第一章 異貌の小姫

   一

 おそるおそる伸ばされた右手の体温が、冷たい窓ガラスに白い手痕てあとを付けた。

 小さな手だ。

 今年で七を数える少女の指先は、動いている事が不思議に思えるほどか細く頼りない。

 ゆっくりと窓ガラスを右へとなぞる手の跡が、緩やかな虹のような軌跡を短く描いた。

 体温と窓ガラスの温度差によって結露した白い軌跡が、晴れて元の透明を取り戻してゆく。

 果ての無い夜空に似た宇宙の黒と星々―――そんな向こう側の景色とともに窓ガラスへ映り込んだのは、あどけない表情の少女だった。

 美しい少女だった。

 腰元まである絹のような銀髪を一房に編んで左肩から下ろし、年代物と思しき彫刻が施された銀のカチューシャで前髪を留めている。

 日の光を浴びたことが無いかのような白皙の肌は染み一つなく、まとった黒いフリルドレスとのコントラストが目を引く。

 だが、初めて少女を目の当たりにした者の多くは、そんな身づくろいよりもまずその右目に目を奪われることだろう。

 小さくもたおやかな肢体と銀髪に相応しい宝石のような青瞳の左目と対を成すはずの右目はしかし、無残な刀傷によって塞がれてしまっていたのだ。

 眉から右頬の半ばまで一直線に縦へ走った傷は深く、一目で失明しているものと知れる。

 少女の年齢を鑑みるに奇妙な表現となるが、相当に古い傷なのだろう。

 傷口は完全にふさがりきっており、見目の痛々しさとは裏腹に少女から痛痒の気配は微塵も無い。

 残された左の眼差しはあどけなく、ただただガラスの向こう側の景色に見入っている。

 少女が立つのは、壁一面ガラス張りの回廊だった。

 ガラスとはいっても文字通りの結晶硝子では無い。

 宇宙空間を飛び交う有害な放射線を遮断するため、幾層にもフィルターを挟み込んだ透明な合成素材のガラスだ。

 フィルタリングによって可視光線までが遮られることによって景色の色調が変わることを防止するため、これまた幾層にも偏光フィルムが重ねられており、有害な放射線をカットしながらも肉眼で見るそれと同等の景観を実現している。

 少女の身じろぎに合わせて、小さく鈴の音が鳴った。

 襟元を飾る三つ葉のクローバーを象った鈴の音だ。

 金の鎖でつながれた鈴は、場の無重力を表わすかのように浮かび、どこか切ない音色を立て続けている。

 漆黒のフリルドレスといういでたちにも関わらず、それ以外に浮遊の気配は無い。

 靴底に仕込まれたマグネットによって足は地を踏み、わずかな静電気によって駆動する特殊ワイヤーを織り込まれた衣装は無重力による浮き上がりを許さないからだ。

 まるで重力下と変わらない様子で少女は、ひたすらに窓外の景色を見つめ続けている。

 そんな少女の背後で金属音が上がった。

 少女が触れる窓とは反対側の壁にある自動扉が開いたのだ。

「オト」

 少女の名を呼ぶ低い声音とともに、開いた扉の向こうから人影が進みでる。

「勝手に俺のそばを離れるなと言っただろう。また迷子になっても知らないぞ」

 少女に劣らず奇妙な姿の青年だった。

 幅広の長身に黒い牧師服を身にまとい、封のされた茶色の紙袋を抱え持っている。

 短く刈り込んだ黒の頭髪と切れ長の穏やかな黒瞳、口元が浮かべる柔和な微笑みは牧師に相応しい包容力を感じさせた。

 耳が不自由なのだろう。両耳に付けられた補聴器が、赤い動作ランプを明滅させている。右の補聴器と連結された片眼鏡は、不自由な聴覚を補うため視線誘導でポイントした相手の言葉を文字として表示する難聴者用の補助機構だ。

「!」

 笑顔を花開かせ、駆け寄ったオトに男―――オービット・クランは微笑ほほえんだ。

「もうすぐ基地の重力区画が稼働を始めるそうだ。そうなれば久しぶりに火も使えるから料理ができる。中央圏を発ってから三ヶ月以上もたつし、さすがに宇宙食のパックにも飽きたものな。せっかく大枚はたいて自腹で持ち込んだんだ。この食材で、美味しいもの作ってやるからな」 

 両手がふさがったまま笑うオービットの言葉にオトの目が輝く。

「なにを作ろうか。厨房の料理長には話を通してあるからオーブンレンジも使えるし、まずはオトの好きなアップルパイあたりからいってみようか」

 歩き出しながらのオービットに小走りで横並びながら、屈託のない笑顔でオトが幾度も縦に首を振る。

 靴底のマグネットが床を叩く機械時計のそれに似た足音で、二人は廊下を歩んでゆく。

 そうして遠ざかる二つの背を、険呑な眼差しで見送る三人の男たちがあった。いずれも詰襟の軍服姿の将校たちだ。まとう軍服の色はオーシャンブルーで統一されている。中央圏において、それは地球圏直轄の軍組織を示すカラーコードだった。

「あれがチーム“オラトリオ”……コードネーム“騎士”と“姫”ですか」

 窮屈そうに詰襟をいじりながら、赤毛の少年が目を細める。

 150センチそこそこの小柄な見かけ通り、15歳という若さで徴兵された特務隊所属の少年兵だ。未発達で華奢な体にまとう軍服はややダブつきぎみで、少女然とさえ言える中性的な顔立ちも相まって、どこか浮いた印象を禁じえない。

「失語症と聞いてはいましたけれど、ああしているのを見ていると、とてもそんな風には見えませんね。本当に彼女がそうなのですか?」

 エドガー・ライエル。それが少年の名だ。

「そうだ。我々とは別の役割を与えられた怪物の騎手というわけだ。もっとも―――」

 エドガーの問いかけに、三者の中央に立つ男が皮肉げに口はしを釣り上げる。

「―――奴自身もまた文字通りの怪物ではあるのだが、な」

 鷹を連想させる攻撃的な眼差しを持つ男だった。眼差しだけでは無い。ガッシリと鍛え上げられた幅広の肩口に直立不動を体現するかのごとく伸ばされた背筋と、立ち姿だけで獲物に襲いかかろうとする肉食獣にも似た威圧を漂わせている。

 負傷しているのだろう。軍服の上着を肩掛けにした左は腕を包帯と三角巾で吊り下げていたものの、男の威風には微塵の翳りもありはしない。詰襟に輝く“少佐”の階級章と特権階級の出自を示す徽章が、単なる軍属には留まらない彼の素姓を物語っていた。

「怪物……」

 頭二つは高い男を見上げた少年の顔が憂いで曇る。そんな少年を一瞥もせずに、路地の向こうへと消えた二つの背を男は睨み続けていた。

「やれやれ。我らがライトニング・ヒュエル少佐のテレパシスト嫌いは筋金入りってヤツですかね」

 沈黙を破ったのは、エドガーとは対にライトニングと並んだ青年将校だ。

 さらさら揺れる長髪をなびかせ、女性的な眉目を持つ秀麗な顔に軽薄ともとれる笑みを浮かべる姿は一見、軍人という職業からはおよそかけ離れたおもむきがあるものの、物腰とは裏腹にどこか影を感じさせる雰囲気が、硬い軍服姿への違和感を打ち消していた。

「気にすんなよ。エド。少佐やおまえたちからすれば、俺みたいな精神感応能力者テレパシストは怪物じみて見えるのは仕方ない。むしろ、ニコニコお友達扱いしろっていう方が無理な話さ」

「アンディさん。僕は別に、そんなつもりじゃ……」

「でも、ありがとな。おまえがいなかったら、この堅物上司の空気で溺れ死ぬところだったぜ」

 ライトニングに負けず劣らずの長身を軽く折り、エドガーと視線を合わせたアンディが笑う。屈託ない笑顔だ。だがしかし、何故かエドガーにはその笑顔がひどく悲しいものに思えて、笑い返しながらも胸中で嘆息を禁じえなかった。

「アンディ・ハレー」

 そんな二人を冷たく見下ろし、ライトニングがアンディへ小さな金属片を放った。

 反射的に受け止めたアンディの右手の中で鈍色に光るのは、純銀で出来た階級章だ。、

「身分証代わりだ。本日付で貴様は“ザ・ゲイト”旗下の特殊工作部隊“インビジブル・ダガーズ”所属の将校として本軍へ正式登録された。つまりは部隊長である俺の幕僚ということだ」

「少尉……か。亡命者の俺に随分な好待遇ですね。正直、二等兵待遇どころかモルモット扱いを覚悟していましたよ」

「貴様がただの亡命者であれば月の収容施設にでも放り込むところだったがな。貴様を選んだ“九号機デス・カード”に感謝しておくがいい。組織の上層部は、貴様とあの機体に御執心だ」

「へいへい。感謝感謝、と」

「ゆくぞ。奴らの事は気に食わんが、どのみち作戦上で我々と行動がバッティングすることは無い。せいぜい祈らせてもらうさ。互いの作戦の成功を、な」

 肩をすくめたアンディへ一瞥を投げかけ、ライトニングが踵を返す。

(これだけのマイセルフが集まるのだ。貴様もこの宙域のどこかに来ているのだろう? 偽者よ。今度こそ俺たちが引導を渡してくれるぞ)




   二

 ガラス窓の回廊を抜け、少し歩いた路地の突き当たりでオービットとオトは足を止めた。

 眼前には、鉄と合成素材で出来た機械仕掛けの世界には不釣合いな木製の大扉がある。勿論、本物ではない。弾性素材と塗装でそれらしくつくろった金属製の扉だ。だが、波打つ無数の木目といい色合いの質感といい、直に触れさえしなければ木製と言われても気づく者は多くないだろう。

 そんな扉へオトは駆け寄ると、たすきがけに掛けたポシェットのチャックを開いた。ピンク色の兎を象ったポシェットから一枚のカードキーを取り出す。そしてカードの角で三回、軽く扉をこづくと、カードキーの暗証キーを読み取った扉が左右へと自動的に開きだした。同時に照明が点灯し、20平方メートルほどの広さを持つ室内を照らし上げてゆく。

 玄関からみて左側一面がキッチン、右側には三つの部屋へ通じるドアが並んでいる。奥の突き当たりにある二つの扉は、トイレとバスルームだ。

「“紡(つむぐ)”! 帰ったぞ!」

 右手のドアの一つへ声をかけ、玄関をくぐるオービットの背で自動的に扉が閉まりだした。左脇からオトが小走りに追い抜き、部屋の中央にあるソファの脇で横倒しになっているクマのヌイグルミへと飛びつく。オトの倍はある巨大なヌイグルミだ。三ヶ月ほど前にオービットが買い与えたものだが、それをベッドのようにして昼寝をするのが、最近のオトのお気に入りなのだった。

「オト。お昼寝は手を洗ってからな。あぁ、ちゃんと、うがいもしてこいよ。作戦前に風邪を引いたら大変だ」

 手荷物をシステムキッチンの脇へ下ろしたオービットがオトの傍らへ歩み寄ると、すでにオトは夢うつつの様子だ。

「オト? ほら起きろ。起きなさい。……またか。仕方のないヤツだ。ほら、まずは手洗いだ。そしたら部屋着に着替える。せっかくのドレスがシワになるだろうが」

 オトの頬を軽く叩いて抱き起こし、そのまま洗面所へ連れてゆく。後ろから抱きかかえて手を洗わせ、うがい薬の入ったコップを渡してうがい水を吸引式の排水シンクへ吐き出させると、オービットは洗面所のストッカーから備え置きのネグリジェを取り出した。ゆったりとしたピンクのワンピースを広げて脇の衣装掛けに掛け置き、オトの前でかがみ込む。

「ほら、着替えだ。バンザイして」

 髪留めを外し、フリルドレスの各部へ手を伸ばしては衣装留めのリボンを解いてゆく。拘束感が薄れるに従って睡魔が増してきたのだろう。両腕を上げたままの瞼が閉じ、呼吸が規則正しい寝息に変わり出す。こんなときだけは、倒れ支えせずに着替えさせられる無重力がありがたい。

 そうして着替えさせたオトを抱き上げると、オービットはリビングへと踵を返した。

 ソファへオトを横たわらせ、その背部から毛布を引き出す。無重力仕様の簡易ベッドでもあるソファのそれは片端がソファ本体とつながっており、身体を固定するベルトの役割も兼ねている。

 そうして引き出した毛布をオトにかぶせ、手にした端をソファ下部の固定具へ挟み込む。そうして立ち去りかけてふと、オービットは足を止めると、近くの宙を漂うクマのヌイグルミを掴んでオトの傍らへ座らせた。

 以前、似た状況で少し席を外した際に昼寝から起きたオトが、寂しさで大泣きしていたのを思い出したのだ。

「やれやれ。すっかり子守が板についてしまったな」

 右手を伸ばし、顔にかかった髪を軽くすきあげてやる。その手に感じる温もりと柔らかさを思うたびに、オービットは胸がしめつけられるような悲しみを覚えるのだった。

「あの人との約束……だものな」

 かすかな記憶が脳裏の端をかすめてゆく。

 思い出すたび、針で突いたような痛みを伴う過去と誓いがオービットの全てだった。

「大丈夫だ。おまえは死なない。俺と“つむぐ”がおまえを守る。いつかおまえが、自分の翼で飛び立つその日まで」

 立ち上がり、壁の調整器で部屋の明かりの輝度を落とす。完全に明かりを落とさないのは、闇を嫌い泣くオトへの配慮だ。

 そうして寝入るオトを後に、オービットは三つある私室の一つをノックした。玄関に近い位置にある端部屋だ。だが返事が無い。もう一度ノックする。だがやはり返事はなく、脇のインターホンを鳴らしても何の反応も無かった。

「またか。程々にしておけと言っているのに」

 オトに向けるそれとは違う、苛立ち混じりの渋面を浮かべながらオービットはインターホンのテンキーを操作した。こういうときのためにドアの暗証番号はオービットが管理しているのだ。

「入るぞ。紡」

 ドアのロックを解除し、扉を開いた瞬間の事だった。

 耳を劈く轟音がオービットの全身を打ち据えたのだ。だがオービットは慣れた風で部屋に踏み込むと、同時に手動操作へ切り替えてあった扉を手で閉じる。一瞬だったのでオトが起きる事は無いはずであったが、それでも毎回この瞬間はヒヤヒヤさせられる。だいぶ慣れたとはいえ、寝起きの悪いオトをあやすのはオービットにとっても簡単な事では無いのだ。

「紡!」

 声を荒げるが、相も変わらず返事は無い。

 補聴器を使ってさえほとんど耳が聞こえないオービットをして騒音と感じるほどの音量だ。2重の防音措置を施したこの部屋でなければ、騒音でとても室外は生活に耐えられないだろう。

「紡! いいかげんにしろ!!」

 眼前の内扉に手を掛け、躊躇いがちに開けたオービットの目に映ったのは、透明なグラスファイバーで作られたグランドピアノと、それを弾く少女の背姿だった。

 青いパンツルックの軍服を身にまとい、詰襟から胸元までのボタンを外して開けたまま一心不乱に鍵盤を叩き続けている。全身のバネをフル稼働させて演奏する姿は、優雅な弾き奏でというよりも打楽器の打ち叩きに近い

 ピアノとは思えない凄まじい音量だった。

 その音量と音圧は、もはや音色というよりも爆音に近い。

 曲目は太古の作曲家ベートーベンによるクラシック音楽―――“エリーゼのために”、だ。

 だが、それを少しでも音楽の素養がある者が耳にしたならば、爆音以外の理由で顔をしかめたことだろう。

 それは、音楽に疎いオービットをして演奏とは言い難いものだった。

 楽譜に指示された速度の倍近い早弾きである上に、強弱をはじめとした表現記号も完全に無視し、あまつさえランダムに音節を前後させているのだ。まるで壊れたレコードか、DJによるスクラッチを演奏で再現しているかのような耳障り極まる行為は、彼女なりの訓練方法なのだという。

 異様極まる演奏の原因はヘッドフォンだ。

 楽曲の小節数を不定期にランダム告知する音声が飛ぶたび瞬間的に目的の小節へと移り、目標時間内に告知された最低小節数を演奏できなければゲームオーバー。目まぐるしく変化する戦況への反応速度を鍛えるために彼女自身が考案した仕掛けというわけだ。

「紡!」

 聞こえていないことを承知で怒鳴りながら歩み寄り、グランドピアノの上に置かれた告知音声の端末から電源コードを引き抜く。肩を叩いたりなど、今の彼女に接触することは危険だ。極度に集中している彼女は異常なまでに攻撃的な反射が研ぎ澄まされており、不用意に近づけば何をされるかわからない。過去に、それを知らず近づいた将校が重症を負わされる事件さえ起こしているのだ。

 不意に演奏が止まった。

 一定時間を過ぎても鳴らない告知音声に闖入者の気配を察したのだろう。

「オービットさん?」

 ヘッドフォンを外し、汗で濡れた顔を上げる。

 18歳という年齢にしては幼さが多分に残る顔立ちだ。両目ともに義眼なのだろう。気配を察して向けた顔は微妙にオービットからずれており、彫りの浅い黄色系人種特有の顔立ちに浮かぶ黒瞳も焦点を結ぶ気配が無い。名は“赤糸あかいとつむぐ”。オービットと行動を共にするチームメイトの一人だ。

「あぁ、俺だ。今から5時間後に基地の重力区画が稼動を始める。そろそろ、おまえも準備をしておけ」

「わかりました。オトちゃんは……聞くまでもありませんね。優秀なロリコン神父さんが付いていますし」

「そういう変な言葉をオトに教えるの本気でやめろ。おかげで半年前、俺がどんな目にあったと思っている」

「あぁ……正直、あれは私も予想外でした。まさかあんな勢いで噂が広がるなんて」

「そのせいで俺は精神鑑定やら尋問漬けで三日間も勾留された上に、オトだって屈辱的な身体検査を受けるハメになったんだぞ」

「屈辱的って……ただ虐待の痕跡確認とレントゲン写真を撮っただけじゃないですか」

「馬鹿野郎。見知らぬ大人の手で丸裸に剥かれた上、全身を観察されたんだぞ。あんな小さい子供にしてみたらトラウマものの経験だろうが」

「嫌な表現やめてくださいよ。普通に女医でしたし、肌に打撲痕や傷が無いか診察しただけじゃないですか。どんだけ過保護なんですか。正直、気持ち悪いですよ。そろそろ」

 呆れ顔で肩を竦めると、紡は胸ポケットに挿していたゴーグル型のメガネを取り上げる。盲人用のガイドゴーグルだ。装着と同時に周囲の障害物をサーチし、他者には聞こえない骨振動音声で歩行先の足元にある障害物を警告する仕組みとなっている。

「じゃあ私、シャワーを浴びるので出ていってもらえます? まぁ、ロリコンさんには私の裸なんて興味ないのでしょうけれど」

 グランドピアノの鍵盤カバーを閉じながら立ち上がり、眼鏡を掛けた紡が意地悪げに笑う。しなやかな所作だった。椅子から立ち上がる。ただそれだけの動作だというのに、四肢の運びから立ち姿に至るまで一切のよどみが感じられないのだ。

 動作開始から終了までを無駄なく最短で行い完了させる動きには、中国拳法を初めとした実践武術の合理に通じる洗練された趣きがあった。脂肪の少ないスレンダーな体躯が、ことさらにその印象を強めている。

「安心しろ。女性に対する幻想なぞ、とうの昔に崩れている。主におまえのせいでな」

「ひっど~い! これでも私、女子力高い方なんですよ?」

「……初耳だが」

「食堂では御飯大盛りにしたいのグッとこらえて小盛にしてもらったりとかしていますし、おかずもカロリー控え目で色合いが綺麗な物を厳選して選んでもらっています。それにそれに、訓練用の楽曲だって恋愛絡みの曲で統一しているんですからね」

「どうにも俺の知っている“女子力”とおまえの“自称女子力”に大きな隔たりを感じるのだが……」

 眼前で胸を張る少女に降参の諸手を挙げ、オービットは嘆息した。

「わかった。わかった。とにかく伝えたぞ? 重力に身体を慣らしたら、よく寝ておけ。20時間後にブリーフィング、24時間後からは機体の最終調整と慣らし運転だ。地球圏とここでは太陽風を初めとした影響で随分と勝手が違うらしい。とにかく用心しろよ。アレの手綱を握る御者は、おまえなんだからな」




   三

『遥かな過去の地球で発生し、途方も無い枝分かれを重ねながら進化してきた地球生命―――その無数に紡がれた系譜の一つとして我々はある。

 人間だけではない。現在の地球で息づく生物は皆、悠久の時を越えて未来へと送り出された原初の末裔なのだ。

 我ら地球発祥の生命とは地球の一部である。

 奇跡的な条件によって誕生し、その環境を維持し発展させる役目を担って顕在した地球の代謝機能なのだ。生命活動の全ては地球へ帰結し、食物連鎖どころか単なる呼吸行動すらも地球環境のサイクルを支えている。

 ガイア理論。

 地球を一つの生命体と捉え、関わる全ての事象にはその大いなる生命活動や意思が関わっているという自然科学の一仮説だ。

 その論旨を是とするのならば、地球人類がやがて生活圏を宇宙へと広げることもまた地球の意思であるのだろう。

 生命であれば当然の欲求である子を成し、強さを得、勢力を広げるという行為を現在の人類に当てはめるのならば、なるほど確かに言い得て妙とも言える。増え続ける人類、発展する技術、宇宙コロニー建設技術の転用によって安定した生活環境を構築しつつある火星圏と、我々が至った現在はまさに地球の意思を体現しているのかもしれない。

 勿論、この発展がもたらした環境汚染や破壊を指して非難の声を上げる者も少なくは無い。いつの時代にも犯罪と格差は存在し、貧富により不当な困窮を強いられている者は数多くいるものだ。いまだ現実は幸福で満ち溢れた理想郷の実現など程遠く、未来への展望もまた五里霧中の最中なのだから。

 いまだ人間は万能と成り得ず、また全知にも成り得てはいない。

 神ならざる我らに神の奇跡は遠く、現実の壁は無常なまでの高さで眼前にそびえ立ったままだ。

 だが、それは我々の屈服を意味してはいない。理想や夢想の無意味を絶対づけるものなどでは断じてない。

 何故ならば、我々は挑戦者なのだから。

 遥かな祖の時代から我々は、夢に等しい理想と夢想を現実とするために邁進してきた。

 知と技を剣とし、時には槌として、立ちふさがる困難を切り裂き、砕いてここまで辿り着いたのだ。

 そう。今ここにある現実もまた、我々が地球の意志の体現者として砕くべき壁なのである。

 ありうべからざる変貌を遂げてしまった哀れな元同胞たる人々を救うために、新たなる世界への扉を開くために、我々は手にした剣を振るわなければならない。

 世界をあるべき姿へ!

 木星圏をかつての姿へ!

 テレパシーという異能の突然変異種ミュータントと化したばかりか、我ら中央へ牙を剥いた外敵―――異邦のエイリアンどもを殲滅することこそが、新たなる我らの使命なのである。

 故に――――』



   *   *   *   *   *



「相変わらず、人を煽り立てるのが上手い男だ」

 無線機を通して流れる木星圏討伐遠征軍司令長官“カノン・エストック”中将の演説を聞き流しながら、ライトニングは皮肉げに口端を吊り上げた。

 ライトニングが深々と腰を下ろすのは、彼が預かる航宙巡洋艦ソードフィッシュの艦長シートだ。ソードフィッシュの名の通り太刀魚を思わせる細く長い艦体上部に突き出た楕円柱形の艦橋で、ライトニングは作戦行動前の最終調整の指揮を執っている。

 流れる演説を尻目に、一段低くなった前周囲では管制官や通信士といった仕官たちが忙しなく手を動かし続けている。、六角形のタクティクスモニターテーブルを取り囲む形で設置されたユニット式のコントロールシートは七つ全てが新型に換装されており、新しい操作パネルやアプリケーションソフトへの対応で四苦八苦している様子だ。

「それにしても、この期に及んで電子装備の徹底改修とは迷惑な話ですね……」

 ライトニングの右で、通信端末を手に指示を飛ばしていた副官―――ローレル・クインシーが嘆息する。まっすぐに伸ばされた背筋と青い軍服の取り合わせは、スレンダーなスタイルと相まってすぎるほどに映えている。忙しさでカットする暇もなかったのだろう。少し前まではショートだった金髪は肩口まで伸びて豊かな波うちを見せていた。

「作戦司令部はどうしてこのような指示を?」

 本来、作戦行動開始直前にこれほど抜本的な設備改修を施すのは異例中の異例だ。一瞬の停滞が死につながる戦場においては、時として優れた新型よりも慣れ親しんだ旧型が戦果を挙げることは珍しくはない。行動の純化には、性能以上に習熟が物を言うのだ。

「本艦だけではなく、すでに入港済みの他艦も中央圏を出航する直前に改修を受けたと聞いています。この過剰なまでの対電磁ノイズ対策EMCシステムはどういった意図のものなのでしょう」

 宇宙では惑星上と違って大気の保護が無いため、常に放射線や電磁波にさらされている。機器の誤動作を防ぐために、電子機器を初めとした全てに強力なシールド処理が標準で施されているのだ。だが、今回の改修はそれを更に推し進めた性能過剰とも言える大げさなものだ。

「時間的なロスだけでなく、シールド処理や新システムの影響で機器の操作性や作業効率が悪化したと各員からは不満の声が多数、挙がってきておりますが」

「わかっている」

 携帯端末に目を落とし、艦員からの報告文書に目を走らせたローレルをライトニングが片手で制止する。

「作戦本部からの作戦開示時間になれば―――いや、そのときが来れば嫌でもわかる。詮索無用。死にたくなければ黙って慣れろ。と各員には伝えておけ。こちらがそうであるように、あちらからもまたスパイを潜り込ませている可能性は否定できん。無駄に情報を敵にやることもなかろうよ」

 艦橋の窓からは、船体を囲い込んで固定する巨大な上架設備の一端が垣間見えている。

 無重力の宇宙では船体を吊り上げる必要が無いため、その形状や施設の構造も地上のそれとは完全に別物となっていた。

 この基地の元は“ワン・ハンズ”の名を持つ握りこぶしに似た形状の小惑星だ。直径20キロにもなる広大な小惑星の外周を沿う形でリング状に建設された基地の外縁部に作られた発着ポートの一つに、ソードフィッシュは入港している。

 入港といっても基地の内部へ収容されているわけではない。

 無数の艦船を効率良く立体的に運用するため、発着ポートからは四本の金属柱がせり出し、近接した艦船を挟み込む形で係留しているのだ。同時に金属柱が備えた固定機構を介して艦船とその内部を人や物資が行き来し、同時に一部が展開してあらわとなった数々の重機による整備を可能としている。

 席を立ち、艦橋の窓へと歩み寄って彼方を見れば、ソードフィッシュと同様に鈍色の鋼材で囲われた艦船たちの列が彼方へと連なっているのが見えた。、

「これが我々にとって最後の戦いになるかもしれぬ以上、失敗は許されん」

「最後……ですか?」

 苦々しい独白にローレルが眉をひそめる。

「そうだ。地球圏の軍事派閥を牛耳る“ザ・ゲイト”主導のもとに行われたこの遠征だが、実の所これほどの労力を費やしてまで中央が木星圏を手に入れる必然性は皆無といっていい。費用・人員ともに天文学的な負債とリスクを要するこの遠征を、そう何度もできぬだろうよ」

「必要が無い? そんなことは……テレパシストの脅威排除という理由以外にも、核融合炉に必要なヘリウム3をはじめとした資源確保や、木星圏の独立阻止という目的があるはずでは? それを考慮すれば充分な見返りがあるという試算が出ているはずですが」

「誤魔化しだ。考えてもみろ。グラヴィディ・ポイントによる亜光速航行が可能になった現代とはいえ、未だ星間航行には問題が多すぎる。リスクも高いしな。おまけに火星開発による鉱物資源供給と、太陽光発電によるマクロウェーブ送電設備も普及しつつある昨今、あえて木星くんだりまで足を伸ばす必要がどこにある?」

「しかし、それではヘリウム3は?」

「これは中央の機密情報だがな。月の砂からヘリウム3を安価に精製する技術が確立されたらしい。すでにザ・ゲイトが関連技術の特許登録を済ませた上に、パトロン直轄の関連企業を誘致してプラントを建設中だとさ。論文と資料を読んだが、条件が近い火星や小惑星からも採取の可能性がある技術だ。これで向こう300年における中央圏のエネルギー問題はほぼ安泰という見立てだ」

 読むか? と、ライトニングが手持ちの携帯端末から引き抜いたデータメモリーをローレルへ放る。それを受け取り、手元の端末で流し読みしたローレルは絶句した。

「少佐……これはまさか……」

「読んだか。これで貴様も共犯だな」

 上ずった声音に、ライトニングが笑う。

 青ざめたローレルが読んだ資料は、中央政府高官のみにしか閲覧が許されていない機密文書だったのだ。

 しかも正規の手順を通したものではない。データコピー防止のため紙媒体で刷られた書面を撮影した画像をデータ処理して文書ファイル化したものだ。

 犯罪行為などという言葉では生ぬるい。しかるべき立場の人間の目に触れれば、その場で更迭どころか銃殺刑さえ許される禁忌行為だ。入手に直接関わっていなくとも、“その情報の存在を知っている”だけで公安警察のブラックリストに名が載ることだろう。

「な、何故こんな……」

「何故……か」

 カラカラに乾いた喉から声を絞り出し、ようやくそれだけ口にする。そんなローレルにライトニングは歩み寄ると、左肩に手を置いて抱き寄せた。

 離れた管制官席に座る士官たちから小さく冷やかしの声が上がる。遠目には、ライトニングがローレルを口説いている風に見えているのだろう。

「それはな。おまえに警告を与えるためだ」

 抱き寄せたローレルの耳元へ口を寄せ、囁いた声が低く刺さる。

「貴様が、我々“ザ・ゲイト”を探らせる目的で送り込まれたスパイだということはわかっている。お互い、名家の分家筋というのは厄介なものだな。本家のジジイどもがさぞや憎かろう。なまじ優秀だったばかりに、こんな戦地へまで送られるのだから」

 嘲弄にローレルは応えない。ただただ、身を硬くして震えるばかりだ。

「安心しろ。おまえをどうこうするつもりはない。むしろこれまで通りに動いてもらう。ただ一つ、貴様がこちらの情報を流すのと同様に、あちらの情報もこちらへ流してもらうだけだ。悪い取り引きではないだろう? たったそれだけで、おまえは作戦終了後の安全が保証される。どちらに転んでもだ」

「わ、私は…………自分の命など……惜しくはありません」

「妹さえ無事ならば、か?」

「!?」

「調べがついているといっただろう? 先天性の心臓疾患だそうだな。なかなかの重篤だ。おまけに時間が無い。早期に心臓移植を受けない場合の余命は―――」

「やめてください!」

 色を失ったローレルがライトニングを突き飛ばす。

 涙が滲んだ翠の双眸が湛えるのは、ただただ怒りだった。

「そんな……そんな事をあばいて何が楽しいのです? 私を殺すのなら殺せばよいではありませんか。裏切り者を殺して、宇宙へでも投げ捨てれば良いではありませんか。あなたに私の何がわかるというのです。そんなこと出来るわけがない。私に出来るはずがないではありませんか!?」

 かぶりを振りながら叫ぶ中、こぼれた涙が無重力の宙を舞う。

 緩やかな空調の風に流されてゆく無数の雫たちに手を伸ばし、ライトニングは一滴を握り締めた。

 鋭気で満ちた青い眼差しが、むせぶローレルを映してかすかに色合いを深める。胸中に去来した複雑な感情の顕しは刹那で、すぐに元の色を取り戻してゆく。

「勘違いをするな」

 ローレルの手から端末を取り上げ、タッチパネル式の画面へ走らせた指先がメモリーから別の資料ファイルを展開する。

「安心しろと言っただろう? 俺はおまえを糾弾するつもりもなければ、裏切りを強要するつもりもない。ただ、伝えるべきを伝えたかっただけだ。あとは自分で考え、判断しろ」

 端末画面に開かれたのは、ザ・ゲイトの諜報部門がまとめあげた一冊の調査報告書だった。

「そもそも特務隊を編成する任を預かった時点で、おまえのような人間が送り込まれてくることは想定済みだ。手に変え品を変え、飼い主も違う諜報員どもが、俺の把握している分だけでおまえ以外に最低3人はいる。この艦に乗船している艦員だけでな。だが、生粋の諜報員ならばいい。相応の能力と、それに見合う覚悟と矜持を持つ人間ならば俺は拒まん。勿論、すでに全員へは俺を敵に回す事の意味を教えてやっているが」

「私も……そうだと?」

「何度も言わせるな。これ以上は正直いって迷惑だという話をしている。人質を取られたなどという理由で、泣きながら従軍している副官など目障り極まりない。だから―――」

 端末をローレルに押し付け、展開した調査報告書を指差す。その表題に、ローレルの顔色が青ざめた。ライトニングの手から奪い取るようにして端末を取り、調査報告書を読み進めてゆくローレルの手が、これまでとは違う震えを覚え出す。

「そんな……そんな……」

 絶望に、ローレルはよろめいた。

「肉親の危機を前に正常な判断力を欠いていたようだな。いや、絶望への逃避が無意識に気づきを妨げていたのか。どちらにせよ、おまえの飼い主たちは律儀に約束を守るつもりなどなかったらしい。当然だろう。所詮は、テレパシストが跳梁跋扈する危険地帯へ送り込む捨て駒だ。戻ってくるあても無い人間の為に、余命いくばくもない人間の治療費を出すような精神性があるはずもないだろう。万が一戻ってきたとしても、手は尽くしたとでも吹いて墓石の場所でも紹介するつもりだっただろうな」

 調査報告書には、医療費の滞納を理由に病院からの放逐が決まった少女の事が記されている。日付はローレルが地球を出発した翌月のことだ。特務行動により外部との通信が不可能となったのとほぼ同時に、ローレルの妹は打ち捨てられたことになる。

「嘘……嘘よ……」

 不審に思ってはいたのだ。

 定時連絡の通信メールで妹の安否を幾度問いかけても「心配するな」としか返事はなく、送った手紙への返事も一切なかったのだから。

「ザ・ゲイト諜報部も、おまえの身辺調査には相当手を焼いたらしい。経歴の詐称から戸籍の偽造まで、隙らしい隙がまったくない完璧な隠蔽工作だったと褒めていたよ。そいつは古い知己なのだがね。地球に戻ったら諜報部にスカウトさせてくれと熱心に頼まれたものだ」

 語るライトニングにローレルは応えない。言葉は耳に届いているが、頭の中が飽和して何も考えられない様子だった。

「私…は……」

 虚ろな声音が、か細くもれる。

「私は何のために……」

「妹のためだろう。他に何かあるのか?」

 ローレルの眉間をライトニングの人差し指が軽く弾いた。

「少佐?」

 思いもよらぬ事に目をみはるローレルに、心底不可解な表情でライトニングが端末を指差す。

「人の話は最後まで聞くものだ。よく読め」

 ライトニングの指先が数ページをスクロールし、一枚の写真が掲載されたページで止まった。

 どこかローレルに似た面影を持つ少女が、はにかんだ笑顔を向けている。病室とおぼしき真っ白な壁の部屋だ。海が近い高台の立地なのだろう。腰掛けたベッドの後ろの窓は開け放たれ、遠くに広がる海が見える。

「これ……は……」

 緩やかに波打つ腰元までの金髪を三つ編みでまとめ、病的に痩せた青白い肌に浮かぶ眼差しは病による憔悴の色を隠しきれていない。だが、確かに少女は笑っていた。ローレルの記憶にある13歳の姿から明らかに成長した姿で、だ。

「衰弱が著しく、かなり分の悪い賭けだったらしいがな。手術は成功し、経過も順調だそうだ。姉と同様に、つくづく運の良い娘だな」

「少佐……」

「勘違いするなよ。これはただ、貴様が使える人間だと判断したからに他ならない。地球圏を発ってからの働き如何によっては、死にかけの子供など捨ておいただろう。これは取り引きであり、単なる飼い主の入れ替わりにすぎない。妹の命が惜しければ、せいぜい必死に勤めるがいい」

 言い捨てたライトニングが踵を返す。

「俺の副官を、な」

「少佐……」

 歩み去るライトニングの背が涙でにじむ。

 再び目を落としたフォトグラフの笑顔を胸に抱きしめ、ローレルは一人、声を押し殺してむせぶのだった。



   *   *   *   *   * 



「つくづく計算高い人ですね」

 艦橋の扉をくぐり、廊下へと歩み出たライトニングを迎えたのは、薄手の気密服の要所を硬質ラバーのプロテクションで補強した白いパイロットスーツ姿のエドガーだった。

「これであなたは優秀な副官と、貴重な二重スパイの両方を手に入れたわけだ。もっと早く知らせることだって出来たでしょうに……見計らっていたのでしょう? もっとも効果的なタイミングを」

 右脇でヘルメットを抱えた右手が、昂ぶる感情を顕すように震えている。

「あなたはいつもそうだ。巧妙に仕組んだ飴と鞭で人を操ろうとする。彼女はもう、あなたを裏切ることはないでしょう。少なくとも、妹さんの命が続いている限りは……そうやって、あなたの個人的な復讐にどれだけの人間を巻き込むつもりなのですか」

 静かな怒りを湛えた少年の眼差しを一瞥し、ライトニングが軽く地を蹴る。所作によって靴底のマグネットが切れ、無重力の宙を数瞬およいでエドガーの前に立つ。瞬間、閃いた右手がエドガーの左頬を打ち据えた。

らちもない憶測で上官を侮辱か。相も変わらず、幼いな。エドガー・ライエル」

 左頬を押さえてうずくまったエドガーへ鋭い視線が降りかかる。殺気すらおびた鋭利極まる視線だ。

「そもそも何故ここにいる? 貴様らパイロットには、コクピットでの待機を命じていたはずだ。命令違反には、相応の理由があるのだろうな」

 赤く腫れあがった左頬へあてるエドガーの左手が掴み取られ、同時にライトニングの左足がエドガーの足元を払い飛ばした。バランスを崩され、立て直そうとする反射動作を利用された身体が反転し、壁へ叩きつけられるのと同時に右腕が後ろ手に捻り上げられてゆく。

「甘く見るなよ。幻想機のパイロットだろうが何者だろうが、おまえは私の部下だ。部下として、兵士として、上官の駒に徹しきれない者を野放しにするほど私は甘くは無い」

 左手がエドガーの赤毛を無造作に掴む。ブチブチと数本が千切れる音をさせながら上に引かれたエドガーの頭が、即座に壁へと叩きつけられた。

「それを忘れるな。エドガー・ライエル」

 無重力の宙に鮮血の水泡がしぶく。エドガーの額が裂けて流れた血の雫たちだ。傷口そのものは大きく無いものの、人体の構造上もっとも血が多く集まる頭部の裂傷は小さくとも多量の出血をもたらず。

「ぼ……僕は……あなたの部下じゃ…な……い……」

 痛みと脳震盪で意識を飛ばしかけながら、息も絶え絶えに抗するエドガーの頭を再度、ライトニングは壁へ叩きつけた。

「いいや。部下だ。たとえ出自がどうあろうと、幻想機のパイロットであろうと、俺の艦に乗り、俺の隊に属しているからには従ってもらう。いや、従う義務があるのだ」

 乱暴に髪を掴んだまま右腕の拘束を解く。そうしてエドガーを振り向かせたライトニングは、赤く染まった少年に顔を寄せると、目線を合わせて右手で喉を掴んだ。

「二度と私の命令に背くな。それを今ここで誓え」

 ライトニングの双眸が凄みを増して輝く。

「それが出来ないというのなら、ここでおまえを殺す。ザ・ゲイトの老人たちには、慣れない宇宙生活で病死したとでも伝えておくさ」

 ほとばしる殺気がエドガーを戦慄させる。

 兵士として、何より人間として、エドガーとライトニングでは完成度に圧倒的な差がありすぎた。

 依然として反発はある。この状況に露ほども納得はしていないし、ライトニングに対する敵愾心はかつて無いほど胸裏を焼き焦がしてもいる。だがその全てを総動員しても眼前の男が放つ圧力を跳ね返すのには足りなかった。理性が勧告する屈服という合理的な答えに、不合理な感情と矜持をかざして踏みとどまっている。

「さぁ、答えろ。俺に従うのか。従わないのか」

 圧倒的な鋭気にさらされた全身を震えが走る。

 手が震え、足は硬直し、肺腑で内臓が縮みあがっているのが自覚できる。、

 腫れて熱を持っているはずの頭は血の気を失って青ざめ、脳震盪とは違う貧血の気だるさをもよおし始めていた。

 睨みあい―――否、一方的すぎる視線の圧力に屈しまいとする少年の眼差しは、あまりにも頼りなかった。

「僕…は……」

 そうして幾ばくの時間が経過したのか。

「そうか……」

 唐突にライトニングは目線を外し、エドガーを床へと叩き落した。

 硬直している身体では受身もとれず、まともに背を打ちつけた肺がきしむ。衝撃で一気に空気が吐き出され、萎みきった肺のため一次的な呼吸困難にあえぐエドガーをライトニングの右足が踏みつけた。

「エドガー・ライエル。貴様は自室で謹慎処分だ。営倉にブチ込んでしまいたいところだが、このタイミングではそうもいかん。追って沙汰を出す。覚悟しておくがいい」

 言い捨て、後は一瞥もせぬままライトニングが立ち去ってゆく。

 呼吸困難にあえぎながら、エドガーは遠ざかるその背を睨み続けていた。

「よう」

 そうして、起き上がれぬまま呼吸を荒げるエドガーへ手が差し伸べられた。

「馬鹿だねぇ。少佐に舐めた口きくとか。前から思っていたけれど、おまえの口の利き方、これまで相当我慢していたぜ。あれ」

 エドガーと同じパイロットスーツ姿のアンディが笑う。物陰から二人のやりとりを見ていたのだろう。

「みていた…の……ですか……」

「まぁな。あぁ、いっておくけれど俺はちゃんと許可とってきているからな。つか、おまえを探しに来たんだよ。グスタフ副部隊長に頼まれてな。待機中に姿を消したってんでカンカンだったぜ? 鉄拳の一つや二つ叩き込んで引きずり戻せって言われてきたんだけど……俺がやるまでもなかったな」

 ボロボロのエドガーに嘆息し、腰脇の簡易医療キットから消毒用スプレーとガーゼを取り出す。

「まったく。喧嘩は売る相手を選べよな。だから少佐にも呆れられるんだよ」

「……僕は何も間違ったことは言っていません。ちきしょう。あいつ……あいつ……」

 傷口の消毒と洗浄のため、吹き付けられたスプレーの痛みに顔をしかめたエドガーが毒づく。おとなしい普段とは違う少年の姿にアンディは言葉を飲み込むと、ためらいがちに口を開いた。

「いや、間違っている……違うか。間違っていた、と俺は思うぜ」

「何故!?」

 座らせたエドガーが振り仰ぎかけるのを手で制し、医療キットの鋏でサイズを調整したガーゼを傷口へ貼り付ける。ガーゼの裏面に施された、傷口の保護と滅菌剤を含んむ粘着性の薬剤が、熱をもった傷に心地良い。

「何故も何も、勝手に持ち場を離れたらいかんでしょ。『何かがあるかもしれない』そのための待機なんだぜ?」

「だったら、そう言えばいいじゃないですか。いきなりこんな……」

「いきなり……か。でもな、エド。ロクでもないことってのは、いつもいきなりやってくるモンなんだよ」

 ガーゼを簡易固定用のテープで留め、医療キットから湿布シートを取り出しながら、アンディはどこか遠くを見るような眼差しでエドに笑いかけた。

「だから現場ではさ。信用できる駒か否かってのが結構、重要なんだよ。能力があるとか無い以前に、信用できないんじゃ期待した戦果を見込みようがないだろう? 作戦行動中、無数に展開する戦術の中の更に一部―――戦術単位でカウントされる俺たち兵隊が、気ままに動く愚連隊じゃ話にならないのさ。なんで軍隊には必要なのよ。『上官には絶対服従』って理不尽な謳い文句が、さ」

 ガーゼと同様にカードサイズの湿布を鋏で切り整え、腫れあがったエドガーの左頬へ貼り付ける。

「そんなの僕たちには当てはまりませんよ。僕たちは幻想機のパイロットじゃないですか」

 憤懣やるかたないエドガーの毒づきに、吹きだしたアンディが大げさな身振りで笑い声を上げた。

「なに、おまえ、幻想機を勧善懲悪のアニメに出てくるスーパーロボットか何かと勘違いしてないか? あれはブラッディ・ティアーズ―――単なる兵器なんだぜ? そして俺たちはただの人間で、下っ端のパイロットだ。おまえ結構、利発なのに、ときどき妙にわからないよな」

「そんなことはわかっています! でも、あれは―――あれは…………コールドアイはどうしてあんな奴を。能力があることは認めます。けれど、ヴィクティムを介してとはいえ彼女がアイツに力を貸すのがいまだに信じられない」

 笑うアンディに、紅潮した顔を向けたエドガーが険を深める。それはマイセルフの真実を知る者としてエドガーが抱き続けている疑問だった。

「そうか? 俺はむしろ凄く納得しているけどな。だって、あの人あんな顔してビックリするほど優しいじゃんか」

「え?」

 思わず口にした疑問への予期せぬ返答に言葉がつまる。

 呆気にとられた様子のエドガーに苦笑し、アンディは医療キットのツールを左腰脇のケースへ片付けながら立ち上がった。

「そっか。わからねぇか。そうだよな。なんだかんだいって、おまえまだ15歳―――乗艦した次期からすれば、12歳かそこらで軍艦生活だもんなぁ。おまけに基本、VIP待遇の腫れ物扱いだし。そりゃ、わからなくもなるか。情操教育には最悪だよな。ここ。なんか俺、おまえの将来が心配になってきちまったわ」

 深々と嘆息し、エドガーへ右手を差し伸べる。

 その手を掴み、アンディの意図を汲み取ったエドガーは立ち上がると自室へ向けて歩き出した。

 横ならびに歩む中で、落ちつかなげに周囲を見回していたアンディがトーンを落とした声音で話し始める。

「軍でも民間でも、なかなかいないものなんだよ。言葉で説明する奴ってさ。思うことなかったか? とっつきにくい顔と性格しているクセして、こいつ結構お喋りだなってさ」

 人の気配が無いことはわかっていても、どこか気になるのだろう。小声で話すアンディの視線が、しばしば周囲を彷徨う。

「俺の知る限り、よく喋る奴ってのは大抵は2種類だ。嘘を付く奴と、優しい奴のな。嘘をつく奴ってのは誤魔化しが多いから自然と口数も多くなりやすい。そして優しい奴ってのは、誤解を嫌うから口数が多くなる。誤解は過ちへ続く一本道だからな。だから相手にも自分にも誤解が無いように言葉を尽くそうとする。さて、少佐はどっちなのか。って話さ」

「……僕の、この有様を前にしてよくもそんな事が言えますね」

「悪いけど、厳しさも言葉の範疇なんだよ。まぁ、その様じゃ納得はしづらいだろうけれどな。話運びの上手い下手だとか、性格の善し悪しもある。優しい奴が、必ずしも優しく他人と接するわけじゃないっていう典型なんだろうと俺は思う、かな」

 つむぐ言葉とは裏腹に、どこか独白じみた声音で語るアンディに、エドガーはライトニングとのやりとりを思い出す。

「まぁ、そういう意味じゃ、あの少佐殿は最悪か。手も口も早い上に、あの悪人面だしな。まぁ、おまえ視点で見たら間違いなく、悪の大幹部とかアッチ側だろうと思うわ」、

 さりげない揶揄やゆにエドガーの顔が紅潮する。

「アンディさん。僕は―――」

「おっと。到着だ。少し頭を冷やして考えとけよ。なんなら一緒に謝ってやるから、さ」

 近づいたエドガーの自室を指差し、顔を振り向けたアンディが笑う。

 長い語りに、自然と気持ちの整理がついていたのだろう。気づけばライトニングへの敵意は沈静し、眉間の熱は引いていた。

氷嚢ひょうのうでしっかり冷やしておけよ。手加減はしていたみたいだから折れちゃいないだろうが、しばらく痛むぜ。その頬」

 片手を挙げて別れを告げたアンディが踵を返す。歩み去る背に小さく嘆息し、エドガーは扉の開閉パネルに手を伸ばした。


 と―――。


 突如、大きな振動が艦全体に襲いかかった。

 突然のことに足元をすくわれ、宙へ投げ出されたエドガーの襟元が掴まれる。反対の手で廊下の手すりを掴み、転倒を免れたアンディの顔が緊張で強張っていた。

「アンディさん?」

「この振動の仕方は……行くぞ。エド! 敵襲だ。」

 小さく呟き、即断したアンディがエドガーを引き戻す。エドガーが廊下に足を着く間も惜しいといった顔で走り出ず頭上からは、非常事態を告げる警報とローレルの指示が鳴り始めていた。

「で、でも僕は謹慎じゃ……」

「非常時に寝ぼけんな! 俺たちパイロットは、艦の盾でもあるんだぞ!?」

 振り返らぬまま一喝し、ブラッディ・ティアーズ格納庫への道を急ぐアンディの胸裏を一つの疑念が過ぎった。

(まさか、この襲撃を少佐は読んでいた? 出港前だってのに、ハンガーと機体の固定処置をギリギリまで待たせていたのも。妙にピリピリした待機命令を下していたのも全部、このためだったっていうのか?)




   四

 閉鎖された空間に、外部からの衝撃音が響いてきている。

 爆発か。砲撃か。届く物音の微かさはしかし、外部の脅威が遠くにあることを意味しない。大気の無い宇宙では、音が虚空を伝わる事が無いためだ。この伝い来る音響は、艦を固定する発着ポートの設備を介したものなのだ。

 細かな音が連続している。

 石くれや爆発で砕き散らされた施設の金属片が艦体の装甲を叩いているのだろう。

 そんな物音を掻き消すかのような怒鳴り声で指示を飛ばし合い、無数の整備兵たちが行き交っている。クレーンを初めとした重機械設備の休むことない稼動によって、居並ぶ無数の艦載機たちが棺のような外郭内へ納められてゆく。“ブラスト・コフィン”の名を持つ艦載機運搬用コンテナだ。

 そうして長大な艦の前方1/4を占める円筒形の格納スペースの半分を消費して設けられた蜂の巣のような格納ラックへと、総数9基のブラスト・コフィンたちが次々に納められてゆく。

 ブロック&ユニットを標榜し、部品や機器の規格化が国家規模で推し進められた結果、中央軍の艦船設備はこうしたブロック型の収納設備形式が多い。勿論、何事にも規格外というものは存在するものではあるが、設計段階からの規格化が強く根付いて200年近くが経過する現代において、そうした事例は圧倒的に少ないのが実情だった。

 射出ブラストの名が示す通り、単なる格納用ケースではない。艦載機射出用の懸架機も兼ねたそれは、有事ともなれば艦の両弦を沿う形で配された艦載機射出用レールへそのまま乗せられ、内包した艦載機を打ち出すカタパルト台となるのだ。

 だが現在、外へ通じる三重の隔壁は硬く閉ざされ、射出待ちの待機状態であったはずのブラスト・コフィンたちは次々に収納されてゆく。同時に収納先内部でコクピットと連結された通路を抜け、内部のパイロットたちまでもが次々と艦内へ戻ってきていた。

 そんな格納庫の一角で壁に背を預け、ライトニングは一人、自身の乗機が眠るブラスト・コフィンを見つめていた。

 左肩には女神の横顔を象った盾、右肩には炎が絡みついた剣、胸部中央には地球と、三つの装飾プレートが施された藍色のパイロットスーツ姿だ。月とコロニー、火星、地球と、中央圏を代表する勢力の紋章を一身に背負うそれは、少佐以上の上級仕官に与えられる指揮官用のパイロットスーツだった。

「遅れて申し訳ありません」

 声に左を振り向けば、エドガーを伴ったアンディが敬礼とともに無重力の宙を進んでくる。

 靴底のマグネットが接地する硬い音とともにライトニングの左へ降り立った二人を一瞥し、ライトニングはブラスト・コフィンへと視線を戻した。

「かまわん。どのみち我々の出番はまだ少し先だ。忌々しい話だが、な」

 ヘルメットを脱ぎ外し、無言のままブラスト・コフィンを見つめるライトニングに二人が顔を見合わせる。

「でも、敵が……」

 ためらいがちに口を開いたエドガーへ鋭い視線が走る。

「自室で待機。そう命じたはずだが?」

 殺気する帯びた鋭気がエドガーへ吹きつける。背筋を走った戦慄に手のひらが汗ばみ、痛いほどの動悸が早鐘のように耳朶を打つ。

「答えろ。エドガー・ライエル。何故おまえはここにいる?」

 向き直り、ライトニングがゆっくりとエドガーへと歩み寄った。伸ばせば手が届く距離にまで近づいた右で、五指が小指から指折られてゆく。それが形作る拳の姿を気配で感じ取りながら、エドガーは直立不動の姿勢で再度、敬礼を取った。

「ぼ……わ、私はパイロットだからです! この艦のパイロットとして、責任を果たすためにここへ来ました!!」

 半ば無意識の言葉が口をつく。思い出すのは、少し前にしたアンディとの語らいだった。

「……そうか」

 変わらぬ表情でエドガーを見据えていたライトニングの右拳が開かれてゆく。

「ならばいい」

 左手でチンガードを鷲掴みにしたヘルメットを左肩へかつぎ、ライトニングは顎先で二人をいざなった。

 喧騒著しい格納庫から艦内通路の廊下へと出て扉を閉める。

 騒音から遮断され、わずかな艦の動力駆動音と空調の音のみが響く中で数秒、黙考するとライトニングは壁に背をもたれて口を開いた。

「機動部隊のメンバーにはすでに伝えたが、少し厄介な事態だ」

 新たな衝撃音が一つ、艦内に響く。

「すでに敵の強襲部隊は撤退している。未だ砲撃は続いているが、狙いも何も無い明らかな目くらの援護射撃だ。いくらもしないうちに止むことだろう。索敵班に光学走査をさせてみたが、どれも使い捨ての自動砲台が見つかるだけだった。放っておいて弾切れを待ってもいいが、まもなく基地の長距離砲撃で一掃されるだろう」

「何なんですかね。これ。襲撃にしちゃ、随分あっさりして―――いや、、違うな。逃げたんじゃない。隠れた、のか?」

 ライトニングの説明から敵の意図を察したのだろう。独白するアンディにライトニングが首肯する。

「そうだ。これほど鮮やかな強襲をかけておきながら、案山子も同然だったはずの艦船には目もくれず、食糧庫や生活用水精製プラントといった基地施設を優先的に破壊している。敵ながら見事な一撃離脱でな」

「ほとんどの艦は出港直前で、長距離航行のために艦載機をしまいこんだ直後でしたからね。対応なんてとても……これを少佐は読んでいたってことですか?」

「知っていたわけではない。ただ、俺ならこうすると思っただけだ」

「それにしちゃ、一機も出撃させなかったみたいですが?」

「敵の強襲ポイントが遠すぎた。この艦からでは仮に艦載機を出しても敵機を視認することすら難しかっただろう」

「なるほど。それで、どうします? スパイ狩りでもします?」

「無駄だろうな。それにスパイによる手引きとも限らない。何しろ隠れる場所も何も無い宇宙空間だ。当然、相応の距離からステルス偵察機が望遠カメラをこちらへ向けているだろうことは想像に難くない。しかも、これだけの規模の基地を建造した上、山のように艦艇が集まっているんだ。こちらが攻めるつもりなのは誰の目にも明らかだろう。ついでに熱量と通信量でも観測していれば、艦隊が動くタイミングを読むことは、そう難しい事でもないしな」

「じゃあ、当分は睨み合いですかね」

「業腹だがな」

「?」

 苦々しい表情でうなずきあう二人の前で、エドガーは戸惑いを禁じえない。

「どういうことです? 敵は逃げたのでは?」

 それぞれの思索にふける二人が、思い出したようにエドガーへ振り向いた。

「我々がそうであるように、敵もまたこちらの事情に通じているということだ」

「こちらの…事情……」

「今回の戦いには時間制限があるってことだよ。お互いにな。問題なのは、時間切れは俺らの負けで、あいつらの勝ちってことだ」

「……僕には、よくわかりません。時間切れ? 別に今回が駄目でも、また攻めればいいじゃありませんか。近くに潜んでいる敵なんて少数なのでしょう? 蹴散らしてしまえば―――」

 戸惑うエドガーの問いかけを遮るように艦内放送が響き渡った。

 艦橋へと請うローレルの声に小さな嘆息をつき、ライトニングは二人を伴って歩き出した。

「おまえの教育カリキュラムはクインシー中尉に任せていたはずだが、“グラヴィティ・スポット”については?」

「……たぶん、一通りは教わっていると思います」

「言ってみろ」

「西暦後半に発見された重力異常地帯のことですよね? 星間の重力均衡によって無数に点在しているとか。地球の海にある渦潮に例えて、“スペース・ワールプール”と呼ぶ人もいると……」

「そうだ。そしてそれを使った重力カタパルト航法によって、航宙速度は飛躍的に上がった。条件さえ整えば最短で、地球と木星間を約半年で移動できるまでにな」

 立てられた人差し指が宙を薙ぐ。刹那、虚空へ描かれた軌跡にエドガーは首肯した。

「グラヴィティ・スポット航法には二つのグラヴィティ・スポットが必要だ。出発点からの加速と到着点での減速。それぞれのためにな。長距離ともなれば距離に応じた数のグラヴィティ・スポットが必要になる。だが木星の強重力の影響で、地球から木星圏への航路途上のグラヴィティ・スポットは極端に少ない。その中で航宙航路として使用可能なルートともなれば唯一つだ」

「それを遮っているのがCALIBER……」

「あの要塞自体が、文字通りの門戸というわけだ。だが破壊は出来ん。すれば大量の大型スペースデブリが航路を塞ぐ。岩塊を初めとしたスペースデブリとの衝突強度は航行速度とトレードオフだ。高速航行をするということは、自身の速度相応の速度でデブリと衝突し続けるということを意味するからな。当然、デブリの密度が薄い航路が必要となる」

 その顔に理解の色が浮かぶのを目端で認めたライトニングの足が止まる。通路の突き当たりへ到着したのだ。眼前にある艦内エレベーターの操作パネルへ右手が触れると、短いアナウンスに続いてドアが開く。艦橋を初めとした要所は、各員が持つ個人認証チップに登録された権限が無ければ立ち入れない仕様なのだ。

「でもそれなら……」

 エレベーターへ乗り込み、壁面の手すりを掴んだエドガーがライトニングの背へ口をひらく。

「それなら、どうして彼らは要塞を占拠し続けているのでしょう。爆破でも何でもして航路を閉ざしてしまえば、中央だって諦めるかもしれないのに」

 艦橋への行き先ボタンが押され、扉が閉じるのと同時にエレベーターが動き出す。

 投げかけられた疑問にエドガーを一瞥すると、ライトニングは顎先でアンディを指し示した。

「そのあたりはハレー少尉の方が詳しいだろう。少尉。教えてやれ」

「了解。まぁ、大した理由じゃないんだけれどな」

 突然の話振りだが、予想していたのだろう。大仰に肩をすくめてみせたアンディが驚いた様子もなく語り出す。

「木星圏の連中にとってはさ。地球って、憧れなんだよ。美しく神聖な遠き故郷ってわけなのさ。だから当然、大抵の人間は思っている。一度でいいから見てみたい。一度でいいから行ってみたい。って、さ」

「憧れ……」

「そのあたりは結構、根深いんだぜ? 木星圏人ってのは大体が、フロンティアって言葉に釣られて地球圏を放り出されちまった連中の子孫だからな。長いこと中央に実効支配されていた歴史も絡んで、“持たざる者”っていう自意識―――いや、引け目かな。中央の人間たちに対して、どこか自分たちを一段低く置く風潮があるのさ」

 語るアンディの目が遠くなる。

 いつもと変わらない軽薄な笑みを浮かべているのに、眼前のエドガーではない別の誰か、どこかへ語りかけているような表情だった。

「中央と断絶して長いし色々あって生活や景気も悪くないから、そう極端なのはジジイかババァくらいだけど、そんなだから木星圏でも意見が割れてんだよ」

「悪くない? 木星圏はどのコロニーも貧民窟のような場所だと聞いていましたけれど」

「三十年くらい前まではそんな場所も多かったみたいだけどな。木星の近くに火山活動や氷を持つ新しい衛星が幾つも見つかったおかげで、割と衣食住足りてんだよ。今の木星圏は」

「衛星? 火山? 氷? コロニー……の話、ですよね?」

 疑問符を重ねるエドガーに、吹きだしたアンディが腹を抱えて身をよじる。

 憮然として見やればライトニングまでもが顔をそむけて小さく肩を震わせていた。

「まぁ、そろそろ艦橋だし長くなるから今度、クインシー先生に聞いてくれな。要するに“要塞なんか壊しちまえ派”と“要塞使って戦うぞ派”、“その他大勢”に分かれた三すくみで意見がまとまってねぇのさ。だから判断保留みたいな形になって専守防衛に留まってんだよ」

 エレベーターが止まる。手すりを掴んで慣性と停止のショックを受け止めた三人の眼前で、ゆっくりと扉が開き始めた。

「そういうことだ。そしてそのために我々がかなりの制約を強いられていることも事態が長期化している一因となっている。なにせ勝利条件が、可能な限り破壊を避けて要塞を占拠せよ、なのだからな。攻めあぐねるのも当然だ。無闇に仕掛けて自爆でもされたら元も子もない。圧倒的な速度での電撃作戦といきたいが中々、な」

 ライトニングの右手がゆっくりとエドガーへと伸ばされた。

 反射的に身を硬くするエドガーへ、小さく口端を吊り上げたライトニングが右肩を軽く叩いて踵を返す。

「ゆくぞ。厄介極まる任務だが、きっと我々ならば―――いや、我々にしか出来ないだろう任務だ。そしてそれが、俺やお前たちが抱え持つ因果を断ち切ることにもなると、俺は信じている」

「少佐……」

 目を見張るエドガーの胸裏を一つの言葉がよぎってゆく。


『―――その力を何のために使うのか。その命を誰のために捧げるのか。見守っているわ。あなたが、その答えに辿り着くその日を信じて―――』


 それは、在りし日に交わした約束の言葉だった。

 大切な人と交わした言葉の答えを追い求めるために、エドガーはライトニングの下で幻想機のパイロットとなることを決意したのだ。

(覚えている。僕は覚えている)

 流した涙の熱さ。

 焼けるような眉間の熱さ。

 尽きぬ慟哭で痛んだ喉の熱さ。

 溢れる感情と動悸でつぶれてしまいそうな胸の“痛み”をエドガーは覚えている。

(だから見守っていてください。いつか僕が、あなたとの約束を果たすその日まで)

 胸裏でたたずむ孤影に語りかけながら歩を踏み出す。

 迷いは無い。見出した道程を突き進むための道標は目の前にあった。

(先生……)

 目指す果ては遠く、険しくも暗い道行きに待つ困難は死さえもはらんでエドガーを待ち受けている。

 だが、確信があった。

 眼前を歩むこの広い背中こそが、求む未来へエドガーを導くのだろうという確信だ。

 その背を追い、いつか肩を並べ、やがては乗り越えて未来へと継ぎゆくために―――。

「了解」

 そのために、エドガーはライトニングに続いて艦橋へと歩を踏み出すのだった。

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