第三章 異端のテレパシスト
一
規則正しい機械音が鳴り響いている。
時計の針が刻む時間の音だ。大きな作動音からして壁時計か柱時計あたりだろうか。
だが何故なのだろう。普段であれば心地よいとさえ感じるはずの音が妙に勘に障るのだ。一つ音が鳴るたびに、モヤモヤとした焦燥にも似た苛立ちが沸きあがるのを止められない。
その音を探そうとして、目が見えないことに気づいた。
目をどんなに開いても眼前を塗りつぶす黒が晴れることはなく、閉塞感ばかりがつのってゆく。
助けて。
叫ぼうとした口が開かない。手探りで探り当てた口元は、マッチ棒ほどもある太い糸で縫い合わされてしまっていた。
「!?」
恐ろしさに立ち上がろうとして、地面へ転がり込む。いつのまにか両脚が太いロープで拘束されてしまっていた。
手探りで縄を解こうとするものの、きつく結ばれた縄はビクともしない。
両腕だけが自由というアンバランス極まる不自由への不可解が、ただただ恐ろしかった。
ここは一体どこなのか。意識はおぼろで記憶は霞がかっている。全てが泥濘のように濁りきっていて思考がまとまらない。
ただただ、床に這わせた手のひらに感じるコンクリートの冷たく硬い感触だけが、いま理解できる全てだった。
相当に広い空間なのだろう。周囲へ手を振り回し、芋虫よろしく地をもがきまわっても壁や物に行き当たる気配が微塵も無い。
空気が淀んでいる。
風が無く、空調の駆動音すら聞こえないことから閉鎖された密室であることは容易に想像がついた。
つまりは、誰も、助けにはこない。
恐慌で心が塗りつぶされてゆく。
叫ぼうと、助けを呼ぼうと、痛みもかまわず指先を唇に捻じ込み唇を引き裂いてでも口を開こうと覚悟を決める。
だがしかし、唇が裂ける痛みをこらえながら恐る恐る挿し入れた指先が探り当てたのは、歯茎とそこにある硬い感触だった。絶望が心中に広がってゆく。唇だけではない。針金か、ワイヤーか。上下の顎自体が頑健な素材の糸で完全に縫い合わされてしまっているのだ。
それを察した瞬間、あふれる涙が頬を伝った。
両手で顔を覆いながら身を震わせ、獣のような嗚咽にむせぶ中で思う。
何故、と。
気が狂いそうなほどの混乱で身を震わせながら、熱い目頭の涙を拭おうと指をやった瞬間、背筋が凍りついた。
無かったのだ。
常ならば必ずあるはずの―――否、無ければならない感触が指先に触れなかったのだ。
恐ろしい予感が、あらたな悪寒となって身体を震わせてゆく。動悸は更にはやり、吹きだした冷たい汗が全身から吹きだしていた。
もはや痙攣に近いほどの震えと貧血で眩暈さえ覚えながらも、意を決して再び両手で顔を覆ってゆく。そうして広げた五指に神経を尖らせながら、両手をゆっくりと下へ動かしていった。
前髪から額をなぞり、眉を乗り越えて瞼へ達する―――と、ふいに両の中指が沈み込んだ。
ひいっ。渇いた音は、息を呑んだ拍子に縫い合わされた口の隙間で鳴った空気の音か。
痛いほどに耳朶を叩く心音と、口が使えないため自然と荒くなる自身の鼻呼吸の苦しさが、おぞましい想像に拍車を掛けてゆく。
祈るような思いで再び両の中指を瞼へ這わせた。
だがその祈りも虚しく、瞼のカーテンを容易く抜けた指先は――――――。
* * * * *
絹を引き裂くような絶叫が室内に響き渡った。
その声に、ベッドの傍らで携帯端末に目を落としていたオービットが顔を上げる。
「起きたか。
静かに目を向けた先では、かけられた毛布を払い除け、上体を起こした紡が荒い呼吸を繰り返していた。
全身びっしょりとかいた汗で寝巻きが肌に張り付いている。透けて見える白い肌や下着から目をそらし、オービットは手元のバスタオルを広げて紡の背に掛けた。
「相変わらず夢見が悪いみたいだな」
足元の籠からもう一枚のバスタオルを取り出し、紡の手元に放り投げる。震える手でそれを胸元へ引き寄せ、紡は物映さぬ義眼の両目をオービットへ向けた。
「オービット…さ…ん……?」
「あぁ。とりあえず肉体的な異常は無いそうだ。システムのバックラッシュも段々ひどくなってきているみたいだが、大丈夫か?」
「は…はい……大丈夫です。私が壊れきるまでには、まだまだ時間があると思いますから。それよりも私、どれくらい眠っていました?」
「帰投直前のシステム解除から6時間といったところだ。安心しろ。前回とは違って怪我は無い」
「オト……ちゃん…は……?」
「眠っている。なにしろ初の実戦だ。訓練のそれとでは疲労も段違いだったんだろう。前回は目覚めるまで丸一日かかったが、今回はもっとかかるのかもしれない」
「オトちゃん……」
バスタオルを顔にあてがい、荒い呼吸混じりに返した紡へ、水差しから水を注いだコップを差し出す。それを受け取り、手にかかる重量感を意識した紡が思い出したように顔を上げた。
「重力? ここは基地なんですか? 私てっきり、ジャスティス・コードへ収容されたのかと思っていました。襲撃部隊を殲滅したら、そのまま出港して侵攻作戦に移行する手はずでしたよね?」
「状況が変わった」
一息に水を飲み干し、空のコップを差し出す。その手からコップを受け取ると、その手にオービットはゴーグル型の眼鏡を握らせた。電気刺激と骨伝道式音声、簡易レーダーによる行動サポート機能を備えた盲人用のガイドゴーグルだ。
「襲撃部隊で撃墜に成功したのはたったの一機。殲滅とは、ほど遠い戦果だ。おまけに取り逃がした敵部隊が、基地の迎撃可能圏ぎりぎりをかすめて飛来した敵艦に収容された直後に消えている。大量の機雷と自動砲台を置き土産にな」
ゴーグルを掛け、右脇の接触式スイッチに触れた紡の脳裏にデータが浮かぶ。生体電流を介した脳への情報転送機能だ。相応の適性と慣れを必要とするものの、目で画面を読み取る数倍の速度での情報理解が得られる。目が見えない紡にとっては唯一の、データ情報伝達手段だ。
「機雷撤去のため、掃海艇の部隊編成が急遽行われているらしいが、数が数だ。最短でも1週間はかかる見込みらしい。潜伏している敵機のこともある。護衛としてライトニングの部隊が付くことになってはいるが、潜伏した敵を警戒しながらの作業だ。見込みどおりにはいかないだろうな」
「ライトニング少佐の部隊が? 随分と腰が軽いのですね。彼らは中央軍ではなくて、ザ・ゲイト直下の特務部隊なのでしょう? 私が言うのも変かもですが、いきなり切り札を使いっ走りみたいにしてしまって良いものなんですか?」
「わからん。だが、あの男のことだ。どうせロクなことは考えていないだろう。公には旗艦への接近を許した責任を取ってのことだと言い張ってはいるが、どうだかな……」
「オービットさんって、ライトニング少佐と知り合いなんですか?」
「……何故そう思う?」
「あの人の話をするとき、いつも嫌そうな声をしているから……」
目が見えない分、口調や声音に敏感な少女へ嘆息し、オービットは席を立った。
「直接の知り合いってわけじゃない。俺が知り合いだったのは、あいつの弟だ。相当に仲が悪い兄弟だったらしくてな。酒が入るといつも兄貴の悪口を言っていたよ。話半分に聞いていたが、直接会って思った。「なるほどな」と」
「弟さんは地球に?」
「いや、死んだ。ちょっとした事故でな。兄貴とは違って、奔放な奴だったから驚いたよ。殺しても死なないというのは、ああいう奴のことだと思っていたからな」
追憶をなぞるオービットの眼差しが遠くなってゆく。それは、常に胸裏でたたずむ二つの人影の一人にまつわる追憶だった。
「人は死ぬ。簡単に、あっけなく、驚く間も無いほど突然に。でも―――」
汗で濡れた紡の頭を軽くなで、オービットが厳しい顔のまま紡へと目を戻す。
「だからこそ俺たちは戦わなければならない。そんな死からオトを守り抜くために」
「はいはい。もう……結局は、オトちゃんなんですね。このロリコンのエセ神父様は」
軽く頬を膨らませ、バスタオルで顔を隠した紡が拗ねた調子でオービットを睨む。感情を灯さない義眼の眼差しだが、少女らしい感情で溢れた表情は十二分にそれを補っていた。
「言われなくても戦いますよ。それがオービットさんとの誓約で、オトちゃんとした契約ですからね。コードネーム“御者”は、命を懸けてお姫様を―――オトちゃんを守ります。あの子が成長して、私たちの手を必要としなくなるその日まで……」
両手でオービットの手を取り、左の頬を寄せて笑む紡を、オービットは複雑な眼差しで見つめるのだった。
二
重機の機械音が轟いている。
見上げんばかりのクレーンや移動式の整備台の合間を無数の整備兵たちが行き交い、怒号を張り上げながら作業を押し進めていた。
クレーンに懸架された戦闘機や器物が頭上のレールを往復するたび、濃い影が少年の姿を刹那だけ闇に隠す。そんな繰り返しに身を浸しながらエドガー・ライエルは一人、整備場の壁に背を預けていた。
整備場とは言っても広大な基地の一角の話である。
運動場どころか町の一つや二つは楽々と飲み込めるほどの面積と能力―――簡易的とはいえ部品の製造工場や倉庫、塗装や洗浄整備までをも備えたそれは巨大な工場システムといっても過言ではない。
その一角にたたずむエドガーの目線からでは整備場の端など彼方でかすんでおり、施設の中というよりも港湾の街路にたたずんでいるような錯覚さえ覚えていた。
パイロットスーツ姿でも、船外活動用の気密服でもない、オーシャンブルーで統一された詰襟の軍服姿だ。
場こそ無重力だが、作業効率のため気密性と気圧調整機能を高く設計された施設であるため戦時に限り、ここでは気密服の着用義務は免除されている。そのためか、気密服の窮屈さを嫌い整備場を息抜きの場とする者は多かった。
勿論、軍事基地の、それも機密情報の塊である兵器の整備場の話である。当然として関係者以外の立ち入りは固く禁じられている。だが、ただでさえストレスの多い宇宙空間への駐留である。軍規がどうあれ、こういった目こぼしは必要悪として見逃されているのが現状だった。
小さな溜息が口をつく。
憂鬱な眼差しが映すのは、眼前で横たわる敵機の残骸だ。敵勢技術の解析目的で回収されてきたものだが、原型を留めぬほどに破壊されたそれを一目みただけで技術陣は解析を放棄し、この場所へ遺棄したのだった。
真空の世界を縦横に飛び回り、圧倒的な速度と戦闘能力、何よりパイロットの高い練度によって怪物的な脅威を中央軍に焼き付けた敵機も、今や物言わぬ躯以下の金属塊と成り下がっている。
焼けて煤けた金属の塊に言いようの無い哀愁を覚え、エドガーは二たびの嘆息を漏らした。
「エド……か?」
そんなエドガーを目端に留め、オービットは歩む足を止めた。
「オービット……さん?」
その声に、エドガーが目を丸くしてしばたたかせる。そんなエドガーに苦笑して、オービットはエドガーへと歩み寄った。
「久しぶりだな。最後に会ったのは、おまえたちが地球圏を発つ三日前だから、ほぼ2年ぶりか。どうしてこんなところへ? ライトニング隊は出港準備中のはずじゃなかったか?」
「残念ながら、僕は留守番です。僕の機体は機密レベルが高いらしくて、出動の許可が下りなかったんです。オービットさんこそ、どうされたんです?」
「俺は買出しだ。重力区にある厨房を借りられる事になったんでな。調理用に穀物生産施設からトマトをもらってきたんだ。一つどうだ? もぎたてだから美味いぞ」
左肩に下げたクーラーボックスからトマトを二つ取り出し、一つをエドガーへと放る。それを受け取り、どこか不思議そうに眺めるエドガーへオービットは吹きだした。
「そうか。そういえばおまえはコロニー育ちだったっけ。衛生管理の厳しいコロニーじゃ生食を禁止している所が多いしな。ソースや温熱処理されたスライス以外を見るのは初めてか?」
「ト、トマトぐらい知っていますよ。ただ、なんていうか……」
ひんやりと冷たく、それでいて瑞々しい弾力に溢れたトマトの感触に戸惑うエドガーの頬が赤くなる。そんな少年に口元をほころばせ、オービットは軽い謝罪まじりにエドガーの横へ居並んだ。
「面白い感触だろう? 植物って不思議だよな。土から栄養と水を吸い上げて、そんな実を結ぶんだ。そして俺たちの糧となって生きる力になってくれる」
いただきます。
小さく呟いて、オービットはトマトへかじりついた。口中に広がる甘やかな酸味と果肉の旨みに目を細め、食べ進めながら左手を振ってエドガーをうながす。
そんなオービットと手の中のトマトを交互に見やると、エドガーは躊躇いがちに軽くトマトへ口をつけた。歯先が果肉を裂く心地よい感触に続いて、驚くほど豊かな果汁があふれ出してくる。無重力の宙へ飛散してしまいそうなそれを必死にすすり込みながら、エドガーは保存食とは違う圧倒的なその旨みに目をみはった。
「美味いだろう? こういうのを知ってしまうと、これを当たり前にして地球で暮らしている連中がちょっと妬ましくなる。地球にはさ。コロニーの人間たちの知らない、こんな当たり前が山ほどあるんだ。まったく。羨ましい話さ」
言葉とは裏腹に、笑うオービットの顔は屈託ない。
「帰りたいのですか? 地球へ」
「……そうだな。できるものなら地球へ帰って、また故郷の土を踏みたい、かな」
トマトを食べ終えたエドガーに使い捨てのナプキンを差し出しながら、オービットは肩をすくめた。
「いや、違うか。どちらかといえば、“いつか絶対に連れて行ってやりたい”の方だな。青い空や海。森の緑、そしてそんな世界が見せる四季。砂漠や雪なんかも見せて、触らせてあげられたなら、きっと最高に喜んでくれるだろう。犬や猫みたいな小動物を飼うのもいいかもしれない。はしゃぐ顔が目に浮かぶよ」
オービットの眼差しが遠くなる。そこに映っているのだろう彼方の夢を察し、エドガーは小さな痛みを胸に覚えた。
「オトちゃん……ですか?」
少年も知る異貌の少女は今、深い眠りの中にいると聞いている。
「あぁ。たぶんそろそろ目を覚ます頃合いだ」
「じゃあ、急いで帰ってあげなきゃいけませんね」
「あぁ。ついでに今日こそ、あいつのトマト嫌いを治してやるさ」
「なるほど。そのためでしたか」
「好き嫌いは子供のうちに克服させておかないと厄介だからな。ある意味、オトの食育は俺の最重要任務だ。ニンジンは甘煮とキャロットケーキで解決したんだが、トマトとピーマンだけは難しくてな。トマトに関しては秘策があるんだが、ピーマンだけはどうにもならん。たしかエドの上官に女性がいたよな。子供に食べさせる良いピーマンの調理方法が無いか聞いておいてくれないか?」
「ピーマン……ですか」
その単語を聞いたエドガーの顔が曇る。
「どうした? ひょっとしてエドも駄目なのか?」
「い、いえ、今は大丈夫です。大丈夫なのですが……」
苦い記憶が胸裏を過ぎる。地球圏を発つ半年ほど前―――今から2年以上前に教育係としてローレル中尉と寝食を共にした際の記憶だ。
「……オービットさん。正直、あの人にはそういうの期待されない方が良いですよ」
「エド?」
口ごもる中で、視界が緑一色で染まった光景をエドガーは思い出していた。
身震いが走る。結果としてピーマンを食べられるようにはなったが、それは美味く感じるようになったからではない。食べなければいけないという強迫観念にも似た反射が身体を動かすようになったからだった。
「僕、思うんですけれどテスト勉強の苦手科目と食べ物の好き嫌いって似てないっていうか全然、別物だと思うんです! やればやっただけ、とか。食べれば食べただけ、とか。そういう次元のものじゃないと思うんです! そうやって克服するものじゃないと思うんです!」
「エ…エド……?」
涙混じりに詰め寄るエドガーに後ずさりながら、オービットは押してはいけないスイッチを入れてしまったことに今更ながら気づく。
「つか誰だよ。ピーマン食べようなんて最初に思った奴! 本当に人類ですがソイツは!? もしタイムマシンがあったなら僕はきっと、そいつの周りから残らずピーマンを駆逐してやりますよ! 嫌だ! もう嫌だ! 毎日毎日毎日毎日毎日毎日ピーマンピーマンピーマンピーマン。塩炒め味噌炒めソース炒め醤油炒め唐辛子炒めオリーブ炒め中華炒め生姜焼き照り焼き塩焼き肉詰めライス詰めサラダ詰め和え物おひたし黒胡麻和え塩昆布和えシュウマイ炒飯ナムル―――ふざけるなよ! まだまだあるわよじゃありませんよ! なんでピーマン料理がこんなにあるんだよ! まだまだあるってなんだよ! 人類どんだけピーマン好きなんだよ! あとどれだけピーマン食べれば許されるんだよ! 意味がわからないよ! ピーマン食べなくたって死ぬわけじゃないじゃないですか!? ないでしょう!? なのになんで毎日毎日毎日毎日毎日毎日ピーマンピーマンピーマンピーマン―――」
「お、落ち着け。エド」
青ざめた顔でうずくまり、頭を抱えて震えるエドガーにオービットはおそるおそる声をかけた。
「オービットさん。駄目です。無理やりは……無理やりは絶対に駄目です……無理やりとか……無理やりとかはどうか……どうか……」
「あ、あぁ。わかっている。わかっているさ。無理やりは良くないよな。無理やりは良くない。あぁ、そうだ。そうだとも」
ぶつぶつと呟くエドガーに幾度も同意してみせながら、オービットは女性仕官への支援要請案を胸中で棄却するのだった。
三
淡い水色の蛍光が立ち込めた宙空を無数の魚が回遊している。実物ではない。屋内に投影された立体映像群だ。
揺れる海中の景色の中で大小の水泡がいたる場所から立ち昇り、上下の暗黒をつなぐ鎖のような泡沫たちの狭間にライトニング・ヒュエルは立ち尽くしていた。
その背後を海蛇が、5メートルにもおよぶ長大な身をよじらせて通り過ぎてゆく。蛍光色の赤と黒の縞模様は禍々しく、幻想的な海中世界においても一際、異彩を放つ不気味さだ。
「お気に召したかな? 若きヒュエル一族の次期家長よ」
その数歩先で、直立不動を崩さぬライトニングへと振り返る男があった。恰幅の良いシルエットにオーシャンブルーの軍服をまとった老年の男だ。色の抜け切った直毛の白髪は綺麗に分け整えられ、シワやヨレなど微塵も無い身づくろいと佇まいからは裕福を自然として生まれ長じた者に特有の余裕が満ち溢れている。血色の良い肌は浅黒く、掘りは浅めだがハッキリとした目鼻立ちはスパニッシュ系の血統を感じさせた。
男の名はカノン・エストック。地球圏統一政府の現政権を預かる与党党首の甥にして、地球圏治安維持軍南欧方面支部において副司令長官の肩書きを持つこの男は、同時に中央圏政府によって任命された木星圏討伐遠征軍司令長官としてライトニングを召喚したのだ。
「これでも若い頃はスキューバーダイビングが趣味でね。それが長じて、今ではパーソナル・アクアリウムの構築が生甲斐というわけなのさ。質の良いモデルデータは貴重だからね。ここまで集めるのには苦労したよ」
子供のように邪気の無い碧の双眸がライトニングを映している。だが半ば反射的にライトニングは警戒を強めていた。本能か。それとも経験か。そこに宿る穏やかな輝きに感じる小さな違和感が告げている。精妙極まる虚偽の気配と、精巧に作られた仮面の存在感を、だ。
「けれどね」
ライトニングの胸中を知ってか知らずか。穏やかな相好を崩さぬまま手元の投影式キーボードへカノンが手を伸ばす。指が踊り、打ち込まれたコマンドによって刹那、場が闇に包まれた直後に新たなる投影画像が場を埋め尽くす。
「これを知ってしまうと水棲生物などでは到底、満足できなくなってしまってね」
揺らめく海中から、クリアな宙空へと移り変わった場のいたる場所で細かな爆光が花開き、無数の蛍火がその間隙を縫って飛び交い始めた。よく目を凝らせば、蛍火の一つ一つはブラッディ・ティアーズであり、宙間用戦闘飛行機であり、戦艦であり、ミサイルや光弾といった人の手による被造の機械たちだった。
「戦場シミュレーション? いや、違う……か」
呟いて、即座に否定する。一見すると宇宙空間における中央軍と木星軍の戦場風景だが、そこには陣形や戦列、戦術や戦略といった敵を倒す意志が一切、存在していなかったのだ。まるで搭乗・乗艦している人間が全て狂ってしまったか、器物たちが動物的に自立してしまいでもしたかのような無秩序さしか見て取れない。
「見たまえ」
カノンが指差した地点へ目を向けたライトニングの眼差しが険を深める。そこで縦横無尽に飛び回っているのは、つい先日に基地を襲った異形のブラッディ・ティアーズだったのだ。
「素晴らしいな。ブラッディ・ティアーズは。まさに戦争という極限の中で磨かれた感性と必然が生み出した兵器開発史における奇形種と呼べるだろう。人類の忌み子―――テレパシストたちによるテレパシストたちのためだけの純粋な殺戮兵器」
襲撃時に採集されたデータを元に構築されたモデルデータなのだろう。圧倒的な機動力で宙を飛び回りながら中央軍を圧倒してゆく。
「楽しみだよ。これから始まる戦乱によって、私のコレクションがどれだけの広がりをみせてくれるのか。そして―――」
熱い眼差しを虚像の箱庭へ振り向け、語るカノンが軽く指先を打ち鳴らす。人差し指と中指に嵌められた指輪型の簡易操作器によって、新たなモデルデータが呼び出され、宙に実像を結び始めた。二人を取り囲むように十三の巨影たちが居並ぶ。だが青い装甲をまとって並ぶ大小様々な機影はしかし、どれもが淡い輪郭のみで不完全なものだった。カノンの権力をもってしても、現在はここまでが限界なのだろう。ザ・ゲイトによって秘匿され続ける秘機たちの全貌は、その数機を預かるライトニングですら把握してはいない。
「ここに13機すべての幻想機たちが加わったならば、それは一つの神話に等しい世界となって私を楽しませてくれることであろうな」
「……それが、こんな僻地への遠征を請け負った貴方の理由だと?」
「まさか。いくら私でも、そこまで酔狂ではないよ。これは、言わば余禄だ。長い過酷な旅路には、しかるべき報いがあってこそ、だろう?」
くだらない。そんな思いを隠すこともないまま冷ややかに問うライトニングへ、肩越しにカノンが笑う。
「そもそもが、中央にとって必要の無い戦争だ。人口爆発と資源の枯渇を計算に入れても、木星圏の資源まであてにしなければならないほど困窮するには、あと数百年はかかるだろうからね」
年齢や地位に反し、老成した雰囲気を感じさせない子供のような男。カノン・エストックという男を目の当たりにした人間は大抵が、そんな印象を胸に刻む。
「だがしかし、ザ・ゲイトと私には必要な戦争なのだ。いや、いずれ真実を知れば君にとて必然となる。君とレイジ・トライエフの因縁を抜きに、な」
意味ありげなカノンの一瞥がライトニングへ投げかけられる。その笑みに小さな苛立ちを覚えながらも噛み下し、ライトニングは直立不動のままカノンへと口を開いた。
「その真実……教えてはいただけないのですね?」
「残念だが、ね。だがそれは君も同じだろう? マイセルフという機体に隠された真実……私が君に対してそうであるように、君が知り、私が欲する秘のピースを君は語れまい?」
挑みかかるような眼差しを前にカノンが口端を吊り上げる。ライトニングが知る限り、カノンはキャリア官僚を経てのし上がった純粋な文官であるはずだった。だが、殺気すら込めて向けた視線を涼風のように流して笑う様からは、暴力に慣れた者の匂いを感じる。傲慢な権力者特有の嗜虐的な暴力ではない。“暴力を振るう”事の対価として“暴力を振るわれる”覚悟を持つ者の匂いをライトニングはカノンに感じていたのだ。
「ここへ君を呼んだ理由は一つだ。不完全な秘密を分かち合う者同士として私から君に警告を、と思ってね」
あくまで変わらないカノンの無防備さが、逆にライトニングの警戒心を煽り立てる。気づけば無意識のうちに重心を踵から爪先へわずか移し、耳と肌で周囲の気配を探っていた。
「あぁ、そんなに警戒しなくてもいい。優秀で人望もある指揮官を、開戦前に更迭するほど私は愚かではないよ。ましてや君はヒュエル一族の家長候補筆頭である上に幻想機のパイロットだ。まさに“選ばれし男”。その意味において君の値打ちは私などより遥かに高い」
笑うカノンが再び指を打ち鳴らす。投影画像が消失し、25平方メートル程度の居室があらわとなった。戦艦ジャスティス・コード内に設けられたカノンの執務室だ。部屋の中央で対峙する中で頭を巡らせると、四隅に設置された投影機構たちが見えた。執務机はあるが書棚は見当たらない。紙媒体の書籍が完全電子化されて久しい実状もあるが、戦時に無重力の宙を散乱する危険を避けるためデータの閲覧などは投影式の端末や携帯端末に限られているため必要が無いのだ。
「前置きが長くなってしまったが、つまるところは、こうだ。すまないが、一時休戦としてはくれまいか」
「休戦? 私は閣下と敵対した覚えはございませんが」
「意地が悪いな。では、はっきり言おう。この戦いが終わるまで、私の幻想機をあばこうとするのをやめてもらえないか? チーム“オラトリオ”が駆る私のマイセルフ―――“オーシャン”を、な」
「“
「コールドアイ、フューリー、そしてテンザネス。あのレイジ・トライエフとの因縁深い3機とは違い、君の復讐とは何ら関係のない機体だ。そして私の目的と君の復讐が目指すところは同じでもある。木星圏への侵攻によるテレパシスト殲滅。その一点において、ね」
レイジ・トライエフ。ふたたび発された忌み名に刹那、ライトニングの顔に陰が差す。
「ヒュエル少佐。所属する組織こそ違えども、我々は同じ目的を共有する同士だ。ならば、身内の懐を探りあうよりも先に、そちらを優先するべきなんじゃあないかな」
手を伸ばし、対峙するライトニングの両肩を掴む。鍛え込まれた硬い筋肉へ食い込む指先は、万力のような力強さでライトニングを捕らえて離さない。
(こいつ、顔が変わったな)
無言の圧力とともにただ一つの答えを強要するカノンは依然として柔らかな笑みを浮かべたままだ。だがライトニングの目には映っていた。ひどく無機質で、作り物めいた仮面の表情が、だ。
(本性はどちらだ? いや、どこだ? カノン・エストック。貴様の真意はどこにある)
カノンが見せた嗜好と感情、そして要求には筋道がある。なんら矛盾の無い使命と欲求で裏打ちされた説得力ある理由がある。しかし、だからこそライトニングは警戒していた。
理性と感情は不可分な表裏であるのと同時に、反発する相克と等しい反義でもある。カノンの言葉には恐らく嘘は無い。だからこそ、あるはずなのだ。理性と感情を反発無く結び合わせる意志が。そして理由が。
「どうかな。ヒュエル少佐」
仮面を被り慣れた男の言葉が再び耳朶を叩く。
その声が帯びた熱と肩を締め付ける指先のこわばりが、幻想機に対する彼の執着を如実に物語っている。
「どうもこうもありませんな」
弧を描く双眸の奥で冷たく輝く瞳を見返し、ライトニングは酷薄に笑んだ。軽く肩に力を込め、筋肉で食い込んだ指を押し返す。その手ごたえに我を取り戻したカノンが手を離し、鼻白みながら身を離してゆく。
「失礼ながら、閣下は何か思い違いをしておられるように思います」
わずかに乱れた襟元を正し、再び直立不動の姿勢を取り直したライトニングは真っ直ぐにカノンを見返した。鋭さとは違う、対峙した者を突き抜くような意志を感じさせる眼差しだった。
「私は軍属です。そして今は貴方の部下であり兵士だ。私が最優先するのは常に自軍の勝利であり、行動は全てそのための布石に過ぎません。閣下の機密―――オーシャンをあばくなど誤解も甚だしい。どのような経緯でそのような誤解が生じたのか理解に苦しみますな」
淡々と語るライトニングの声音はよどみない。視線と同様に一字一句、はっきりとした輪郭を持った声音だった。
「ならば先日の指揮は故意ではないと?」
「それについては申し開きのしようもございません。未熟な私の見誤りにより開戦前にオーシャンの姿をさらさせてしまいました事については重ねて謝罪させていただきます。処分につきましても閣下の御裁量のままに。降格でも更迭でも甘んじて、お受けいたしましょう」
「ならば、貴官が預かる全ての幻想機を引き渡してもらおうか。と、言ったらどうする?」
「ご随意に」
重い沈黙が場を支配してゆく。
双方共に、様々な思惑の色を瞳の奥で複雑に変えながら、無言で視線を交錯させ続けている。
1分、2分、そうして5分の時間が過ぎかけたあたりのことだった。
「冗談だ。悪く思わないでくれたまえ」
互いに表情を凍りつかせたまま視線を交し合う中で、カノンが沈黙を破った。
「誤解の無いように言っておくが、評議会の狐狸どもはともかくとして、私個人に“ザ・ゲイト”と敵対する意志は無い。また君に私と敵対する意志が無いことも、よくわかっている。だが―――」
口端を吊り上げての一言とともに踵を返し、部屋奥の執務机へと歩んでゆく。そのまま深々と椅子へ腰を下ろし、嘆息まじりにライトニングを見やる眼差しから執着の熱が消えていた。
「何事も、立場をはっきりさせておくのはとても重要なことだと思わないかね? 君の実力は高く評価しているが、作戦が開始されれば君の隊はザ・ゲイト所属の独立遊撃部隊として我々の指揮系統から離れることとなる。強力無比な幻想機たちによる戦闘支援はありがたいが、基地指令を初めとしてそれを快く思わない将校も少なくは無いのだ。幻想機の仔細が未だ秘匿され続けている現状では特にな」
一つ。命に代えても幻想機を奪還もしくは破壊せよ。
二つ。木星圏に幻想機の秘密を知られてはならない。
三つ。拿捕や被弾によって帰還が困難となった場合は即座に自爆。幻想機に関する機密を抹消せよ。
レイジ・トライエフを追って単艦での木星圏潜入任務へ赴く直前に、ザ・ゲイト上層部から下された指令文がライトニングの胸裏を過ぎる。あれから状況は変わり、新機軸の特殊仕様機を保有する特務部隊として戦線に加わえられたものの、幻想機マイセルフに関する情報開示は許可されていない。
「だから確認をしておきたかった。モニター越しではなく直に対面し、ライトニング・ヒュエルという男を確かめてみたかったというわけだ」
中央圏において、ザ・ゲイトの台頭を快く思っていない者は少なくない。カノンを含めた遠征軍の中核がザ・ゲイト以外の軍事派閥出身者で占められているのも、複雑な中央軍内の勢力争いの結果でもあるのだ。
「君も知っている通り、我々が保有する幻想機―――マイセルフ8号機“オーシャン”は遠征軍編成の折にザ・ゲイトから譲渡された拠点攻略用の機体だ。テレパシスト殲滅のための切り札としてな。こちらでも十二分に解析調査しているとはいえ、トロイの木馬を疑うのは当然だろう? なにしろそれまで、眉唾な噂話に過ぎなかった機体だ。それが実在したというだけでも驚きだというのに、その一体をパイロットチームごと無償で譲渡するという。ありえんだろう。あれだけ秘匿し続けた機体をこれほど簡単になどと」
大げさに諸手を挙げながらカノンは語る。だがその視線は常にライトニングをとらえており、放つ言葉への反応をうかがい続けていた。
「休戦協定とは、つまるところそういうことだ。今ここで、あの機体―――“幻想機マイセルフ”の秘を探り合う事は我々の自滅を招く。エンパスシステムは極限状況においてしか深奥を明かさぬ危険な仇花でもあるらしいからな」
有無を言わさぬ声音が静かに響く。
「話は、以上だ。ヒュエル少佐。警告に値せぬ愚物であれば、この場で身柄を拘束し、部隊もろとも後方送りにするつもりだったが、やはり君は一筋縄でいかない男のようだ。この警告が無駄にならない事を祈っているよ」
終始表情を崩さぬまま敬礼を返した背姿が扉の向こうへと去ってゆく。小さな機械音とともに自動扉が閉まってから数秒、そこに残った残影を凝視し続けていたカノンが左の指を鳴らした。
合図に続いてカノンの左手側の壁で扉が開く。ゆっくりとした足取りでそこから顔を出したのは、ライトニングの副官であるはずのローレルだった。
「報告通り、厄介な男のようだな。そして哀れな男でもある。あれではヒュエルの老人たちも落ち着くまいよ。なにしろ孤狼が狐狸どもの党首になろうとしているのだからな。弟のように全てを放り捨てて出奔する我か、はたまた狐狸へ迎合する脆弱さのどちらか一つでも持ち合わせていたのなら、さぞ享楽的な人生を送れたことだろうに」
頬杖を付きながら、執務机の机上を右の人差し指で軽くなぞる。仕込まれたタッチディスプレイ機構が起動し、木彫の机上が透明な画面へと姿を変えた。
「おまえは引き続き監視を続行しろ。万が一、弟と同じくテレパシストどもと共謀するそぶりを少しでも見せたのなら即殺してかまわん。すでにヒュエルの老人どもとは話がついている」
ローレルには目も向けずに告げると、カノンはディスプレイに表示させた作戦資料に目を通しながら追い払うように左手を振ってみせた。
「わかったならば行け。奴に気取られるなよ」
そうして思索に入りかけてふと、カノンは左へ顔を向けた。すぐ傍へたたずんだまま一向に離れぬローレルをいぶかしみながら。
「どうした?」
問いかけながらも「またか」という思いが渋面となって出る。何度あしらっても、この女スパイは事あるごとに雇い主へ問うのを止めないのだ。
「私の妹は無事なのですよね? 無事に……生きていてくれているのですよね?」
予想に違わぬ問いかけに、カノンが返す言葉も変わらない。
「知らんよ。おまえの妹の保護は私の管轄外だ。だが、問題はなかろう。公的な軍組織のしていることだ。おまえの妹は無事、軍関連の病院で手厚く遇されているのだろうさ」
「信じて……よろしいのですよね?」
「くどい」
か細いすがりつくような声音を苛立ち混じりに切り捨て、カノンは執務机へと向き直った。
無言の拒絶を前に諦めたのか、ローレルが踵を返し去ってゆく。
その背姿を横目で忌々しげに見やり小さな嘆息を漏らすと、カノンは再び作戦資料へと没頭してゆくのだった。
四
カノンの居室を後にし、無機質な艦内通路を抜けたライトニングを出迎えたのは、一人の仕官だった。
戦艦ジャスティス・コードと基地をつなぐ連絡橋の接合部に設けられた門所のゲート先で、壁に背を預けたまま警備の仕官に睨まれているのもかまわず煙草を吹かしている。
艦内は禁煙だが男が居るのはゲートの基地側だ。判断のグレーゾーンではあるが艦外でのことのため警備も文句が言えないのだろう。だがそれ以上に浮かべた畏怖の表情から、文句が出ないのはそれだけでないことは想像に難くない。
威圧的な風体の男だった。
2メートルを超える身長は隆々とした筋骨で厚く、袖口からのぞく手は異様に節くれだっている。ボクシングや拳法といった拳闘系の格闘技を嗜んでいるのだろう。野太く発達した拳骨周りの皮膚が厚くなり、いわゆる“拳ダコ”が出来上がっていた。
日常か鍛錬か。はたまた鍛錬が日常なのか。食いしばりを常とする者特有の発達が顕著な顎周りに傷だらけの禿頭、サングラスに咥え煙草と、軍施設内にあってさえ過剰な暴力の雰囲気を漂わせる男なのだった。
そんな男が身を正し、手品よろしく煙草を飲み込むと折り目正しい敬礼をとった。
突然のそれに目を丸くする衛兵の脇を、ライトニングが通り過ぎてゆく。
「出迎え御苦労。グスタフ大尉」
そんな男に敬礼を返し、グスタフの脇へ居並んだライトニングが軽く地面を蹴った。
基地へと続く連絡橋の回廊内を流れてゆくライトニングを追ってグスタフも足元を蹴る。脚力の差か。ライトニングに倍する速度で宙を泳ぎ、浮き上がり気味に追い越したグスタフが天井へ両手を着いて減速する。いかつい巨躯からは想像もつかない、しなやかな身のこなしだった。そうして自身の左へ並んだグスタフへ、ライトニングは口端を吊り上げる。
「相変わらず自己鍛錬に余念が無いな」
「恐縮です」
「その調子で若い連中を頼む。情けない話だが、私は上層部の狸どもの相手で手一杯だからな。部下には目が届かない事も多い。正直、おまえが目を光らせてくれていなければ、2年以上にも及ぶ単独行で隊の規律を保ち続けることは難しかっただろう」
「ご冗談を。全ては隊長―――いや、ヒュエル少佐の人徳でしょうに」
「持ち上げるなよ。いつの間に、そんなおべっかを覚えたんだ?」
「私が貴方の部下となってから早8年。色々ありましたからなぁ」
笑うライトニングに小さく首肯し、グスタフも笑う。長きに渡って苦楽を共にした二人にとって、互いは階級を超えた戦友なのだった。
「首尾はいかがでした?」
500メートル近い連絡橋の半ばを超えた付近で、周囲に目を配りながらグスタフが問う。人気は無いが、音が響きやすい場所を考慮してか小声での問いかけだ。
「まぁ、おおむね予想通りの内容だった。予想通り過ぎて逆に罠を警戒してしまった程だ」
「エストック中将は何事も慎重な方らしいですからな。3機ものマイセルフを機下に置く少佐を相当に警戒されているのでしょう。では、ジャスティス・コードと基地司令部周辺に潜ませている部下たちへ撤収指示を出してよろしいですね?」
「あぁ、無駄足を運ばせてしまって、すまなかったな。俺としては、プランCぐらい派手な事態になってもかまわなかったのだが」
「ご冗談を。中将の拘束と旗艦の占拠など、命がけの最終手段以外の何物でもありません。コールドアイの性能は存じておりますが、先日のアレを目の当たりにした後では……」
言葉を濁すグスタフに肩をすくめ、ライトニングは再び足元を蹴った。長い回廊の空気を肩で切り、頬に当たる風が心地よい。
「正直、ホッとしておりますよ。あの要塞じみた機体を敵に回すなど、考えるだにゾッとします」
「……オーシャン。それが、あの機体の名なのだそうだ」
「なんと……幻想機の名が知れているということは……」
「そうだ。奴らはエンパスシステムの起動に成功したか、起動可能な状態にあるとみて間違いない」
「ますます穏便に事が済んで良かったと思えますな」
肩をすくめるグスタフの背を軽く叩き、苦笑したところでふと、ライトニングの目が止まった。目前に迫った通路出口先を、一人の男が過ぎって行ったのだ。軍事基地には似つかわしくない黒の牧師服をまとった男―――オービットだ。
「あれはたしか……チーム“オラトリオ”の“騎士”でしたか」
その視線に気づいたグスタフが畏怖のこもった眼差しで口をひらく。
「そうだ。異貌の小姫の身代わり人形となるべく用意された人身御供の片割れというわけだ」
「件の資料は拝見させていただきましたが、難儀な話ですな」
「奴には少し聞きたいことがあったのだが、当面は無理か」
「少佐とチーム“オラトリオ”との接触はエストック中将も警戒しておられるでしょうからな」
オービットと距離を置いて道行く軍属―――おそらくは監視役の二人を見やりながらグスタフが声をひそめる。
「かまわんさ。道程は違っても行き着く先は同じだ。いずれ戦場で問いただしてやるとするさ」
そんなグスタフに短く言い放ちながら足元を蹴りつけ、ライトニングは無重力を流れゆく身の舵を切るのだった。
五
「…………」
あどけない顔立ちの頬をいっぱいに膨れさせて、オトはソファの後ろで座り込み続けていた。相棒であるクマのぬいぐるみを盾に、ヘソを曲げたオトの前でオービットが困り果てて嘆息する。
「オト。大丈夫だから。ちゃんと美味しいから一口だけでも、な?」
そんなオトの傍らへしゃがみ込んで懸命に声をかけるものの、そっぽを向いたままオービットの方を見ようとさえしてくれない。料理のためだろう。オービットは普段の牧師服ではなく、着古した青いジーンズにYシャツといったラフないでたちだ。
その上から付けた紺色のエプロンには、クレヨンで描いたとおぼしきウサギの絵がプリントされている。以前にオトから画用紙へ描いた絵をプレゼントされた際、記念に転写したものだ。
「オト。トマトは美味しいんだぞ。ほら、ケチャップをたっぷりかけたオムレツとか好きだろう? あのケチャップだって実はトマトから出来ているんだ。だから、な? 一口だけでいいから食べてみないか? 一口だけでいいから。絶対に美味しいから」
「……なにやっているんです?」
右へ、左へと、オトの向く方へ回り込んでは顔をそむけられているオービットの後ろを、自室から出てきた紡が呆れ顔で通り過ぎてゆく。
「遅いぞ。紡! 晩飯の時間には遅れるなとあれほど―――」
「うわっ。なんですコレ? すっごい匂い。ケチャップ……いえ、トマトですかコレ?」
目が見えない分、紡の嗅覚は鋭敏だ。
食卓の席に着き、所せましと並べたてられた皿から立ち上る香気の量に、辟易した顔で紡がオービットへと振り向いた。
「そういえばオトちゃんのトマト嫌いを克服させるとかなんとか……ひょっとしてオービットさんて、馬鹿なんですか?」
「い、いや、最初は普通にトマトを練り込んだハンバークとソースを作るだけのつもりだったんだ。それだけのつもり……だったんだが、あんまりにも良いトマトだったから、作っているうちについテンションが上がってしまって」
「それでこのトマトづくしですか。目が見えない私にだってわかるくらい、凄いトマトの香りが部屋中に充満していますよ。どんだけですか」
「い、いいじゃないか。トマトに含まれるリコピンは美容にも良いって評判だぞ?」
「ドン引きですよ。テーブルいっぱいに嫌いな物とか、どこの拷問ですか。美味しいとか不味いとか以前に、トラウマ刻んでどうするんです。オトちゃん。完全にスネちゃっているとかなんでしょ? どうせ」
「……悪かったな。その通りだよ。遺憾ながらな」
チームを組んでから2年近くともなるためか、さすがに察しが良い紡を憮然としてオービットが睨みつける。
「あぁ!? こら! いつの間に!?」
紡に気を取られている中で、ふと気配を感じて振り返ると、両手で口を押さえたオトがモグモグと口を動かしていた。慌ててヌイグルミを取り上げると、オトの手元からポシェットが転がり落ちてゆく。その開いたチャックの隙間から、サイコロ型のチョコレートが幾つか零れ出ていた。
「御飯の前に御菓子は駄目だって、いつも言っているだろう!? というか、どこから出したんだ。そのチョコレートは」
見覚えの無い御菓子にオービットが目を見張る。虫歯を警戒してジュースや菓子の類は鍵付きの保管棚に入れてあるはずだった。
「紡。おまえの仕業か?」
「いやいやいや。私じゃありませんよ。棚の鍵はオービットさんが持っていますし、そもそも目が見えない私にオトちゃん連れて購買部まで行くなんて出来るわけないじゃないですか」
再び睨みつけた先で紡が慌ててかぶりを振る。
「嘘をつくなよ。おまえ以外に誰が―――ひょっとして整備班の奴らか?」
呟きが的を射ていたのだろう。身を跳ねさせたオトが走り出し、紡の後ろへ駆け込んでゆく。口止めでもされていたのか。おそるおそる顔を出し、申し訳なさげに見返すオトに、オービットは大きく嘆息した。
「あいつらめ……大方、オリンズ福整備長あたりか。勝手な事をしてくれて……」
孫を思い出すと言っては、オービットの目を盗んでオトに御菓子を届ける老整備士の顔が脳裏をよぎる。
「このチョコレートは没収だぞ。オト。」
ポシェットとチョコレートを拾い上げ、中身を戻しながらの言葉にオトの顔が曇る。
「……明日、おやつの時間に出してやるから、ちゃんと御飯を食べなさい」
その言葉に、オトの顔で笑顔が花開く。だが食卓へ駆け寄り、子供用に座面を上げた椅子へ座った途端、再び顔は曇り、途方に暮れた顔でオービットと紡と食卓をグルグルと見回し始めた。
そんなオトの胸元にナプキンを結んでやると、オービットは食卓から銀のスプーンを手に取った。
「ほら、スープはどうだ? トマトで味付けしてあるだけだから、怖くないだろう?」
スプーンでスープをすくって、息を吹いて冷ましながら口元へ差し出す。だが、嫌々とかぶりを振るばかりだ。
「ハンバーグも美味しいぞ。ハンバーグ好きだろう? ほらほら、全然トマトなんて見えないし、ソースだってトマトケチャップと一緒だから」
スプーンでハンバーグを輪切りにして、トマトが入っていないことをアピールしてみる。だがやはり、嫌がるばかりだ。これまで、苦手な食材を練り物に混ぜ込む手法は割と試した事が多いため警戒しているのだろう。
「オト。食べもしないで嫌がっていちゃ駄目だ。ちゃんと食べないと大きくなれないし、病気になっちゃうんだぞ」
語調を強めて軽く叱ってみる。予想通り、つぶらな瞳が涙で滲みだすものの、オトの為と心を鬼にしなければと心中で自戒しながらスプーンを自身の口元へ運んで一すすりしてみせる。
「ほら。大丈夫だろう? 美味しいぞ。オト」
微笑みながら、再び口元へ差し出ものの、とうとうオトの目じりから涙がこぼれ落ち始めた。
「まったくもう!」
目は見えなくとも、しゃくりあげるオトの気配から察したのだろう。椅子を鳴らして席から立ち上がった紡は、オービットの後ろへ歩み寄ると右手でその頭を軽くはたいた。
「なにやっているんですか。オトちゃん泣いちゃっているんじゃないですか?」
「うるさいぞ。紡。俺だって好きで泣かせているんじゃない。オトのためにだな――-」
「いいえ。わかってないのはオービットさんの方です」
立ちあがって睨むオービットの言葉を遮り、紡は右人差し指をオービットの鼻先へ突きつけた。
「オトちゃんは子供なんですよ? ちゃんと子供の目線で考えて、教えてあげないと駄目なの」
「か、考えているだろう? だからトマトだとわからないような料理を―――」
「だから、それが間違いなんです」
更に伸ばされた指先を慌てて避ける。本人は相手の額でも小突くつもりだったのだろうが、目が見えず目測がつかないため、危うく右目を突かれそうになったのだ。
「な、なにす―――」
「何を作ったんですか?」
「え?」
「食卓にある料理です。どんなのが並んでいるんですか?」
問いかけの意図が見えず目を丸くするオービットに嘆息すると、紡は手探りでオービットの左袖を掴み、壁際のサイドボードの傍へと引っ張って行った。
「教えてください。食卓の上にどんな料理があって、どういう風に調理されたものなのか」
その勢いに気圧され、言われるがまま説明を返す。その言葉に耳を澄ませ、一通りを聞き終わったところで腕組みして思案すると、紡は左腰脇のポーチからメモ帳とペンを取り出した。
「オービットさん。子供っていうのは、理屈じゃなくて感覚で生きているものなんですよ」
メモ帳にペンを走らせ、一つの図柄と説明書きを書き加えてゆく。描き終わると、そのページを破いてオービットへ差し出した。
「今すぐ、食卓のお皿を下げてこれを作ってください。ちゃんと、この通りに作ってくださいね。特にこれ、ここは最重要ポイントです。キッチンに無ければ、手作りするか基地司令の首を絞めてでも手に入れてきてください」
渡されたメモに目を通したオービットの顔が困惑で固まる。
「すまない。紡。俺には、これの意図がわからない。作るも何も、これってただ盛り付けを変えるだけだよな? 味も見た目も変わる要素ないだろう。これ」
「いいから作る! オトちゃんは私がみていますから。はい。急いでください」
背を押しやられ、たたらを踏みながらオービットがキッチンへと歩んでゆく。少しして、トレイに食卓から幾つかの皿を回収し戻ってゆくオービットの気配を感じながら、紡はオトの右へしゃがみこんだ。
「大丈夫よ。オービットさんが、オトちゃんにも食べられるように作り直してきてくれるからね」
ハンカチでオトの涙を拭ってやりながら微笑みかける。
「こ~ら。そんな顔しないの。女の子は笑っていないと幸せが逃げちゃうんだぞ?」
頬に触れた指先と押し黙る気配から、頬を膨らませているのを察して少し大げさに笑ってみせる。
「そういえば、オトちゃんはウサギさん好きだったよね」
首肯するオトに「そうか」と笑いかけ、左手のひらで隠した右手を顔の前へ持ち上げる。軽く握った右手の人差し指を左手の影から伸ばすと、その指先にピンク色をしたウサギの指人形がおさまっていた。
オトの目が驚きで丸くなる。
「クマさんも好きだったよね」
中指が立てられ、茶色いクマの指人形がオトの目の前で伸びをする。
「ワンちゃんとニャンちゃんもいるぞ~」
薬指と小指が立てられると、警官姿の犬とピンクのワンピースを着た猫の女の子が現れる。
左手のステージに立つ動物たちの姿に手を叩き、それまでの不機嫌など忘れてはしゃぐオトに、胸中で安堵の吐息をつきながら紡は指人形たちを動かし始めた。
絵本の内容を思い出しながらのそれは、有名な童謡ベースにした即興の人形劇だった。迷子の猫の女の子の親を探す犬の警官、それに心優しいクマが加わって、妹を探すウサギのお姉さんのところへ送り届ける。そんなお話だ。
失語症で言葉は話せなくとも、息遣いや喉を鳴らすような声音で喜色満面の雰囲気は伝わる。
(よかった。こういうの、泣いたカラスがもう笑った、とかいうのかしらね)
思わず口元をほころばせ、進む人形劇が終わりかけた頃のことだった。
「出来たぞ。待たせたな」
劇の終わりを見計らっていたかのようにオービットが戻ってきたのだ。
不安げに顔を曇らせたオトの前に、蓋付きの大皿が置かれる。その蓋に手をかけ、ためらいがちに紡をうかがうオービットの脇腹へ、紡はオトからは見えない角度で軽く右拳を打ち込んだ。
(そういう不安な雰囲気ださないの。美味しいぞ~って顔してください)
心中で毒づきながら、紡はオトの後ろから小さな肩を抱きすくめた。
「さぁ、きっと美味しいよ。何が出てくるかな~」
指人形たちが見せる「早く開けなさい」のジェスチャーにオービットも覚悟を決めたのか、にこやかに笑いかけながら蓋を開けてゆく。
先程と同じトマトの香気がうっすらとした蒸気とともに溢れ出す。そうして取り払われた蓋の下から現れた料理の姿を目の当たりにした途端、オトの目が喜色で輝いた。
まるで絵本だった。
大皿の中心にあるのはクマの顔だ。卵焼きを切り整え、バーナーで軽くあぶって作られた中の両目はプチトマトだが、ヘタを取りワインで煮詰められたそれは野菜の瑞々しさよりも飴のように甘やかな光沢を見せている。卵焼き自体も、ミキサーにかけたトマトと玉子にコーンスープを混ぜて焼いた特製だ。
その左にはトマトソースで作ったチキンライスがハート型に盛られ、右側のトマトスープにはパン生地を練り揚げて作った星型のクルトンたちが浮いている。一緒に浮いているニンジンは三日月型に切り抜かれ、薄く垂らされたクリームチーズが雲のようにたゆたっていた。
右の小皿にあるのは、型抜きでウサギの形に抜いた上にたっぷりとクリームを盛った赤いトマトゼリーだ。極めつけとばかりに、その左へ並べられたプリンには、爪楊枝とキッチンペーパーを使って作ったとおぼしき旗が立てられている。
一見すると緑黄色野菜が見当たらない栄養価の偏った一皿だが、よく見ればクマの顔の口など細部を描いている緑色のラインは、ミキサーにかけてムース状にした野菜で出来ていた。
「気に入った?」
オトの両肩に手を置いて笑いかけた紡にオトが大きくうなずく。
緩みかけた首もとのナプキンを軽く結びなおしてやると、紡は「どうぞ」とオトをうながした。
両手を合わせ、無言の食事の挨拶をしたオトがスプーンで玉子焼きをすくって口に運んでゆく。その幸せそうな笑顔が、全てを物語っていた。
「オービットさん。グッジョブです。私には見えませんけれど、予想以上のお仕事だったみたいですね」
「あ、あぁ……」
「ふっふふ~ん。これですよ。子供は“美味しい”じゃなく“楽しい”から入ってあげないと駄目なんですよ」
得意げに笑いかける紡と、美味しそうに料理を頬張るオトを交互に見やり、オービットは困惑のまま首肯するのだった。
* * * * *
夕餉が終わり、食後の紅茶を紡は口にしていた。
食卓ではなくリビングのソファだ。その左の膝元を枕に、オトが小さな寝息を立てている。
右脇のサイドテーブルにティーカップを戻し、優しくオトの頭をなでてやる。ふわふわした子供特有の柔らかい感触に目を細め、紡は暖かな静けさに身をひたしていた。
と―――。
「紡。少しいいか?」
洗い物を終え、キッチンから戻ったオービットがリビングへ戻ってきた。
寝入るオトに目を留め、向かい合わせ側のソファに折りたたんで置かれていた毛布を手に取る。それをオトにかけて小さく微笑むと、オービットは食卓から持ち寄せた折りたたみ椅子を紡の正面に置き、腰掛けた。
「エストック中将から通達があった」
右手のグラスについだウイスキーを一口し、ためらいがちに言葉を続ける。
「いまから16時間後をもって、俺たちチーム“オラトリオ”は戦艦ジャスティス・コードへ帰艦する。合わせて幻想機“オーシャン”も整備ユニットごと収容作業を開始するとのことだ」
「……また、軟禁生活に逆戻りですか。仕方ありませんけれど、気が重いですね」
「すまない。オーシャンと俺たちの扱いについて、妙に中将が神経質になっていてな。何を警戒しているのか知らないが、よほど俺たちを手元から放したくないらしい」
「じゃあ作戦が終わるまで戦艦暮らしです?」
「あぁ、オトの事もあるから艦の重力区画に部屋をもらってはいるが、不自由は免れないだろうな」
「もうしばらくは、広い場所を駆け回らせてあげたかったですね」
「あぁ。そうだな」
どちらともなく降りた沈黙の中で、オトの寝息だけが静かに響く。
「……とうとう始まってしまうんですね」
「……そうだな」
「いつかオーシャンの真実を知ったとき、この子はオービットさんを恨むのでしょうか」
眠るオトの頬を優しくなでながら、か細い声音で紡がオービットへ問いかける。
その沈鬱な言葉に答える言葉を、オービットは未だ見つけられてはいなかった。
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