第六章 異彩の炎機

   一

 ダークネスの全身を炎が包み込んでゆく。

 リンを思わせる緑がかった青い炎だ。

 炎がはらむ凄まじい熱量によって、機体を拘束していた艦艇の残骸がみるみる融解し、燃え尽きてゆき始めた。

 残骸とはいえ強靭な耐熱耐衝撃素材で構成されている艦艇のそれを融解せしめるほどの熱量を、たった一機の戦闘機が放ち続けるなど常識ではありえない。ましてや、それを成しているダークネスは現在、左腕を失うほどの深刻なダメージを負っているのだ。

 その様相を前に、テンザネスがアサルトライフルを右の長盾裏のマウント部へ戻した。顔面のセンサースリットがまたたき、眼前で展開している不可解な現状を解析してゆく。

 そのセンサーが捉えていた。

 機体が燃えているのではない。機体の前面に施された青い装甲部位が、備えたSST機能を暴走させているのだ。通常ではありえないほどの高出力で展開された空間破砕力場によって空間を構成する素粒子そのものが分解され、宙空を漂うガスの電離と相まって炎に似た様相のプラズマを発生させ続けている。

 中央製とはいえ、幻想機でもないダークネスに成しうるはずのない芸当だった。だが現実にダークネスはプラズマの炎を身にまとい、放つ圧倒的な精神感応波でテンザネスの攻撃行動を牽制し続けている。

 テンザネスのヘッドアップディスプレイの表示するFRE反応数値が表示上限でカウントストップしてしまっていた。人体が耐えうる想定限界値を遥かに超えた数値によって信号が飽和してしまったのだろう。

 機体が打ち震えている。

 テンザネスの中に在るモノが、自身との同質存在と共振し、その真価を発揮させかけているのだ。

 だがシステムを通じてパイロットが感じる共振源は眼前のダークネスではなかった。もっと別の方位、違う場所に在るモノとの共振なのだと機体が訴えてきている。不可解だが、ダークネスの変貌はそのモノの介入が引き起こした副産物なのだということも。


 だとするのなら――。


 ワン・ハンズ基地へとこうべを巡らせ、テンザネスがセンサーの瞳光をそちらへ振り向けた瞬間にそれは起こった。

 戦艦ジャスティス・コードが滞空する直下近傍の基地施設が吹き飛び、火柱が吹き上がったのだ。

 ダークネスと同じ、緑がかった燐のような青い炎は勢いを増し、放射状に地表を砕き散らしてゆく。

 ゆっくりと、裂けた小惑星の大地から巨影がせり上がりだした。

 青き炎を身にまとい、眩い閃熱でシルエットをおぼろげに崩した龍のような影が、その長大な蛇身をくねらせながら宙へと駆け上がってゆく。


『オービット!!』


 声が宙に響き渡った。

 肉声ではない。だがそれを受ける者にとっては肉声に等しいはっきりと輪郭を持った思惟が、ワン・ハンズ基地を中心にした半径100kmの空間に響き渡ったのだ。


『オービット!!』


 全ての人間がそれを耳にした。

 テレパシストも、それでない者も、その瞬間に発されたそれを確かに“声”として聞き取っていた。


『オービット!!』


 少女の声音だった。

 過ぎるほどに幼い、舌足らずな少女の声音だった。


『オービット!!』


 泣きじゃくり、嗚咽を漏らしながら、ひたすらに大切な人の名前を呼ぶ少女の声音が虚空でこだまし続けている。

 その発生源たる炎の龍は一直線に虚空を駆け抜けると、テンザネスとダークネスの間に割って入った。大きく飛びのいたテンザネスを威嚇するように、深紅に燃える三つの火球で出来た眼がまたたく。

 動きを止め、たどる軌跡の炎が消えてゆくにしたがって、それは全容を明らかにし始めた。

 ワン・ハンズ基地の地表から伸びる炎の蛇身が消えてゆく。長大な姿は、暗黒の中を動く炎の残り火が見せた残像だったのだろう。そうして残されたのは、鮫や鯱を思わせる魚類に似た全長40メートルにも及ぶ巨躯だった。

 照り返しなのか、それともそれ自体がそうなのか。全身を包む装甲が、噴き放つ炎と同じ青緑に輝いている。尾びれと見まがう形状のアクティブ・スラスターをそなえ、バランサーと思しき大小の噴射ノズルを備えた可動式の尾翼が各所からひれのように生え伸びていた。

 背びれのように折りたたまれていた翼が開いてゆく。

 全幅100メートルにも達する厚くも広い翼は、放熱板であるのと同時に骨組みの形で無数のレーザー砲塔を内包した対空防御機構―――ビーム・ファランクス・システムだ。

 大きく広がり形成された翼によって、魚から天かける猛禽へとシルエットを転じた両脇で、複雑なパネルラインを持つ装甲部が展開した。その下から鉤爪の五指を持つ蟹の前足のような右腕と、五つの砲塔を備えた多関節式の左腕があらわれてゆく。右腕の鉤爪が高周波振動によって白熱し、左腕が砲塔の一つをテンザネスへと振り向けた。


『おまえなんか嫌い! 嫌い! 嫌い! 大っ嫌い!!』

 

 砲火が連続し、放たれた三つの砲弾がテンザネスへと達する寸前で鳳仙花のように爆ぜた。

 内部に炸薬と飛散物を内包した榴弾だったのだろう。飛散する無数の細かな弾体が雨あられのようにテンザネスへ殺到してゆく。

 テンザネスの両腕で長盾が、そのSST機能を起動させた。

 上腕と連結していた盾の懸架機構が分離し、両肩後ろ付近を基部とするサブアームの姿をあらわしてゆく。そうして機体の前面へと振りかざされた盾が、迫る小弾体すべてを砕き散らしていった。

 眼前に浮かぶ盾の裏からテンザネスがアサルトライフルを取り出し、盾の隙間からオーシャンを銃撃した。

 だがそのことごとくは、オーシャンの全身を包む炎によって瞬く間に蒸発させられてゆく。


『消えちゃえ! 消えちゃえ! 消えちゃえ!!』


 ひたすらに榴弾をバラ撒き、テンザネスを遠ざけようとするオーシャン―――だが不自然なほどその動きは精彩を欠いていた。

 砲撃を一つするたびに反動で機体は大きくバランスを崩し、それを補正しようと各所でバランサーが噴射炎を連続させているのだ。しかも調整不備なのか完全にはバランスを補正しきれておらず、ふらふらと落ち着かない姿勢で放たれた砲弾は完全に射線を外してしまっている。

 撃ち放つのが榴弾でなければ、回避すら必要なしにテンザネスの接近を許してしまっていたことだろう。

 そんなオーシャンの背後で、残骸を焼き飛ばして脱出したダークネスが背部推進機を噴かせた。


『オービット!』


 再びの呼び声にしかしダークネスは通信を返す事のないままオーシャンの背後へと接近してゆく。

 そうしてファランクス・システムの基部中央へと達すると一転し、オーシャンと背中合わせになったダークネスが全身を打ち震わせた。

 左肩で小爆発が起こり、損傷著しい左腕が肩口から切り離されてゆく。同時に無事な右腕と両脚が折りたたまれつつ一部を展開させ、後方へと接続ジョイントを露出させた。

 小翼のような背部推進機も変形し、並び揃えられるのと同時にオーシャンへと接近してゆく。

 ビーム・ファランクス・システム中央部にぽっかり空いた空隙があった。

 本来あるべきものを欠いたといった風情の空隙だ。

 その空隙へと変形したダークネスが吸い込まれ、空隙の底が備えた連結機構とダークネスのそれとが噛み合い、連動して埋めてゆく。空隙周辺の装甲とダークネスの装甲が変形しつつ展開し、その姿を炎の刻印じみたオーシャンの一部へと一体化させていった。

 刻印が輝く。

 現存するどんな文字や記号にも無い、だが確実に何かを意味していると思わせる姿の刻印だ。

 無機的な幾何学と、有機的な象形の両方の要素を兼ね備えた刻印の意味を、かつてオーシャン建造に関わった科学者たちは“海の紋章”と開発記録に遺している。

 その途端、オーシャンの動きが変わった。

 まるで不安定だった機体が静定し、放ち続ける砲火の射線がテンザネスへと定まりだしたのだ。

 ビーム・ファランクス・システムが完全起動し、備えた無数のレーザー砲塔をテンザネスへと振り向けてゆく。


『許さない!』


 凄まじい数の光条がテンザネスへと放たれた。





   二

 風音が耳朶を叩いている。

 断崖の海風にも似た猛風が荒れ狂う音だ。

(あぁ、またこの夢か……)

 聞き覚えのある音に心中で呟きながら、ゆっくりと目を開けてゆく。

 予想は違わず、眼前に広がる光景はオービットにとって、もはや見馴れた情景となりつつある過去の景色だった。

「また……止められなかったんだな。俺は……」

 青みがかった緑の炎が景色の全てを埋め尽くしている。

 オービットの背丈を優に超し、星々が煌めく夜天にまで届かんばかりに逆巻きながら、炎が燃え盛っているのだ。

 そんな夜空に地球が浮かんでいる。

 月から見る地球は大きく、地球から見る月の軽く四倍はあるサイズだ。

 どこまでも青い輝きに右手を伸ばし、握り込む。虚空を掴んだ手の空虚と、全てを内包した生命の宝石を見比べて、奇妙な寂しさをオービットは胸に覚えた。例えるのならば、幼い時分に母とつないでいた手が外れてしまった際に覚えた喪失感だろうか。そんな埒も無い考えにかぶりを振って、燃える景色へとオービットは目を戻してゆく。

 これが幾度となく見た追憶であるのならば、開幕までそう時間は無いはずだった。


 と―――。


 逆巻く炎が竜巻のように渦巻き、轟音を上げて四散した。

 同時に人いきれと喧騒がオービットを包み込む。

 パイロットスーツ姿ではなく、かつての場に合わせた牧師服姿だった。首元には捨て去ったはずのロザリオが掛け飾られ、たすき掛けに掛けた聖書の入った鞄の重みが左肩へのしかかっている。

 周囲は無数に居並ぶコンピューター機器と、それとほぼ同数の白衣をまとった使用者たちで埋め尽くされている。振り返った高台の指揮所には、枯れ木のような細い身体に白衣をまとった数人の老人たちが、狼狽した様子で何かを叫び続けていた。

 情景に感化された意識と感性が、オービットの思考を過去へと巻き戻してゆく。

 まだ何も知らなかったあの頃へ。

 何も知らされぬまま、その光景を目の当たりにさせられたあの時間へと。

 恐怖が心臓を鷲掴み、噴きだした冷たい汗が震えとなってオービットを凍えさせてゆく。

 おそるおそる顔を上げ、見開いた視線の先には、視界を埋め尽くすほど巨大な画面があった。

 映画館のそれを思わせる巨大なモニター画面が、紅蓮の炎で埋め尽くされている。猛火の隙間から途切れ途切れに覗く景色には、施設の残骸や壊れ落ちた重機械、炭化し原形を失いかけた無数の躯が混じっている。

 まるで煉獄だった。

 紅蓮の猛火が全てを焼き尽くし、逆巻く炎で全てを飲み込まんとしているのだ。

 炎がはらむ凄まじい熱量を物語るかのように、みるみる骸は炭となって散り、金属は溶けて赤熱しながら燃えてゆく。

 その只中で、シルエットを重ねる二つの人型があった。

 炎の中にあってさえ尚も際立つ、紅蓮と黄金の炎をまとったブラッディ・ティアーズたちだ。

 テンザネス。そしてフューリー。

 後に知らされた二つの機体名が脳裏をよぎる。

 背に巨大な涙滴型推進機を三基そなえた機体―――フューリーの各関節が火花を上げ出した。加わった凄まじい負荷と熱に、機械駆動系が限界を迎えたのだ。装甲を包み込む炎が見る間に勢いを無くし、力尽きたように膝を落としてゆく。

 そんなフューリーを正対するテンザネスの右手が、センサースリットの光芒を薄れさせてゆくフューリーの顔面を掴んだ。同時に左腕の長盾が砕け散り、粉々となって足元へ落ちてゆく。

 そうしてあらわとなったのは、フューリーの右腕と、それが備えた幅広の高周波ブレードに貫かれたテンザネスの胸郭だった。

「****!!!!」

 オービットの口が、悲鳴混じりの絶叫を上げる。感情が極まりすぎて言葉にならない絶望の悲鳴だ。

「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!!」

 涙で滲む視界の光景をひたすらに拒絶しながら走りだす。

 邪魔な者を突き飛ばし、命より大切なはずの聖書を投げ捨てて駆け寄った画面の中で、テンザネスが左手をフューリーの左腕へかけた。

 関節から火花と軋みを上げながらテンザネスの両腕がフューリーを押しやり、それにつれて胸郭を貫いて背にまで抜けた剣が引き抜かれてゆく。

 そうして完全に剣が引き抜かれたのと同時に両者は力尽き、まとう炎を消失させた。

 ゆっくりと、まるで鏡映しのように傾いだ二つの機体が倒れてゆく。その最中に、顔面のセンサースリットを埋め尽くしていた赤い輝きが消え失せ、炎の色に染まっていた全身の装甲が青いサファイアブルーの輝きを取り戻していった。

 火の子混じりの粉塵が巻き起こる。

 仰向けに倒れた両機の伸ばされたままの腕はまるで、救いを求めて伸ばされた神への求め手のようにオービットの目に映った。

 いまだ収まらぬ炎獄の炎が、停止した二機を焼き焦がしてゆく。

 その光景を前に茫然と立ち尽くすオービットの後ろで、騒々しさが増してゆく。消火急げを、救助隊はまだか、機体の回収を、口々に叫ばれるどんな言葉も耳に貼らぬまま立ち尽くすオービットの右手を熱い血が伝い落ちた。

 無意識に右手がロザリオを握りしめていたのだ。

 祈りなど何の助けにもならないことを知りながら、神にすがる他にすべを持たない己がただただ悔しかった。

 燃えてゆく世界。

 焼かれてゆく機体。

 喪失感に打ちひしがれたままオービットは、画面の中のテンザネスを見つめ続けていた。

「!?」

 驚愕にオービットの目が見開かれた。

 力尽きたと思われていたテンザネスが身じろぎを始めたのだ。

 震える右腕が穴の開いた自身の胸郭へと突き込まれ、ゆっくりと引き抜かれてゆく。

 そうして再び頭上へと差し上げられた右手が五指を開きだした。

 右手の周囲の空間が揺らいでいる。全身にくまなく装甲されたSST装甲の中で、指の甲部のみを起動させているのだ。それにより、微弱ながら手の内側に外界から隔絶された力場を球状に形成しているのだろう。

 炎から少しでも遠ざけようと、右手を差し上げた姿勢でテンザネスが機能を停止してゆく。

 観測官の誰かによるものだろう。画面がクローズアップされ、テンザネスの右手付近が拡大されてゆく。

 その右手が掲げるモノの姿に、居合わせた全ての人間が息を飲んだ。

 女だった。

 膝元までもあるぬばたまの黒髪を裸身に絡めた妙齢の女性が、テンザネスの掌中で横たわっていたのだ。それだけではない。女性の腹部は大きく膨れ上がり、臨月の様相を見せている。だがその腹部には細い鉄骨が深々と突き刺さり、胎児の安否は絶望的な様子だった。女性自身も全身に無数の裂傷を負っており、遠目にも失血によるショック症状を起こしかけているのは明らかだった。

 まなじりが震え、わずかに開いたまぶたの隙間から、髪と同じ漆黒の瞳が炎を照り返して輝く。

 自身を映すモニターカメラの存在を知ってか知らずか。まっすぐに画面を見返す口元が何かを呟いていた。その意味を何故か察せて。それが最後の言葉なのだと理解して。無意識に一歩、二歩と、画面へと歩み寄るオービットは叫んでいた。

 右手を伸ばし、溢れる涙で頬を濡らしながら叫んでいた。

「姉さん!!」



   *   *   *   *   *



「姉さん!!」

 湧き上がる感情が吐露させた自身の叫び声に、オービットは我を取り戻した。

 荒い呼吸を繰り返す最中、ヘッドアップディスプレイに表示された“エンパス・システム”のメッセージに全てを理解する。

「……そうか…またシステム…に……意識をもっていかれていた…か……」

 発動したシステムの余波により、一時的に意識を奪われていた間の夢を思い返すと、ひどい吐き気がオービットへ襲いかかってきた。しかしオービットは寸前でそれを飲み下すと、焼けついた喉の痛みに顔をしかめながらヘッドアップディスプレイへと右手を伸ばした。

「オト?」

 耳をつんざくような騒音にも似た思惟がオービットの脳を揺さぶった。肉声と感じられる程の明瞭な思惟は、オーシャンによって増幅されたオトのそれだ。

「この振動と圧迫感……すでにドッキングまで果たしているのか?」

 ヘッドアップディスプレイの右脇のカバーパネルを開き、内部に隠されていたレバーを捻る。ヘッドアップディスプレイの画面部分が反転し、その裏に隠されていたもう一つのディスプレイがあらわとなった。

「いったいどういうことなんだ。キーパーツであるヴィクティムを積んでいるダークネスが無ければ、システムは発動できないはずじゃなかったのか?」

 機体制御とは完全に独立したシステムコンピューターを起動し、機体ステータスと動作ログから現状を推測してゆく。そうしている間にも、オトが発する悲鳴のような思惟が走り、砲撃の反動と思しき振動が幾度も機体を揺るがせる。

(焦るな。ここで俺がミスを犯せばオトと紡は助からない)

 胸中に沸き起こる焦燥感を噛み下し、ひたすらにログデータを読み進めていくことでようやく、オービットは事態を察した。

「なにかがあるはずだ。この事態を説明できる糸口が……」

 エンパス・システムとは、機体に埋め込まれたブラックボックスとヴィクティム、それにパイロットの感情を共振させることで超常の出力と現象を引き起こすシステムだ。

 だが暴走による危険を憂慮いたザ・ゲイトは、システムを御する安全措置としてオーシャンから機体の制御コンピューターであるヴィクティムを外付け化されている。ヴィクティムを掌握し、いざともなれば機体から切り離すことでエンパス・システムを実効支配する鍵として建造された機体こそがダークネスなのだ。

 だが、そんな人の英知を嘲笑うかのように起動したシステムは現在、ありうべからざる形でエンパス・システムの発現を成し遂げてしまっている。

「そういうことか。ありえない事だが、結果と過程を入れ換えることで無理やりにエンパス・システムを……あの馬鹿娘たちめ。無茶苦茶しやがる……」

 そうしてようやく行き着いた結論に絶句する。

 方法は見当もつかないが、オトたちは直接的にオーシャンのブラックボックスと共振することで、強制的にエンパス・システムを発現させたのだ。それによって、“ダークネスが組み込まれていなければシステムは起動できない”という事象の矛盾を解消するため、自発的にオーシャンはダークネスを取り込んだのだろう。

 恐らくはオービットの危機を知った二人が直感的にとった危機回避行動なのであろうが、それならばこの状況にも説明がつく。

「だがまずい。このままではオトが危ない……」

 全てを理解したオービットの顔から血の気が引いてゆく。ある意味、状況は好転どころか最悪な方向へ向かいつつあった。

 本来はダークネスによって制御されるはずのシステムまでもが反転し、オトただ一人の感情に機体全体が振り回されてしまっているのだ。

 FREによる精神制御がかかっているとはいえ、戦場で受ける敵意や殺意になど物心ついたばかりの子供の精神が耐えられえるものではない。今は極度の興奮が感覚を麻痺させているが、いくばくもたたず己を取り戻してしまうだろう。そうなれば……。

「紡! 俺だ! オービットだ!! すぐにシステムを停止させろ! さもなくばコックピットを叩き壊せ!!」

 機内通信に怒鳴ってはみるものの、返事が無い。この様子では紡もシステムに取り込まれ、先ほどまでのオービットと同様に意識不明となっている可能性が高い。

「……」

 シート左脇からキーボードを取り出し、ダークネスの強制切り離しコマンドを送信する。だが応答が無い。機体の制御どころか機器や回線のことごとくがエンパス・システムに掌握されてしまっていた。

「くそっ。駄目か」

 オービットの考えが正しければ、今のオーシャンは戦い方を知らない子供そのものだ。テンザネスを相手にするどころか、通常機が相手でも不覚を取りかねない。オトの精神が壊れるのが先か、オーシャンがテンザネスに破壊されるかの最悪な両天秤だった。

「……迷っている暇は無い、か」





   三

 荷電粒子の閃光がオーシャンを直撃した。

 飛び交う榴弾の雨をかいくぐりながら撃ち放たれたテンザネスの一撃だ。

 だがオーシャンを包むプラズマの緑炎は、迫る閃光をものともせずに砕き散らすと、おかえしとばかりに左腕砲塔の一つを振り向け、テンザネスへと砲口を定めてゆく。電荷の火花が砲口へ収束し、荷電粒子の雷がテンザネスへと奔った。

 巨躯に相応しい、テンザネスのそれに倍する口径の砲から放たれたビームはしかし、変形とともに急上昇を見せた敵機に回避され、虚空を刹那、断つのみで終わってしまう。

 再び変形し人型を取り戻したテンザネスが、オーシャンを見降ろしたまま動きを止めた。

 それを好機と、左腕の砲口全てを振り向けようとしたオーシャンの動きもまた、止まる。正確には、歯車に異物が入り込んだ機械人形差ながらに動きを鈍らせたのだ。

 突如、我が身に起こった不調に困惑の思念を発しながらもがくオーシャンを睥睨し、テンザネスが顔面のセンサースリットを輝かせる。

 内包した機器の動作光が漏れだしているにすぎなかったはずのスリットが、真っ白な輝きで満たされていた。

 両腕が備える二枚の長盾の表面を黄金色の亀裂が走ってゆく。正確には、微細な装甲片の集積で形成されている盾の合わせ目から、黄金色の燐光が漏れ出しているのだ。


『ぎゃうううううぅぅぅぅぅ!!!!』


 オトの苦鳴が思惟となって響き渡る。

 同時にオーシャンを包み込む炎も活性が低下し、炎によっておぼろだった本体のシルエットが露出しはじめていた。


『やだ……やだやだやだ……や……』


 肉声に等しい明瞭さを持っていたオトの思惟が輪郭を崩してゆく。それはエンパス・システムの弱体化を意味していた。


『痛い……痛いよ……』


 か細い泣き声がしりすぼんでゆく。


『助けて……』


 震えるオーシャンが右腕を伸ばした。テンザネスへではない。虚空へ無意識に伸ばされた救いを求める家族への手だ。


『助けて……紡……』


 だが応える者はなく。身に刺さるのはただ、眼前の敵機が放つ怜悧な殺意だけだった。


『痛いよ……苦しいよ……怖い…よ……』


 力を失ってゆくオーシャンと入れ替えに、テンザネスの全身の装甲が朱に染まってゆく。正確には、装甲が吹き放つプラズマの炎の照り返しを受けて、青い装甲が黄色みの強い太陽のそれに似た炎の色へと変わりだしているのだ。


『怖い……やだ……やだやだやだ…助けて……助けて。オービット!!!!』


 その瞬間、オーシャンの背で小爆発が連続した。

 ダークネスの変形した刻印と近接する装甲が放射状に吹き飛び、その爆圧でその部位をえぐり飛ばしてゆく。

 オーシャンとの連結部位を引きちぎりながら吹き飛ばされたダークネスの顔面でセンサースリットが輝きを取り戻した。エンパス・システムによる光芒ではない。内包した機器が放つ動作光のまたたきだ。同時に右腕と両足、それに前面装甲の各部位が変形し、刻印形態から人型を取り戻してゆく。

「オト! 無事か!?」

 背部推進機を吹かせてオーシャンの頭部左へダークネスを寄せたオービットが叫ぶ。

 ダークネスの分離によってエンパス・システムが停止したのだろう。オーシャンを包み込んでいた炎が消え、装甲がサファイアブルーの輝きを取り戻してゆく。

『オービット……さん?』

 戻ってきたのはオトではなく、息も絶え絶えな紡の声音だった。

「紡!? オトは無事か? 泣いていないか? 怖がってないか? まさか怪我とかしていないだろうな。とりあえずおまえは今晩、飯抜きだ!」

『……ちょっとは私の心配もしてくださいよ。このロリコン神父』

 オーシャンのコクピットでかぶりを振りながら、右手がファンクショントリガーでキーコードの一つを打つ。するとコクピット内にピアノの音色で、音階でいうところの“B3”音が響き渡った。

 すると、間髪いれず同じ音が一つ響く。

 盲目のため紡には見えないが、エンゼルオーブの中でオトが、投影式の鍵盤を前にしていた。小さな人差し指が、鍵盤の“B3”を押している。完全に電装が起動している状態でなければ使えないが、直観的な意思疎通のために用意された電子ピアノだ。

 戦闘中など瞬間的な意思疎通が必要となった場合を想定して紡の提案で取り入れられた音色に微笑んで、紡は通信機のボリュームを上げる。

「大丈夫。オトちゃんは無事です。それに中途半端な起動をしたせいか、私もオトちゃんもまだまだ元気です。やれますよ」

 言いながら忙しく手元を動かし、機体のステータスチェックとダメージコントロールをはかってゆく。

「……今更、一人で戦うなんていいませんよね?」

 炎を失い、鎧魚にも似た頭部をさらずオーシャンの顔面で、縦に刻まれた三つのセンサースリットがテンザネスへと輝きを振り向けた。

「あぁ、すまなかった。間違っていたのは俺だ」

 オービットの左手がファンクション・キーボードでキーコードを打ち込む。完全復帰したシステムによって制御を取り戻したダークネスが、オーシャンの背へと取り付いた。

「約束する。おまえたちが必要としてくれる限り俺は、オーシャンを護る騎士であり続けると」

「オービットさん……」

 砕けて口を開けたオーシャン背部の連結機構部に到達すると、その後頭部の装甲がスライドして二基の柱型機構がせり上がってきた。ダークネスが二基の間に上体を差し入れると、柱型機構の頂部が連結機へと変形し、ダークネス腰部の両脇に備わったハードポイントと接合してゆく。

「バイオコンピューター“ヴィクティム”とオーシャンの正規接続シーケンス完了。シンパレーション・クラッチ!」

 その途端、凄まじい負荷がオービットの脳を揺るがせた。

 オトとヴィクティムが共振し、FRE起動とともに機体システムの一部として機能し始めたテレパシー能力によるものだ。幼い精神を戦場の負荷から護るため、オトが発する精神感応波に共振し、ヴィクティムが受信し返した精神感応波を第三者―――オービットが肩代わりすることでテレパシー源たるオトに負荷の無いままテレパシー行使を可能とせしめる。

 そしてオービットを介して機体にフィードバックされた情報の受け皿となることで、紡は視覚を取り戻すのだ。

 オービットの目を通して見た世界。

 オービットの肌を介して感じた世界。

 オービットの心を透かして届く光で描かれた世界の姿が紡の胸裏を満たしてゆく。

「見えますよ。オービットさん。あれが私たちの敵なんですね」

 義眼の瞳が赤く色を変えていた。

 完全に視神経が死んでしまっているため、紡の義眼は追視機能を持たされただけの単なる軽量ガラスだ。

 だがシステムを通じ、オトやオービットとつながったときだけそこに赤い輝きが灯るのだった。

 何故ただのガラス球が? と、幾人もの技術者たちは首をひねっていたが、原理や仕組みなど紡にはどうでもよかった。かけがえのない絆がくれた、いま一度の光―――永遠に失われ二度と戻らないはずだった光をくれた二人のために戦うことこそが、赤糸あかいとつむぐという少女にとっての恩返しであり、今を生きる唯一つの理由なのだから。

「オトちゃん。オービットさん。いきますよ」

 紡の指先が鍵盤を打ち鳴らす。

 激しくも優雅な旋律がコクピット内に響き渡り、オーシャンが再びファランクスの砲列をテンザネスへと振り向けた。

「オトちゃん! エンパス・システムを!!」

 エンゼル・オーブの中で二人に首肯したオトが胸元へと両手を差し上げた。

 投影式の鍵盤が掻き消え、入れ替わりに一つのスイッチが浮かび上がる。八角形の台座とその中央に複雑なエングレービングが施された十字架型の押しボタンを備えたスイッチだ。

 その動きを察してか、テンザネスの鬼気が増し全身の装甲が深紅に色を変じてゆく。先程オーシャンが見せたのと同じ、超高出力により周囲空間の素粒子をプラズマ炎と化してまとい始めたのだ。

 その光景に後押され、刹那の躊躇を見せていたオトが両手を十字架へと伸ばしてゆく。



 と―――。



 耳をつんざく高周波音が突如として三人へと襲いかかった。

「きゃっ」

 顔をしかめて身をすくませる紡の瞳から赤い輝きが失せてゆく。同時にオトの手元から立体映像の十字架が光の粒子となって四散し、同調を破られたオービットから精神感応の感覚が薄れてゆく。

 高周波音の源はオーシャンだった。

 機体の深奥で何かが凄まじい金切り音を上げている。

「な、なに? なんなの?」

 物理的な音ではなかった。

 精神感応波にも似ているが、それとも違う無形の共振音がオーシャンの内からほとばしり、システムを通じてつながっている三人を苛んでいた。

 凄まじい負荷だった。

 暴風のようなそれはオトばかりか、疲弊し弱った紡の意識をすら一瞬で刈り取り昏倒させると、更に音量のボルテージを上昇させてゆく。

「こ、これはいったい……」

 頭を抑えて呻くオービットの目が、苦しげに身を折るテンザネスを捉えた。

 恐らくはオーシャンと同様の現象がテンザネスにも起きているのだろう。エンパス・システム発動の兆候であった炎は掻き消え、センサースリットを満たしていた輝きも消えてしまっている。

 たまりかねたように、全身を打ち振るわせたテンザネスが変形した。推進器から轟炎を吹き放ち、凄まじい加速力で一直線に虚空の彼方へと消えてゆく。その数瞬後、テンザネスの居た宙を曳光弾の弾列が幾条も切り裂いていった。

 激痛にかすむ顔を振り向けると、ジャスティス・コードを中心とした艦艇群が近づいてきているのが見えた。破損した艦艇の後退が完了し、援護のため駆けつけてきたのだろう。

「助かった…の…か……?」

 いまだ鳴り止まぬ金切り音に頭を抑えながら、テンザネスが溶け消えた暗黒の彼方へと呟く。

「!?」

 連続する衝撃音に続いてダークネスの全身で無数の破裂音が上がった。何者かに仕掛けられていたとでもいうのか。各関節や装甲の継ぎ目へ巧妙に埋め込まれていた何かが、赤い輝きを放ちながら次々に爆ぜだしているのだ。同時に凄まじい量の白煙が立ち上り、ダークネスを覆い隠してゆく。

「なんだ!?」

 痛む頭を振りながらファンクション・キーボードを叩く。

 オーシャンとの連結を解除したダークネスが、右手で腰裏のホルスターからハンドガンを引き抜いた。

 それを構え、周囲に目を走らせかけた瞬間のことだった。銀条がダークネスの左方から走り、ハンドガンの銃身を右手ごと両断したのだ。

 ハンドガンの弾奏に装填されていたエネルギーカートリッジが誘爆し、肘から先の右腕が粉々に吹き飛んでゆく。間髪いれず、振るわれた返しの刃が膝元から下を両断した。

(敵なのか!?)

 衝撃に歯を食いしばる中で目端にとらえた高周波ブレードから、真っ白な高周波振動の輝きが消えてゆく。そうして、ただの鉄棒と化した剣がダークネスの右肩付け根を貫いた。

 それはそのまま後方―――オーシャンの背中へと突き刺さり、両手足を失ったダークネスを縫いとめた。

 さながら昆虫標本の体で行動不能となったダークネスの正面で虚空が揺らめく。

 大気が無い真空の宇宙において陽炎などありえるはずが無い。

(光学迷彩? 機体そのものを透明化するほどの……だと?)

 旋律がオービットの背筋を奔り抜けてゆく。

 現代において光学迷彩機能そのものは取り立てて珍しい技術ではない。だがその機能維持には高度な技術者と設備による頻繁な調整が必須であるため、一般化はしていないのが実状だ。ましてや破損が当たり前の戦場においては機能の維持そのものが現実的ではなく、むしろ誤射や誤認のリスクを懸念して中央では適用を無人偵察機に限定している。

 だが、そんな中でたった1機だけ例外があった。

「マイセルフ……」

 狙撃による強襲を設計コンセプトの一つとし、光学迷彩システムを標準搭載した唯一の中央製ブラッディ・ティアーズ―――。

「―――マイセルフ10号機“コールド・アイ”……ライトニング少佐か」

 行動不能へと陥ったダークネスの正面で、薄い影が揺らめいている。

『オービット・クラン。いや、小鳥おと軌跡きせき

 右肩口を貫いたブレード経由で近接通信回線が強制接続され、ダークネスのコクピット内にライトニングの声音が響いた。

『貴様に問いただしたいことがある』

 FRE抑制下にある者に特有の怜悧な声音だ。

『貴様たちが“オト”と呼ぶその少女は、忌まわしいあの女……小鳥おといのりの娘だな?』

 眼前の虚空で揺らめく影が、その一つ目を青白くまたたかせた。





   四

 小さな呻きを一つ上げて、カーナは身じろぎした。

 瞼が重い。

 ひどい酩酊感で頭の芯が痺れ切っており、四肢の感覚すら希薄だった。

「わた…し……」

 吐息とともに、絞りだした声音がかすれている。

 両肩から腹部にかけての拘束感から、夢うつつに自分がブラッディ・ティアーズの操縦席に座していることが思い出されてきた。

「なにが…どうな…っ……て……」

 意識が輪郭を取り戻すにしたがって肉体も感覚を取り戻してゆく。

 タイトなパイロットスーツと固定具の拘束感、フットペダルから外れて垂れ下がった両足先の浮遊感、固く操縦桿を握りしめたままの右手は強張り、どこかに打ち付けたとおぼしき左腕は骨折でもしたのか手首のあたりにひどい灼熱感がある。

「たしか……基地を脱出して……それから……」

 外部モニターは全て消灯し、補助灯の灯りがうっすらとコクピット内を照らし上げているだけだ。

 操縦機器のことどとくは電源が落ち、ヘッドアップディスプレイも“機体と制御システムとの接続途絶No Connecting”を表示させたまま沈黙している。

「それから……どうしたんだっけ……」

 わからない。

 基地の出口を目の当たりにし、フットペダルを思い切り踏み込んだところまでは覚えている。

 だがしかし、その後の記憶が綺麗に途切れて思い出せなかった。

「よ…う……」

 戸惑う背に、弱々しい声音がかかった。

 そこに至って思い出す。自身の乗る機体が副座機であること、そして己の背中を預ける相棒がいたことを。

「ドナト!?」

 動かない左手をそのままに、右手で腹部の位置にある拘束具のロックレバーをひねる。ベルトのロックが解除されるのと同時にハーネスが上に跳ね上がり、ベルトが肩越しにシートへと引き戻されていった。

「もう! いったい、なにがどうなっているのよ」

 強張りと締め付けによって節々が痛むのもかまわず後ろを振り向く。ヘルメットのバイザーを跳ね上げ、シートの背もたれから身を乗り出すと見知った顔がいつもの不機嫌顔を浮かべていた。

「全然、意味わかんないんだけど!?」

 言いつのりながらも、混乱しかけた頭が冷えてゆくの感じる。

 不可解な状況の中で唯一見つけた変わらぬものに、カーナは奇妙な安堵を覚えていた。

「……っせぇ…な……」

 そんなカーナの心中を知ってか知らずか。ドナトはやはり変わらぬ調子で毒づくと、ヘッドアップディスプレイの画面を右の人差し指で軽く叩いた。

「撃墜されたに決まってんだろ。この馬鹿。最後の最後で油断しやがって……ドカト教官にも教わっただろう? 機動は常に弧を意識しろ。常に死角から狙われているイメージを持てってよ。なんだよ。最後のフルブーストは。少しは機体を振れよ。あの状況で直線加速とか死亡フラグだろ。どう考えてもよ」

 クルクルと人差し指で宙に軌跡を描きながら毒づくドナトに、カーナの頬が膨れてゆく。

「なによ! アクセル踏め踏めってせかしたのはドナトでしょ!?」

「踏めとは言ったが、まっすぐ飛べなんて言ってねぇよ! この直線番長!!」

「うっさいわね! 男なら細かいこと気にしてんじゃないわよ!」

「ふざけんな。命の危機が細かいことなんかでたまるか!」

「男らしくないわね! 男なら命がけのスリルを楽しみなさいよ!」

「益々、ふざけんな! 俺の命はそんなに軽かねぇ!!」

「なによ! 相棒なら相棒らしく、黙って地獄まで相乗りしなさいよ!!」

「重ねてふざけんな! 俺が何のためにこんなクソ任務へ志願したと思っていやがる!」

「中央の奴らを叩き帰してやるためでしょ!?」

「違ぇよ!」

「ドカト教官の仇打ちでしょ!?」

「違ぇよ!」

「ならなんなのよ! 意味わからない男ね!!」

「だから―――」

 興奮のボルテージを段飛ばしで駆け上がりながら怒鳴り合う最中、突然ドナトが咳き込んだ。尋常ではない咳き込み方だった。何か糸が切れたかのように力尽き、身を折る口元から血の塊が吹きこぼれてゆく。

「ド、ドナト? どうしちゃったのよ。ドナト!?」

 シートを蹴りつけて無重力の宙を浮き上がり、後部座席のヘッドアップディスプレイを乗り越えたカーナは息を飲んだ。

「なによ。これ……」

 ドナトが座す後部座席の後方から無数の鋼材が伸びてきていた。外部から突き刺さり、装甲材を突き破って露出したものなのだろう。その開口部からピンク色の硬化剤が染み出し、硬化して隙間をふさいでいる。コクピット外壁の多重装甲に施された、破損による空気漏れを防ぐための自動補修機構によるものだ。

「ドナト!?」

 鋼材の一つが、ドナトが座すシートの背を突き破り左わき腹から血染めの切っ先をのぞかせていた。前部座席からは死角になっていて見えなかったが、身を乗り出した今のカーナにはありありとその様子が映っている。

 空調機の吸気口があるからなのだろう。薄明かりに照らされたドナトの足元は血で赤く染まっていた。

 一目で助からないとわかる出血量だった。

 薄黒いスモーク処理のバイザーを降ろしたままだったのも、カーナに顔色を悟らせないようにするためだったのかもしれない。

「来んなよ…馬鹿……こんな至近距離で顔みられちまったら…………格好つかねぇだろ……」

 震える右手を伸ばし、諦め顔でバイザーを上げたドナトが肩をすくめる。

「どうして……どうしてこんな……」

「おまえ、ちゃんとマニュアル読み込めよ。コクピット・セパレート・システムだよ。第七章の末項にあっただろう? ハリケーンには、一定以上のダメージを条件に、偽装爆発とコクピットユニットの自動射出をする機能があるってな」

「し、知っているわよ。でも、それとこれとは関係ないでしょ?」

「いや、射出のタイミングとコクピットユニットの強度不足だ。背中からバッサリやられたっていうのもあるが、偽装爆発の火力が強すぎたんだ。爆発の勢いを加味して離脱速度の足しにするはずが、吹き飛んできた機体の残骸をコクピットユニットの装甲が防ぎきれなかった。回避しようと頑張ってもみたんだが、姿勢制御用の玩具みたいな推進機じゃ、とっさに被弾位置をずらす事ぐらいしかできなくてな」

「そんな……」

 浅黒かったはずのドナトの顔が色を失ってきている。落ちくぼんだ目じりや頬には青黒い影が差し、張りを失ったそれはまぎれもない死相だった。

「まぁ、いいさ。目的は果たせた。心残りはねぇよ」

 深い息をついたドナトがヘルメットを脱ぎ外す。

「泣くなよ。おまえは生きて帰れるんだぜ? 分の悪い賭けだったが、なんとか味方に回収してもらえたからな。覚えているか? フューリーとかいう青いブラッディ・ティアーズの増援だよ。合流地点の連絡用ポッドに、救難信号用の周波数設定値を書き残してきておいて正解だったぜ」

 カーナの額を小突こうとして挙げた右手が震える。手に力が入らず、指が握り込めなかった。それだけではない。逆の左腕も、両足も、唇すら重く動かしにくくなってきている。その手を、泣いて震えるカーナの両手が握りしめた。そのぬくもりに、小さな達成感と恐怖がドナトの内で沸き起こる。

 あぁ、自分は死ぬのか。

 そんな思いが胸裏を吹き抜けていった。

 心残りが無いなど嘘だった。やり残したことなど山ほどあるし、やりたかった事はその倍ではきかない。

「カーナ」

 何かを言いかけたカーナを目で制し、ためらいがちにドナトが口を開いた。最後までカーナのぬくもり感じていたい。声を聞いていたい。そんな誘惑を懸命に振り払いながら。

「いいか。基地に戻ったら、すぐに除隊申請を出せ。特務から生還した今のおまえなら許されるはずだ」

 きょとんと、理解不能な表情を浮かべるカーナが何故か可笑しくて、無意識に口元がほころぶ。

「やっぱり、おまえは軍人にゃ向いてねぇ。いや、人殺しなんてやっていちゃいけない種類の人間だ。コロニーへ戻れ。実家の喫茶店でも継いで普通に、平和に生きろ。きっとそれが、おまえがあるべき本当の姿だ」

 目眩がひどくなる。視界は暗く、カーナの顔すら判然としない。四肢の力は抜け、自身の舌が言葉をつむげているのかどうかすらわからない。

「ずっとおまえを見てきた。だからわかる。だから聞いてくれ。わかってくれ」

 だが終わるわけにはいかなかった。この言葉を伝えきらぬままの幕引きなど許すわけにはいかなかった。

「夢から醒める時間がきたんだ。カーナ。小さな憧れから始まったおまえの間違った夢は、いま終わりを迎えたんだ」

 懸命に声を振り絞る。

 歯を食いしばり、目を振るわせ、絞りだした言葉にカーナは震え、かすかに首を横に振り続けている。

「優しい人間なのなら……優しく生きろ……」

 それが最後の一言だった。

 消えかけた命の残り火すべてをつぎ込んで放った最後の声音だった。

「ドナト……?」

 呼びかけに、もうドナトは応えない。

「ドナトってば……」

 肩を揺すると、あっけないほど簡単にドナトの身体が傾いだ。

 血の気を失った唇がわずかに弧を描いている。

「馬鹿…野郎……相棒残して死んでんじゃないわよ……」

 死相に遺されたかすかな満足を見て取った胸が張り裂けそうに痛む。

 早鐘のように心臓は鳴り、とめどない涙が視界を滲ませて、喉を焼く慟哭ともにカーナはドナトを抱きしめるのだった。

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