終章 現実と幻想

 昏睡こんすいの中でオトが見る夢は、いつも一面の白だった。

 幾重いくえにも折り重なった光のカーテンが織り成す真っ白な輝きに溶け込んで、自我さえも希薄な白の中にオトは居るのだ。

 漂っているのか。それとも立ち尽くしているのか。

 どちらでもあり、どちらでもない不思議な感覚だが恐怖は無い。

 まるでそれが自然な事であるかのようにただ、ひたすら光となって無上の幸福感に身をゆだね続けていた。

 

 と―――。


 白の世界に鈴の音が鳴り響いた。

 母親の形見だからと、外出する際には必ずお守りとして身につけさせられている鈴の音だ。

 正直なところ、動くたびに鳴って煩わしいのであまり好きではないのだが、着けているとオービットが嬉しそうな顔をするので仕方なく受け入れている。

 名前どころか顔も知らない母親よりも、今はオービットの大きな手がオトにとってぬくもりの象徴なのだった。

 鈴の音が一つ鳴るたびに、そうした記憶や気持ちが輪郭を取り戻してゆく。

 曖昧だった自我と記憶がレンズの焦点を合わせるように明瞭さを持つのと引き換えに、世界を覆いつくしていた光のカーテンが一枚、また一枚と消え始めていた。

 目覚めの兆候だ。

 こうして全ての光が音色に駆逐されきったときこそが、長い眠りからオトが目を覚ます瞬間なのだった。

 白が取り払われ、無窮むきゅうの世界に立ち尽くす自身を自覚した途端、オトは意識を取り戻した。

「………」

 真っ白な天井で、埋め込み式の照明が真白い蛍光を投げかけてきている。

 もはや見慣れた病室の風景だ。

 戦艦ジャスティス・コードの士官用特別医療室のベッドにオトは横たわっている。視界の左端に、点滴のパックがあった。左腕を挙げると案の定、チューブと針が刺さっている。これも慣れた光景だ。

 全ては、いつもの通り。

 そんな感慨を抱きながら、首だけ回して左を見る。人がいる気配はすでに察していた。恐らくは―――否、間違いなくオービットだろう。兄のような父のような、時おり母親のような青年の心配顔を想像して少し笑う。

 いつもそうなのだ。

 目覚めたオトの傍らには必ずオービットがいて、心配そうな顔で見守ってくれている。

 そして目覚めた事に気づくや否や質問攻めにするのだ。

 どこか痛くはないか?

 苦しくはないか?

 おなかはすいていないか?

 最初の一つに首を振り、次の一つにも首を振り、最後の一つで首肯する。

 そうするときまって、深い安堵の吐息とともに破顔し、とっておきの御菓子を出してくれるのだ。

 お疲れ様。オト。

 そう言ってクシャクシャと頭を撫でてくれる大きな手のぬくもりが、ただただ嬉しい。

 それだけで全てに満足できたし、どんな苦しみも、怖さも許すことができた。

 いま現在を幸せと思えたし、その幸せが明日もまた続くことを信じられた。

 だから嘘なのだ。

 包帯だらけの姿でポロポロと涙をこぼしている紡は幻なのだ。

 だというのに……。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね……」

 泣きじゃくりながら、ただそれだけを繰り返す紡の幻が消えてくれない。

 嘘なのだ。

 そんなことは、ありえないのだ。

 目覚めたオトのかたわらにいるのは紡ではなくオービットでなければいけないのだ。

 身を起こし、部屋を見回す。

 どこに隠れているのだろう。この間、ピーマンを食べ残した事を怒っているのだろうか。

 謝らなきゃ。

 毛布を跳ね除けベッドから飛び降りる。紡が静止する声が聞こえたような気がするがかまうものか。うっとおしい点滴を引き抜いて放り捨て、スリッパをつっかけて走り出す。

 居場所はわかっている。きっと格納庫だ。オーシャンを起こすといつもダークネスはボロボロになってしまうから、オトが目覚めるとオービットは格納庫へこもりがちになってしまうのだ。

 懸命に走る。

 巨人のような大人たちと幾人もすれ違い、怪訝に振り返られながら走り続けてゆく。

 心臓は早鐘のように鳴り、びっしょりと汗をかいた手足は疲労で震え始めている。いや、これは本当に疲労からくる震えなのだろうか。そうだとするのなら、どうしてこんなにも冷たいのだろう。どうして歯がガチガチと鳴ってしまうのだろう。どうして、こんなにも怖い気持ちになるのだろう。

 無形の恐怖に後押され、それでも走り続けるには幼すぎる自身を悔しく思いながら、我が身をひきずるようにして歩み入った格納庫にそれはあった。

 ひゅっ、と。

 飲んだ息の音が奇妙なほど大きく耳朶を打つ。

 喧々、轟々、行き交う資材と人間と怒号の中心にダークネスがあった。

 四肢を失い、チェーンで吊り下げられた機体の胸部から目が離せない。

 嘘だ……。

 呆然と立ち尽くすオトの姿に、気づいた整備班の人間たちが駆け寄ってくる。だが、顔なじみなはずの彼らの顔と名前が何一つ思い出せなかった。

 左目が痛い。

 いっぱいに開いたまま閉じてくれない左目が、嘘を映したまま涙で滲んでいた。

 嘘が消えない。消えてくれない。こんなことは嘘なのに。こんなことはありえないのに。

「オトちゃん!」

 か細い両腕が、後ろからオトを抱きすくめた。

 その腕の柔らかさが、温かさが、震えが、か細い否定を打ち砕き、眼前の光景を現実に固定してしまう。

 ダークネスの胸郭部。

 深奥にコクピットを内包した胸郭部。

 オービットがいるはずの―――いなければならないはずのそこには、ただ破壊しつくされたうろだけがあった。

 悲鳴が格納庫の喧騒を切り裂いて響き渡る。

 言葉にならない悲鳴が響き渡る。

 いつまでも。

 いつまでも……。


 

   *   *   *   *   *



 涙が流れて落ちている。

 とめどなく、落ちている。


 涙がこぼれ落ちている。

 とめどなく、落ちている。


 涙があふれて落ちている。

 とめどなく、落ちている。


 とめどなく。

 とめどなく。


 哀しくて。

 苦しくて。


 寂しくて。

 心細くて――――――。




     『幻想機マイセルフⅡ』    -Finー

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