和感に右手のひらを見れば、よほど強く握りしめていたのだろう。手のひらに食い込んだ爪痕が赤くうずいている。同時に強く噛み締めてもいたのか、奥歯の根元あたりにも軽い痺れを感じた。

 挙動不審な身じろぎ以外にも、歯ぎしりや呻き声の一つも上げていたかもしれない。そんな考えに至ったところで、気恥ずかしさに優人は再び車内を見回した。

 さすがに未だ優人を注視している者は皆無だったものの、居心地悪さで落ち着かない。

 そっとため息を吐きかけたところで、目標としている駅への到着を告げるアナウンスが鳴った。




   六

 グローリー・シリウス本艦と拡張ユニットを結ぶ連絡橋内通路を抜け、第七ユニットへ降り立った優人を迎えたのは一人の少年と二人の青年将校たちだった。

 いずれも優人と同じアロンダイトの徽章を襟元に飾っている。

「お待ちしておりました」

 屈託の無い笑顔を浮かべて少年が右手を差し出す。波打つ金髪を短く刈り込んだ紅顔の少年だ。多分に幼さが残る顔立ちの中で、どこか既視感のある切れ長の双眸が目を引く。左肩の鎖は一本だが、銀鎖ではなく金鎖だった。士官学校を首席で卒業した者の証だ。

首席卒業者ゴールド……か)

 かつて士官学校卒業の日に、今はいない友の左肩を飾っていた金鎖が脳裏をよぎる。

「この部隊への転属命令を受けてから、ずっと楽しみにしておりました。まさか、あの“ザ・ラスト・サンズ”が自分の上官になられるだなんて……お会いできて光栄です」

 期待と興奮、そして憧憬か。眩しいほど澄んだ眼差しが優人を映して輝いている。

 遠目には少女と見間違うほど華奢で小柄だが、握り返す手の感触から鍛え込まれた体幹の気配を感じて認識を改める。良く見れば、佇まいにも隙が無い。筋力を初めとした肉体強度の増強よりも、肉体の操作に重きを置いた形での鍛錬を積んできているのだろう。士官学校からストレートでアロンダイトへの入隊が許可される異例にふさわしい逸材であろうことは疑いない。

「そうか。君が、テンザネスの直衛に付くっていうブラッディ・ティアーズの……」

「はい! あ―-――」

 戸惑いながら、その手を握り返す優人に少年は首肯する―――と、思い出したように赤面して敬礼を取った。

「し、失礼いたしました。自分はエレベート・ピエガ少尉であります」

「ピエガ? ひょっとして」

「……はい。ピエガ議員は私の祖父にあたります」

 やはりか、と。少年の双眸に覚えた既視感の理由に納得する。あどけない表情のためか印象は間逆だが、確かにクリフォード・ピエガの面影があった。

「親の七光りと、お思いになられるかもしれませんが、この金鎖に誓って私と家は関係ありません。あくまで私は、自分の意思で軍籍に身を置いておりますので」

 こうしたやりとりは初めてではないのだろう。エレベートの顔を悔しみの影が過ぎる。

 だが同時に慣れてもいるのだろう。それは一瞬のことで、すぐに元の顔を取り戻すと後ろへ半歩身を引き、背後へ控えていた二人へ場を譲り渡した。

 エレベートと入れ替わりに二人の将校が進み出る。だが二人はアロンダイトの徽章を付けているもののパイロットではなかった。左肩には銀鎖の代わりに、技術仕官を意味する銀の歯車が飾られている。

「お初にお目にかかります。私はマーク・ブラッシャー少尉。本部隊の副隊長として、また南風隊長麾下の戦術士官として、部隊の総務と戦術サポートをさせていただきます。エレベート様ともども、お見知りおきを」

 進み出た右の青年が敬礼の後、恭しく身を折る。

 すぎるほどに洗練された一連の所作だった。年は30歳前後といったところか。オールバックで整えられた金髪と微笑を浮かべた細面に、肩幅がある長身も手伝ってのことなのだろう。着こなす軍服が、ともすれば執事服と見まがう趣きがあった。おおよそ軍務に関わる人間の無骨など微塵も感じさせぬ優雅な姿に優人は白む。

「マーク。ここは社交場じゃない。軍隊なんだ。そういう仰々しい挨拶はいらないって言っただろう」

 そんな二人の姿に嘆息し、エレベートが小さな苛立ちを口にした。

 だがマークはそんな言葉などどこ吹く風といった様子でエレベートへ向き直ると、片膝を付きながら諭す口ぶりとともにかぶりを振った。

「お言葉ですが、坊ちゃま。こればかりは譲れません。これから南風隊長には、坊ちゃまをお預けすることとなるのです。もし私の非礼が原因で坊ちゃまが謂れの無いパワハラにさらされたら何とします。不肖、このマークには旦那様から坊ちゃまをお預かりした責任がございます。礼をつくして過ぎるということはありません」

「やめてよ。恥ずかしい。なんなんだよ。もう!! なんか台無しだよ! 苦労してようやく独り立ちできたと思って来てみれば、なんでかおまえたちいるし! 意味がわからないよ!」

「嗚呼、坊ちゃま。家名に依らず身をお立てなさらんとの御気概……御立派でございます。このマーク、ご幼少のみぎりよりお仕えさせていただいております身として感涙の極み。ですが、この世は坊ちゃまが思われておられる以上に複雑怪奇、絶てぬ縁故が人を縛り付けているものなのでございます。ましてや坊ちゃまは、一族にとって唯一無二である直系の男子。御家にとってのみならず、この木星圏にとって大切な一粒種なのでございますよ。それがブラッディ・ティアーズのパイロットとして戦場に立つなど……今からでも遅くはありません。お屋敷へお戻りになられるわけには参りませんか。きっと奥様もお喜びに―――」

「帰れ!」

「そうは参りません。八方手を尽くしてようやくお傍へ返り咲くことが出来たのです。御安心ください。坊ちゃまの貞操とお背中は、この私が命に代えてもお守り致しますとも」

「だから、そういうのが嫌なのだって言っているでしょ! 僕の事は放っておいてよ!!」

「嗚呼!? どちらへ行かれるのです!? お一人は危険です。お待ちください」

 羞恥で真っ赤になった顔をそむけてエレベートが走り去ってゆく。そんなエレベートの姿に慌てて立ち上がり、一礼を残して走りだしたマークの背姿を、優人は呆然と見送るのだった。



 と―――。



 不意に視線を感じて右を見やる。すると、つぶらな碧眼とかち合った。

 マークと並んで控えていたもう一人の技術士官だ。襟元の徽章が示す階級は准尉―――下士官ではあるものの、左肩の歯車は黄金色であり、エレベートと同じく将来を嘱望された人材であることは疑いない。

「……エミリア・ブラッシャー准尉じゅんい、です」

 とつとつとした声音とともに敬礼をしてみせたのは、あどけない顔立ちの女性仕官だった。エレベートと同期生なのだろう。まだ真新しい軍服をどこか着心地悪げにまとっている。

「ブラッシャー……ひょっとして、マーク少尉の?」

「……妹です。残念ながら」

 返礼を返しながらの問いに、小さくエミリアが舌打ちする。「聞くなよ。クソが」舌打ちと一緒にそんな呟きも聞こえた気がしたが、きっと空耳なのだろう。

 言われて見れば、男女のためパッと見での印象はそれほど重ならないものの、金髪や目元など良く見れば確かにマークと似通う面影があった。

 女性にしては身長も高い。恐らくは170センチは超えているだろう。スレンダーな体型にショートボブの髪型、パンツルックの軍服姿と相まって、遠目には華奢な男性と見間違えてもおかしくは無い容姿だ。

「仕事はブラッディ・ティアーズの整備……っていうか、あのよくわかんない機体のデータとってこいって命令受けてま~す」

 斜に構えた少女の態度に、マークへのそれとは別の意味で鼻白む。

 だが悪印象は薄い。

 少女のようなあどけない顔、男性と見まがう高い身長、やさぐれた態度と、奇妙な三つが同居するアンバランスさのせいなのだろう。どこかコミカルで、憎めない雰囲気があるのだった。

「よくわからない機体……テンザネスの稼動データを、ということ?」

「仰る通りです。あと―――」

 「他に何があんだよ。カスが」そんな呟きが小さく吐き捨てられた気もするが無視する。

「南風隊長って呼びづらいんで、ユウトでいいですか?」

「あ、あぁ、かまわないよ」

「では、私もミリーでかまいません。姓名では兄とかぶりますので」

「わかった。じゃあミリー。これからよろしく頼むよ」

「了解しました。ユウト」

 差し出した手を小さく細い手が握り返す。

 優人の胸中を小さな自己嫌悪がよぎった。女性らしい手の華奢さに、先ほど見た夢の残滓が喚起されたのだ。

「じゃあ、また後で機体の様子を見に整備場へ寄らせてもらうよ。とりあえず僕はこれから管制室へ挨拶に―――って、ミリー?」

 バツの悪さに耐えかねて、他クルーへの挨拶回りを言い訳に立ち去ろうと引きかけた右手が再び掴まれた。女性とは思えぬ握力で、文字通りワシ掴まれた右手が引っ張り込まれてゆく。

 たたらを踏んで戸惑う優人を、ただならぬ緊張をたたえるミリーの一瞥が凍りつかせた。

「な、なにか?」

「動かないで」

 両手で指の一本一本を吟味するように眺め回すミリーの目は真剣の一言だ。

「凄い……何よ。この手。特に薬指の第二関節の長さと湾曲具合なんて、まるでブラッディ・ティアーズの操縦桿を操るためにあるみたいじゃない。チッ。んだよ。こんな右手とか反則じゃねぇか。チート野郎が。あ、まさか!?」

 勢い込んで今度は左手も掴み上げる。

「やっぱり……左手もだわ。指の長さと付け根の配置精度が信じられないレベル。なんか感動。こんな人がいるなんて……あ、でもこの人って次席だったって話よね。なら首席だった人はもっと凄いってこと? あぁ、もう! 母さんの馬鹿! なんでもう一年早く私を産んでくれなかったかなぁ。チッ。クソオヤジめ。仕込むのおせぇよ」

 自分の手と重ね合わせて見たり、一本一本の指をグイグイ動かしてみたり、最後には腰元のポーチから小型メジャーを取り出して寸法を計りだした。

「あ、あの……ちょっとミリー……さん?」

 感嘆とも文句ともつかない呟きとうなりをもらしながら、とうとう腕や脚にまでメジャーを這わせ始めたミリーに戸惑いを通り越して困惑を禁じえない。

「ユウト……」

「は、はい!?」

 両手で優人の右手をしっかと掴んだまま、胡乱な眼差しを向けてくるミリーに思わず声が裏返る。

「ユウトって……」

(なんだコレ。なんなんだ。この状況……)

 斜め45度の角度で斜に構えたまま、ねじり込むように見上げてくるミリーが放つ言い表しようのない迫力に優人は気圧されるばかりだった。

 凍りついた背筋を冷たい汗が伝い落ちてゆく。

 実戦経験さえ経たパイロットとしての危機回避本能が警鐘を鳴らしていた。これ以上この場に居てはならない。すぐに立ち去れ、と。

 だが両足が動かない。

 まるで蛇に睨まれた蛙のごとく硬直し、動くことを拒否していた。

 そんな優人の混乱を知ってか知らずか。

 文字通り相手を射殺すつもりなのではと思わされるほどの目力とともにミリーがゆっくりと口をひらいてゆく。

「……彼女います?」

 空白。

 その瞬間、音も景色も、時間さえもが刹那だけ文字通りのブランクと化した。

「…………え?」

 間の抜けた声が、まるで他人の口から出た言葉のように遠く感じる。

「彼女ですよ。恋人。LOVER。まさか言うに事欠いて2次元しか愛せないなんて馬鹿なこと言い出しませんよね」

 「さっさと答えろよ。このチェリーが」語尾を締めくくったと思しき幻聴を聞き流し、予想だにしない言葉を頭の中で反芻する中で優人は気づいた。

 胡乱なのではない。目つきが鋭いため見誤っていたが、単に上目遣いをしてきているだけだ。

 斜に構えているのでもない。単に恥じらって正対できないでいるのだ。

 目力と思っていたものは、凄まじく燃え上がった感情の熱だ。よくよく見れば頬がわずかに上気している。

 いったい何がどうしてそうなったのかサッパリ理解できないが、どうやら優人の何かが彼女の心の琴線を鳴らしてしまったらしい。

 カラカラに乾ききった口を懸命に動かし、ようやっと声を絞り出す。

「彼女は……いない」

 その言葉に、ミリーの顔が輝いた。

「でも、好きな女性は……いる」

 その言葉に、ミリーの顔は一変した。

「……なんて人?」

 失望、怒り、嫉妬、そんな仄暗い感情がない混ぜになった鬼女のような表情を一瞬だけのぞかせ、出会った直後のニュートラルな顔へ戻ったミリーが問うてくる。

「なんて人って言われても……士官学校の同期だよ」

「……名前は?」

 「教えなかったら殺す。隠したら殺す。誤魔化したら殺す。嘘ついたら殺す。惚気たら殺す。思い出語ったら殺す。照れたら殺す。誉めそやしても殺す。殺す殺す殺す殺す……」モゴモゴと口中で小さく繰り返される呪詛がかすかに漏れ聞こえてきている。

 返答に窮す中、優人の左腕でシール・ギアが電子音を上げた。

 見れば、ディスプレイにメールの着信を告げるメッセージが浮かんでいる。タッチパネルを操作して内容を見ると、第七ユニット管制室からの呼び出しを告げるものだった。

「あ……と、すまない。呼び出しだ。話は、また後で」

 これ幸いとミリーの手を引き剥がそうとする。だが、しっかと優人の手を掴んだ手は華奢な少女のそれとは思えない握力で離れなかった。

「ミリー?」

「…………」

 無言の眼差しが言外に告げている。「好きな女性の名は?」と。

 強引に振りほどこうと右腕に力を込めかけた所で、優人は動きを止めた。自身の右手を握って離さないミリーの手が小刻みに震えているのに気づいたのだ。

 伏せた目端がわずかに濡れている。頬も幾分か赤みを増したように思えた。

(そうか……自分の気持ちを伝えるって、怖いし凄いことなのだよな)

 胸裏で小さな痛みがうずく。

 ミリーの姿に、かつてかなわないことを知りながら告白した自身の姿が重なってみえたのだ。

「……ミユキだよ。ミユキ・ラベルダ。それが、僕の好きな女性の名前だ」

「ミユキ……」

 告げた名に首肯して、そのまま深く頭を垂れてしまったミリーの手から力が抜けてゆく。

「そ、それじゃ、僕は行くから」

 スルリと抜け離れた手でミリーの右肩を軽く叩いて、優人は踵を返した。

 謝罪の言葉が口をつきかけたものの、それは失礼な事かもしれないと飲み込み、足早に場を後にしてゆく。

 そうして、立ち去る背姿が廊下の彼方へと消えた後のことだった。

 薄暗い廊下に一人、残されたミリーがクツクツと含み笑いを漏らしながら顔を上げたのだ。

「……ちょろい。ちょろいねぇ。ありゃ、間違いなくチェリーだわ」

 自身の左手首にはめられたシール・ギアへ右手を伸ばす。

 タッチパネルを操作して表示させた画面には、ダウンロード完了とのメッセージが表示されていた。

「チッ。さすがにほとんどのデータは検閲済みか。ロクなデータが残ってねぇ」

 舌打ちと共に、自身のシール・ギアに仕込んでいたハッキングツールで優人のそれから盗んだデータを閲覧してゆく。

「お、これか」

 流し読みしてゆく中で、一つの画像ファイルに目が留まる。

 仕官学校時代のものなのだろう。紺を基調とした礼服に身を包んだ女性が笑っている。アナクロなフレームレスの眼鏡をかけた、たおやかな女性だ。

「ふむふむ。なるほどね。いかにも、女に幻想もったチェリーが好きそうなビッチだわ。媚び売りやがって。なに? この、か弱さ全開オーラ、鳥肌たつわぁ。こんなのが同期だったら確実に自殺するまでイジメちまいそう。つか、すっっっげぇ、虐めてぇぇぇぇぇ」

 冷たい眼差しで写真を見回し、舌打ちする。

「クソ兄貴も面倒くせぇ仕事振りやがって。ハニートラップなんざ人選ミスにも程があんだろ。あたしはただの整備屋で、スパイなんてガラじゃないってのに」

 先ほどまでの態度はどこへやら、渋面で更にデータを探ってゆく。

「まぁ、いいや。坊ちゃんを最前線に立たせるとか、あたしだって冗談じゃねぇしな。なんとか開戦前に後方へ召還されるネタを掴まないと……」





   七

 運命。

 そんな言葉は認めない。自身の生が、定まった結末へと続く一本のレールをたどるだけのものなどとは信じない。信じるわけにはいかない。

 そんなものを認めてしまったら、自身の意思も、選択も、積み重なる日々さえもが色あせてしまう。

 この胸に刻まれた裏切りの痛みさえもが、ただの記号となってしまう。

 だがしかし、宿命という言葉は認めたいと願う己がいる。

 これから赴く戦場で、宿命こそが自身と、あの裏切りの友とを再会させてくれるはずだと信じたいのだ。

 都合の良い話だろうか。

 運命は認めないくせに、自身が望む宿命は認めるなどという話は、だ。

 だが、運命を否定することと、宿命を受け入れることとは、同義であるとも思えるのだ。

 天災や死と同じく人間の力ではどうしようもない流れに行く末までも委ねられている運命ではなく、人と人との因果が織り成す応報の結末である宿命というものの隔たり故に。

 神の仕掛けが運命ならば、人の因果こそが宿命である。

 ならばそこには人の意思があり、選択があり、日々があるはずだ。

 思索と集中のため、閉じていた瞼を開けてゆく。

 瞑想を解いた双眸に映るのは、暗がりに浮かぶ水晶球のような三次元レーダーだった。

 ヘッドアップディスプレイの中央に据えられた三次元レーダーの左右には、搭乗した機体の簡易図が、前後両面それぞれ表示されている。宙空への投影式映像だ。同時に上方や左右にも、各種の情報やメッセージが浮かび上がっていた。

『新型コクピットとインターフェイスの具合はいかがですか?』

 身を沈めたシートのヘッドレスト右からミリーの声が響く。

 非常にクリアな音声だ。かすかな電子ノイズや変調すら混じらない音に、スピーカーや音声信号デコーダーなどといった機器性能の優秀さが感じられる。

 かつて乗った際のそれとは内装も、性能も大幅に違えたコクピットだというのに、奇妙な安心感があった。

 心地よいとさえ感じる疑問の答えは、決してシートの座り心地や整理されて開放感の増した空間だけでは無いのだろう。身になじむ空気の正体への疑問が頭に浮かぶが、この安心感の前では些細な事と思えて霧消してしまうのだった。

「問題ないよ。それにしても、この機体にここまで手を加えることが出来るなんて……こんな技術を軍はどうやって手に入れたんだろう」

『さぁ、あくまで私は供与されたユニットを組み付けただけですので』

 ミリーの返答は素っ気無い。

「いや、組み付けただけなんてとんでもないよ。この組み上がり精度は単なる据え付けの域を超えているもの。間違いなく君の技量だと思う。細かい箇所の調整や修正の相談をしていたのだって? センスがある良い技師だって、ルーク整備長が褒めていたよ」

『……それはどうも』 

 新型コクピットへの改装作業のため、立会いを求められてから一週間が経過している。

 当初こそ出会い頭の一件を警戒していたが、それ以降は一定の距離を置いたまま一貫して事務的な姿勢を崩さないミリーに胸中で胸をなでおろしていた。

『窮屈かと思われますが、あと2時間ほどは御辛抱ください。なにしろパイロット無しにはメンテナンスハッチのロックすら解放されない機体ですので』

 「んだよ。このクソ仕様」通信に混じる舌打ちと小声にも、さすがに慣れてきていた。どうやら言葉尻に小さく悪口を吐き捨てるのが彼女の悪癖らしい。

 幼い頃は違ったのにと、諦め顔でかぶりを振るエレベートとマークを思い出して口元が緩む。

『外部通信機器の接続テストが完了しました。次はファンクショントリガーのI/Oチェックを始めます。こちらの指示に沿って操作お願いできますか?』

「了解」

 再びの通信に返答し、左手に注力する。

 アームレストに設けられたカバーによって左手首から先が覆われていた。

 内部では五基のリング型スイッチに五指が通されており、この組み合わせによって、設定されている様々な機能や特殊動作を実行する仕組みだ。また、手首周りの固定具は生体センサーを内包しており、パイロットの生体情報を機体へフィードバックする機能を有していた。

 正面のヘッドアップディスプレイに表示された指示に従ってファンクショントリガーを操作してゆく。

『ユウト。一つ、よろしいですか?』

「?」

 1000項目近いチェック内容の2/3を消化した頃の事だった。淡々と作業を続けていたミリーが、ふいに語り掛けてきたのだ。

『兄から聞きました。貴方は本当なら中隊規模の首都防衛部隊を率いる要請を受けていたと。この部隊も、それを断って強硬に最前線を希望する貴方のため編制されたのだとも聞いています。何故なのです? まさか噂の通り、裏切者を探して仇討ちをするつもりなのですか?』

「……直球だね」

『私、人間関係の駆け引きや遠慮って嫌いなのです。時間の無駄ですし』

「時間の無駄、か」

『ええ。無駄です。だって、結果は同じなのですから。わざわざ遠回りする意味がわかりません』

 「だからさっさと答えろっつってんだろ。グズが」吐き捨てに嘆息し、優人は顔を上げた。

 すぐ傍の宙空をぼんやりと見つめ、思い浮かべた幾つかの顔に思いをはせる。

「別に仇討ちなんて考えていやしないよ。それこそ意味の無い事だしね」

『アンディ・ハレーを憎んではいない、と?」

「うん。憎いとか、恨めしいとかは無い……かな」

 ミリーからは見えていないことを承知で首肯する。嘘では無かった。宿命による引き合わせを信じてはいても、それは恨みや憎しみといった感情の果てではないと信じているからだ。

 だが気配は伝わったのだろう。

『なら、どうして』

「随分と食い下がるね」

 意外な反応に、思わず苦笑が漏れる。

 まだ出会ってから短いが、これまでの付き合いでミリーが他人や通俗的なゴシップへの興味が薄い人間であることを感じていたからだ。

『当然でしょう。自分の命にも関わることですから。指揮官が復讐鬼や戦闘狂だなんて冗談ではありません』

 こらえきれず、声を上げて優人は笑っていた。

 心底可笑しげな声音に、通信機ごしでも憮然としたミリーの顔が見える気がしてしまう。

「本当に正直だね。君は」

 通信機から息を飲む気配が伝わってくる。

「そんなに正直だと、いっそ可愛いよ。良い意味で裏表がなさそうでさ。なんだか安心した。ミリーになら、信頼して機体を任せられそうだ」

 他意なく口にした言葉への返事は、通信機越しの舌打ち一つだった。

 能天気に馬鹿なことを口走った男に呆れているのだろう。そんな自嘲で肩をすくめ、新たな確認指示に従ってファンクショントリガーのスイッチを一つ操作する。

「自分でも、わかってはいるのだよね」

 堅い操作音を重ねながら、かつての日々に思いをはせる。

「たぶん僕は、英雄にはなれない。少なくとも、皆が期待している英雄―――クロモ・ドカトみたいには、ね」

 仲間がいて、師がいて、おぼろげだけれど確かな道筋を歩んでいる安心感がある、そんな日々だった。

「それでも、“死んだ英雄の後継”っていう役回りを受け入れたのは、見極めたいと思ったからなんだよ」

 だがしかし、その日々はもう戻らない。あの安寧にも似た日々は、無慈悲なまでの死と裏切りよって踏みにじられてしまった。

「ミリー。僕はね。運命っていう言葉が嫌いなんだ。自分を翻弄する現実を無条件に受け入れるのが嫌なんだよ。理由が欲しい。この理不尽が、どんな因果によって導かれ、どんな理由で――いや、感情によって引き起こされたものなのか。それを知りたいんだ」

『……それを、アンディ・ハレーに問いただす、と?』

「そうじゃない。もっと奥深くに隠れているモノへ、さ。勿論、裏切った理由を知りたいとは思うけれど、それ自体にあまり意味は無いと思っているんだ。たぶん、あいつも大きな流れに取り込まれた一人だろうからね」

『……ユウト。私には、あなたが何を言っているのかが理解できません。あなたは一体、この先の戦場で何をしようというのですか?』

 困惑のためか、常の悪口すら忘れた様子のミリーに苦笑して、優人は右手を正面ヘッドアップディスプレイ下部にあるキースイッチをひねった。警告音とともにヘッドアップディスプレイを初めとした機器が上下左右へと収納されてゆく。

 同時にエアロックが解除され、正面のハッチが展開を始めた。風船の空気が抜けてゆく音に似た音が響く。

 外から吹き込んだ風が、優人の前髪を揺らし頬を冷やした。頬を多重の防護パネルとシャッターが開くことにより出来た隙間から、外気との気圧差で空気が行き交っているのだ。

 展開してゆくハッチの向こう側で、機体調整用の携帯端末を手にしたミリーが驚いた顔を向けてきている。先日の制服ではなく、草色の作業ツナギ姿だ。以前から愛用しているものなのだろう。着古し、幾度にもわたって洗い込まれた感のある作業着のいたる箇所には、取れない油汚れやペンキ、繕い跡が無数に見える。

「……まだテストは終わっていませんが?」

 作業帽をかぶり直しながらインカムを外し、ため息混じりに問うミリーへ肩をすくめて左手のカバーも開放する。

 ファンクショントリガーから左手を抜いて固定具を外すと、優人はコクピットから身を乗り出した。

「通信機越しで言うことじゃないからね」

 ミリーへと正対し、自嘲気味に笑う。

「ミリー。僕は、英雄の道を往く。僕が目指す全ての答えにたどり着くために。そのために、この戦いを僕の英雄譚にすると決めたんだ」

 固い決意を湛えた双眸が静かにミリーを映している。黒い瞳に映る自身は、ひどく驚いた顔をしていた。

「……なぜ、私にそんな話まで? 私はただの整備士ですよ」

「僕にとって、こんな話が出来るのは君だけだからだよ」

「!?」

 戸惑いながらの言葉への返しは即座だった。

「英雄には一人じゃなれない。一緒に戦い、共に歩んでくれる仲間が要る。支えてくれる人が要る。この背中を預ける以上、僕は無二の信頼を結ぶべきだと思っている」

「信頼……そんな、まだ出会って何日だと思って……」

「出会って何日か。なんて数字に意味は無いよ。肝心なのは、どれだけ相手を必要だと思えるかだと思わないかな?」

「私だけ……必要……無二……そんなにまで?」

 硬い表情で発された呟きに、力強く優人が首肯する。物静かで穏やかな彼らしからぬ所作だったが、それだけに彼の決意の強さが痛いほど伝わってきていた。

「だから―――」

「少し!!」

 ハッチに足をかけて半歩を踏み出し、尚も言い募ろうとした言葉をミリーの声音が遮った。

 右手で携帯端末を抱きしめたまま左手のひらを前へ突き出して距離を取る。うつむいた顔には作業帽と前髪の影が濃く降りており、表情を隠していた。

「ミリー?」

「少し……考えさせて……くださ…い……」

 言い捨てるや否や、踵を返して足早に駆けてゆく。

「え? あ、ちょっと!?」

 突然のことに驚いてかけた優人の制止も届かない。脱兎のごとく整備橋から身を躍らせ、半重力の宙を滑るように整備場へと降り立っては走り去ってゆく。

 その姿を呆気にとられた表情で見つめながら、ポツリと優人は呟いた。

「……だから、エレベートにマークと仲直りするよう伝えて欲しかったんだ……けれ…ど……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る