終章 そして少女は待ち続ける
真白い冷気が足元を吹き抜けてゆく。
どこまでも濃密な闇が立ち込める空間の空気を、空調の風と重々しい巨大機械の駆動音が震わせていた。
そんな中を、夜海に列を成す人魂の群れのように白い光が点々と不規則に浮かんでいる。目を凝らせば、それが直径数メートルにもなる鋼柱達に灯された蛍光灯の光であることが知れた。
地下千メートルもの深みに築かれた空洞に立ち込めた闇は、小さな灯かりたちなどものともせずに飲み込み、宇宙をも連想させる広大さをかもしだしている。
林立する柱の中でも群を抜いた太さを持つ柱の光が、一際大きな光を放った。
鼓動のように規則的に脈打つ光が、足元に広がる床とそれを見上げる一人の男を照らし出す。
薄汚れた白衣をまとい、白髪を後ろに撫でつけた五十半ばの老人だ。右足が不自由なのか、右手についた節くれた木のステッキに身を傾けて立っている。銀縁の片メガネの奥で、光源を見つめる翠の瞳が光彩を細めた。
男の名はメーヴェ・アグシャ。中央の地球統括府科学技術局局長にして”ザ・ゲイト”最高幹部の一人である科学者だ。そして7年前、マイセルフの開発を行った9人の仲間を中央政府へと売り渡した裏切り者でもある。
「初めてだな。苦痛や悲しみで、ゆがむ以外の表情を見せるのは……」
メーヴェが見上げるのは薬液で満たされた直径ニメートルほどのガラス球だ。周囲を照らす黄緑色の蛍光は全て、無数の配管や配線がのぞく台座に支えられたそれから放たれている。
そんなガラス球の内を満たす液体の、小さな水泡がとめどなく立ち上る中に小さな人影が浮かんでいた。
肩まで届く緑がかった黒髪を、立ちのぼる泡に絡めて浮かせた少女が未発達な裸身を漂わせていたのだ。時折、口元に当てられた呼吸器からもれる小さな泡が少女の生存を教えていたが、指一本、眉一つ動かさぬ姿はいっそ作り物めいてさえ感じられた。
安らかな眠りにあるように、穏やかな弧を浮かべる少女の瞼を見上げメーヴェが口をひらく。
「夢を見ているのか? それとも感じているのか? 奪われ、砕かれた心の
少女は応えない。メーヴェも、それを気にした様子の無いまま続ける。
「おまえの欠片(かけら)たちは遠くへやったよ。恐らく、二度とここへ戻ることはあるまい」
もらす吐息は安堵をおびて。落とした肩の細さが、疲れ果てた放浪者のそれに似た哀愁を感じさせてやまない。
「おまえがいけないのだぞ。おまえが、私の元を去るなどと言い出さなければ。私の為に奇蹟を起こしてくれさえすれば、ここまではしなかった」
伸ばした両手で、いとおしげにガラスの上をさするメーヴェの足元で、転がるステッキがカラカラと硬い音を上げた。
「おまえが、いけないのだ。セシル……我が幻想の映し身よ」
声がかすれ、表情がくしゃりと嘆きに歪む。
メーヴェの目には、浮かぶ少女と並んで悲しげに自身を見下ろす、同じ顔の少女が映っていた。
最後に会った日のまま、真新しい中学の制服に身を包んだ少女を見上げるメーヴェの双眸から涙があふれてゆく。
「何故なのだ。何故、駄目だったのだ。セシルよ。私は、神の手から本当の娘を取り返す奇跡を願っただけだったというのに。ただ、それだけなのだというのに。どうしておまえは……どうして……どうし…て……」
あふれる涙をこぼれるに任せ、わななくメーヴェはそうして、いつまでも少女に願い続けるのだった。
* * * * *
(帰りたい……帰りたい……)
望郷の念ばかりが募ってゆく。
押しつぶされそうな想いの中で、浮かぶのは風と光に充ちた遠き故郷だった。
生まれ、育ち、学び、出会いと別れを繰り返し、そして最後には自分を追いやった忌まわしい場所であったはずだというのに、思うたび懐かしさが胸を締めつけてやまない。
(帰りたい……)
幾度くりかえしたのか。幾度つぶやいたのか。バラバラになった心とともに薄れてゆく記憶からは、恋を語らった少年の名さえ消えてしまったというのに。自分の名すら消えてしまったというのに。
だが、それでも―――。
(帰りたい……)
少女は願い続ける。ただ一つのことを。
そのために待ち続ける。
いつか、夢で見た日。
夢で見た未来は遠く。
その中で会った者は定かではない。
男だったかもしれないし、女だったかもしれない。
青年だったかもしれないし、少年だったようにも思える。
だが、いつか……いつか来てくれると信じて―――。
(帰り……た……)
セシルは待ち続ける。
『幻想機マイセルフ』 -Finー
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